イヴリ伝説  〜この愛すべき音楽家〜   2009年10月 来日プログラムより

 演奏家、その音楽から人柄が見えてくる。19世紀スタイルの最後の演奏家、などとも言われている彼であるが、始めはフレーズのとり方に面食らってしまう人でも、素直に彼の音楽に委ねて聴いていくうちに、いつのまにか虜になってしまう。そう、彼の音楽は常に“生きて”いて、語りかける音楽なのだ。アルゲリッチとのデュオは、まさに会話である。なぜか日本では「ヴァイオリン・ソナタ」などと書かれている場合が多いが、これは誤りで、正しい表記は「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」であり、ベートヴェンの場合は「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ」である。つまりピアノにとってもソナタでもある訳で、両者が対等に音楽を交わす音楽である。共演者は、彼が問いかけたフレーズに応答する感性が無ければ、音楽は崩壊の道を歩んでしまう。

ギトリスは、トリュフォーの映画にも出演した役者でもあり、最近では、2003年に公開された映画:サンサーラSANSAでも、老ヴァイオリニスト/指揮者:クリックを演じている。演じる事を好み、そして、見ている人の反応を楽しむ(写真)。それも彼の音楽のスタイルそのままである。彼は、よく即興演奏をするが、一度是非、ルガーノ音楽祭での2008611日の彼の即興演奏を耳にしていただきたい。聴衆に話しかけ、“サマー・タイム”を歌い、大倉正之助が鼓を合わせている。彼の真骨頂、イヴリ・ワールド全開である。

演じるギトリス 2000年11月    © Yu K.

 数年前、パリの彼の行きつけのカフェで待ち合わせをした時があった。その時、とある声楽家にどうしても渡さなければならないものがあり、このカフェに立ち寄ってもらった。美人の彼女が入ってくると、もう彼の目線はしっかり彼女を追っている。結局、一緒に彼の家に遊びに行ったのだが、それからが大変。「君が入ってきた時から、ぼくは君を見ていたんだよ。」、「この帽子はどうだい? 一緒に座ろう。」、と始まってしまった。

 そういえば、映画サンサーラの収録が渋谷のセンター街の先であった時、闊歩しているちょっと凄いギャルを発見し、「おい、見ろよ!」とウォッチングが始まってしまった。その時、彼は風邪を引いていて、ちょっと熱もあったのだが、真冬の深夜なのに頑として帰ろうとしない。結局翌日、熱もすっかり下がり、風邪も吹き飛んでしまった。イヴリ、恐るべし。 

 ある時、彼に呼ばれて部屋に入ったら、もう少し練習するからちょっと待ってくれ、と言われた。彼のために書かれた難曲を弾かなければならないが、まだまだ練習が足りないという(写真)。普段のユーモアあふれる彼とは、また違う一面である。その時の、真摯に音楽に取り組む姿に、彼の音楽の真髄の一端を見たような気がした。天才と呼ばれ、世界の頂点を極めている人達は、皆自分に課するハードルは限りなく高く、そして恐ろしく努力家である。

ホテルで練習 2000年11月    © Yu K.

 2007年の来日の時、左手を傷めていた。痛くて弾くのも難しい、と言う。リハーサルでも思うように手が動かず、本番はどうなるのだろう、と周囲は凍りついた。彼が、薬を一式希望したので、あらゆる事を想定し、準備をした。その夜、「もし万が一、薬の副作用で、うまく弾けなかったら不本意である。これから、手のポジションを変え、負担がかからないよう研究する」と、鏡の前で深夜の猛練習が始まった。その姿は、近寄りがたい程神々しかった(写真)。翌日の演奏会は大成功で、客席も共演した新日本フィルのメンバー達も虜にしてしまった。

イヴリ・ギトリス。彼こそが、本当の“巨匠”なのであり、そして何といっても皆を魅了してやまない愛すべき人なのだ。

神々しい “巨匠” 2007年10月    © Yu K. 

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