掲載論文3



畿内とその周辺地域に於ける火打石の流通

北野 隆亮


 

はじめに

 火打石とは、火打金との打撃により火花を出して発火させる発火具に用いられた ガラス質の硬い石のことである。このような火打石を用いた発火具はその発火方法 から火花式発火具と呼ばれる(註1)。なお、発火具には他に弥生時代から使用さ れたとされる摩擦式発火具もあるが、火花式発火具は奈良時代に出現した発火法で あるとされ、中世・近世を通じて発火具の主体を占めたものと考えられている(註2)。

 火花式発火具は火打石・火打金の他、火花を受ける火口、以上の3点を入れて持 ち歩く火打袋(註3)、台所などでこれらを保管するための火口箱などで構成され るものである。

 以下、火打石の畿内とその周辺地域における流通の様相について、埋蔵文化財の 発掘調査で出土した遺物資料の分析を中心として考えることとする 。

  1. 研究略史  発火具については、高嶋幸男が鳥居龍蔵以来の研究史を詳細にまとめられている が(註4)、火花式発火具については火打金を中心に扱われており、火打石につい ては資料数が少ないため、あまり触れられていない。

     ところが、近年埋蔵文化財の発掘調査により火打石の出土例が増加し、各地で研 究がみられるようになった。以下、近年の火打石研究について紹介する。

     まず、近年の火打石研究の端緒となったのは、江戸遺跡の発掘調査が増加したこ とである。小林克は江戸の染井遺跡などから出土した火打石(玉髄、石英)を紹介 し、江戸時代において、火打石に石材を選択して用いていることなどを指摘した(註5)。 また、江戸の火打石について、流通過程及び産出地の調査を行い、江戸遺跡では 茨城県山方町諸沢村産玉髄が主として用いられたこと、補完的に群馬県吉井町 産石英が一部江戸へ流通したことなどを明らかにされた(註6)。

     次に、水野裕之が名古屋市から出土する火打石について、美濃国養老瀧の産であ るグレイチャートが選択され用いられていることを指摘した(註7)。また、江戸 時代の文献史料に、木内石亭『雲根志』に「火打石は名産多し、国々諸山或いは大 河等にあり、色形一ならず、山城国鞍馬にあるは色青し、美濃国養老瀧の産同じ、 此二品甚だ良し、・・水晶石英の類もよく火を出せども、石性やわらかにして、永 く用いがたし、加賀或いは常陸の水戸、奥州津軽等の瑪瑙、大によし、駿河の火打 坂にも上品あり、・・・」とあること、また、滝沢馬琴『羇旅漫録』に、享和二 (1802)年に旅をして「京より伊勢までは、燧石はその色大に黒し。水戸よりでる 石のごとく潔白なるものさらになし。京の婦女江戸の燧石を見れば大にあやしむ。」 とあること、さらに、喜多川守貞『守貞漫稿』には「燧石京坂は淡青の石を用い江 戸にては白石を用ふ」などとあることや江戸遺跡の事例(註8)などから、火打石 の使用に際し地域色の存在を指摘された(註9)。

     近畿地方については、奈良盆地の遺跡から出土するサヌカイト製火打石 について、 その分布が盆地全域に及んでいること、少なくとも室町時代から江戸時代を通じて 用いられていること、大きさと重さの範囲及び典型的なサイズを明らかにした。ま た、江戸時代において奈良・大坂はサヌカイト、兵庫県の大阪湾沿岸地域はチャー ト、和歌山県北部地域はチャート・石英を火打石に用いていることを指摘し、近畿 地方での火打石の地域色を予察した(註10)。また、奈良盆地のサヌカイト製火 打石について、天理図書館所蔵の『唐古村明細帳』(寛保三(1743)年)に砥石や 煙硝、硫黄などの鉱産物と共に火打石のことを返答した記載から、江戸時代前期に 火打石が鉱産資源として認識されていたことを指摘した。そして、サヌカイト製火 打石の風化面の観察を行い、40点中31点にみられることから、石核から薄利調整 して製作されたことを推定し、火打石の製作技術の存在を推定した(註11)。そ して、近年発掘調査資料の増加している和歌山城下町を中心に和歌山平野における 火打石について、その分布が平野全域に及んでいること、少なくとも室町時代から 江戸時代を通じて用いられていること、また、火打石の大きさと重さの範囲及び典 型的なサイズを明らかにし、石英製からチャート製への火打石の転換があり、それ らの転換段階を第1期から第4期に区分した。特に、第2期について中世以来の在 地調達から、近世に至り広域流通品を用いることへの転換期ととらえ、和歌山城下 町を中心とした和歌山平野での中世的な物資の調達から近世的な流通品を用いるこ とへの転換期と位置づけた(註12)。

     以上、近年における火打石研究の動向を概観したが、特に和歌山平野での火打石 研究について、次項で概略を述べる。

  2. 和歌山城下町における二つの火打石

    (1)火打石の分布
     和歌山県下において火打石の出土は、1992年に和歌山市文化体育振興事業団に よって実施された鷺ノ森遺跡第3次調査において初めて確認され、江戸時代の火打 石として注目され始めたものである(註13)。その後、和歌山城(天守から二の 丸跡他)及び和歌山城跡(三の丸跡他)、鷺ノ森遺跡(城下町・町屋部分の一部) など和歌山城下町遺跡を中心にした埋蔵文化財発掘調査において出土例が増加した。

     出土した火打石は石英製とチャート製のものの2種類の石材を素材としたもので あり、和歌山城下町遺跡を中心にした和歌山平野内の13遺跡19例で合計498点の 出土を確認した(第1図)(註14)。

    図1  和歌山平野において火打石の出土した遺跡のなかで、最も北の例は府中・遺跡 (3)で、西は中野遺跡出土例(1)、東は山口遺跡(5)、南は神前遺跡(12) に出土例がある。以上、火打石の出土が確認される遺跡は和歌山平野一円に分布範 囲をもち、出土量から見た場合は特に和歌山城下町(7〜9)に集中する。

     さて、火打石の出土が確認される遺跡の性格を見た場合、和歌山城下町の出土が 多く、その中でも特に鍛冶屋町に相当する鷺ノ森遺跡第3次調査地点の出土量が群 を抜いている。このことは、鍛冶に用いた火を火花式発火具によって得ていたこと を示唆するものであるといえる。大坂の住友銅吹所跡からは火打石が全く出土しな いこと(註15)と対照的である。また、江戸時代の大溝で区画された屋敷跡と考 えられる山口遺跡(5)、秋月遺跡(11)、神前遺跡(12)での出土確認は江戸 時代における日常的な生活必需品としての火花式発火具の普及を示しているものと 考えられる。ところが、室町時代の大溝から出土した中野遺跡(1)と太田・黒田 遺跡(10)の例は鉛製鉄砲玉と共伴しており、鉄砲の火種に用いられた可能性が ある。

    (2)石英製火打石とチャート製火打石
     和歌山平野で出土する火打石は石英製とチャート製のものの2種類ある(第2図) (註16)が、それぞれの特徴を説明する(註17)。

     石英製火打石について、残存する自然面の観察からみて、本来河原周辺にある拳 大の円礫を打ち割り火打石としたものと考えられる。よって、その形状は半球形や 方柱形など多様性を示し、形状そのものについてのまとまりはない。チャート製に ついても形状についてのまとまりは見いだし難いが、自然面を観察することのでき る例が非常に少ない。また、石英製とチャート製のいずれについても表面観察によ り打撃痕が側縁部全周及び稜線上にまで及ぶものと打撃痕が側縁部全周のみにみら れるもの、側縁部の一部にのみみられるものがある。このことは火打石廃棄時の使 用状況を反映するものと考えられる。

     大きさと重量について、計測の結果をまとめるならば、石英製は長辺2.1〜6.8 p、短辺1.4〜4.4p、厚さ0.8〜3.6p、重量3.4〜110_Kの範囲であり、チャー ト製は長辺1.0〜5.4p、短辺0.7〜4.7p、厚さ0.7〜3.7p、重量1_K弱〜62_Kの 範囲である。これらの計測値のなかでも特に値が集中する範囲は、石英製は大きさ では長辺3.4〜5.0p、短辺2.4〜3.1pと長辺4.2〜5.3p、短辺3.7〜4.4pの二 つの範囲であり、厚さは2.0〜3.0pに集中する。重量は10_K以下、20〜30_K、 40〜50_K(第3図)に小さなピークをもつ。チャート製火打石では、大きさは長 辺1.6〜2.6p、短辺0.9〜2.3pと長辺5.1〜5.4p、短辺4.3〜4.7pの二つの範 囲に集中がみられ、厚さは0.5〜1.3pである。重量は1_K弱〜10_Kの範囲(第3図) に特に集中する。

     以上、和歌山平野における火打石の特徴を観察したが、大きさ、重量共に片手で 負担無く持てる範囲で収まるものであるといえよう。しかし、火打石は現在におい ても一般に角がとれてしまうと2〜3個に打ち割り、新たな角を作り再使用される ことが知られ、出土資料の火打石についても本来的には一定の大きさであったもの が使用を繰り返した結果投棄され、現在みられる形状となったものと考えられる。 また、出土例のなかには使用途中に誤って投棄されたものも一定量存在すると考え られる。

    (3)火打石の石材変遷(石英からチャートへ)
     和歌山平野における石英製及びチャート製火打石について、その使用された時期 を出土遺構から共伴した陶磁器などの年代観から推定した。まず、室町時代後期の 資料と考えられるものに中野遺跡第1次調査中世大溝SD-1出土資料(第2図1)(註18) と太田・黒田遺跡第26次調査中世大溝SD-1出土資料(第2図2)(註19)が ある。2例とも石英製の火打石である。

     つぎに、江戸時代の出土例について、江戸時代前期の資料に和歌山城第17次調 査C-6・7区第2・3層出土例(註20)、中期の資料に秋月遺跡SD-3出土例(註21)、 後期の資料に和歌山城跡第6次調査石垣裏込め出土例(註22)をあげるこ とができる。江戸時代前期の資料と考えられる和歌山城第17次調査C-7区第2・3 層出土例について、火打石は石英製8点とチャート製1点の合計9点が出土した。陶 磁器などの共伴遺物から17世紀前半の遺物群と考えることができる。この資料の 火打石は9点中8点が石英製であるが、1点みられるチャート製火打石が現在知られ る和歌山平野におけるチャート製火打石の初現例であるといえる。江戸時代中期の 資料とみられる例に秋月遺跡第6次調査SD-3から出土したチャート製火打石1点が ある。江戸時代後期の資料では、和歌山城跡第6次調査石垣裏込め出土例がある。 出土した火打石はチャート製1点である。

     以上、火打石が室町時代後期から江戸時代を通じて和歌山平野において一般的に 用いられていたことの概略を出土資料から説明した。さて、室町時代後期において は石英製火打石が一般的であり、その傾向は江戸時代前期まで続く。しかし、17 世紀前半と考えられる和歌山城第17次調査出土資料中にチャート製火打石が1点み られること、18世紀代と考えられる秋月遺跡第6次調査例やそれより新しい資料で ある和歌山城跡第6次調査例などはチャート製火打石が主体となっていることなど から、17世紀中頃に石英製からチャート製への主体となる火打石の転換があった ものと考えた(第4図)。

  3. 畿内とその周辺地域における火打石の流通
    (1)室町時代における奈良盆地と和歌山平野の火打石
     近畿地方において、中世の火打石として明らかとなっているのは、奈良盆地に分 布する二上山サヌカイト製火打石(第5図9・10)(註23)と和歌山平野に分布す る石英製火打石(第2図1・2)の2例である。

     奈良盆地では、火打石に奈良県香芝市の二上山から産出するサヌカイトを少なく とも室町時代後期から用いており(註24)、和歌山城下町についても室町時代後 期に少なくとも石英製火打石を用いている(註25)。

     奈良盆地のサヌカイト製火打石について、サヌカイト製火打石の風化面の観察を 行い、40点中31点にみられることから、石核から薄利調整して製作されたことを 推定し、サイズについても類似性があることからなどから火打石の製作技術の存在 を推定したが(註26)、和歌山城下町の石英製火打石について、第2図1・2の 出土例に残存する自然面からみて、本来河原周辺にある拳大の円礫を割り火打石と したものと考た。これらのことから、室町時代以来の奈良盆地のサヌカイト製火打 石と和歌山城下町の石英製火打石の製作技法に共通性がみられる点を指摘すること ができる。

     なお、江戸時代の徳島県阿南市大田井産火打石については、風化面(自然面)は ほとんど見られず、製作技法に違い(素材とする石材の大きさ等)がある可能性が 高い。

    (2)江戸時代における大田井火打石の流通
     和歌山城下町の江戸時代にみられるチャート製火打石の産地として、徳島県阿南 市大田井を考えることができ(第6図)(註27)、大田井産の火打石は寛政年間 (1789〜1801)に書かれたとされる横井希純『阿州奇事雑話』「所々奇石」の 項に「那賀郡大井村の内大田井の火打石色青く火能く出づ、海内の火打石第一品な るべし、京師。浪花。近国。西国辺皆此石を用い価貴し、・・・」などと記載され、 このことは地元の徳島城下町、海峡を隔てた明石城下町、また大坂城下町及び京都 へも特産品として拠点的に搬出された可能性が高い、品質の優れた広域流通品であ るといえる。特に、第3図のチャート火打石の重量分布で、10グラム以下のとこ ろに集中がみられることから、大田井産の火打石は小さな破片になってもなお用い ることができた品質の良いものであったと考えられる(註28)。

     また、大田井産火打石について、文化十二(1815)年に書かれたとされる藤原 之憲『阿波志』那賀郡「山川」・「土産」の項などから、江戸時代から明治時代ま で盛んに採掘され、徳島藩が盗掘や抜け売りを監視する「火打石御制道役」を設け、 京都や大坂方面に販売していたこと、「阿波の火打石」として知られていたことが 指摘されている(註29)。

     さらに、大田井産火打石の流通について(第6図)、徳島から明石海峡を渡り大 消費地である大坂城下町・京都へと向かう主要な流通路とは別に、火打石の拠点的 な分布から考えて、大田井火打石の集散地である徳島城下町から和歌山城下町への 紀淡海峡を渡る海路を用いたバイパス的な流通路の存在を想定した(註30)。

    (3)火打石にみる在地調達から広域流通品使用への転換
     和歌山平野における火打石の消長について、石英製が一般的な時期を第・期、チ ャート製火打石の出現から石英製火打石を凌駕するまでの時期を第・期、チャート 製火打石が卓越した時期を第・期、マッチの登場(註31)により日常生活必需品 としての役割を失った時期を第・期と定義し、それらの時期を第・期:16世紀以 前〜17世紀前半、第・期:17世紀中頃、第・期:17世紀後半〜19世紀後半、第 ・期:19世紀後半以降と設定した(第4図)。また、石英製火打石は残存する自然 面からみて、本来河原にある拳大の円礫を割り火打石としたものと考えられ、在地 調達品とみられる。また、大田井産の火打石は地元の徳島城下町、海峡を隔てた明 石城下町、また京都及び大坂城下町へも特産品として拠点的に搬出された、品質の 優れた広域流通品であるといえる。したがって、和歌山平野で出土する火打石は中 世以来の在地調達から、近世に至り広域流通品を用いることへの転換を果たしたも のといえよう。このことは近世の陶磁器など他の流通品の動向と火打石も連動した ものであると考えられ、火打石の転換期(第・期)はおおむね陶磁器など他の流通 品の転換期でもあると考えられる。すなわち、火打石の第・期は和歌山城下町を中 心とした和歌山平野での中世的な物資の調達から近世的な流通品を用いることへの 転換期と位置づけた(註32)。

     また、和歌山平野だけに留まらず(第5図)、江戸時代の徳島県阿南市大田井産 火打石の流通について、それ以前の産地を中心に分布していた在地調達の狭域流通 といえる火打石流通(中世的流通)、具体的には大和・河内への二上山サヌカイト を除く、京都への鞍馬産チャート、和歌山城下町の石英、徳島城下町の石英などに 対して、品質の良い特産品の大消費地への拠点的広域流通(近世的流通)への転換 時期についても、和歌山平野において設定した第・期(17世紀中頃)であると推 定することができる。

     しかし、そうはいっても、江戸時代に入っても奈良盆地のように中世的な二上山 サヌカイトの在地調達は続いており、ここで指摘した品質の良い特産品の大消費地 への拠点的広域流通(近世的流通)は江戸時代における都市的様相の流通と言い換 えるべきであり、農村部などは江戸時代においても中世的な在地調達を引き続き行 っていたものと理解できよう。


    おわりに
     以上、火打石について和歌山平野及び奈良盆地出土資料などの分析から、畿内と その周辺地域について、17世紀中頃を境に、それ以前の産地を中心に分布してい た在地調達の狭域流通といえる火打石流通(中世的流通)に加えて、品質の良い特 産品の大消費地への拠点的広域流通(近世的流通)が展開することを考察した。

     言い換えるならば、火打石について江戸時代の都市(大消費地)は品質の良い特 産品の拠点的広域流通品を用い、農村部などは中世と同様に産地を中心に分布して いた在地調達の狭域流通品を主として用いていたものと考えられる。少なくとも江 戸時代の畿内とその周辺地域においては、火打石の供給は価格の問題などからか、 二元的な流通形態をとっていたものと考えられよう。


註 記
  1.  高嶋幸男『火の道具』柏書房 1985年
  2.  山田清朝「火打金について」『中尾城跡』兵庫県教育委員会 1989年
  3.  渋澤敬三編『日本常民生活絵引』平凡社 1984年

     この『絵引』は12世紀以降の中世絵画から題材をとっているが、『鳥獣戯画』、 『一遍上人絵伝』、『当麻寺曼陀羅縁起』、『法然上人絵伝』など15絵図39件の 火打袋とされる表現がみられる。これらのことから、少なくとも、火花式発火具は 中世には一般的な日常生活品であったことは疑いないことと思われる。


  4.  註1文献に同じ。
  5.  小林 克「火打石」『染井』・ ─染井遺跡(日本郵船地区)発掘調査の記録 ─ 豊島区教育委員会 1990年
  6.  小林 克「江戸の火打石 ─出土資料の分析から─」『史叢』第50号 日本大 学史学会 1993年
  7.  水野裕之「火打石 ─名古屋市の出土品から─」『関西近世考古学研究』・  関西近世考古学研究会 1992年
  8.  註5文献に同じ。
  9.  註7文献に同じ。
  10.  北野隆亮「奈良盆地における火花式発火具 ─サヌカイト製火打石の認識と その評価─」『関西近世考古学研究』・ 関西近世考古学研究会 1992年
  11.  北野隆亮「火打石の地域流通とその製作技術」『関西近世考古学研究会会報』 第21号 関西近世考古学研究会 1993年
  12.  北野隆亮「和歌山平野における火打石の流通」『紀伊考古学研究』第2号 紀 伊考古学研究会 1999年
  13.  a 前田敬彦他「部屋の明かりと暖房」『鷺ノ森遺跡第3次発掘調査概報 ─城 下町和歌山・鍛冶屋町の調査─』 R和歌山市文化体育振興事業団 1992年
     b 前田敬彦「和歌山市鷺ノ森遺跡の調査 ─江戸時代の鍛冶屋町─」『考古学ジ ャーナル』第356号 1993年
  14.  註12文献に同じ。
  15.  鈴木秀典氏の御教示による。
  16.  第2図に示した実測図の出典を以下に示す。
     第2図1:a 『中野遺跡第2次発掘調査概報』 R和歌山市文化体育振興事業団  1998年
     第2図2:b 『太田・黒田遺跡第26次発掘調査概報』 R和歌山市文化体育振興 事業団 1995年
     第2図3:c 『山口遺跡第6次発掘調査概報』 R和歌山市文化体育振興事業団  1999年
     第2図4・5:d 『秋月遺跡第6次発掘調査概報』 R和歌山市文化体育振興事業 団 1998年
     第2図6:e 『根来寺坊院跡 ─県道泉佐野岩出線道路改良工事に伴う根来工区 発掘調査報告書』 R和歌山県文化財センター 1997年

  17.  註12文献から引用、要約した。
  18.  註16a文献に同じ。
  19.  註16b文献に同じ。
  20.  実見資料。第17次調査で石英製8点とチャート製1点が出土している。
  21.  註16d文献に同じ。
  22.  実見資料。第6次調査でチャート製1点、第7次調査で石英製3点とチャート製 1点が出土している。
  23.  第5図に示した実測図の出典を以下に示す。
     第5図7:a 嶋谷和彦他「宿院町東4丁SKT14地点・調教寺跡」『堺市文化財調 査報告』第20集 堺市教育委員会 1984年
     なお、堺市埋蔵文化財センター嶋谷和彦氏の御教示を得た。
     第5図8:b 石井清司他「弓田遺跡発掘調査概要」『京都府遺跡調査概報』第64 集 R京都府埋蔵文化財調査研究センター 1995年
     なお、同センター森島康雄氏の御教示を得た。当資料以外にも聚楽第跡からもチ ャート製火打石の出土報告例がある。
     第5図9・10:c 有本雅己「火打ち石」『金剛寺遺跡発掘調査概報』田原本町教 育委員会 1988年
  24.  註10文献に同じ。
  25.  註12文献に同じ。
  26.  註11文献に同じ。
  27.  真野 修「土佐・阿波の火打道具調査メモ」『民具集積』第4号 四国民具研 究会 1998年
  28.  註12文献に同じ。
  29.  註27文献に同じ。
  30.  註12文献に同じ。
  31.  註7文献参照。マッチは明治時代に製法が伝えられ、明治8(1875)年に国 産化された後、急速に普及したものである。
  32.  註12文献に同じ。
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