シークレット・サンタ

 

 

 我が家は、四人の子供たちが家を出て、それぞれの道に進んだので、25年ぶりに夫婦二人の生活が続いている。そして、毎日の幸せを噛みしめている。オノロケのように聞こえるかもしれないが、暫くご辛抱いただきたい。

 互いに50過ぎた中年夫婦である。もはや互いの容姿に魅かれ合う齢でもない。そんな夫婦のどこに幸せがあるのだろうか。わたしは、二人の間の心の通い合わせに幸せを感じている。

 我が家の朝は、私が先に起き出し、二人分のコーヒーを入れることから始まる。そして、妻が朝食の用意を整える。牧師という務めの中のささやかな贅沢として朝の時間はゆったりと過ごせる。朝食前には二人で「主の祈り」を祈る。「天にまします我らの父よ…」で始まる祈りを互いに声を出して祈り合う。これが至福の時なのである。

 長年同じ祈りを祈り合っていると、相手の息づかいが聞こえて来る。声がしわがれている日であれば、相手の健康を気遣い、元気にそして阿吽の呼吸で息があった日は、二人が神に支えられていることを覚えて感謝をする。そこに幸せを感じるのである。

 わたしは、幸せとは互いに一つのことに向かっている時に味わえるものだと思っている。わたしたちの朝の祈りは、神に向かっているという共通の思いの中で味わっている幸せなのである。夫婦と言えども、性別、性格、感性などすべて違う。相手をすべて分かり合うなどということにも無理があることも知っている。そうであるならば、相手の中に自分と同じものを見つけて幸せを知るのではなく、違う二人が同じものに向かって一つのことを成し遂げる時にこそ幸せは発見できる。

 12月9日夜のテレビ番組で「ベストハウス123」という番組を見た方もあるのではないだろうか。そこで、アメリカの「シークレット・サンタ」なる人物の紹介があった。シークレット・サンタとは、クリスマスシーズンに20j札(当時で2千円前後)を貧しい人に配り歩く一人の人物のことである。

 彼自身が、倒産の憂き目に遭い、一文無しでレストランに入り、夢中で食事をしてしまって、支払いに困ったとき、店のオーナーから二〇j札をプレゼントしてもらったことがあり、その幸せを分け与えたくて、自分の一年間の稼ぎを20j札にして貧しい人に配り歩くことを毎年続けたとのことであった。既にガンで亡くなったとのことだが、20j札が取り結ぶ笑顔が映像では印象的だった。

 自分が助けられた喜びを今度はだれかに分け与えたいという姿の中にも、わたしは一つのことに向かっている一人の人の姿を見て、心温まる思いがした。

 昨今の不況の最中、愛も冷えがちになる中で、誰かを助けたいという心はなかなか芽生えては来ない。しかし、こういう時だからこそ、すべての人は、まず自分が神さまに愛されているということを実感することができるならば、わたしたちもどこかでだれかを愛することに立ち上がることができるのではないだろうか。教会では、今年もクリスマスに神の御子イエス・キリストの誕生が告げ知らされる。この神の御子があなたの冷えた心を暖めてくれることを経験してくれたらと切に願わずにはおれない。

 

(沼津朝日「言いたい放題」 2009年12月16日掲載)