佐竹氏発祥の地 常陸太田(05.1.16) 



 1月17日〜21日に東海村の日本原子力研究所に放射線取扱主任者の実習に行ったが、その前日の16日に佐竹氏発祥の地である常陸太田を訪れた。常陸太田に行ったのは今回がはじめてである。あいにくの天気(大雨+寒い)であったが、佐竹氏に関する場所をいくつか見ることができてとても有意義であった。以下にその内容を紹介する。

 今回、常陸太田まちかど案内人の会の大須賀さんと相原さんに案内をお頼みした。きっかけは、大須賀さんから私のホームページを通してEメールをいただいたことである。

 まず最初に行ったのは佐竹寺。佐竹寺は985年に花山天皇の勅願によって元蜜上人が創建したと伝えられている。佐竹昌義の帰依を受け、佐竹氏代々の祈願所であった。

 1546年に再建された本堂は茅葺き寄せ棟造りで、国の重要文化財に指定されている。

 正面の火頭窓や柱など、桃山時代の建築様式を残している。

 馬坂(まさか)城址
(説明文)平安時代の末期、新羅三郎義光(源義家の弟)の孫昌義は、久慈郡佐竹郷に永住し、佐竹氏を名乗り馬坂城を築いた。
 馬坂城は、約6032m2(約1828坪)の敷地に三つの曲輪を設けた平山城で、北を鶴が池、西南を山田川が囲む自然の要害であった。
 佐竹氏は、三代隆義が太田城(舞鶴城)に移り、その後馬坂城には四代秀義の子義清が稲木氏を名乗って居住し、稲木氏滅亡後に十四代義俊の子義成が天神林氏を名乗り居住したが、慶長七年(1602)の佐竹氏秋田移封にともない廃城となった。
 なおこの城内には、縄文時代前期の頃と見られる間坂貝塚がある。
 西山荘(せいざんそう)
 常陸国は佐竹氏移封後、家康の十一男の頼房を祖とする水戸徳川家の所領となる。その中でも二代の光圀が「黄門様」として有名である。西山荘は光圀が1691年から没する1700年までを過ごした隠居所である。茅葺きの平屋建ての質素なつくりで、丸窓から築山と心字池が眺められ、庭には好文木とされる梅の木が植えられている。
 ご前田(説明文):光圀卿が自ら耕された水田(約五十平方メートル)の一部で、一領民となられた証として、太田奉行所に十五表の年貢米を納めていました。
 心字(白蓮)池(説明文):「人の心は裏からも見よ」この戒めから心を裏から見た形に池を掘りました。これは心を裏側から見ても潔白(正直)な人は、友人に値すると教えています。この池には白蓮をうえ、泥中の君子としてこの花を愛された。
 『大日本史』草稿本(説明文)
 『大日本史(だいにほんし)』は、漢文の紀伝体で神武天皇から後小松天皇までの我国の歴史を著した書。光圀が、17才で中国の歴史書「史記」を呼んで、我国の正史を記した史書の必要を感じ、後に『大日本史』と命名された本書の編纂に取り組んだのである。編纂事業のために光圀が設けた史局が、彰考館(しょうこうかん)である。特に光圀は西山荘に隠居してからの十年間『大日本史』の編纂に力を注ぎ、自ら校訂なども行った。
 『水戸黄門漫遊記』で助さん、格さんのモデルとなった佐々介三郎・安曇覚兵衛も資料収集や史局での編纂事業に係った人物である。光圀が、明暦三年(1657)『大日本史』の編纂に着手してから、多数の史臣と莫大な費用を注いで、紀伝・志表・目録の合計402巻が完成し、明治天皇に献上されたのは、その250年後の明治39年(1906)であった。
 『大日本史』は木版本をはじめ、多くの刊本となり広く世に知られることとなったが、その編纂の努力、精神を伝える草稿本は、現在も当財団が運営する彰考館文庫に納められ、保存・研究されている。
 次に訪れたのは正宗(しょうじゅう)寺。佐竹氏の菩提寺であり、寺の裏山には佐竹氏の墓所や佐々宗淳(助さん)がある。ここにある木像十一面観音菩薩像は県の指定文化財で、年に一度10月の第3土・日に公開されるとのこと。
 佐々宗淳の墓
 (説明文)水戸黄門漫遊記で親しまれている「助さん」は本名は佐佐宗淳(さっさむねきよ)といい、字を子朴、通称を介三郎、十竹と号した。本姓は良峰氏であったが、その祖が佐佐成政の妹を妻とした縁で佐佐氏を名乗った。十五歳で京都妙心寺の僧となり、祖淳と号した。僧として約20年つとめたが、感ずるところあって還俗、江戸に出て延宝2年(1674)徳川光圀に仕え、進物番兼史館勤務となり、義公修史のことに従事した。彼の業績は史料の探訪収集でその史跡は畿内は勿論 北陸・中国・九州などまでも及び貴重な文書記録を集めたことである。また義公の命で下野の那須国造碑の修復、同所の上下侍塚の発掘調査とその復元等に当たったことは特筆されよう。元禄9年(1696)彰考館総裁をやめ、小姓頭として西山荘の光圀に仕えたが、元禄11年6月3日59歳で没しこの地に葬られた。募碑は養子の藤蔵宗立が建て、選文は格さんこと安積覚澹泊である。
 佐竹一族の墓
 (説明文)正宗寺は、臨済宗の寺で萬秀山と号し、市内増井町字東寺領に建てられている。字名にも東寺領、西寺領などが残っているように、この辺一帯には、太田城の城主であった佐竹氏とゆかりの深い勝楽寺、正法院、正宗寺が棟をならべ、常陸における一大文化の中心地であった。この正宗寺の裏山にある数多くの宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、佐竹氏代々の墓塔とつたえられており、銘がわからず何代の城主のものであるかはわからないが、墓塔の笠の四隅の飾り、突起の直立に近い形は、時代の古さを物語っている。一説には、秋田への国替えに際し、一族の墓石を秋田へ運んでいったともいわれているが、他の佐竹氏にゆかりがある寺に、佐竹氏の墓石と伝えられる宝篋印塔等が残っているのを見ると、秋田への国替えの際、位牌だけ秋田に移され、墓石は、ここにのこされたものといわれている。
 舞鶴城址
 現在は太田小学校の校内に写真の碑を残すのみになっている。
 この城は1109年に藤原秀郷の孫通延が築城したのが始まりとのこと。1131年に佐竹郷に入り、地名をとって佐竹氏と名乗った昌義は、馬坂城を占拠して馬坂城の城主となった。昌義の子の隆義の時、当時の太田城主の藤原通盛(通延の子)を服従させて追い出し、自ら城主となった。城に入る日に上空を鶴が舞い、これを吉兆として「舞鶴城」と名付けたとのこと。以来、1602年に徳川家康によって秋田に移封されて廃城となるまでこの城は佐竹氏のものであった。なお、1591年に義宣は水戸城に居城を移している。
 馬場八幡宮
 (説明文)天喜4年(1056)鎮守府将軍源頼義、勅を奉じて陸奥の安倍頼時鎮撫のためこの地に至り、清和天皇嫡流の源氏の氏神であり、伊勢神宮と共に国家の宗廟と称されていた岩清水八幡宮の神霊を平大石二枚を敷き安置して大任の遂行を祈願した。康平3年(1060)には神域を拡張し社殿を造営して岩清水八幡宮の分霊を奉祀した。
 陸奥守八幡太郎鎮守府将軍源義家、永保3年(1083)に起きた陸奥の清原一族内部抗争鎮定の途、本社に参詣し、社頭に松を植えてその成功を祈願した。寛治6年(1092)義家、義光と共に戦勝を報賽し、馬場先にて流鏑馬を奉納した。天仁2年(1108)常陸介新羅三郎義光、太田城主藤原通延に命じて本社の社殿を修築した。
 義光の孫佐竹初代昌義、祖宗の先蹤を慕い深く崇敬して本社を太田郷の総社、鯨岡八幡宮の社号を奉る。佐竹三代隆義は応保元年(1161)新たに本社・礼殿堂・楼門・神宮寺・庁屋・五宇の殿堂を築造した。その規模壮大にして尊厳を極めた。天正二年(1574)雷火の為悉く消失した。


→佐竹家の歴史   →最近のトピックス   →内容(目次)