テロリズムに対する報復が人権を踏みにじる

 

               ウィリアム・A.・シャバス

               アイルランド人権センター

               アイルランド、ゴールウェイ

 

ブッシュ米大統領やブレア英首相らは、9月11日のテロリストの行為は、民主主義への攻撃と考えて当然と主張した。が、これにより脅かされたのは、民主主義ではなかった。民主主義体制は、はるかにきびしいところを生き延びてきた。

民主主義を滅ぼすのは、テロリズムに対する反動行為である。

 

近代民主主義は、テロリストを処罰するに完ぺきな司法制度を備えている。この制度により、わたしたちは、かれらを見つけだし、捕らえ、裁判にかけ、至当な刑罰を課す。

 

ロッカビー飛行機墜落事件、ナイロビ(ケニア)とダル・エス・サラーム(タンザニア)の大使館爆破事件の犯人たちに対し、アメリカ・イギリス政府はこのとおりの手順をもって対処した。(ロッカビー飛行機墜落事件とは、88年、スコットランドのロッカビーで、PAN AM機が爆破され墜落した事件。2人のリビア人が犯人とされた) 

 

また、これは、国連が、前ユーゴスラビアとルワンダにおける大量虐殺と人道に対する罪で告発されている人々に対し、行っていることでもある。

 

ミロシェビッチが国際法廷で裁かれるのと、巡航ミサイルで殺されるのと、どちらがまっとうといえるであろうか。ロッカビーの被告人2人についていうと、うち一人は、今年初め、スコットランドの判事により、無罪とされた。裁判において暗殺と即刻の処刑を主張する側が勝っていたら、テロリズムに対する民主主義の戦いの名のもとに罪なき人が殺されていたであろう。

 

アメリカの政治家の中には、9月11日の事件は”戦争行為”であるとして、 刑事裁判は不適当であると主張しているものがいる。しかし、国際法にてらしていうと、まず、実行した「国家」が明らかにされなければならない。個人が構成する集団が、たとえ構成員が多数であっても、”戦争行為”を行うということはありえない。

 

テロリストをかくまっている者たちについては、”戦争行為”における共犯者といいうるのではないか。しかし、もっとも近いところでこの大胆にも粗雑な主張がなされたときのことを思い出してみよう。1914年、セルビアのナショナリストがオーストリア皇太子を暗殺したとして、オーストリア・ハンガリーが、セルビアに宣戦布告したときのことである。これによって、NATO条約第5条に相当する当時の条項を根拠とする宣戦布告が待っていたかのように次々と堰をきって発せられた。

 

応報の名において行われたテロリズムに対する過剰対応が、いかにしてヨーロッパの青年層まるごと一世代を殺りくしさった一連の歴史的事件を引き起こしたかを振り返ると、わたしたちは戦慄と驚きに捕らえられる。

 

犠牲者とその家族の怒りと報復の念は、十分理解できる。しかし、市民を巻き込み、民間の施設を標的とする報復行為はいかなるものも、はっきりと国際法により禁じられている。これは戦争犯罪である。かりに報復が許容されるとして、それは、軍事施設のみを目標とする場合に限る。

 

アメリカは、このたびの悲劇の数千の罪なき犠牲者に対する同情を得ようとし、現にそれを得た。遺族の苦しみを見るとき、人々に親しまれたビル群の一角が欠落しているのを見るとき、わたしたちの心は乱される。しかし、犯人を捕まえることにも、起こり得る戦争犯罪を防止することにもならないアメリカの政治プログラムを進めるための、国際的連帯となってはならない。

 

さらに、民主主義を守るという旗のもとに策が講じられるなら、けっしてダブルスタンダードがあってはならない。ほんの2年前、現在とは違う状況下でだが、アメリカは、ベオグラードのある民間ビルを、中にテレビ局が入っているという理由で軍事目標であると主張した。アメリカは、この攻撃の犠牲となった民間会社の事務職員たちの死を”付随的被害”といって正当化した。

 

もし、ワールド・トレード・センターを攻撃した犯人たちが裁判にかけられたなら、この先例を引き合いにだせばよい。ベオグラードにおける殺りくの規模は異なるものの、論理はほとんど同じである。

 

何度であろうが、繰り返して言う。民間人はいかなる紛争においても犠牲とされてはならない。生きる権利は、数ある人権のうちでもっとも基本的なものである。ニューヨークとワシントンの罪なき数千の民間の人々の生きる権利は、踏みにじられた。しかし、ベオグラード、バグダッド、カブールの人々もまったく同じ権利をもつ。それには何の例外もない。

 

(筆者は、国際人権法とそのカナダ憲章の作成にあたった。また、パレスチナ占領地域へのイスラエルの植民を国際法に照らして違法とするすぐれた論考がある)