祖母の家系 

最終更新日:04828


 このページに関して、鹿島建設の関係の方からいくつかのご指摘があったので、それを修正します。その方からは、その他いろいろと資料をいただきました。私が昔、週刊誌で見た鹿島家の系図の元本と思われるものもありました。この場を借りてお礼を申し上げたいと思います。

 私の父方の祖母の縫子は、鹿島建設の創業者である鹿島岩吉のひ孫にあたる。祖母の父の鹿島龍蔵(たつぞう)は、鹿島組初代組長の岩蔵と京都の芸者のとの間に生まれた子であったとのこと。しかしながら、岩蔵夫人の「やす」にとてもかわいがられて、周囲の皆にはやすの実子だと思われていたとのこと。
 龍蔵は、鹿島建設の副社長であったとともに、田端の文士村に豪邸を構え、芥川龍之介をはじめとする、当時の文士たちとかなり親交が深かったとのことである。

 注:ここの部分はずいぶん間違っていました。上記の通り修正するとともに、参考までに系図の抜粋を載せます。




鹿島家系図

 龍蔵は妻である「しま」との間に8人もの子供をもうけたが、その長女が私の祖母の縫子であった。以下、次郎、三也、芳子、五郎、六也、奈々、八郎と、生まれた順番の数字に関係する名前をつけている。なぜ縫子だけが数字と関係ない名前だったのかは不明である 。

 私の祖母は、そういう家庭に生まれたこともあって、気位が高いとともに、とても社交的であった。東京音楽学校(今の東京芸大)でピアノを学び、当時としてはかなりの「お嬢様」だったに違いないと思う。どのようにして、私の祖父の義輔と知り合って結婚したのか、とても興味があるところだが。

 その祖母も、晩年は病気がちで、昭和6246日に79歳で亡くなった。私はその年月日をよく覚えている。その理由のひとつは、昭和62年は私が就職した年で、千葉に引っ越したあと、たまたま浦和の実家に荷物を取りに帰った日だったということである。もうひとつは、私の結婚記念日が46日 ということである。式場探しをしていたとき、その前後は混んでいたのに、平成346日だけが大安・休日にもかかわらず空いていたのである。

 以下に、祖母に至るまでの鹿島家の簡単な歴史を紹介したい。とは言うものの、手元にほとんど資料はなく、インターネットで調べたことと、私の父からのヒアリングのみが頼りではある。 間違っていたらご容赦願いたい。十数年前に週刊朝日かサンデー毎日に「日本名家百選」という企画があって、鹿島家の系図が詳しく載っていて、そこに祖母の名前もあった。あの時の記事をとっておいていれば良かったのだが。

(1)鹿島岩吉(創業者)

 鹿島岩吉は1816年に埼玉県所沢市で生まれ、東京四谷で大工の修行をした後に、1840年、「大岩」という屋号で京橋に店を構えた。当時の江戸は火事が多くて、大工の仕事は繁盛していたらしい。その後1858年の日米修好通商条約で横浜が開港され、横浜は領事館・商館・住宅などの建設ラッシュとなり、岩吉もその波に乗って横浜へ進出し てそこで活躍した。英一番館やアメリカ三番館を建築し、洋風建築に先鞭をつけるとともに鹿島の基礎を築いた。

 (2)鹿島岩蔵(鹿島組初代組長)

 1872年には新橋−横浜間に日本初の鉄道が開通したが、この鉄道の建設工事に鹿島は砂利などを納入して「鉄道の鹿島」の道を歩み始め、1880年には鉄道請負業に転進した。この年に鹿島組が創立され、岩吉の長男岩蔵が初代組長となる。その後、朝鮮、台湾や満州にも進出して鉄道の敷設に当たった。

(3)鹿島精一(株式会社鹿島組初代社長)

 鹿島精一(旧姓:葛西)は鹿島岩蔵の養嗣子となり、1912年に組長に就任した。その後、1930年に株式会社にして初代社長となる。鹿島は、17年の歳月を要した丹那トンネル工事、関東大震災の復旧工事、ダムの建設工事等で活躍した。

鹿島精一

(4)鹿島龍蔵

 鹿島組の次の社長は精一の娘婿の鹿島守之助である。守之助は国際政治・外交史の学者としても名高く、経営者として優れた手腕を発揮して鹿島組を発展させた。守之助が大臣についた後は、妻の鹿島卯女(うめ)が社長となった。

 龍蔵に関する記述は、矢崎泰久氏の文章をそのまま紹介したい。

 鹿島組(後の鹿島建設)創立者の長男として生まれた鹿島龍蔵は、芥川文学の理解者というか、いわば心酔者であった。龍蔵が田端に居を移したのは明治四十五年ごろ、世間でも稀に見る凝った豪邸で、広い庭には西洋産の芝生が敷きつめられ、敷地内には幾つもの離れ家、茶室、テニスコート、プール、ベビーゴルフ場などが点在していた。鹿島龍蔵は芥川を中心にした芸術家たちのいわばパトロンでもあった。
 芥川は鹿島龍蔵について、随筆「田端人」の中で、次のような短い文章を書いている。〔鹿島龍蔵 これも親子ほど年の違ふ実業家なり。少年西洋に在りし為、三味線や御神燈を見ても遊蕩を想はず、その代りに艶きたるランプ・シエエドなどを見れば、忽ち遊蕩を想ふよし。書、箏刻、謡、舞、長唄、常磐津、歌沢、狂言、テニス、氷辷り等通ぜざるものなしと言ふに至っては、誰か唖然として驚かざらんや。然れども鹿島さんの多芸なるは僕の尊敬するところにあらず。僕の尊敬する所は鹿島さんの「人となり」なり。鹿島さんの如く、熟して敗れざる底の東京人は今日既に見るべからず。明日は更に稀なるべし。僕は東京と田舎とを兼ねたる文明的混血児なれども、東京人たる鹿島さんには聖賢相親しむの情──或は狐狸相親しむの情を懐抱せざる能わざるものなり。鹿島さんの再び西洋に遊ばんとするに当り、活字を以て一言を餞す。あんまりランプ・シエエドなどに感心して来てはいけません。〕


 この文章を読む限り、龍蔵は鹿島家の財力を活かして田畑の文士村に大豪邸を建て、多種多才な趣味に興じるとともに、文化人として当時の文士たちに経済的援助をしていたということになる。ちなみに、私の浦和の実家には「西洋間」と呼ばれる広くて、部屋の中に階段のある、天井の高い部屋があるが、この部屋は、龍蔵が田端から移設した部屋だとのことである。

鹿島龍蔵

 先日、龍蔵氏の長男(祖母の弟)の次郎氏が亡くなり、お通夜に行ってきた。それが、今回、このページを作成しようと思った動機である。祖父の葬儀の時もそうであったが、祖母の兄弟関係の人たちがたくさん来たが、いつも曖昧にしか関係がわかっていなかったので、今回しっかり調べてみようということである。

 鹿島家関係の人たちを見ていつも思うのは、優秀なことはさておき、美男美女ばかりであるということである。きっと、龍蔵氏の母は京都の芸者だったとのことであるが、相当の美人であったに違いない。(私の父にはあまり遺伝しなかったようですが。)

 祖母の小さいころの写真を冒頭の方から送っていただいたので、それを紹介する。大正2年の正月に親類の人たちが集まったときの写真である。
 全員が着物を着ていて、女性は日本髪を結っていて、時代を感じさせる写真である。




祖母とその親類(祖母は前列左から3番目)



祖母の写真(前列中央)


 上の写真中の主な人物

  後列右より
   @木久子 Aつぎ Cしま Eやす

  中列右より
   Aいと

  前列右より
   B次郎 C卯女 D三也 H縫子


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