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小生の矯正経験およびそれへの感情について...

(ある左利きへのメールから)
『矯正』という言葉についての注釈:『矯正』とは、国語辞典などを引きますと、「欠点をなおして、正常な状態にすること。」とあります。「右使いに矯正する」といった場合、左利きの「左使い」は欠点であり、右使いをしようとしない状態は異常だということになりますね。
 しかし、これは、あくまで右利き者が使う言葉であって、彼等の多くが自分達の利きからくる「右使い」だけが正常で正しく、「左使い」は異常で間違っていることだと思っているからでしょう。左利き者の小生が、敢えてこの言葉を使用しているのは、『矯正』という言葉で無理強いさせられる左利き者の苦痛を表現したいからです。そして、多くの右利き者にそのことを理解してもらうためです。左利き者から見た場合には、『強制』、『強要』又は『改造』なのです。

1. 矯正体験

1.1. 物心つく前

 結局、物心つく前の矯正は思い出せませんでした。しかし、小生が犬小屋で暮らしていたという事実は、親の話で聞いています。なぜ、犬のほうが母親より安心したのかという問題は、その原因がきっと、矯正にあるとおもっています。

 犬の名前は「ジョン」といい、雌の赤犬でした。面倒見のいい、やさしい犬でした。ジョンは、小生が世話役でしたが、むしろ、世話されていたように記憶しています。ジョンは、時々、小生に餌をわけてくれたりしていました。一緒に寝ていると安心出来ました。幼稚園に通うようになると、ますます小生の感情は不安定になりました。登園拒否さえ、何度かしました。昼間はなんともないのですが、夜はいやでした。そんな時は、ジョンのところへいって、寝ていました。でも、やがて別れの時がやってきました。彼女が「犬殺し」にさらわれたのです。当時は、犬はどこでも放し飼いが普通で、ジョンもよく小生を迎えにきていました。そんなある日、彼女はさらわれてしまいました。育ての母親を失ったようなものでした。

 小生の左顔には、幼い時に出来た傷の跡が、今でも残っています。母親は火鉢の箸が、「ささった」といっていました。真実はさだかではありません。よろけて、箸をさしたなら、その前にどうして、手でかばおうとしなかったのかという疑問が残るからです。左顔面なら、当然、左手でかばおうとするはずです。では、その時、左手はどういう状態だったのでしょうか。そこに母親の矯正を見るのです。これが、物心つく前の体験であることは、小生が、その傷跡を発見したからです。その「事故」の記憶がないからです。

1.2. 小学校以前

 夕食の時間は苦痛でした。朝と昼は父はいませんでした。だから、母親は「さじ」を使わせてくれました。でも、夕食は、儀式みたいなもので、家族全員でが決まりでした。

 箸を左手で持とうものなら、父から速効で、叩かれました。「手が違う」と。それでも左使いを止めないと、食事は片付けられてしまいました。そんな時は、ジョンのところへいって、餌をもらうのです。ジョンは気配で解っていたのでしょうか、餌を残していました。ジョンには残飯など与えていませんでした。大事な赤犬だったからです。うまれた子犬は食用に売れたからです。近所でも評判の赤犬でした。

 父は、そういう小生の態度は、母親のしつけが悪いからだと、いつも母を叱っていました。祖父は、「ぎっちょ」じゃあ、これからさき、いろいろと問題があるから、今のうちに右にしないといけないといっていました。普段は小生に優しい祖父でしたが、左使いを嫌いました。まあ、祖父は第一次世界大戦に海軍で参加していますから、軍隊生活が左利きにとって、どんなに辛いものであるのか、知っていたのでしょう。「兵隊になって苦労するぞ」といってました。

 結局、母が叱られるのが辛くて、矯正されました。母はなんでも自分のせいにする性格で、それがつらかったのです。弟を流した後でもあったし、体調が悪く、病弱でした。母には帰る実家もなく(=母の両親は早世していました)、小生たち子供だけが血縁でした。母には双児の妹(=おば)がいましたが、彼女は、子供ができない体です。母を守らねばならない。そんな気持ちでした。

1.3. 小学校時代

 ここは、矯正体験の宝庫でした。担任が厳格で、厳しかったです。学校へあがって最初の矯正は、鉛筆使いでした。おきまりの矯正ですね。教師の見ている前では、右使いしていました。でも、ちっともかけないので、よく叱られました。たまりかねた先生は、家庭訪問されて、母親をなじったようです。母は、小生に右使いを訓練させました。小生の登校拒否傾向は強くなり、皆勤賞など夢物語でした。小生だけ、特別に書き取りの宿題が出されていました。具合が悪いというか、書き取りのはじめにすることは、自分の名前を書くことですが、「中川健一」という名前のうち、「中」「川」「一」が左右対称なので、左右どちらでかいてもそん色ないことです。「健」の字だけが、左右のばらつきが出ました。この字を左でかくのは、つらいのです。紙全体を斜にしないと、かけません。だから、授業中に左使いして書いていれば、すぐにばれてしまいます。そうすると、またまた先生は、家庭訪問なされます。

 ついに、母親の叱咤される姿にまけました。鉛筆使いは矯正されました。が、しかし、その時つかっていた2Bは、いまでもそうなんです。大人になっても、2Bです。

 転校があり、別の小学校へ通いました。転校は2度あり、合計3つの小学校に通いました。2つめの学校では、矯正されませんでした。おおらかな担任で、いつも課外授業ばかりしていた記憶があります。小生もすっかりくつろぎ、片道一時間の通学にもかかわらず、登校拒否はありませんでした。ただ、いつも遅刻してはいましたが。それでも先生はしかりませんでした。小生がすずめを追い掛けていて時間を忘れてしまったなどと言い訳すると、「すずめの様子はどうでしたか」と聞かれました。すばらしい教師でした。

 3つめの学校はひどかった。次の矯正が待っていました。筆使いです。習字というのは、地獄の代名詞でしょうかね。とにかく叩かれ、殴られました。「書道」という宗教に改宗させられるというそういう状況でした。くやしかったです。それで、書き初めの作品を書いて、応募したら、県の学校書道展で「銅賞」をもらいました。左手でかいたとは先生も知らなかったでしょう。驚いていました。「習字」の課程が終わると、すっかり書かなくなり、忘れてしまいました。今でも筆は使えません。

 鉛筆を小刀で削るというのも授業でした。削れないのでした。当然なんですが、その学校指定の小刀というのは、右用でした。鉛筆を削ってくるという宿題が出されました。いくらがんばったところで、左使いでは、うまく削れるわけもなく、いつも失敗作品をもっていっていました。当然、先生は疑問に思ったことでしょう。「このこは、不器用か、知能が遅れているか、頭が悪いのだろう」
 知能検査というものがありました。先生の見ている前で、解答用紙に鉛筆で記入していくのです。一定時間で、いくら正解を書けるかということが知能検査の主旨でした。ですから、不器用な右使い(=先生が見ているので)では、速度がだせす、知能は低いと評価されました。
 父は、みかねて、左用の小刀というよりナイフでしょうか、工場で作ってきてくれました。そのころの父は、左利きなら、野球選手にしようと、おもっていたのでした。父の帰りは遅く、家族一同の夕食という儀式はなくなっていました。ジョンがいなくても、食事には困りませんでした。今でも、父の作ってくれたナイフを使っています。父の形見でしょうか。

1.4. 中学校時代

 ここでは、主に体育での矯正ですね。「道」がつくスポーツで矯正がありました。

 剣道、柔道、相撲道、弓道、、、作法としての右使いを教えるので、実技には支障はなかったです。不思議なもので、あれだけ「知能が低い」と小学校時代思われていたものが、中学校の最初の中間試験で、学年第2位に入ったのです。学校全体が驚いていました。小生の知能については、小学校からの申し送りがあったから、教師達は、不思議がったのでした。その頃には、すっかり右使い鉛筆はものになっていたのです。しかし、つきあう相手は、相変わらず落ちこぼれでした。不良や知恵おくれが多かったのは、小学校時代からの友だちが多かったからです。そういう連中とつるんでいるのが、またまた理解不能だったのでしょうか、よく教師に殴られました。

 登校拒否は、厳しくてできなかったので、授業をさぼったりしていました。不良ですね。「おまえは、勉強はできるが、生活態度が悪い」といって、殴られていました。級長選挙をすると、なぜか選ばれてしまいました。黒板に左手で白墨使いすると、拍手喝采でした。でも、級長が集まる会合には欠席していました。級長とは別に、新聞委員も立候補してなっていましたので、わざと、新聞委員会をその時間に開くのでした。委員会では、副委員長をしていて、仲間の不良をオブザーバーという形で、参加させていましたから、委員会は、かなり自由な雰囲気でしたし、だいたいが新聞委員会の顧問の先生というものは、多少は左派なんで、そういう反発精神を買ってくれていたのでしょう。

 小生は、右使いによる遅れを体験していましたから、授業についていけない者を助けていました。彼等だって、時間をかけてやればきっとできるからです。それで、居残りしては、そういう連中をおしえていました。先生は知りませんでしたので、クラブ活動もしないで、学校に残っている小生をますます不審におもっていました。そんな不良仲間に、やくざの親分の息子がいました。ある時、小生が別の学校の連中にからまれていたのを、「けんちゃんはかくれていろ」とかばってくれました。彼が前に出てきただけで、そいつらは、逃げていきました。授業中、お酒を飲んでいても先生は無視していたくらいの「おっかない」存在でしたが、小生には頭があがりませんでした。彼は、小生の授業を感謝してくれ、よく遊んでくれました。彼が中学時代の「ジョン」だったんですね。

 蛇足ですが、その後、新聞委員会発行の新聞は発禁になりました。学校が別の新聞を発行して、委員会は開店休業状態になりました。そろそろ社会の圧力を感じはじめていました。

1.5. 高等学校以後

 積極的矯正は、経験していません。今にいたるまで。受け身の矯正はあるでしょうが、気にしていたら生きて行けません。矯正というタガがはずれたせいでしょうか、生活にはりがなくなってきました。幸いというか、一年生のときに、鉄棒から落下して、右手首を骨折したため、自由に右をつかえなくなったので、自然に左使いができるようになりました。ここらあたりで、小生の左使いが定着したものと考えられます。今でも、骨折箇所は、神経痛が出ます。右手首を骨折して臨んだ、中間試験もまずまずの成績でしたので、「それで、右手がつかえたら、成績はもっとよくなるだろう」と担任が認めていたのが、笑えたのです。

 高卒で、コンピューター会社に就職しました。1970年でした。このとしは、左派が大暴れした時代でした。コンピューターは、なにからなにまで、右用に出来ていました。右使いにやんわりと矯正させられていました。仕事ですから、「遅れ」は許されないのです。現在にいたるまで、左用のコンピューターというものを見たことも使ったこともないですね。でも、慣れました。マウスという便利なものやiMacという機械にであったので、さほど不便は感じていません。便利なものほど不便であるということには変わりはないのですが。。。


2. 感想

 「私の彼は左利き」というふざけた歌がありますが、あれが世間一般がいだく左使いに対する感情なんだなあということは解っています。

 矯正には利点と欠点がありますが、それは「修行」でも得られるわけで、そういう意味からは、強制される矯正と自ら選んで行う修行とは全然違うと思います。
 小生は、うたれ強いと思います。それは矯正からきていることは利点でしょうが、それよりも、小生を悩まし続けた、ある行動の原因だとおもっていますので、かなり悪い影響が出ているものと思います。

 ある行動とは、突然、きれてしまうことです。てんかんとは違うのですが、切れます。切れると、暴力的になります。破壊がやってきます。すべてを破壊したい衝動がやってきます。この世の中を更地にしたい気分になります。一人残らず殺してやりたくなります。もっとも大切なものを消滅させたくなります。
 衝動は、一番幸せなときにやってきます。幸福の絶頂で、切れます。それが恐いから、絶頂になる前に、自ら、それを壊して、切れるのを防ぐという知恵を身につけました。以来、幸せな感情は湧きません。感情を絶対化せず、相対化して防いでいます。楽しい時に見せる、ふとした悲しみの顔、、、そんなスナップ写真を撮られた時、撮った相手も不思議がっていました。笑っていた小生を撮ったつもりが、悲しい顔をしていたのです。以後、写真を撮られるのが嫌いになりました。

 恋愛においては、そういう行動は致命的で、いつも最愛の状態で、別れています。自分の意見や感情を相手に理解させるということが、おこがましくおもえるからです。それは矯正とかわらないとおもっているからでしょうか。恋人は別れる時、こういいます。「なぜ、私に要求してくれないの。私が必要ないの。」
 優しさの裏にある恐怖、それが矯正です。恐怖の裏にある優しさ、それもまた矯正です。矯正は、精神をゆがめ、未熟なまま大人になります。小生が今でも幼いのは、そういうことでしょうか。わがままを隠したひねくれものになります。差別に敏感になります。論理的思考を疑います。自分が論理的思考を苦手としているからじゃあありません。自信がないのです。はたして、こいつのいっていることは、矯正の結果なのか、それとも本音なんだろかと思います。

 知能検査にみられる「まちがった」評価。これで一生が方向つけられたら、たまりませんね。小学校の落ちこぼれが、中学校で、いきなり学年二位になることの理不尽さ。「ぎっちょって頭いいんだ。」とか「ぎっちょって、器用なんだ。」という話にはうんざりしています。

 「私の彼は車椅子」という歌が流行るでしょうか。流行るかもしれません。きっと別の意味で流行るかもしれませんが、「左利き」とはニュアンスが違うのです。なぜなら、車椅子は、矯正ではなく、結果だからです。移動するには車椅子が必須な人と、左右どちらを使おうが自由なのに、右使いに矯正された人とは、幸福感が違い過ぎます。片方が、車椅子という身体的障害をカバーできる道具を使えて便利しているのに対して、右使い矯正された人は、別に便利になったわけじゃないからです。

 右使い道具を使いたくて、訓練して右使いになったなら、それは自由意志だから、いいのです。でも、矯正は、もともと不便ではない、箸使い、鉛筆使い、筆使いに顕著にあらわれています。なぜでしょうか。左使いしても右使いしても困らないものばかりではありませんか。そこに矯正の本質が見えてくるとおもっています。箸も鉛筆も筆も左右の区別がないのですから。。。矯正した親はすでになく、理由をきけませんでしたが、世間体だとしたら、悲しいことです。


 祖父が常日頃、小生を嘲っていた言葉を載せて終わりにします。

 「軍隊じゃあ、鉄砲は皆、右用なんだ。お前のようなぎっちょは、軍隊では使えない。戦争に行かなくてもいいから、死なずにすむので嬉しいだろう。御国の役立たずが。そんなやつにくわせる飯はないぞ。器用に左つかっとるな。」

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