特集・米英、アフガン空爆(私の視点)

       20011009日 朝日新聞朝刊 11ページ オピニオン1

 

    道義なき攻撃の即時停止を 辺見庸

 

 この報復攻撃には、なんらかの国際法的、あるいは、人間的正当性があるだろうか。この戦いは、成熟した民主主義国家対テロ集団という図式でとらえることのできるものなのだろうか。これは、ブッシュ大統領のいうとおり、文明対野蛮、善対悪の戦いなのだろうか。私の答えは、すべて、ノーである。結論を先にいうならば、当事国は、このいささかも道義のない軍事攻撃を即時完全停止すべきであり、われわれは攻撃がつづくかぎり、つよく反対の声を上げなければならない。

 

 ○非対称的な世界の衝突

 目を凝らせば凝らすほど、硝煙弾雨の奥に見えてくるのは、絶望的なまでに非対称的な、人間世界の構図である。それは、イスラム過激派の「狂気」対残りの世界の「正気」といった単純なものではありえない。オサマ・ビンラディン氏の背後にあるのは、数千の武装集団だけではなく、おそらく億を超えるであろう貧者たちの、米国に対するすさまじい怨念(おんねん)である。一方で、ブッシュ大統領が背負っているのは、同時多発テロへの復讐(ふくしゅう)心ばかりでなく、富者たちの途方もない傲慢(ごうまん)である。

 

 とすれば、現在の相克とは、ハンチントンの「文明の衝突」という一面に加え、富者対貧者の戦いという色合いもあるといえるのではないか。敷衍(ふえん)するなら、20世紀がこしらえてしまった南北問題が、米国主導のグローバル化によってさらに拡大し、ついにいま、戦闘化しつつあるということだ。富対貧困、飽食対飢餓、奢(おご)り対絶望――という、古くて新しい戦いが、世界規模ではじまりつつあるのかもしれない。

 

 ○自前の眼で惨禍直視を

 もうひとつ、見逃せない危機がある。テロ攻撃に逆上した米国と、日本をふくむ同盟諸国が、この時期、近代国民国家の体裁さえかなぐり捨てようとしていることだ。テロ対策をすべてに優先し、法的根拠もなく多数の“容疑者”を身柄拘束し、一切の話し合いを拒否して大がかりな報復攻撃に踏み切るような米国のやりかたは、もはや成熟した民主主義国家の方法とはいえない。これにひたすら追随する日本政府は、首相みずから憲法9条、同99条(憲法尊重擁護義務)に違反してまで、米国の報復攻撃を助けようとやっきである。勢いづくこの国のタカ派の論法の先にあるものは、徴兵制の復活でもあろう。

 

 そろそろ米国というものの実像をわれわれは見直さなければならないのかもしれない。建国以来、200回以上もの対外出兵を繰り返し、原爆投下をふくむ、ほとんどの戦闘行動に国家的反省というものをしたことのないこの戦争超大国に、世界の裁定権を、こうまでゆだねていいものだろうか。おそらく、われわれは、長く「米国の眼(め)で見られた世界」ばかりを見過ぎたのである。今度こそは、自前の眼で戦いの惨禍を直視し、人倫の根源について、自分の頭で判断すべきである。米国はすでにして、新たな帝国主義と化している兆候が著しいのだから。

 

 今回の報復攻撃は、絶対多数の「国家」に支持されてはいるが、絶対多数の「人間」の良心に、まちがいなく逆らうものである。問題は、「米国の側につくのか、テロリストの側につくのか」(ブッシュ大統領)ではない。いまこそ、国家ではなく、爆弾の下にいる人間の側に立たなくてはならない。