掲載論文 2



和歌山平野における火打石の流通

北野 隆亮


(図版はもうしばらくお待ち下さい)

  1. はじめに
     火打石とは、火打金との打撃により火花を出して発火させる発火具に用いられた硬い石の ことである。このような発火具はその発火方法から火花式発火具と呼ばれるものである。発 火具には他に弥生時代から使用されたとされる摩擦式発火具もある(註1)が、火花式発火具 は奈良時代に出現した発火法であるとされ(註2)、中世・近世を通じて発火具の主体を占め たものである。

     火花式発火具は火打石・火打金の他、火花を受ける火口、以上の3点を入れて持ち歩く火 打袋(註3)、台所などでこれらを保管するための火口箱(註4)などで構成される。

     火打石は地域により異なった種類の石材を用いることが指摘されており、(註5)近畿南部 地域での火打石の材質による地域色を予察し、和歌山県北部地域をチャートと石英が共存す ることからチャート・石英領域と設定していた。(註6)

     和歌山県下において火打石の出土は、1992年に和歌山市文化体育振興事業団によって実 施された鷺ノ森遺跡第3次調査(註7)において初めて確認され、江戸時代の火打石として注目され始めたものである。鷺ノ森遺跡は和歌山城下町遺跡のなかでも町屋の部分にあたり、中世末期に真言宗の道場として開かれた鷺森(雑賀)御坊に由来する本願寺跡にも相当する。現在では浄土真宗西本願寺派の鷺森別院が遺跡の中心部分を占めるが、第3次調査は鷺森別院の南側で遺跡の南縁部で実施されたものである。

     その後、和歌山城(天守から二の丸跡他)及び和歌山城跡(三の丸跡他)、鷺ノ森遺跡(城下町・町屋部分の一部)など和歌山城下町遺跡を中心にした埋蔵文化財発掘調査において出土例が増加し、ある程度の分析に耐えうる資料数となったため、本稿ではこれらの和歌山平野における火打石の実態についての整理を行うものである。なお、和歌山平野において、火打石と共に火花式発火具を構成する火打金については出土例を確認することはできなかった。


  2. 和歌山平野における火打石出土遺跡
     和歌山平野において、火打石は史跡和歌山城(天守から二の丸)及び和歌山城跡(三の丸跡)、鷺ノ森遺跡(城下町・町屋部分の一部)など和歌山城下町遺跡を中心にした和歌山平野内の13遺跡19例で合計498点の出土を確認した(第1図)。

     出土した火打石は石英製とチャート製のものの2種類の石材を素材としたものである。

     和歌山平野において火打石の出土した遺跡のなかで、最も北の例は府中・遺跡(3)で、 西は中野遺跡出土例(1)、東は山口遺跡(5)、南は神前遺跡(12)に出土例がある。以 上、火打石の出土が確認される遺跡は和歌山平野一円に分布範囲をもち、出土量から見た場合は特に和歌山城下町(7〜9)に集中する点を指摘することができる。

     なお、和歌山平野以外に紀ノ川を河口から約30・遡った紀ノ川右岸に立地する根来寺坊 院跡遺跡周辺にも出土例(6)と表面採取例(註21)が各1例みられ、対岸の紀ノ川左岸にもほぼ同じ距離に立地する奥山田遺跡(13)に出土例がある。

     さて、遺跡の性格を見た場合、和歌山城下町の出土が多く、その中でも特に鍛冶屋町に相当する鷺ノ森遺跡第3次調査地点の出土量が群を抜いている。このことは、鍛冶に用いた火を火花式発火具によって得ていたことを示唆するものであるといえる。大坂の住友銅吹所跡からは火打石が全く出土しないこと(註22)と対照的である。また、大溝で区画された館跡と考えられる中野遺跡(1)、山口遺跡(5)、太田・黒田遺跡(10)、秋月遺跡(11)、神前遺跡(12)での出土確認は一般的な館跡での日常的な生活必需品としての火花式発火具の普及を示しているものと考えられる。


  3. 出土した火打石の観察
     和歌山平野で出土する火打石は石英製とチャート製のものの2種類あるが、報告書に掲載された例を引用し(註23)、それぞれの特徴をみてゆくこととする。報告例は石英製4例(第2図1〜4)、チャート製2例(第2図5、6)である。以下それぞれについて観察を加える。

     石英製火打石について、1・2に残存ずる自然面からみて、本来河原周辺にある拳大の円礫を割り火打石としたものと考えられる。よって、その形状は半球形や方柱形など多様性を示し、形状そのものについてのまとまりはないように思える。チャート製についても形状についてのまとまりは見いだし難いが、自然面を観察できる例が非常に少ない点を指摘することができる。また、石英製火打石は表面観察により打撃痕が側縁部全周及び稜線上にまで及ぶもの(1、2)と打撃痕が側縁部全周のみにみられるもの(3)、側縁部の一部にのみみられるもの(4)に分けることができる。チャート製についても打撃痕が側縁部全周及び稜線上にまで及ぶもの(6)と側縁部全周のみにみられるもの(5)がある。このことは火打石廃棄時の使用状況を反映するものと考えられる。

     次に、大きさと重さであるが、遺構出土品あるいは時期の明確な遺物包含層出土の資料から石英製17点、チャート製15点を抽出し計測を行った(第1表)。大きさの表現は最大長を長辺とし、それと直交する軸線で最長値を短辺、最短値を厚さとした。

     さて、大きさと重量について計測の結果をまとめるならば、石英製火打石は長辺2.1〜6.8・、短辺1.4〜4.4・、厚さ0.8〜3.6・、重量3.4〜110_Kの範囲であり、チャート製火打石は長辺1.0〜5.4・、短辺0.7〜4.7・、厚さ0.7〜3.7・、重量1_K弱〜62_Kの範囲であることが明らかとなった。これらの計測値のなかでも特に値が集中する範囲は、石英製火打石は大きさでは長辺3.4〜5.0・、短辺2.4〜3.1・と長辺4.2〜5.3・、短辺3.7〜4.4・の二つの範囲であり、厚さは2.0〜3.0・に集中する。重量は10_K以下、20〜30_K、40〜50_K(第3図)に小さなピークをもつ。チャート製火打石では、大きさは長辺1.6〜2.6・、短辺0.9〜2.3・と長辺5.1〜5.4・、短辺4.3〜4.7・の二つの範囲に集中がみられ、厚さは0.5〜1.3・である。重量は1_K弱〜10_Kの範囲(第3図)に特に集中する状況がみられる。

     以上、和歌山平野における火打石の特徴を観察したが、大きさ、重量共に片手で負担無く持てる範囲で収まり、典型的なサイズは石英製、チャート製共に集中する計測値の範囲であるといえよう。しかし、火打石は現在においても一般に角がとれてしまうと2〜3個に打ち割り新たな角を作り再使用されることが知られ(註24)、出土資料の火打石についても本来的には一定の大きさであったものが使用を繰り返した結果投棄され、現在みられる形状となったものと考えられる。また、出土例のなかに使用途中に誤って投棄されたと考えられるものも一定量存在する。

     なお、火打石の大きさ及び重量の整理について、第1表以外の出土層位の不明な資料についても測定値等を補足的に参考とした。


  4. 火打石の使用時期について
     和歌山平野における石英製及びチャート製火打石について、その使用された時期を出土遺構から共伴した陶磁器などの年代観から推定することとする。まず、室町時代の資料と考えられるものに中野遺跡第1次調査中世大溝SD-1出土資料(註25)と太田・黒田遺跡第26次調査中世大溝SD-1出土資料(註26)がある。2例とも石英製の火打石である。

     まず、最も古い時期のものと考えられる中野遺跡第1次調査中世大溝SD-1出土例につい て説明する。SD-1出土の石英製火打石(第2図1)は残存ずる自然面からみて、本来河原に ある拳大の円礫を割り火打石としたものと考えられ、打撃痕が側縁部全周及び稜線上にまで及ぶものである。SD-1は中国製染付(第4図7〜18)や備前焼すり鉢(第4図23)、瀬戸美濃系天目茶碗(第4図20〜22)、鉛製鉄砲玉など室町時代後期の遺物を大量に出土した遺構であり、その立地及び出土遺物の検討から天正五(1577)年に織田信長によって攻略された雑賀衆の中野城であることが推定されている(註27)。

     次に、太田・黒田遺跡第26次調査中世大溝SD-1出土の石英製火打石(第2図2)について 説明する。この例についても中野遺跡例と同様の観察所見がみられるものである。第26次 調査SD-1は中国製白磁(第5図24)、瀬戸美濃系灰釉皿(第5図25)、体部に格子タタキ を有する土鍋(第5図26)、鉛製鉄砲玉など室町時代後期の遺物を出土するものである。太田・黒田遺跡については豊臣秀吉によって天正十三(1585)年に攻略されたとされる太田城の推定地とも重複しており、第26次調査中世大溝SD-1は太田城に関する遺構である可能性が高いとみられる。

     以上の2例は室町時代後期の例であるが、江戸時代の出土例について、江戸時代前期の資料に和歌山城第17次調査C-6・7区第2・3層出土例(註28)、中期の資料に秋月遺跡SD-3出土例(註29)、後期の資料に和歌山城跡第6次調査石垣裏込め出土例(註30)をあげることができる。

     まず、江戸時代前期の資料と考えられる和歌山城第17次調査C-7区第2・3層出土例を説 明する。出土した火打石は石英製8点とチャート製1点の合計9点である(第1表)。C-7区 第2・3層の出土遺物は中国製染付皿、備前焼大甕・すり鉢、丹波焼すり鉢、瀬戸美濃系天 目茶碗・灰釉皿・志野皿、肥前系陶磁器の胎土目唐津皿・砂目唐津皿、体部外面に平行タタキを残す土鍋、違鷹羽紋軒丸瓦などである。これらの遺物からC-7区第2・3層の所属年代を17世紀前半と考えることができる。この資料の火打石は9点中8点が石英製であるが、1点みられるチャート製火打石が現在知られる和歌山平野におけるチャート製火打石の初現例であるといえる。

     次に、江戸時代中期の資料とみられる秋月遺跡第6次調査SD-3出土例(第6図)を説明す る。出土した火打石はチャート製1点である。出土遺物は肥前系陶磁器の砂目唐津皿(28)など一部江戸時代初頭のものを含むが、肥前系染付碗(29)や堺焼すり鉢(36)などから考えて18世紀代の所属時期であると考えられる。

     江戸時代後期の資料では、和歌山城跡第6次調査石垣裏込め出土例がある。出土した火打石はチャート製1点である。共伴する陶磁器などの遺物から江戸時代後期のものと考えられる。

     以上、遺構出土品あるいは時期の明確な遺物包含層出土の資料を用いて、和歌山平野において室町時代後期から江戸時代を通じて火打石が出土することを概観した。


  5. 和歌山平野における火打石の変遷とその流通
     前項において、火打石が室町時代後期から江戸時代を通じて和歌山平野において一般的に用いられていたことを出土資料から説明した。さて、室町時代後期においては石英製火打石が一般的であり、その傾向は江戸時代前期まで続く。しかし、17世紀前半と考えられる和歌山城第17次調査出土資料中にチャート製火打石が1点みられること、18世紀代と考えられる秋月遺跡第6次調査例やそれより新しい資料である和歌山城跡第6次調査例などはチャート製火打石が主体となっていること(註31)などから、17世紀中頃に石英製からチャート製への主体となる火打石の転換があったものと考えられる(第7図)。

     以上のことから、火打石の消長について、石英製が一般的な時期を第・期、チャート製火打石の出現から石英製火打石を凌駕するまでの時期を第・期、チャート製火打石が卓越した時期を第・期、マッチの登場により日常生活必需品としての役割を失った時期を第・期と定義し、それらの時期を第・期:16世紀以前〜17世紀初頭、第・期:17世紀前半〜後半、第 ・期:17世紀後半〜19世紀後半、第・期:19世紀後半以降と設定することができる。

    また、石英製火打石は残存する自然面からみて、本来河原にある拳大の円礫を割り火打石としたものと考えられ、在地調達品(註32)とみられる。また、チャート製火打石の産地として、徳島県阿南市大田井(註33)を考えることができ、大田井産の火打石は地元の徳島城下町(註34)、海峡を隔てた明石城下町(註35)、また京都(註36)及び大坂城下町(註37)へも特産品として拠点的(註38)に搬出された可能性が高く、品質の優れた広域流通品であるといえる(註39)。したがって、和歌山平野で出土する火打石は中世以来の在地調達から、近世に至り広域流通品を用いることへの転換を果たしたものといえよう。このことは近世の陶磁器など他の流通品の動向と火打石も連動したものであると考えられ、火打石の転換期(第・期)はおおむね陶磁器など他の流通品の転換期でもあると考えられる。すなわち、火打石の第・期は和歌山城下町を中心とした和歌山平野での中世的な物資の調達から近世的な流通品を用いることへの転換期と位置づけることができる。


  6. おわりに
     以上、和歌山平野における火打石について、その分布が平野全域に及んでいること、少なくとも室町時代から江戸時代を通じて用いられていること、また、火打石の大きさと重さの範囲及び典型的なサイズを明らかにした。そして、石英製からチャート製への火打石の転換があり、それらの転換段階を第・期から第・期に区分した。特に、第・期について中世以来の在地調達から、近世に至り広域流通品を用いることへの転換期ととらえ、和歌山城下町を中心とした和歌山平野での中世的な物資の調達から近世的な流通品を用いることへの転換期と位置づけた。

     また、江戸時代の火打石の流通について、徳島から明石海峡を渡り大消費地である大坂城下町・京都へと向かう主要な流通路とは別に、火打石の拠点的な分布から考えて、大田井火打石の集散地である徳島城下町から和歌山城下町への紀淡海峡を渡る海路を用いたバイパス的な流通路の存在を想定したい。

     文末ではありますが、本稿を纏めるにあたり、真野 修、森 毅、土井孝之、嶋谷和彦、 前田敬彦、森島康雄、北条芳隆の諸氏に有益な御教示をいただいた。ここに記して感謝の意を表します。


註 記
  1.  高嶋幸男『火の道具』柏書房 1985年
  2.  山田清朝「火打金について」『中尾城跡』兵庫県教育委員会 1989年
  3.  この絵引は12世紀以降の中世絵画から題材をとっているが、『鳥獣戯画』、『一遍上人絵伝』、『当麻寺曼 陀羅縁起』、『法然 上人絵伝』など15絵図39件の火打袋とされる表現がみられる。少なくとも、火花式発火具は中世には一 般的な日常生活品であっ たことは疑いないであろう。
  4.  『都市生活史事典』柏書房 1991年
     この事典の「江戸の台所道具」の項に火打金などと共に火口箱がみられる。
  5.  a 小林 克「火打石」『染井』・ ─染井遺跡(日本郵船地区)発掘調査の記録─ 豊島区教育委員会  1990年
     b 小林 克「江戸の火打石 ─出土資料の分析から─」『史叢』第50号 日本大学史学会 1993年
     c 水野裕之「火打石 ─名古屋市の出土品から─」『関西近世考古学研究』・ 関西近世考古学研究会  1992年
     d 北野隆亮「奈良盆地における火花式発火具 ─サヌカイト製火打石の認識とその評価─」『関西近世 考古学研究』・ 関西近 世考古学研究会 1992年
     e 北野隆亮「火打石の地域流通とその製作技術」『関西近世考古学研究会会報』第21号 関西近世考古 学研究会 1993年
  6.  註5文献dに同じ
  7.  a 前田敬彦他「部屋の明かりと暖房」『鷺ノ森遺跡第3次発掘調査概報 ─城下町和歌山・鍛冶屋町の 調査─』 R和歌山市文 化体育振興事業団 1992年
     b 前田敬彦「和歌山市鷺ノ森遺跡の調査 ─江戸時代の鍛冶屋町─」『考古学ジャーナル』第356号  1993年

  8.  『中野遺跡第2次発掘調査概報』 R和歌山市文化体育振興事業団 1998年
  9.  和歌山県文化財センター・土井孝之氏の御教示による。
  10.  『府中・遺跡第2次発掘調査概報』 R和歌山市文化体育振興事業団 1996年
  11.  和歌山県文化財センター・土井孝之氏のご配慮により、資料実見の機会を得た。
  12.  『山口遺跡第6次発掘調査概報』 R和歌山市文化体育振興事業団 1999年
  13.  『根来寺坊院跡 ─県道泉佐野岩出線道路改良工事に伴う根来工区発掘調査報告書』 R和歌山県文 化財センター 1997年
     なお、和歌山県文化財センター・土井孝之氏のご配慮により、根来寺坊院跡周辺東坂本表採品(チャー ト製火打石1点)を含め た資料実見の機会を得た。

  14.  第3次調査資料については註7文献aを参照した。また、和歌山市立博物館・前田敬彦氏のご配慮に より、資料実見の機会を得 た。
     栗本美香「鷺ノ森遺跡第6次調査」『和歌山市埋蔵文化財発掘調査年報5 ─平成7(1995)年度─』 R 和歌山市文化体育振興 事業団 1998年
  15.  『史跡和歌山城石垣保存修理報告書』 和歌山市産業部・和歌山城管理事務所 1999年
  16.  実見資料。第6次調査でチャート製1点、第7次調査で石英製3点とチャート製1点が出土してい る。
  17.  『太田・黒田遺跡第26次発掘調査概報』 R和歌山市文化体育振興事業団 1995年  太田・黒田遺跡はこの他、第36次調査で石英製1点とチャート製3点、第37次調査で石英製2点と チャート製1点が出土している ことを確認した。
  18.  『秋月遺跡第6次発掘調査概報』 R和歌山市文化体育振興事業団 1998年
  19.  実見資料。第1次調査で石英製1点とチャート製2点、第3次調査でチャート製1点が出土してい る。
  20.  前田敬彦「奥山田遺跡第3次調査」『和歌山市埋蔵文化財発掘調査年報1 ─昭和63(1988)・平成 元(1989)年度─』 R 和歌山市文化体育振興事業団 1992年
     なお、和歌山市立博物館・前田敬彦氏のご配慮により、資料実見の機会を得た。
     奥山田遺跡の火打石はチャート製1点であるが、黒色のもので他の青色の例とは異なる。故に第1図の 付表には丸カッコ内で示し た。

  21.  和歌山県文化財センター・土井孝之氏が根来寺坊院跡周辺の東坂本でチャート製火打石を1点表採さ れている。
  22.  鈴木秀典氏の御教示による。
  23.  第2図に示した実測図の出典を以下に示す。
     1:註8文献、2:註17文献、3:註12文献、4・5:註18文献、6:註13文献
  24.  註5文献dに指摘した。
  25.  註8文献に同じ
  26.  註17文献に同じ
     北野隆亮「中野遺跡の出土遺物について」『中野遺跡第2次発掘調査概報』 R和歌山市文化体育振 興事業団 1998年

  27.  註15文献に同じ
  28.  註18文献に同じ
  29.  註16に同じ
  30.  註7文献a及び前田敬彦氏の御教示によれば、大量の火打石を出土した鷺ノ森遺跡第3次調査におい ても江戸時代前期頃の生活 面では石英製が優勢であったものが、江戸時代中期以降にはチャート製が主流になっていく傾向がみられ るとのことである。
  31.  中野遺跡や太田・黒田遺跡出土資料から見て石英製火打石は本来河原にある拳大の円礫を割り火打石 としたものと考えたが、 和歌山城第17次調査出土資料の石英製火打石は8点中5点に結晶片岩の付着が見られた。このことから、 本例は周辺の岩山から割 石として石英を得たものと考えられる。
  32.  真野 修「土佐・阿波の火打道具調査メモ」『民具集積』第4号 四国民具研究会 1998年
  33.  徳島大学埋蔵文化財調査室が行った徳島市堂之島遺跡の調査において江戸時代の整地土層から、在地 産とみられる石英製及び 大田井産とみられるチャート製の火打石が出土している。
     徳島大学北條芳隆氏のご配慮により、資料実見の機会を得た。
  34.  註33文献に同じ
  35.  京都府埋蔵文化財調査研究センター・森島康雄氏の御教示によれば、最近京都で確認される火打石は 透明感のある青いチャー トであり、大田井産のものである可能性が高い。
  36.  大阪市文化財協会・森 毅氏の御教示によれば、最近大坂城下町で確認される火打石は透明感のある 青いチャートであり、大 田井産のものである可能性が高い。
  37.  堺市教育委員会・嶋谷和彦氏の御教示によれば、最近堺市内で確認される火打石はサヌカイト製が主 流であるそうである。未 確認である可能性も残るが、このことから大田井産の火打石は特定の消費地向けに流通していた可能性を 考えることができる。な お、同じくサヌカイト製が主流の奈良盆地にも大田井産のものであるとみられるチャート製火打石は少量 ながら確認している。こ れらのことは、時期及び地域の相違により火打石の流通が従来考えられていた単純な様相ではなく、より 複雑な状況を示すことを 示唆している。
  38.  チャート製火打石の品質が良いことは、小さな破片になってもなお使用されたことから推測すること ができる(第3図参照)。
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