■ 新潟県長岡市蓬平において


 大勝さんと
  大勝さんと現地を訪ねる





第一回火打石調査実施

1. はじめに
明治期の博覧会記録に、全国各地の火打石の産出地が記載されていることが、判明しています。ここに記載されている火打ち石産地は、江戸時代から続いていると考えられます。従ってこうした産出地を現地調査し、そこの火打ち石を明らかにすることは、江戸時代における日本各地の火打ち石の実体を明らかにしていくことに繋がります。
 以上のような考えで、日本各地の火打ち石産出地の調査を提唱していますが、私もその一例として、現在の新潟県長岡市蓬平に調査に行って来ました。蓬平には「明治十年内国勧業博覧会出品解説」『明治前期産業発達資料第七集』に、「越後の国古志郡蓬平村字萱場」から火打ち石を田中中三郎氏が掘り出したと有り、それを調査したわけです。なお、この文献については、大西雅弘氏が「上州吉井の火打金と火打ち石」(『考古学ジャーナル』417号1997)紹介しています。残念ながら今回の調査では十分な成果は得られませんでしたが、今後も機会を見つけて継続して調査を行うつもりです。以下はその調査概要報告です。



 萱場耕地
  萱場耕地





ヨシカングラ
  ヨシカングラ







表採した石
  表採した石  
2 調査概要
蓬平は、新潟県長岡市の南東部の山間部にある集落で、「蓬平温泉」として有名である。私の母が何回か宿泊したことのある温泉旅館福引き屋に日帰り入浴することとし、2001年8月17日に訪問した。母や家族は入浴し、私は宿の女将に事情を話して、萱場の事を尋ねた。そうしたところ、福引屋で働く大勝三郎氏(大11年生)を紹介してもらい、萱場の位置と性格について聞くと、実際に同行して萱場を案内してくれることとなった。私のワンボックスカーで、蓬平温泉郷のある谷間から、S字に曲がりくねった道をどんどんと栃尾市方向へと山道を登っていった。市境には萱峠展望台があるが、そこに行く途中で南に折れる道を進み、やや開けた高原状の一体が所謂「萱場」であった。以下は、大勝三郎氏から教えていただいた話である。

 『萱場とは、字名で正式には「萱場耕地」と呼んでいた。結構広い範囲を指していて、その山の下の方には「本村」、「屋敷」などの小字名を持つ場所があった。昔は「屋敷」には人が住んでいたが、イケダニの方に疎開した。「石山」といった地名の場所が「屋敷」の下の方にあって、そこには火打ち石がゴロゴロしていた。(田中忠治郎の)田中という苗字は、おそらく「よもやま館」に関係する人で、名主で苗字・帯刀を許されていた人だと思う。(三郎氏は)子供の頃、ヨシカングラのあたりで小さい火打ち石を拾った(ヨシカングラとは現在の町営プールの谷の下から見て斜め右のこんもりした部分)。ここでは白っぽい石を拾って火打ち石とした。子供の頃や戦後すぐには火打ち石と火打金を持ち、火口を手に持ち、そのままキセルに火を付ける大人が結構いた。このあたりの人は白い石を火打ち石として使っていた。』

 写真(左)は、ヨシカングラ下の集落中にある三郎氏宅の畑で拾った白い石である。三郎氏によれば、こうした石が以前拾った火打石と同じで、昔はヨシカングラのあたりでもこうした感じの石が落ちていたのだという。この石には部分的に石英質の部分があった。
 以上の調査から推察されることは以下のようである。おそらく萱場の下の方のどこか、「石山」の可能性が高いが、で明治前期には火打ち石を掘り出したのであろう。萱場で拾える石や斜面に露出している石は多孔質火成岩で火打ち石には適さない。集落の近くで一点拾った石は以前から有る火打ち石と同じだという。この石は、石英質であり、よって近くに石英の鉱脈があり、それを掘り出したのではないか。

3 今後の課題
 第一回の調査は不十分ではあったが、一応蓬平地区でどのような火打ち石があり、どの場所から掘り出したのか、予想が立てられた。今後は雪解け後に現地での確認調査を行うとともに、田中中三郎氏の関係者を突き止めさらなる聞き取り調査を行えたらと希望している。また蓬平に残る民具の調査も行えたらいいと思っている。
 このような調査の後、本地域の火打ち石の実体が明らかにされたなら、その後このような石が長岡市内をはじめとした新潟県内での遺跡出土事例を確かめていけたらと希望している。また、次回調査を行ったら随時報告していきたい。 今回の調査では、蓬莱館福引屋さん、大勝三郎さんには大変お世話になりました。この場を借りて御礼申し上げます。
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