掲載論文 4



火打石研究の現状と今後
ー近世遺跡出土の火打石からの追求ー

小林克・松崎亜砂子


 

(図版はもうしばらくお待ち下さい)

  1. はじめに
    火起こしの方法には、摩擦式と打撃式が存在する。日本においては摩擦式の発火具である火切板と火切棒が弥生時代には多数出土しており、打撃式よりも摩擦式が古くから確認されている。打撃式発火には通常、火打石と火打金が必要であり、これらの出土は古墳時代後半には確認され、以後各時期に渡って発見されている。中世都市鎌倉でも火打石と火打金が多く出土しているが、摩擦式発火具である火切板も検出されており、この事から中世都市鎌倉では摩擦式発火と打撃式発火が併存していたと考えられる。ところが、近世都市江戸では火打石と火打金は多数出土しているが、火切り板の出土は江戸時代初期だけに限られ、発見点数も極端に少ない。このような出土傾向から都市江戸に於いては打撃式発火方法が卓越していたと考えられる。では一体、近世の他都市や他地域、更に中世、古代では一体どのような発火方法が行われていたのであろうか。日本考古学が過去に於ける人間の生活復元を目指すなら、出土遺物から、より具体的に各地域、各都市での発火方法を、明らかにすべきであると考える。 本稿では火打石に焦点をあて、江戸の火打石研究の実例を提示する。その上で全国各地に存在した火打石の産地を明らかにし、近世遺跡出土の火打石とその生産地を明らかにする方法を提示する。更にこれを進める事により古代〜中世の火打石の実態を明らかにすることも可能となろう。なお、ここで言う火打石とは、打撃式発火に用いた、鉄と打ち合わすことにより火花を出すことのできる固い石を言う。

  2. 火打石研究略史
     小林克は江戸遺跡出土の火打石について、真砂遺跡の報告書で最初に分析した(注1)。引き続き小林の行った一連の研究で、江戸遺跡に於ける使用・消費のモデルを、第1図のように提示した(注2)。続いて、具体的に江戸遺跡から多く出土している、白色透明感のある火打石は、茨城県山方町諸沢村から産出したものが主体である事を明らかにした(注3)。
     都市江戸に於ける火打石の分析とほぼ平行して、名古屋、奈良田原本町、和歌山市内などから出土する火打石が発掘調査、分析され、これらの地域に於いて火打石生産と消費地である遺跡での使用の実態が明らかにされつつある(注4)。特に北野隆亮氏は関西地域での火打石の生産と流通のあり方について、18世紀中頃に、中世的生産から大規模な近世的生産へ移行するとし、代表的な生産地とその石材の流通について明らかにした(注5)。中京・関西地方での生産地としては岐阜養老渓谷の緑色チャート、奈良二上山のサヌカイト、京都鞍馬の黒色チャート、四国 の緑青色チャートなどが確認されている。
     このように火打石の研究は近世に於いて、いくつかの地域で始められているが、これらは極めて限られたもので、多くの地域、都市遺跡では火打石研究は未着手であり、その実態は不明である。

  3.  北青山遺跡出土火打石
       北青山遺跡は渋谷区に所在する遺跡で、1990年〜1991年に国連大学建設に伴う発掘調査が行われた、山城の国淀藩稲葉家の下屋敷跡である(注6)。本遺跡から出土した主な火打石は100点程である。ここで注目すべきは、接合事例が確認されたことと、関西方面から火打石が搬入されたことが確認された点である。
     接合事例は、第2図上部に示した5例である。この接合事例を観察すると、石が割られてから、再度稜線部分が打撃され、摩耗が進んでいる部分が多く確認された。これにより、小林が提示した火打石使用モデル(第1図)が証明されたと言えよう。つまりある大きさの石の表面が殆ど摩耗し、それを割り、新しく鋭利な稜線を作出し、再利用したため、接合する石の稜線が摩耗し、接合した資料の稜線部分に隙間が出来ていると考えられる。
     出土している火打石の主体は、白色で透明感のあるもので、第2図下部のM、N、P、Q以外は全て諸沢村タイプ(注7)のものである。第2図Mは長石、Nは青緑色のチャート、Pは黒色部分と透明部分のあるチャート、Qは頁岩である。今回、愛知県名古屋市、和歌山県和歌山市、奈良県田原本町出土の火打石を借用し、実際に比較する機会があった。その結果、Nは田原本町や和歌山市からも出土している徳島県阿南市大田井産出(注8)の火打石と同質で、Pは名古屋から出土している京都府鞍馬産出の火打石と同質であった。ここから、関西各地産出の火打石が都市江戸にもたらされていたことが分かる。また4は茶褐色のチャートであるが、周囲の稜線には火打石特有の摩耗が認められることから火打石として使用されていたことが分かる。

  4. 江戸の火打石の特徴
     以前分析したように、都市江戸とその周辺農村部(注9)では、白色で透明感のある諸沢村タイプの火打石が主体的に出土している。しかし前述のように北青山遺跡では関西方面産出の火打石が出土しており、また渋谷区恵比寿遺跡では黒曜石や黒色のチャート質の石が、火打石として利用されていたことが判明している(注10)。また北青山遺跡をはじめとして多くの江戸遺跡で明らかに諸沢村タイプのものとは異なった白色の透明感のない長石質の火打石が出土している。このように都市江戸の火打石は諸沢村のものを主体としながらも、日本各地の火打石が持ち込まれていたことが予想される。また諸沢村タイプの火打石は、中世都市鎌倉や古代千葉県八千代市井戸向遺跡(注11)からも出土が確認されており、関東地域に於いては諸沢村タイプの火打石が古代から流通していた可能性がある。

  5. 火打石の産出
     火打石の産出については以前、聞き取りを行ったが、今回実際の掘り出し作業を、江戸東京博物館で映像記録として撮影した。実際に火打石を掘り出す作業とその道具、工程を、映像として記録したが、これらは掘り出された後、荒割りして東京の吉井本家に卸す。細貝寛さんという以前から火打石の掘り出しを行っていた方が、約10年ぶりに掘り出したものである。第3図は細貝氏自邸の裏山にある今回掘り出しを行った採掘坑の略測図である。この採掘坑の他にも細貝氏の裏山には他にも何カ所か火打石の採掘坑が存在しているが、今回の採掘坑は江戸時代から続いており、結果的に大規模になっている。石の摂理が斜めに入り、採掘坑も斜めに深く続いている。このような映像記録は極めて貴重であるが、日本国内の他地域でも以前は掘り出し作業が行われていた可能性が考えられ、各地域での火打石産出地域での調査の着手が待たれる。

  6. 火打石研究の方法とその意義
     以上のように江戸・東京地域での火打石研究を紹介したが、江戸時代には明らかに日本各地で火打石が生産していたはずで、日本各地域での火打石の実体解明が待たれる。火打石が近世遺跡からどのように出土するのか、さらにはその産出地の状況を明らかにすることにより、近世における発火具の実態が、具体的に明らかにされよう。このような調査の前提として、明治初期に於ける日本全国の火打石産出地の記録(注11)が有効である。本文献には全国各地の具体的な火打石産出地の地名が記録されている。これを元に現地を調査し、更にその地域での聞き取り調査を実施すべきである。火打石やその採掘坑を探り出したなら、火打石のサンプリングを行い、現状を調査記録として報告する。あとは各地域での近世遺跡の発掘時に注意深く石片を観察する。ここでは江戸遺跡出土事例にあるように各種のチャートや黒曜石、サヌカイトでさえも火打石となることを注意して見て欲しい。必ず各時代や都市を含めた様々な遺跡から火打石が検出されるはずである。
     上記のように近世を第一歩として調査・研究を進めれば、その系譜や対比の中で、中世・古代の各種の遺構、遺跡からも火打石が確認されてこよう。北野氏が指摘しているように中世ではより身近な河原石が火打石として利用されていた可能性が高い。つまり縦穴住居から出土する非定形的な石片も火打石の可能性があるのである。火打石を追求していく段階としては、近世の火打石を確認した後、時代を下がって確認していく手順が素直なものとなろう。。ここで火打石を見分けるポイントは、特徴的な稜線の摩耗である。
     各時代、各地域に於ける発火方法を遺跡出土資料から明らかにすると同時にその生産遺跡と石材の流通を明らかにすることにより、土器・陶磁器研究以上に生活に必要な道具であり、消費する速度の速い火打石から当時の社会、生活のあり方に迫っていくことが出来ると考える。全国各地で発掘調査に携わる考古学者が火打石の解明に取り組み、日本の発火具のあり方を明らかにして行く事が出来たらと考える。


註 記
  1. 小林克1987「火打石」『真砂遺跡』
  2. 小林克1989「東遺跡・上ノ台遺跡の火打石」『東・上ノ台・道合久保前』川口市遺跡  調査会報告第13集
  3. 小林克1993「江戸の火打石−出土資料の分析から」『史叢』50号 
  4. 水野裕之1992「火打石ー出土資料の分析からー」『関西近世考古学研究』V
    、   北野隆亮1992「奈良盆地における火花式発火具−サヌカイト製火打石の認識とその 評価」などが上げられる。
  5. 北野隆亮1999「和歌山平野における火打石の流通」『紀伊考古学研究』第2号   北野隆亮2000「畿内とその周辺地域における火打石の流通」
  6. 岡本康嗣他1997『北青山遺跡(山城国淀藩稲葉家下屋敷)』
    今回は紙面の都合もあり全てを紹介できない。別途全資料を分析、紹介する予定である。
  7. 江戸遺跡から出土しているこれと類似した火打石が全て、諸沢村産出ではなく、その近隣のものも多く含まれると予想される。ここでは一応、現状で区別できるものとして「諸沢タイプ」と呼ぶ。
  8. 前述注4,5より。
  9. 小林克1993「火打石」『恵比寿ー旧サッポロビール恵比寿工場地区発掘調査報告書』
  10. 小林克他1995『あかりの今昔』でいずれも紹介している。具体的な報告書は同書を参照していただきたい。井戸向遺跡から出土している火打石は諸沢タイプよりも若干透明感が少ないようである。
  11. 明治文献資料刊行会 『明治前期産業発達史資料』「明治十年内国勧業博覧会出典目録」などに各地の産地が掲載されている。またこれらは大西雅広氏が1998年「上州吉井の火打金と火打石」『考古学ジャーナル』417に一部を照会している。
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