12月26日のクリスマス

 

 

今年のクリスマスは25日が日曜日である。教会ではクリスマスを日曜日にお祝いするのが慣わしで、今年はピタリと納まった。しかし、1971年に私が祝ったクリスマスは12月26日だった。その日が日曜日だったから。この日、私は洗礼を受けた。洗礼とは、クリスチャンになる儀式のことである。

あの日から数えて今年が40年目となる。その時の私は16才、高校1年生。それから毎週日曜日には教会に通い続けてきた。その数はざっと計算しても2000回を超える。同じ事をそれほど繰り返せば、飽きるだろうと思われるかもしれないが、そうではない。ちょうど節目の今年は、少し自分の人生を振り返ってみることにしたい。

この40年間に私は牧師になり、結婚をし、子供4人が育っていき、もうすぐ孫の顔を見ようとしている。

しかし、そのような人生の中で思い出すことは、楽しいことより辛かったことばかりである。結婚した翌年、長女が早産、未熟児で生まれた。この事から始まって、続く次女の低体重児出産、夜逃げのようにして去った最初の任地、愛犬の毒殺処分、会堂建築での揉め事、子供の不良事件による学校からの呼び出し、携帯電話偽装取得事件、妻の乳がんの手術と術後の再発の心配、末っ子の結婚に伴う円形脱毛症、自分自身の健康面での不整脈の発見と治療、糖尿病予備軍の診断、子供の肩代わり借金地獄など、さすがに年月の重さを感じる。

このような辛い出来事の中で自分がどのように生きてきたのかを改めて思い出している。それは、神さまを信じて生きてきたけれども、その生き方に間違いはなかったのだろうか。思い込みとどこが違うと言えるのだろうか。人生も半ばを過ぎれば、やり直しも利かないものだ。そうであれば、この問いは大変切実なものである。

はっきりしていることは、神さまを信じても辛いことはなくならないということ。しかし、神さまを信じると、辛いことを乗り越えられたかどうかが人生の分れ目になるのではないだろうか。

聖書の中に「わたしは彼らの嘆きを喜びに変え/彼らを慰め、悲しみに代えて喜び祝わせる」という言葉がある。このような出来事が本当に辛い人生の中で起こるならば、神さまを信じて生きてきて悔いはないと言えるのではないだろうか。

我が愚息の一人が、3月に失職、8月に結婚、12月に子を設けるという駆け足の恥ずかしい人生を送っている。性格は、i-Phoneの開発者で先ごろ亡くなったスティーブ・ジョブズの悪い面だけ似た、キレ易い男である。それだけに周りに迷惑をかけることも多く親の悲劇を味わっている。

その子が、結婚式の披露宴で泣いた。こんな自分のために多くの人が祝福に駆けつけてくれたことに感極まったからである。その写真が残っている。今もその写真を見ながら、愚息の親として、苦労はあっても子供の人生の年輪が一枚加わったことを喜んでいる。ささやかなことかも知れないが、悲しみに代えて喜びを見たひと時であった。

この子のためにも救い主が生まれたことを感じさせるクリスマスが今年も近づいて来た。

 

(沼津朝日「言いたい放題」 2011年12月14日掲載)