御裳川公園(02.5.10) 


 関門橋のたもとにある御裳川(みもすそがわ)公園からみた関門橋。関門海峡をひっきりなしに船が通っていた。対岸の九州との距離は約700mである。

 御裳川公園は壇ノ浦古戦場跡であり、公園内にはその碑と、幕末に長州藩が外国船を砲撃した大砲のレプリカ等が置かれている。

 関門橋は全長1068m、塔間712m、塔高133.8m、海面から橋の高さ61mの本州下関と九州門司を結ぶ橋である。

 関門橋が開通したのは昭和48年11月14日である。その15年前の昭和33年3月9日には関門トンネルが開通している。

 この碑は関門トンネルが開通した1ヵ月後に昭和天皇が関門国道建設事務所の初代所長の加藤伴平氏と歩いたときの記念碑。

 1863年に長州藩が関門海峡を通過する外国船を砲撃した大砲。しかし翌年には英・米・仏・蘭の4カ国の連合艦隊の攻撃により下関砲台は占拠されてしまった。

 攘夷の中心であった長州藩が攘夷は不可能と悟り、列強に対抗するための政権確立を目指し、倒幕活動を始めるきっかけとなった。

 ここはまた、平家の滅亡した壇ノ浦の戦いが繰り広げられた場所でもある。平清盛以来、栄華を見せた平氏も1185年、源氏によって滅ぼされてしまった。

 平清盛の娘徳子の生んだ安徳天皇は、8歳の若さで清盛の妻の二位の尼に連れられて入水した。その時に二位の尼が詠んだの歌が彫られている。

 その歌は「今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 波の下にも みやこありとは」である。8歳の安徳天皇を「海の下にも都がありますよ」と励まして入水したに違いない。

 石碑文の内容

 祇園精舎の鐘の声・・・にはじまる平家物語に、いみじくも哀しい平家の末路は、寿永四年春三月−1185年−闘争の局を、この地に結んだ。彦島を根拠地とした知盛の軍は、九州、四国勢と合じて田之浦に進めば、関東武者を中心に、周防、長門の兵船を含めた源氏の軍は満珠、干珠の島影より兵を進めた。紅白入り乱れての死闘数刻、ついに平家一門は急潮に敗走した。おん歳八歳の幼帝を奉持した二位尼は「上記」の辞世を残して入水され、怨をのんだ一門は、この海の峡の藻屑となった。

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