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これ以前の日記

きまぐれ日記


2009年2月7日

「2・7」

4年ぶりに同人誌を出した。今回は漫画ではなく、文章のみの文庫本。ジャンル別けするとしたら、

「作文」でしょうか。内容は2007年2月7日、私が、精神病の外国人から暴力を受け、全治3ヵ月の

怪我をした傷害事件の手記。発行数は少ない。まだいくらかあるので、読みたいという人がいれば

TOPのアドレスへ一報いただければ、お送りする。(本代、送料無料)

実話なので、それなりに面白いと思う、多分。


2005年10月2日

「マダラの手」

日本人の多くがそうであるように、私は右手にペンを持って字を書く。右手に箸を持って食事をする。

だけど時々「あなたはギッチョか?」と訊かれることがある。その時私は左手で鋏を使っていたり

ボールを投げたり、包丁を使っていたりする。これは他人から指摘されるまで、自分では全く気がつかない

ことだった。よくよく考えてみると、一部の動作を除いてほとんどが左という奇妙な手の使い方をしていた。

これに気付いたのが何時のことだったか、私はもう覚えていない。こういう手の使い方をする人間は

ほぼ例外無く左利きを直された人間である。ずっと忘れていたけれど、私にも左利きを直された記憶が

あった。染みのように残る気持ち悪い記憶だ。多分死ぬまで忘れない。忘れることは出来ないと思う。

昔は無理にでも直した左利きは、今ではほとんど直さないときく。個性尊重、精神的影響、社会が寛容になった?

とは言え、道具は相変わらず右利き用、少数左利きはほとんど無視の社会。あれもこれもそれも全部が

右利き用。使いにくいと文句を言っても仕方がないので、工夫しながら使い、何とか慣れていくしかない現実。

結果として道具による矯正と、右を使えという矯正で、利き手はグチャグチャ。

左利き用の鋏を買ってきて使ったら、全く使えない代物だった。右利き用の鋏を無理に使うことに

慣れてしまったのだ。悲しいような笑えるような。無理が通ると道理が引っ込むらしい。

この状態をネットで「私はマダラギッチョ」と称した人が居た。あなたは私の数少ない仲間。腹が立つけれど

何処にも怒りのぶつけようが無い。右利き社会は目には見えない。だから、この日記で毒を吐くことにする。

何の疑問を感じる事も無い純粋な右利き人間を見ていると腹が立つ。左手で字を書いたり

箸を使っている人間を見ると、今でも動揺する。自分が奪われたものを目の前で見せられるのが辛い。

利き手はだいたい3歳くらいからハッキリしてくるときいたことがある。この頃にうまく右に誘導していけば

完全に右利きに変えることが出来る!というのは間違い。そんな簡単な話じゃない。実際には直したところ

だけしか右にならない。マダラになるだけ。完璧にしたければ、左手を切り落としてしまえ!

無理にやると人間が歪む。これは精神的剥奪行為以外の何ものでもない。

多くの人にとって右手を使うことが自然であるように、左利きの人間は左を使うことが自然なのだ。

けれど圧倒的多数派を占める右利き社会では、左一本槍はなかなか通用しない面もある。

字の筆順は右手用である。(習字は悲惨) ネジ回しも、自動改札も、パソコンのキーボードも、マウスも、急須も

挙げればキリがない位、右利きの為の社会である。左利きの人間にとってとても住みにくい世界

のように思える。だけど、我々は結構うまくやっているので放っておいてくれて良い。

抵抗と妥協を繰り返しつつ、一番良い方法を見つけている。皆と同じ方が楽は楽だけど

少数派には多数派とはまた違った世界が見えている。悪いことばかりではない。

 

私は絵を描く時に手を使い分けている。

左手は大雑把なカタチを捉えるのに向いている。(ラフの手)

右手は細かいカタチを捉えるのに向いている。(清書の手)

矯正の影響下でこのカタチに落ち着く。右利き社会、言いかえると右手を酷使する社会。


 

2005年8月10日

「ヤモリの出勤」

今年は蜂が巣を作りに来ないなあ・・・と思っていたら(気付かないだけか?)

台所の窓にはり付いたトカゲらしき影を発見。裏は白いんだね・・・・。

どうやらヤモリのよう。灯りに誘われてやってきた虫を食べている。毎日やって来る。

そう、毎日出勤の如く同じ時間帯にやって来る。思わず毎日観察。小さな虫から大きな虫まで

貪欲に食べる!自分の頭くらいの大きさの蛾を、頭をフリフリ一生懸命呑み込む!

これは見ていて結構エグかった・・・・。ちょっと怖いよ、ヤモリ。

いつもはほとんど動かないヤモリだけど、餌を捕まえる時は素早いこと!

沢山食べるので、傍目にも腹が膨らんでくるのがわかる。体もどんどん大きくなる。

ヤモリはどこまで大きくなるのだろう。暫く見ない間にまた大きくなっていた。

最近は毎日来てくれない。ガラスにはり付かないと見えないので、視界の外にいつも

居るのかも?ヤモリがやって来ると何だか嬉しい。「ヤモリ、キターーーー♪♪♪」

物言わぬ生き物をじーっと見ているのは何だか楽しい。


2005年3月27日

「蜂蜜と花粉症」

今年もやってきました、花粉症の季節!!去年の猛暑の影響で、非常に量が多い!!!

との情報が流れ、今年はどうしたものか・・・・と非常に心配していました。

そして現在、やはり飛んでいる花粉の量は非常に多いらしく、街中、電車の中など

もう右を見ても左を見ても、マスク!マスク!マスク!・・・とかなり凄まじいものがあります。

マスクの売上もかなりのものでしょう。(メーカーは花粉を表彰したい位?)

私は毎年症状が出だすと医者に行き、薬を処方してもらいます。(薬代をケチっている。)

今年も暫く様子を見ていたのですが、何故か症状は非常に軽く、ほとんど出ない日も多いのです。

出ても、若干目が痒くなり、少しクシャミが出る程度。あまり後には引かないし。

回りには明らかに花粉症の症状が出ている人がいっぱい居るというのに・・・・。

どうしてだろう?現在服用している薬は無いし、何か生活に変化があっただろうか?

と、考えてみたら、ひとつ思い当たることがありました。半年程前から、毎日少しずつ

蜂蜜を食べる習慣がついていたのです。スーパーなどで安く売っている

水飴を加えた物ではなく、専門店で扱っている純粋蜂蜜です。ちょっとしたきっかけで

買い求め、とても美味しいので気に入ってしまったのです。本当に沢山の種類があるので

選ぶのもとても楽しいのです。毎日、ヨーグルトにスプーン一杯程度入れて食べていました。

(1匹の蜜蜂が一生かかって集める蜂蜜はわずかスプーン一杯だという。)

私は蜜蜂の一生分の蜂蜜を毎日食べ続けていたのです。

専門店の人の話によると、蜂蜜で花粉症対策というのはあまり期待出来ないのでは?

ということだったのですが、どうやら私には効いたようです。症状が出ていた頃は

ほとんど摂取していなかったのですから・・・。食べ物で花粉症対策というのは

商業主義の産物だろう・・・と正直信じていませんでした。薬に頼るか、花粉の無い

場所へ行くしかないだろうと思っていました。しかし、どうやら食生活によって

改善出来る可能性があるようです。体質などの個人差があるでしょうが・・・。

とりあえず、今は蜜蜂に感謝です。


 

2005年2月25日

「コンポーネント接続」

10年程使ったテレビデオがとうとう壊れた。ビデオの方は大分前に逝ってしまい

最近はテレビとしてのみ使っていたわけだけれど、こちらも逝ってしまった。

最初は横っ面をペシペシ叩いて何とか凌いでいたが、それも・・・・もう限界になった。

諦めて新しいテレビとVHSを購入。デッキの上に重いブラウン管のテレビを置くのは酷なので

13型液晶テレビにする。(スペースがあまり無いので)。新しいテレビとビデオと、1年ちょっと前に

買った小さなDVDプレイヤーを接続。ビデオやテレビの設定も終わり、テレビの取扱説明書を

見ていると、ある用語が目にとまる。それは「コンポーネント接続」。

映像信号を輝度信号(Y)と色差信号(Cb/Pb、Cr/Pr)の3つのコンポーネント(構成部分)に

分離して伝送する接続方法。ここで初めて知った事だけれど、カラーテレビの映像信号というのは

本来3つに別れているらしい。輝度信号は「明暗」、色差信号は「色」を表す信号。

白黒テレビは輝度信号のみだとか。

通常の接続は、黄・白・赤の3色に分かれたケーブルを使い、これをコンポジット接続という。

映像端子は1つのみで色は黄。白と赤は左右の音声端子。

映像信号は混合された状態で伝送される。これを最終的にテレビに出力するにはY/C分離という

手順が必要で、しかも一度混合された信号は完全に分離出来ず、この弊害は

クロスカラー(輪郭線近くに虹色のノイズが出る)、ドット妨害(輪郭線にボツボツとまとわりつくようなノイズ)

として現れる。技術的なことはよくわからないけれど、信号の混合と分離を繰り返すと画質が低下するらしい。

通常の接続でも特に問題は無いが、私はコンポーネント接続をDVDでやってみたい♪と思った。

この接続方法は映像端子が3つ、音声端子が左右2つで合計5つの端子になるらしい。多いな(^^;

しかし、現在ではこれを簡単にする為にD端子というケーブルが開発された。3つの映像端子をひとつにまとめて

接続出来るようにしたケーブル。ちなみにD端子のDはデジタルのことではないらしい。(アナログ接続)。

コネクターの形状がDの字のカタチをしているから、そういう名前が付いたとか。D規格?

テレビとDVDプレイヤーの取扱説明書で規格を確認して、ネットでケーブルの形状と値段の相場を調べて

D端子のケーブルを求めて電気屋へ!そこそこの値段の物を購入。コンポジット、コンポーネントを同時に

表示させてみると・・・・やっぱり違う。13型の小さなテレビでもその差は歴然。チラツキはほとんど無く

発色は鮮やかになり、画像は以前よりクッキリ。(輪郭線のギザギザが若干気になるが・・・)

気に入ったので、この接続方法でDVDは使うこと決定。

テレビの端子カバーを閉める。そしてDVDの端子カバーを閉めようとしたら・・・・閉まらない。

あらら、D端子のケーブルが太過ぎる(^^; まあ、3つひとまとめだし、仕方ないか。

でもこの端子気に入った!技術は進歩するものだなあ・・・。

 

今回の日記、映像関係に全く興味の無い人にはどうでもいい話だなあ(^^;

私も決して詳しくはないのだけれど、こういったものに対してアレルギーが無いので・・・・。

結構ワクワクしていたりして。


2005年2月10日

「幸せの話」

女は誰でも皆、結婚しなければならない。女は誰でも皆、子供を持たなければならない。

子供は・・・・そう、最低3人は産まなければならない。(結果的に1人の人口増加だから?)

家庭の主婦として、妻として、母として、人生をまっとうする事が、女の幸せというものである。

結婚しない女、結婚できない女、子供を持たない女、子供を持てない女は、決して幸せにはなれない。決して。

 

生前、祖母は私の顔を見る度にこの言葉を繰り返した。それこそ耳にタコが出来るくらい・・・。

これは、そのような教育を受け、そのことに何の疑問も持たずに育ち大人になり

結婚して、子供を持ち、歳を重ね、出た言葉なのか?

それとも、様々な疑問や葛藤をしつつ達した結論なのか?・・・は判らない。本人既に死んでいるので。

祖母にとっての幸せとはたったひとつのカタチのものであり、それ以外は受け入れられなかったものらしい。

まあ、時代が時代であったし、こんな話をしても始まらない・・・・か。

佐藤愛子さんのエッセイに書いてあったのだけど(かなりうろ覚え)

娘には幸せはたったひとつのカタチではないと教えたい。幸せはたったひとつのカタチしか

ないと思い込んだところから不幸は始まる。何故なら、そのたったひとつのカタチの幸せに

自分をはめ込もうとして、無駄な足掻きをするからだ・・・・・。

辞書で「幸せ」を調べる。”その人にとって、・幸運(幸福)であること” とある。

そう、その人が本当に心から望んだことが、それが叶うことが幸せなのである。

しかし、しかし、本当の望みを本当の本当に自覚している人はそんなに多いのだろうか?

という気がしてくる。実際にはよくわからないという人が多そうな気がしてくる。

私どうしたら幸せになれますか?これをやったら幸せになれますか?こっちがいいのかな?

でも、ちょっと怖い。じゃあ、あっち?皆がやるからこれの方が無難な幸せかも。

何だかやってみないと判らない幸せ。博打みたいな幸せ。私、絶対幸せになりたいんです

あなたの言うこときいたら幸せになれますか?だったら何でも言うことききます。

私に幸せ下さい、絶対絶対壊れない幸せ下さい。不幸になんて絶対なりたくありません。

何だか、色々迷いの声が聞こえてきそうな気がする。気のせい?

人は何故生きる?嫌な事、辛い事、悲しい事、時に死にたくなる事、それでも何故生きる?

もしかしたら、明日はいい日かもしれない。いい事があるかもしれない。そのうちに生きてて良かった

と思えるそんな日が来るかもしれない。もしかしら、もしかしたら・・・・そんな、目に見えないカタチの無い

希望を抱いているからかもしれない。どうしてそう思うか?それはやっぱり幸せになりたいから。

人は幸せを求めて生きていくのだと思う。(夢と言いかえることも出来よう。)

幸せには本当はカタチというものがない。

だけど、そんな事をハッキリ言われてしまったら不安に感じる人が多そう。

何かヒント・・・雛型みたいなものが欲しい。目安みたいなものが無いとやっぱり不安。

それが与えられたら安心する一方、今度はそれらに縛られ苦しむ。

そうなってしまった時(自分が不幸だと感じた時)、自分にとっての幸せとは何か?

と考えてみる。答えはすぐに出ないかもしれないけれど、考えてみる。

とりあえず・・・・・・考えてみる。


2004年12月21日

「サンタクロース」

クリスマスプレゼントはサンタクロースが持って来てくれる、サンタクロースは存在する。

と、親からおしえられる子供は結構多いということだが、私が子供の頃はそのようなことは

全くおしえられなかった。居るとも居ないともおしえられなかったように記憶している。

だから、私はサンタクロースにあまり関心の無い子供だったように思う。

クリスマスプレゼントは親と一緒に買いに行っていた。←これを友人に話すと

「何と夢の無いっ!!」と嘆きの言葉をもらったが、私にしてみれば「そう?」といった感じ。

大きくなった子供はサンタクロースは本当はお父さんとお母さん、実在しないと知り

ショックを受ける事が少なくないと言う。幻滅する・・・。私はそのような夢を与えられなかったので

サンタクロースを信じる子の気持ちも、夢破れた子の気持ちもわからない。

サンタクロースは存在しないが、存在するのだと想像してみたら楽しい♪

私はそんな子供だったように思う。

ありもしないものをあったら面白い、と空想するのが楽しい。これは今も昔も変わらない。

だから、ナカイチなどという、あり得ないつぼが空を飛んでいるのかもしれない。

私がサンタクロースを信じていた子供だったら、今とは違う人間になっていただろうか・・・?


2004年7月29日

「やかましいっっ!!」

ほぼ1年ぶりの更新です・・・・。書けそうな事は色々ありそう・・・・なのですが

あれがいいか、これがいいか、それもいいか・・・・・色々考えていると結局書けなくなってしまう・・・。

今回はちょっと腹の立った話を書きます。都内某所へ「ディープ・ブルー」という映画を観に行った時の事。

この作品は海の生物達の生態を記録したドキュメンタリー映画です。

普段は近くで済ませてしまうのですが、上映館が少ない為、面倒・・・・と思いつつも電車を乗り継いで

出掛けました。初めて行く映画館です。チケットはインターネットで予約したので

並ばずに楽々と買え、時間にも余裕をもって入場しました。ご機嫌ご機嫌。

この映画館、休憩時間にスクリーンを使って、英語(日本語字幕付)で観客に色々と注意をしています。

煙草は吸わないように、携帯の着信音は切りましょう、上映中のお喋りは止めましょう・・・・・丁寧だな、という印象。

でもちょっとやり過ぎな感じも。しかし、上映が始まると、それがやり過ぎではない事が判明。

映画は本編が始まる前に、だいたい10分位予告編が流れます。この時にあちこちから話し声が・・・・。

ここの映画館に来る客層がいつもそうなのか、たまたまなのか・・・何となくマナー悪いな、という気がしたが

まあ、本編が始まれば静かになるだろうと思っていた。ところが、私の隣りの2人連れの若い女性客が・・・!

アホウドリが登場したら「可愛い」と感想を述べている。(思うのは勝手だが今は喋らないでよ)

コウテイペンギンが登場したら、あの特徴ある歩き方を見て、ウケて笑う。(まあ、いいか)

クジラの子供がシャチに襲われ、食べられ、無残な姿で海の底に沈んでいくシーンを見て

これまたウケて笑っている。(ハッキリ言って笑うシーンではない、意味不明な笑いだ。何で?)

端で見ていてかなり腹が立つが、小心者故我慢してしまうのであった。この後はずっと静かに鑑賞して

いた為あまり気にしないようにしたが、本編が終わりエンディングのテロップが流れ始めると

2人はまた喋り出すのであった。(エンディングも映画の一部なんだけどね)

そして極めつけ「気持ち良く眠くなる映画だったね。」と感想を述べている。これにはもう閉口。

「だったら、最初から寝てなさいっ!!お前らやかましいっっ!!!」

地元の映画館では、こういう事はまず無かったのですけどね。皆さん、鑑賞マナー良くて。

ハリセンでもってぶっ叩いてやりたいところでしたよ、まったくまったく(怒怒怒)

ここが何処の映画館かって?それは上映館が少ないので、ちょっと調べれば・・・判る筈。


2003年7月14日

「野良猫の最期」

今日は雨。比較的、車の往来が多い道路を通りかかった時の事。

路の真ん中で白黒ブチの生き物が、引っくり返ったカメのようにジタバタしていた。

鳥?と思ったが、足が4本ある・・・。猫?あんな所で暴れていると危ないなあ・・・

轢かれるよ・・・・と思って見ていたら、やがて全く動かなくなった。

その時わかった。あの猫は既に轢かれていたのだった。通りかかる車は

最初あからさまに避けて走っていたが、段々気にしなくなったのか、タイヤに接触しない

ように気をつけて、猫の上を走るようになった。放っておけば、猫の死体は更に轢かれて

滅茶苦茶になるだろう・・・・。そのまま立ち去ろうかとも思ったが、猫が不憫なので

近くのクリーニング屋さんの店員に頼んで、新聞紙とビニールを貰って、猫を路の端まで

移動させた。新聞紙でうまく掴めなくて(さすがに素手では・・・)引きずった所に

血の跡が残った。ああ・・・・・・。確実に死んでいる。店員さんは顔をしかめて、とても怖がっていた。

だけど、死体は何もしない、出来ない、無力。本来怖がるべき存在ではない。

でも生きている者から見れば、やっぱり怖いのだ。死んだらどうなるのか、誰にもわからないのだから。

店員さんにお店で、市役所の清掃課に電話をしてもらい、猫の死体を引き取ってもらう事にした。

死体は、私がビニール袋に入れて新聞紙で包んで、役所の人が来るまで、お店の外の端の

目立たない場所に置かせてもらった。可愛そうな最期。首輪も無く、多分野良猫。

猫はゴミとして処理される。轢き殺したのは「器物損壊」に当たるらしい。

 

死体を引きずり、ビニールに詰め、新聞紙に包み、その後まともに

食事が出来る私は、神経が太いのか麻痺しているのか・・・・・?

 

この猫を轢いた人、あなたは何を感じましたか?