「ナッシュビル・スカイライン」の謎

ナッシュビル・スカイライン ●ボブ・ディランばかり聴いている

 以前、ボブ・ディランに関する文章を書いてから、約3年の時間が経った。その間、ぼくは新しくリリースされるCDはほとんど買わずに、ボブ・ディランの過去の膨大な作品を追いかけていた。常に進化を続けるはずのロックという音楽のフロントラインには目を背け、昔のボブ・ディランを聞き続けていたのだ。今のぼくの耳には最新のロックよりも、三十数年前のボブ・ディランの声のほうが刺激的に聴こえるからだ。

 ボブ・ディランばかり聴いているのに、その魅力を文章で説明するのは未だに困難な作業である。癖のある独特の声、アメリカ人でも時には理解し難いという難解な詩、そしてちょっと聴いただけでは抑揚がなく変化に乏しく感じるメロディー、膨大な数リリースされているオリジナルアルバム(ビートルズの公式アルバムはわずかに十数枚、ボブ・ディランはその5倍以上)と、どれを取ってもボブ・ディランは楽しむ為のロックとしては少しハードルが高いのだ。

 実は、ぼくも我慢しながらボブ・ディランにしがみついていた時期がある。「ライク・ア・ローリングストーン」のサウンドの肌触りにはまちがいなく高純度のロックを感じるが、どうにも理解できない部分が多すぎるのだ。
 しかし、納豆やくさやなどの癖の強い食べ物は、一度口に合うと病みつきになる。ボブ・ディランはまさにその手のロックンローラーで、最初は理解不能な唄でも聴き続けているうちに耳に馴染んできて、心の琴線を刺激する瞬間が何度もあるのだ。そんな瞬間が増えるたびに、ぼくはボブ・ディランから離れられなくなってしまった。

●避けてきた「ナッシュビル・スカイライン」

 謎の多い(だからこそ、面白い)ボブ・ディランの歴史の中で、ぼくが避けて通っていたアルバムが「ナッシュビル・スカイライン」である。1969年4月にリリースされたこのアルバムはボブ・ディランがカントリーミュージックに傾倒した一枚。

 「そんなの何の問題もないじゃない、アメリカ人のボブ・ディランはカントリーも好きなんでしょ」と思われるかもしれないが、時代背景を考えて欲しい。ベトナム戦争が激化し、わずか数ヶ月後に今や半ば伝説化したウッドストック・ミュージック・フェスティバルが開催されようとしていたのが1969年4月である。
 ロックをBGMに反戦運動やヒッピームーブメントが盛り上がっている時期に、少し前にはプロテストソングの旗手として大活躍していたボブ・ディランが、のんきにアメリカの保守的な音楽のカントリーソング(日本でいえば演歌のようなものだろう)をレコーディングしていたのだ。しかも「ライク・ア・ローリングストーン」の突き上げるようなザラザラの声ではなく、ツルツルの美声で・・・・。

 歌のフォーマットがカントリー、そして美声で唄う。それだけでも戸惑ってしまうが、追い討ちをかけるように詩の内容が甘すぎる。『アイ・スリュウ・イット・オール・アウェイ』では「愛しかない、それが世界を動かしているんだ、愛また愛だけだ、だから愛を与えてくれる人がいたら、心して受け取りなさい、決して逃がしてはいけない」と高らかに謳い上げ、『ペギー・ディ』では「ペギー・ディ、君と一緒に夜が過ごせればいいなあ」とのんきに笑う。『カントリーパイ』では「カントリーパイが大好きなんだ、ディナーに呼んでねハニー、きっと行くから」とふぬけたことを言う。わずか数年前に「どんな気がする、転がる石の気分は?」と蹴飛ばすように過激に唄っていた男の作品とは、とても思えないのが「ナッシュビル・スカイライン」というアルバムなのだ。
 
 以上のような理由から、常にラジカルに生きてきたはずのボブ・ディランが底抜けにふぬけいているように感じる「ナッシュビル・スカイライン」を、ぼくは長い間避けていた。「別に買わなくてもいいや」と思っていたのだが、「ナッシュビル・スカイライン」に「ジョン・ウェーズリー・ハンティング」「新しい夜明け」がセットになった輸入版のCDが安かった(3枚で三千円弱)ので、値段につられて「amazon.com」でオーダーしてみた。

 ベスト盤などによく収録されている「レイ・レディ・レイ」以外は、ほとんどが初めて聴く曲ばかりの「ナッシュビル・スカイライン」、実はこれが意外にも良いアルバムだった。小難しい時代背景を抜きして、純粋に音楽として聴いてみると、耳に心地よく響いてくる。今のぼくは北海道の山の中に住んでいるから、窓の外の風景がカントリーミュージックが妙にはまる。甘い声だって聴きなれれば素敵だし、ボブ・ディランの唄のうまさが素直に理解できるのだ。30分に満たない短いアルバムだが、愛すべき佳作という感じで、今では毎日のように聴くお気に入りの一枚になってしまった。

●「ナッシュビル・スカイライン」の謎解き

 しかし、やはり謎は残る。ボブ・ディランはなぜ1969年にツルツルの美声でカントリーを唄うアルバムをリリースしたのだろうか?考えられる理由を列記してみよう。

1.ふやけた生活をしていて、それに満足していたから、そのままの気分を唄った。

 ボブ・ディランは1966年にバイクで事故を起し、瀕死の重傷(実は大した怪我ではなかったという説もある)を負った。そして、事故を機会にボブ・ディランはウッドストックの森の中の家で、療養と称し隠匿生活を始める。療養とはいえ、事故のすぐ後には長男が誕生し、家庭生活が充実していたようだ。

 森の中で生まれたばかり子供、愛する妻と幸せに暮らしているのに、過激なロックなんか期待されても唄えない、唄いたくない。そして、この時期は家族のこと意外にはなーんにも考えてなかった。だから、「ナッシュビル・スカイライン」のようなアルバムをリリースした。素直に考えると、このあたりが真相かもしれないと思える。

2.昔のボブ・ディランを期待するリスナーへの肩すかし

 60年代初頭から時代のフロントラインを過激に駆け抜けていたボブ・ディランはバイク事故を機会に人々の前から姿を消した。しかし、ベトナム戦争は激しさを増し、それに伴う平和運動や学生運動が盛んになっていく。数々のプロテストソングを唄い、政治的にもラジカルに活動していたボブ・ディランが、復帰する時にどんなメッセージを発するのだろうと、みんなが期待していたはずだ。
 そんな期待感を感じていたからこそ、ボブ・ディランは「オレはオレの道を行く。自分のことは自分で考えな」と、あえて何のメッセージもないふやけたアルバムを作ったのではないだろうか。ボブ・ディランはそのライブパフォーマンス(昔の曲もアレンジを変え、サビを聞かないと何の曲か分からないほどにしてしまう)からもうかがえるように、常に音楽スタイルを変え続けて、リスナーを期待を裏切り続けてきた人なのだ。

 肩すかしをしつつも、時代に迎合せず、一歩先を行くのがボブ・ディランである。70年代になると政治の季節は急激に冷え込み、争いに疲れた若者が「バック・トウ・ザ・カントリー」を合言葉にザックを背負ったバックパッカーとなり、アメリカの大自然の中を歩き回った。
 60年代後半に、ウッドストックの森の中で静かに家族と暮らしていたボブ・ディランは「バック・トウ・ザ・カントリー」のさきがけである。やはり、ボブ・ディランは時代の一歩先を行っていたのだと思う。

3.ツルツルの美声は作り物か?

 ボブ・ディランの気持ちと時代背景を抜きにすると、一番の謎は「ナッシュビル・スカイライン」における声だ。
 佐野元春はあるインタビューの中で「初めて買ったのは『ナッシュビル・スカイライン』、わくわくしながらレコードに針を落としたのに、ラジオで聴いた声とはまったく違う。『あれ、まちがってレコード買っちゃったな』と思いました」と言っている。今までとはまったく違うツルツルした美声。果たしてこれは作り物なのだろうか?

 ボブ・ディランはかっての名前を「ロバート・アレン・ジママン」という。つまりボブ・ディランは芸名なのだ。しかし、デビュー前後に正式に改名(アメリカでは比較的簡単に名前を変えられるようだ)し、現在では本名もボブ・ディランである。ミネソタ州で産まれた「ロバート・アレン・ジママン」はニューヨークでのデビューをきっかけにボブ・ディランという別人格を作り上げ、それに成りすましたとも考えられるわけだ。
 だから、ぼくはあの独特のザラザラした突き上げるような声も「ロバート・アレン・ジママン」が作り上げたボブ・ディランという声なのではないかと推測している。ナチュラルに作らずに唄うと「ナッシュビル・スカイライン」のような声になるのではないか。そうならば「ナッシュビル・スカイライン」はボブ・ディランの素が最も出たアルバムではないだろうか。

 ボブ・ディランは次のアルバム「セルフ・ポートレイト」で、更にファンを困惑させる。そこには収録されたのはカバー曲が大半だったからだ。ついにはオリジナルを唄うことさえ止めてしまったボブ・ディランは「セルフ・ポートレイト」のなかで、サイモンとガーファンクルの「ボクサー」をカバーしているのだが、この曲が声の謎をより深める。
 なんとボブ・ディランは「ボクサー」の中で「ライク・ア・ローリングストーン」のザラザラ声と「ナッシュビル・スカイライン」のツルツル声で、ひとりデュエットしてしまうのだ。
 おふざけというには、あまりに見事な「ボクサー」のカバーバージョン。果たしてボブ・ディランの地声はザラザラ、ツルツルのどちらなのだろうか。それとも別の声があるのだろうか。

4.「ナッシュビル・スカイライン」がボブ・ディランを長生きさせた

 バイク事故を起こし、ウッドストックの森に隠匿する直前のボブ・ディランの写真は、どれを見ても異様に尖がっている。シャープな顔付き、グシャグシャの頭は十年後に出現するパンクロッカーの先取りのようだ。しかし、60年代に急速に先鋭化したロック・シーンの先頭を走るということは快感であると同時に、神経を消耗させ、精神的なプレッシャーも厳しかったのではないだろうか。
 その証拠に60年代の終わりから70年代の初めには、多くのロックミュージシャンが命を落とした。ジミ・ヘンドリックス、ジム・モリスン、ジャニス・ジョプリン、ブライアン・ジョーンズなど、ロックという音楽に命を奉げたようなミュージシャンが多数いる。

 異様に尖がっていたボブ・ディランだって、そのうちの一人だったかもしれない。ボブ・ディランは生命力の強い男なのだろう。だから、バイク事故を起こした時もロックの生贄にならずに済んだ。しかし、ロックが最も激しかった時期に、セミリタイヤし「ナッシュビル・スカイライン」のようなアルバムを作ったからこそ、未だにツアーを続けるボブ・ディランが存在するとも思えるのだ。今になって思えば、生き急いでいたボブ・ディランの命を救ったのが「ナッシュビル・スカイライン」なのかもしれない。

●そして、ボブ・ディランは挑発する

 あるインタビューの中で、ボブ・ディランは「今まで書いてきたなかで、本当の意味で時代遅れになってしまった曲は、ひとつもない」と言い切っている。何という自信だろうか。
 しかし、その言葉に偽りはない。30年以上前の「ナッシュビル・スカイライン」は未だに錆付かず、そこには新鮮な驚きといくつかの謎があるからだ。そして、なぜ69年に「ナッシュビル・スカイライン」のようなアルバムを作ったのか、本当のことはボブ・ディランにしか分からない。

 「ナッシュビル・スカイライン」にはボブ・ディランのジャケットの中で唯一笑顔の写真が採用されている。30年前の謎が分かったような気分でこんな文章を書いているが、ジャケットに写っているふやけた笑顔ボブ・ディランは「オレのことが分かるなんて、百年早い」と、笑いながら未だに挑発を続けている気がする。
 唯一確かなことは、リリースから30年以上が経った「ナッシュビル・スカイライン」を聴きながら、ぼくは北海道の森の中でくつろいだ気分の30分間を過ごしている、それだけなのかもしれない。

(2002.09.08)


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