神田 絵どうろうまつり(01.7.5) 


 神田駅の西口商店街で行われた、神田 絵どうろうまつりを始めて見に行った。湯沢の絵どうろうまつりは8月5〜7日であるが、神田のはそのキャンペーンを兼ねて、7月の七夕の時に行われる。2年に1回開催されて、今年で5回目とのこと。神田で行われる理由は、この商店街に佐竹稲荷神社(詳細は下記参照)があるからである。

 神田駅の西口商店街入り口。商店街というとさびれてきたイメージがあるが、さすがに神田は東京の中心部ということで、とても活気があった。

 湯沢の人たちと、西口商店街の人たちが協力して、たくさんの絵どうろうを飾っていた。予想を遥かに越えたすばらしいお祭りであった。

 ひとつひとつの絵どうろうの下に、そのスポンサーの名前が書かれてある。

 約10mにひとつの割合で、数百mにわたって絵どうろうが飾られていた。

 夕方7時から南家佐竹太鼓のデモンストレーションがあった。神田外語学院の前にの勇壮な太鼓の音が鳴り響いた。

 南家佐竹太鼓は私も何回か聞いたことがあるが、今回が一番感動した。やはり太鼓は日本人の魂に共鳴する気がする。

 太鼓の音に大勢の人たちが足を止めて聞き入っていた。

 そうこうしているうちに、あたりが暗くなった。やはり、絵どうろうは夜の闇に映える。

 湯沢で二百数十年にわたって受け継がれてきた伝統のある絵どうろうまつりである。

 来年は本場湯沢の絵どうろうまつりに行こうかなと思っている。(ホテルの予約をとるのが大変らしいが。。。)

 佐竹稲荷神社周辺を中心に、湯沢の名産(漬物、お酒、稲庭うどん等)の販売も行っていた。

 これが佐竹稲荷神社。私も初めて見た。この神社の歴史が神田のタウン誌に載っていたので下に紹介する。

佐竹稲荷神社  神田Navi(神田のタウン誌)より

 現在、佐竹稲荷神社は神田駅西口商店街の中ほど、内神田3丁目10番1号に鎮座されて、火伏の神様、商売繁盛の神様として地域住民のみならず、一般通行人の方々からも多くの信仰を集めている。

 さてそもそも佐竹稲荷神社は寛永12年(1635年)佐竹氏江戸上屋敷に秋田藩主2代目(20万5千石)の義隆公が、藩邸の鬼門除けのために、屋敷内に勧請したのにはじまる。秋田藩主の佐竹氏はその祖先、清和源氏の源頼義の第三子、新羅三郎義光が元服の幼名を義美と称していたころ、自らを「稲荷氏」と名乗り、「稲荷三郎」と称していた事に端を発しているようだ。

 その後、天和2年(1682年)いわゆる「八百屋お七」の放火による江戸の大火により一面焼土となり、藩邸は下谷に移ったが、稲荷神社は再建され、佐竹家の家紋「扇に月」を社紋とし、火伏の守護神として江戸市民の信仰を集めてきた。

 明治に入り、神社制度が制定されるや無挌社となり、その祭祀は神田明神の神職が兼務し、その護持は地元有志に委ねられた。

 大正12年の関東大震災に惜しくも灰燼に帰し、社有地は区画整理のため現在地に移され、再建されたが、昭和20年の空襲により、再び消失の厄にあった。

 戦後の復興に伴い、昭和26年佐竹稲荷仮官が設置され、昭和27年、宗教法人法により神社庁に登記され、今日に残る総檜一面御霊屋造りの佐竹稲荷神社は、昭和30年、町の復興に併せて、当時の西口商店街、そして旭町町会の役員の方々の浄財を集めて再建されたものである。

 現在でも地域の発展のシンボルとして火伏の神様、商売の神様として多くの信仰をあつめている。


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