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ここは沖縄県立第二高等女学校の生徒で結成された白梅学徒看護隊員として戦場で死んでいった生徒達を慰霊する白梅の塔である。 |
第一高等女学校と女子師範学校の生徒のしらゆりの塔はあまりにも有名だが、この白梅の塔も不幸にして戦争の犠牲となった人々の鎮魂のために建てられた。 |
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その経緯がかかれた石碑。本文の内容は下記を参照。 |
塔の隣にはたくさんの千羽鶴が飾れていた。 |
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これが、沖縄戦で亡くなった白梅隊員と教職員149名の名前が彫られた石碑。 |
教職員の名前の中には、嘉章氏の母(祖父の兄の嘉常氏の妻)の島袋静の名前がある。 |
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生徒の名前の中には嘉章氏の二人の姉(島袋節子・弘子)の名前もある。一緒に逃げていた嘉章氏は、米軍の艦砲射撃により次々と倒れていく家族の中で奇跡的に軽傷で済んで生き残ったとのこと。 |
ここは、故・島袋嘉順氏の家のお墓のある霊園。この辺りには同様の霊園がたくさんあった。古いお墓は戦争でやられてしまい、戦後に立てられたお墓である。 |
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このお墓は平成7年建立である。沖縄ではこちらと違ってこのようなお墓が一般的であるとのこと。 |
今現在は、故・島袋嘉順氏の遺骨のみが納められている。 |
白梅之塔 沖縄県立第二高等女学校の四年生五十六人で編成された白梅学徒看護隊は、昭和二十年三月六日第二十四師団(山部隊)の衛星看護教育隊に入隊し、補助看護婦としての特別集中教育を受けていた。米軍の艦砲射撃が激しくなった同月二十四日から、東風平町富盛の八重瀬岳にあった同師団の第一野戦病院に軍属として配置され、昼夜別なく傷病兵の看護に専念した。戦況は日毎に悪化し、同年六月四日遂に白梅隊に解散命令が下り、隊員は散り散りになって戦野を彷徨し、一人またひとりと戦火に斃れていった。その場所は殆ど不明である。また、解散後この地に後退した山第一野戦病院に、再び合流した一部の白梅隊員は、同年六月二十一、二十二の両日に亘り、米軍の猛攻撃を受け無念の最期を遂げた。この辺一帯は、白梅隊員の最も多くの犠牲者が出た所である。塔は、戦没した白梅隊員及び沖縄戦で戦死、或いは戦争が原因で亡くなった教職員・同窓生百四十九柱の鎮魂と、世界の恒久平和を祈念して昭和二十二年一月に建立した。毎年六月二十三日の「慰霊の日」に例祭が行われる。 平成十年六月二十三日 沖縄県第二高等女学校 白梅同窓会 |