面白いことや、楽しいことばかりを追いかけるのもいいだろう。が、自分には関係ないよと言って生きられる程、この世の中は甘くはない。己は関与していないなどとほざく輩こそ、世の中を住みにくくしている元凶なんだ。 「どれでもいいや」「関係ないね」「知らねぇょ」とは、体制や大勢への白紙委任だということであり、己も『泥舟』と共に溺れ死んでもよいということだ。それがいやなら、異論を唱えよう。 |
![]() (写真及び説明文の提供:関根照之氏) |
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この国のかたち。
日頃、私が感じていること、それは、日本という国の形。 |
いつごろ、日本人とか日本国などという共同幻影が生まれたのだろうか。「茶髪」を禁止する学校の規則。この地球上には、色々の人間が住んでいるということへの否定。「高校野球」の欺瞞性。「健常者」と「障害者」との区別と差別。アジアの人達への蔑視と差別。南蛮文化への憧れと劣等感。 地域の言語を「方言」という感覚。法律と現実の使い分け。「地方」と「中央」。沖縄の人は「日本民族」なのだろうか。そもそも、「日本民族」など、存在するのだろうか。「主権国家」とは。「国民国家」とは。悪いことをしているという感覚の欠落した「高級官僚」の「カラ・・」。「機関」としての「国家」と、「組織」としての「国家」の区別さえ出来ていない。「国がなにかしてくれないと」という、「進歩的」文化人。「裁判のための裁判」をする、最高学府出身の愚か者達。「憲法違反」状態を、放置していても、困らない「行政府」と「立法府」。「選挙の為の選挙」。日本国と日本列島の区別がつかない政治家。「分別」を強要する「無分別」な人達。「自粛」を通達する、言葉の乱れ。[next] |
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独立の勧め。
気に食わないなら、なんとかしなくてはいけません。 |
一国では頼り無いので、聯合しましょう。地域国家聯合体としての日本列島にしましょう。私の身分は政治活動を禁止されています。このような事を言っても、実行出来ないなら、それは「戯言」なのです。出来ないなら、せめて選挙の時、ベターな選択をするしかないようです。ベストを選択しようと考えたら、選ぶべき「選良」など存在しません。この人の方が、まだましだから、というような消極的選択しか、今の私には出来ません。なさけない事です。(続く) [previous][next] | |
-本当に政治不信か?-
近ごろではすっかり言いふるされた言葉ですが、「政治不信」と言う言葉があります。誰がいつごろから使い始めたのかは分かりませんが、不思議な言葉です。政治の実態を信用しないということなのか、それとも「政治」と言う概念を信じないのか、日本語としては曖昧です。 |
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差別と区別。 差別と区別を混同しています。女性と男性は、生物学的に違っています。だから区別されるべきですが、差別してはいけません。「保護」というのは、一歩間違えると、差別になります。 |
「汚いから風呂に入れ」というのは、差別です。なにを基準に「汚い」と判断するのでしょうか。また、「汚い」と、どうして「風呂」に入らなければいけないのでしょうか。ある集団での慣習は、別の集団から見れば、おかしなことと思われます。少数の人間しか共有できない資質や慣習、生産等は、大多数の人間からは差別されます。差別して、心の平和を保とうとします。「和」などといいます。人と違った事をすると、「和を乱す」などと言います。「いじめ」は、そういうところから生まれてきます。日本という国は差別の固まりです。古代には「大和」などと言っていたのですから。身体的差異をもって、「障害者」と「健常者」と言ったりしています。おおきなお世話です。日本という社会にとって「障害者」なのであって、彼らにとっては、日本という社会が「障害」なのです。だから、正確には「被障害者」と言うべきです。「健常者」と言われている人達こそ、「障害者」なのです。 「毛虫」を嫌い、「蝶」を愛でる人がいます。「鯨」を可愛がり、「牛」を食らう人がいます。我が娘を慈しみ、若い女性を「買う」男がいます。「愛」を説く宗教が、「邪教徒」を抹殺します。或る存在に「価値」をみいだした時、「差別」が生まれます。「価値」こそ、「差別」の元凶です。しかし、「無価値」を生きるのは、たいそう難しいことです。[previous][next] |
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地球に優しい? 最近の気になる言葉に「地球に優しい」と言うのがあります。一件、まともな言葉のようですが、良く考えれば、おかしな言葉です。 |
いわゆる、エコロジーですが、別に地球に優しいわけじゃない。人間がまともに生きていける環境を守り、再生していこうということらしい。「人間に優しい」が正解なのではないでしょうか。太古の地球は、火の玉だったり、硫酸の海だったりしていました。そんな環境では、人間は生きていけません。現在の環境はどうでしょうか。希硫酸の雨を降らしているのは、人間です。二酸化炭素を大量に出しているのも、人間です。人間が作りだしたものを、「人工物」といって、天然物と区別していますが、「人間」そのものは、天然物のはずです。人間といえども、自然界の外に存在するわけもなく、だから、人間の行いも自然から派生したものと言えるはずです。 人間の活動も含めて自然なはずです。自然に生きて、活動し、その結果、自分自身が住めなくなる。愚かですが、だからといって、人間が滅亡しても、別に「地球」は困らない。むしろ、せいせいするかもしれません。[previous][next] |
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「広島」被爆?、被曝? 戦争では、いつでも新兵器が「実験」されます。 日本軍も、支那戦線で細菌爆弾を「実験」しています。戦争とはそういうものでしょうね。 |
原爆は戦争末期に完成してしまった。これが初期だったら、もっと状況は変わっていたでしょう。開戦初期の米軍は、「実験」などと悠長なことは言っていられない状況でした。きっと、17年の東京空襲で使ったでしょうね。それで戦争は終わってしまったでしょう。なにせ天皇も東条英機も山本五十六も原爆で消えていたでしょうから。広島の悲劇は、原爆の完成が遅すぎたことにあるのでしょう。完成が遅すぎた原爆は、次の戦争の為の実験に使うしかなかった。このまま、戦争を終わらせてしまえば、「実験」は、出来ないからです。湾岸戦争でも、色々と「実験」がされました。現在は極秘ですから、「湾岸戦争症候群」という病気で苦しんでいる兵隊が多いそうですが、軍は戦争との関係を否定しています。当然でしょうね。「実験」成果がばれてしまいますから。 我々は、わずかですが、日々被曝しています。広島の悲劇は、「被爆」と「被曝」の両方がない交ぜになっていることでしょう。東京大空襲や重慶空襲での後遺症とは、身体の不自由や精神的痛手でしょうが、広島の「被曝」は、遺伝子損傷となって、子々孫々まで、影響する。そこが、被曝者でない国の人々に理解出来ない点でしょうね。 戦争は、最後の外交手段ですから、闘いの決着がつけば、平和となって、両国民は戦争の痛手から回復することが出来ます。通常の兵器を使った戦争なら、遺伝子損傷は起きないので、実害は第一世代で終わります。精神的後遺症は残るでしょうが、いづれ克服されます。ですから、通常兵器を使った戦争と核戦争は区別されなければならないのですが、世界の多くの人々は、原爆が単に大きな破壊力をもった爆弾としか認識出来ていません。ですから、支那人などは、「南京虐殺」と「広島」を同列で扱います。本質が見えていないのです。[previous][next] | |
![]() (写真提供:星川厚氏(広島在住) |
-「広島」のもう一つの悲劇- そういう意味では、チェルノブイリと連帯する必要があるのです。一方は過失で、他方は故意です。ともに被曝という括りで連帯すべきなのです。「広島」のむごさは、それが「故意」だったからです。「広島」を戦争から切り離して議論しないと、「真珠湾の報復」やら、「南京」「重慶」のお返し的、低レベルでの虚しい議論になってしまいます。 |
「広島」は、「被曝」の恐ろしさの問題なのです。そして、人類が「核」を使う限り、過失や故意の被曝が起こる可能性があるのです。「被曝」は程度の問題でもあります。太陽から吹いてくる「太陽風」は放射能のかたまりです。我々は生命誕生のその瞬間から被曝し続けて、遺伝子損傷を起こし、新しい種を発生させて来ました。それが、現在の豊かな地球の生命世界を作っています。太陽風は、地球のバンアレン帯で、適度に遮られ、地表に達したときには、適度な被曝量となっているのです。 「核」は農業や医療、そして電力にも役立っています。程度の問題と、故意又は事故を起こさない対策をしっかり立てれば、立派に使えるアイテムだと思います。感情的にならず、原理的にならず、あくまでも冷静に判断したいものです。小生は絶対戦争反対論者ではありません。国家が在り続ける限り、戦争は無くなりません。国家が無くなっても、内戦や内乱は、起こるのです。その時、「核」を使わないというルールをもつことは、感情論ではなく、人類の存亡にかかることとして科学的に経済的に議論すべきでしょう。 原始の地球は放射能が充満する地獄だった。だから、全面核戦争したって、地球にはちっとも困らない。困るのは人間だけだろう。全面核戦争後、1億年もすれば、新しい生命体が、地球上に誕生しているでしょう。宇宙からみれば、ささいなことです。困るのは、今生きてる人間なのです。だから、地球環境問題と「核」をからめる「グリンピース」にも同調出来ません。広島が見事に復興して繁栄すれば、するほど、被曝の恐怖は伝わりにくくなります。これが、「広島」のもう一つの悲劇でしょうか。[previous][next] |
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戦争は悪というのは、差別主義者の発想 戦争に対する印象は、極端に別れてしまっています。一方は、侵略という加害者意識であり、他方は戦災という被害者意識です。しかし、どちらの意識の底にも、戦争は悪だから、阻止しなければいけないし、戦争をしたのだから、戦災にあってしまったという、もっともらしい合理化があります。 |
では、なぜ戦争が悪なんでしょうか。なぜ侵略が悪なんでしょうか。簡単にいえば、ある個人又は集団が別のそれの生存と財産を奪って、自分達のものにするという行為が、どうして悪なんでしょうか。倫理感や宗教感でしょうか。そういうものなら思想信教の自由ですから、個人の単位で思う範囲では別段に問題はないでしょう。では、国家段階での判断だとしたら、どうでしょうか。 国家段階では、人間の生存と財産を奪う行為を犯罪として取り締まっています。つまり、倫理感や宗教感にかかわりなく、人間が人間の生存と財産を奪う行為を「排除」しているのです。これは、どういう合理的理由に基づくものでしょうか。本来、生物が生物として存在しつづけるには、代謝と生殖が必要なわけで、人間なる生物は、自己で外界から必要物質を取り込んで代謝することが出来ませんので、他の生物を利用しています。他の生物の一部又は全部を奪って生存が出来ているのです。生物は己の子孫を増やそうとするDNAの働きから逃れることは出来ません。そこから出てくるのは、少しでも多くの「餌場」を確保するという行為になります。未開の場所や生存条件の異なる場合には、他の生物を排除する必要はありませんが、重なった場合、闘争が生まれ、敗者はやがて絶滅します。こうして、適者が生存していくというのです。 もう賢明なあなたなら、お気付きのはずですね。
人間が、自然に生きていくなら、生物本来の、それも動物としての宿命として、生存圏の確保拡大こそが「自然」であり、これこそが「人間主義」=ヒューマニズムだからです。「神の恩寵を受けし人間」などというキリスト教思想に基づいた「人権」などというものの根底には「差別」意識があります。人間は大事だが、他の生物は人間に利用される存在にしか過ぎないと。かりに他の生物を保護しようと企てても、それは、人間の余裕であり、最終的には良質な「餌場」の確保にすぎません。
近代戦争は、大量破壊殺戮や生存圏の汚染を生みました。そこには勝者も敗者もなくなりました。こんな不合理な「闘争」は意味がなくなりつつあります。国家単体ではなく、国家群対国家群になった闘争においても、全面的に戦争をすれば、おそらく両者絶滅というところまで来てしまいました。しかし、仮に一方的に他者を一撃で絶滅させられ、こちらは被害が極少ですみ、しかも生存圏の汚染が極少なら、きっと戦争は発動されるでしょう。現在では、科学技術はそこまでいっていません。
結局、戦争は「悪」でもなんでもなく、生物の生物たる所以からくるものだと言えます。「絶対戦争反対」を唱える人よ、あなたは虫けら一匹、草一本、殺してはいけません。病原菌やウイルスにおかされても、治療してはいけません。それが出来ないとすれば、あなたは、差別主義者だ。小生は、生きる為に他者の命を奪っています。日々ウイルスと闘争しています。それが「悪」というなら、小生は悪人です。そして、この文書を読んでいるあなたも悪人です。生存を放棄した自殺者のみが善人となるのでしょうか。 |
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