クリスマスを届けたい

 

 

 夜空に輝くクリスマスイルミネーションの中を焼き鳥屋に入ると、そこの奥さんが、「本家本元の教会がどうしてあのきれいな光で飾り付けをしないのか。一番良い宣伝になるのに」と商売上手な声をかけてくれた。

 一言もない。教会は単に出遅れただけで、今や気後れしているのである。

 確かに、沼津教会は夜空に浮かぶ光り輝く教会ではないけれども、あるものもある。タバコ屋さんに行くと、店番をしていた90歳を越えたおばあちゃんから声をかけられた。通っているデイサービスでハンドベルをやると言う。ところが、「きよしこの夜」の楽譜がない。教会さんにならあるに違いない。コピーを一枚いただけないかと言う。

ある、ある。教会には讃美歌がある。喜んでコピーを差し上げた。そして、教会にはもう一つのものもある。それがクリスマスの喜びである。毎年二四日の夜に行われるキャンドルサービスはちょっと自慢したいものの一つである。舞台裏を明かすようだが、教会は素人の集まりである。音楽家や演劇家の集団ではない。しかし、聖歌隊はみんな喜んで讃美歌を歌う。その横で足取りも不安なお年寄りによるクリスマスページェント(宗教劇)が演じられる。クリスマスの喜びを伝えるメッセージもある。

 喜びには、自分が何かを上手にできた喜びもあるが、神さまに喜んでいただいていると実感する喜びもある。教会の中には、自分のような大根が神さまに用いられているという喜びが満ちている。

 マックス・ルケードの絵本「たいせつなきみ」というピノキオのような木の小人たちを主人公とした物語がある。みんな彫刻家のエリという人が造った。木の小人はいろいろな格好をしている。大きな鼻の小人と大きな目の小人に、のっぽにちびといった具合である。

 そして、毎日みんなが同じことをしている。シールをくっつけ合うというのである。シールには二種類ある。「お星さまシール」と「だめシール」。きれいな小人、難しいことを知っている小人、何でもできる小人には「お星さまシール」が貼られ、絵の具がはがれ、ぶきっちょな小人や失敗した小人には「だめシール」が貼られる。何かわたしたちの毎日と似ている。

 ところが、ルシアという小人には、だめシールもお星さまシールも一枚も貼られていないのである。貼ろうとしてもくっつかない。そこで、だめシールばかり貼られているパンチネロという小人がルシアにどうしたらシールを貼られない小人になれるのかと聞く。

 すると、ルシアは答えて「毎日エリに会いに行く」と答えるのである。エリは小人を造った彫刻家。だめシールで一杯のパンチネロがエリに会いに行くと、エリが声をかけ、「みんながどう思うかよりも、わたしの愛を信じたら、シールなんてどうでもよくなるんだよ」と言われる。そして、そうなのかなとパンチネロが思った瞬間からだめシールが地面に落ち始めたという物語である。

 因みに、聖書の中では、「エリ」という言葉は、「わが神」という意味。神に愛されて造られた自分を見つけるなら、そこに大きな喜びが生まれる。クリスマスのその喜びを届けたい。

 

(沼津朝日「言いたい放題」 2007年12月21日掲載)