醜く老いる
しかし、そのような気持ちと裏腹にお一人お一人の気持ちの中には割り切れない何かがあるということを感じています。それは、老いたことを祝い、喜んでくれることはうれしいのだが、内心はそんなにうれしくないのだという気持ちがあるのではないかと多くの方と話していて感じさせられています。
老いるということは、肉体において、また、心においても素直に喜べるとは言い切れません。今日も町内のタバコ屋で店番をしているおばあちゃんが八九才だと聞いて驚きましたが、元気ですねえと声をかけると喜んでくださる反面、もう店番くらいしかできなくて他には何も役に立ちませんよと淋しく答えられました。老いるということは、このような両面を持つものです。
更に、認知症への不安が影を落としてきます。ひょっとしたらこの不安が、お年寄りと我らその予備軍にとって一番大きいのではないでしょうか。
このような老いの不安に対して、一人の老人が「醜く老いる」と大胆な発言をいたしました。これはあるところで講演したその方の演題ですが、その人は牧師です。そして、自分の老後をこのように定義して、自分は醜く老いるのだ。現役を隠退したら、信者の家を一軒一軒回ってみんなの手を煩わせるのを楽しみにしているのだとも言うのです。もちろん、その講演は大の不評でした。特に女性の方々から醜く老いるとは何事かと抗議さえ受けました。
ところで、こんな本が出版されました。菊池一郎著「ペンギン村に日は昇る」です。著者は視覚障害というハンディを抱えながら、この本で「障害は不自由であるが決して不幸ではない」ということを伝えたいと語り、「最高の癒しと最大の奇跡とは、車椅子に乗った人が車椅子に乗ったまま主(神)を讃美し、盲人が盲人のままでその人生を喜んで生きていくことではないだろうか」という言葉を綴ってくれています。
同じように老人が老人のままで喜んで生きていくことができるなら一番幸せではないでしょうか。そのためには、どんな醜い自分であれ、そのありのままの自分を受け入れてくださるお方を発見することなしには、自分自身を心から喜ぶことはできないのではないでしょうか。
この謎めいた喜びの秘密を抱えてわたしたちの教会に醜く老いることを提唱する先生が9月25日の朝の礼拝で説教をしにやってきます。今は浜松に住み、普段は老人には危険な原付バイクに乗って闊歩している危ない老人です。しかし、なぜか優しい人なのです。
(沼津朝日「言いたい放題」 2005年9月18日掲載)