老人とクリスマス
NHKの大河ドラマ「篤姫」が高視聴率を得て終わった。わたしは残念ながら見ることができなかったが、高視聴率の理由は、宮崎あおいが演じる篤姫の家族を思う生き方が共感を呼び、元気がもらえるというものらしい。
最近の大不況の中でだれもが生活に不安を覚えている。ドラマでは、経済的な支えは得られないが、心の支えを得ることができることは幸いなことである。そして、不安の多い時代だからこそ、根本的な支えである心の支えを得ているか、いないかでは混乱の時代を生き抜くことに必ず違いが出てくるはずである。
世の中全体が不安に包まれてくると、ご近所でも元気をもらいたいと切に願う声が多いことに気づかされる。近所にあるたばこ屋の九二歳になるおばあちゃんも行く度に、「先生、元気をください」と言う。老人ホームを訪ねても、「毎日、くよくよ考えてしまうばかりで、どうしたらよいでしょう」と相談を受ける。みんな元気をもらいたいと願っているが、老人の元気はどこから与えられるのだろう。若い人は、自分には未来があるから、そこから元気がもらえると信じている。しかし、老人はその人生の嘘を見抜いているのである。もはや仮初めの言葉では、元気はもらえない。
浅田次郎の小説の中にこんな言葉がある。明治時代の大泥棒を舞台にした小説なので言葉使いは悪いが、「いいか。この世を恨んでくたばるんじゃあねえぞ。親のある者ァ親に、子供のある者ァ子供に、身寄りのねえ者ァ、こういう立派なお殿様に、あんがとうの一言を言って、とっとと冥土へ行きやがれ。今生の恨みつらみなんざさっぱり水に流して、阿弥陀さんにつまらねえ愚痴なんざ、言いっこなしだぜ」と言うセリフである。
だれもが、老いて死に直面してさえも元気で死を迎えられることができれば、それこそ本物の元気をもらえたことになるのではないだろうか。愚痴を言う間は、本物の元気に出会ってはいないのである。
シメオンという老人がいた。この人は大胆な一言を語った人として聖書に登場する。それは、「主よ、今こそあなたは、この僕を安らかに去らせてくださいます。」という言葉である。これは、生まれたばかりのイエス・キリストを自分の腕に抱いたときの彼の言葉で、自分はいつ死んでもよいと喜んで語っている言葉なのである。そして、シメオンは続けて「わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」とも語っている。
救いというのは、悲しみを乗り越える力ではないかとわたしは考えている。まさに、元気をもらえる力である。しかし、そんな力はどこから来るのか。それは、自分のために共に苦しんでくれる方を発見したときである。その意味では、いろいろな救いがあるかもしれない。一時的に元気がもらえる力はドラマにも小説にもある。しかし、人生の終わりを迎える悲しみにも力を発揮する救いは、神さまからしか出てこないのではないだろうか。
本物の元気は神さまから与えられる。このことを知らせたくて今年もクリスマスは巡ってきた。今年こそは、老人も元気をもらえるクリスマスになるかもしれない。
(沼津朝日「言いたい放題」 2008年12月17日掲載)