クリスマスを育てよう
「♪どこのだれかは知らないけれど だれもがみんな知っている。月光仮面のおじさんは 正義の味方だ。よい人だ。…」
こんな歌が口から湧き上がってくるように思い出される。もう40年以上も前の歌である。生まれて初めて映画を見たのが「月光仮面」だった。劇場でこのテーマソングが流れると、つい立ち上がって自分も大声で合唱してしまい、親を赤面させ、周囲の人のひんしゅくを買ってしまった。しかし、本人は大いに気分が盛り上がっていたことを今でも思い出す。
なぜ、最近この歌を改めて口ずさむようになったかというと、今年の夏のことであった。牧師館のベランダのプランターの中に柊(ヒイラギ)の赤ちゃんが二枚の葉を出しているのを発見したからだ。なぜ、柊が芽を出したのか分からない。もちろん植えたわけではない。風に乗って種が飛ばされてくるのかどうかも知らない。どこから来たのか知らないけれども、確かに柊の木が芽生え、育っているのである。夏の間に葉も四枚になって、今は我が家のクリスマスの飾りとしてストーブの上に鎮座して楽しませてくれている。
教会では、クリスマスが近づくとリースを作る。リースの材料はもみの木、松ぼっくり、そして、柊である。町の中のことゆえ、これらの材料は富士山麓まで採りに行くという大仕事になっている。その柊が山ではなく町にあるというのが愉快である。今は、葉は四枚だけなので、リースの材料にはならないけれども、将来が楽しみである。いつかきっとこの柊の葉でクリスマスを飾ることができるだろう。
思い出せば、わたし自身がクリスマスという言葉と出会ったのも、40年以上も前のことだった。村役場の宿直をしていた叔母が、クリスマスケーキなるものを贈ってくれた。一人暮らしで、決して豊かでない叔母が可愛い甥っ子のために奮発してくれたのだろうが、幼いわたしには目の前のケーキのおいしさしか記憶に残らなかった。
クリスマスにはプレゼントが付き物だが、プレゼントをもらうということは、だれかがプレゼントを贈るということで、それは決してタダでできることではない。出費を覚悟してもそれ以上に相手のことが大切に思えるから贈るのである。
40年以上が過ぎて、貧しい叔母が、可愛さという気持ちに押し出されて、大枚を叩いてくれた気持ちがようやく分かってきたような気がする。
クリスマスには、神さまからの贈り物がある。その贈り物とは、神さまがわたしたちを愛してくれているしるしの独り子イエス・キリストを世に送ってくださったということである。しかし、この贈り物は、欲張りには見えず、誰かを愛する心が与えられたときに見えてくるものらしい。
我が家に与えられた柊の小さな赤ちゃんよ、早く大きくなあれ!今は何もできなくても、大きくなって、あなたの葉の一枚でだれかを喜ばせることができるようになれ。
そして、わたしたちもクリスマスを育てよう。小さな柊と共に人を愛する心を育てて、神さまからのクリスマスプレゼントを喜べるようになれるように…。
(沼津朝日「言いたい放題」 2006年12月15日掲載)