Last Updated: July 3rd, 2005
First Uploaded: July 1st, 2004
これまでの「受験勉強」のHPの主要な部分は,私が修士1年(1998年)の時に書いたもので,最近の出題傾向には合わなくなってきています. 特に平成16年度の出題は,細部に入りすぎていて,受験者は大変であったろうなと思いました. ただ,出題傾向は,今後変わるかもしれませんし,自分が知らない分野が出題されたとしても,多くは選択制ですので,他の問題に逃げることが出来ると思います.
なお,私が以前に紹介した文献は,科学史に関する基本的文献である事には変わりありませんので,紹介した本にプラスαして,いろいろ勉強していって欲しいと思います.
もう一つ重要な欠点として,なお記載内容は予告無く変更することがありますので,ご了承ください.
間違いがあったら,ご指摘ください.訂正させていただきます.
またこのページは個人的なもので,公のものではありません.私が書いた内容と出題内容は全く関係がありません.私は入学試験作成に一切関わっておりません.
このページに書かれたことは,私の主観がかなり入ってますから,一般的通説と異なることがあるかもしれません.ですから,受験者は私の記述を信用せず,ご自分できちんとお調べになることをおすすめします.私が書いたことだけを鵜呑みにして,入学試験に落ちたとしても,私は責任を持ちません.
技術史を勉強する上で,大事にして欲しい事は,
技術の発展が世界史に及ぼした影響について,初学者でもとりつきやすい文献として,以下の本を挙げる事が出来ます.
C・M・チポラ(大谷隆昶訳) 『大砲と帆船 ― ヨーロッパの世界制覇と技術革新 』平凡社 1996年
この本は平成10年度修士課程入学試験「論述」に出題されています.
この本を読めば,世界史における技術発達の役割を理解出来ると思います. アジアに対して常に圧倒的守勢に立っていたヨーロッパ人たちが,15−16世紀の大航海時代を通じて,世界に覇権を築く事が出来た理由について論じているのです.
チポラはその理由を,大砲と帆船という技術によってもたらされたものだとして,ダイナミックに描きだしています. チポラの主張は大変明確かつ大胆で,アカデミックな本に一般に見られる退屈な記述はありません. しかし,この本が研究者に向けても書かれた本であることは,その付論と膨大な注を見れば一目瞭然でありましょう.チポラは,ヨーロッパ人たちが大砲と帆船の技術に最も優れていた事を理由に,アステカ,インカ帝国を初めとするアメリカ大陸,オスマン・トルコ,インド,さらには清朝,日本のような東アジア諸国に対する圧倒的優位を築いたとしているのです.
しかし,読んでいる途中で次のような疑問を単純に持つのです.
- 清朝に対してイギリスが不平等条約を押しつけるのは,1839-42のアヘン戦争とその後結ばれた南京条約を通してであるが, 大航海時代にアジアに対するヨーロッパの覇権が確立するのであれば,どうして200年以上に渡ってヨーロッパ人は中国を侵略しなかったのか?
- 1543年,ポルトガル人が種子島に漂着し,鉄砲を伝えたとされている. その後,ポルトガル人・スペイン人は戦国大名の保護を受け,交易やキリスト教の布教を行ったとされている. しかし,ポルトガル人・スペイン人が日本の戦国大名に対して戦争をしかけたという話は聞いた事がない.
- 1641年,徳川家光は,平戸のオランダ商館に対し長崎の出島への強制移住を命じたが,どうしてみすみすオランダ人はこの要求を受け入れざるを得なかったのか?
これは巻末の付論1を読めば,チポラの回答が書いてあります.すなわち,
「16−17世紀におけるヨーロッパの覇権は海上におけるものであって,陸上においてはヨーロッパ人たちは依然守勢に立っていた」
という事であります.このような重要な事を巻末の付論に記述するという事は,研究者の態度としては決してまじめではないと思います.
ともあれ...
ヨーロッパの海上覇権が,大砲と帆船という「技術」によって確立されたという主張自体には,異論がありません.ではヨーロッパ人たちが中国と日本に対する陸上での圧倒的優位を持つのはいったい何を契機としてなのでしょうか?それは皆さんが考えて欲しいと思います.
※2005年7月3日追加
すすんで勉強したい人は,次のような本がおすすめです(特に受験には出ないと思いますけど...).
- D.R.ヘッドリク(原田勝正,多田博一,老川慶喜訳)『帝国の手先―ヨーロッパの膨張と技術―』日本経済評論社,1989年.
- ジョン・エリス(越智道雄訳)『機関銃の社会史』平凡社,1993年.
- ノエル・ペリン(川勝平太訳)『鉄砲を捨てた日本人―日本史に学ぶ軍縮』中央公論社,1991年.
技術史の最も重要なテーマの一つは,18世紀にイギリスで起こった「産業革命」であります.
「産業革命」という言葉は,K.マルクスやフランスの A.de トックビルらによっても用いられたましたが,厳密な学術用語としての「産業革命」は,アーノルド・トインビー(Arnold Toynbee, 1852-1883)によって使用されました.トインビーはLectures on the Industrial Revolution of the eighteenth century in England (1884)の中で,農村社会から資本主義的工業社会へ〈急激に〉大転換を遂げたことを主張したのです.またトインビーは近代都市における貧困や失業,犯罪,疾病,労働や生活の環境の悪さなど,現実の社会問題と取り組んだ理想主義的社会改良家でもありました.
トインビーによって成立した産業革命史を,整理・体系化したのはポール・マントゥ(Paul Mantoux, 1877-1956)です.マントゥは,その著書『18世紀における産業革命』(La Révolution industielle au XVIII e siécle,1906)において,産業革命は資本主義的生産様式の確立であると主張しました.すなわち,産業革命とはたんなる生産技術の革命ではなく,人間の生産と生活の場と様式が根本的に変化した社会的な革命であるとしたのです.
このマントゥ以降,イギリスにおける産業革命史の研究は,これまでのように繊維工業部門に限らず,種種の産業部門について実証的に行われるようになりました.特にトーマス・アシュトン(Thomas Southcliffe Ashton, 1889-1968)の石炭と鉄に関する経済史的研究(Iron and steel in the Industrial Revolution,(Manchester: Manchester University Press, 1929))は特に重要でした.
なおこれら研究は,主に経済史的研究が中心でありました.これら研究はともすれば不正確な工学的記述がされることがありましたが,それらを修正するものとして,専門技術者による特殊研究がさかんに行われました.特に最初の技術史だけの学会であるニューコメン協会は,1922年より機関誌Transactions of the Newcomen Society を発行して,その研究に貢献しました.例えば,蒸気機関発達においてワットに先立つニューコメンの役割,ワットの協力者ボールトンの役割に関する研究が,同協会の創始者であるジェンキンス(Rhys Jenkins),ディキンソン(Henry W. Dickinson)によって行われました.特にディキンソンの実証的研究手法は,その後の技術史研究の一つの流れとなりました.日本においても彼の代表作,A Short History of the Steam Engine (1938)は二度も邦訳されました(1944,1994).
上記のような,産業諸部門における実証的な技術史家および経済史家の研究により,トインビーの古典的な「産業革命」の概念は次第に訂正されました.産業革命は,それぞれの技術が相互に深く関連した漸進的な変革の集積であることが分かってきたのです.すなわちトインビーらは,産業革命の断続性(革命性)に着目していましたが,新しい研究は,産業革命の連続性を明らかにしたのです.
また1920年代資本主義世界が相対的に安定してくると,近代経済学的な発想法の影響もあって,いわゆる楽観説を取る立場が登場してきます.すなわち,実質賃金統計などを作成してみると,労働者の生活水準は,産業革命期にむしろ上昇しているという事が明らかになってきたのです.
生活水準における楽観説は,ジョン・クラッパム(John Harold Clapham, 1873-1946)によって整えられ,前述のトーマス・アシュトン(Thomas Southcliffe Ashton,The Industrial Revolution, 1760-1830 (London: Oxford Univ. Press,1952).邦訳:アシュトン(中川敬一郎訳)『産業革命』岩波文庫,1973年)に受け継がれて,欧米では通説の位置を占めました.アシュトンによれば,産業革命時の多くの弊害は,「より原始的な生産段階まで遡るのであって,実際は消滅する傾向にあった」(邦訳136頁)とか,諸発明はみな労働を軽減したのであり,「産業革命の不幸」は戦争と飢饉のせいである(邦訳176-178頁)とまで述べています.
ただ例外的な歴史家としてエリック・ホブズボーム(E.J.Hobsbawm, 1917-)がいます.ホブズボームは,産業革命の革命性と生活水準における悲観説を強く支持しています.(E.J.ホブズボーム(浜林正夫, 神武庸四郎, 和田一夫訳)『産業と帝国』新装版,未來社,1996などを参照)
ただ基本的な事実認識の点では,アシュトンも,産業革命期のイギリスにおける労働者階級の状態について,認めておりますし,ホブズボームも,労働者が次第にブルジョア化したことを認めてはおります.この立場の違いは,経済学における二つの立場から起こっていると考えられます.
この「産業革命」が起こった原因については,多くの歴史家によって様々な原因が指摘されており,確定したものはありません. 私が高校の時に使っていた世界史の教科書には,いろいろな事が列挙された末,「イギリスではニュートンら出て,科学技術が進んでいた」とまで書いてありました.しかしながら,イギリス産業革命は,科学者が始めたものではありませんし,産業革命の担い手たちは,科学的知識に精通していたわけでもありません.
長々と産業革命論の系譜を書いてしまいましたが,これからが本題です.技術史上重要な事は,産業革命を通じて技術発達がどのような経緯で進んでいったかを明らかにする事であります.
試験のために具体的に勉強すべき事項は,
- 産業革命がまず最初に起こったのは,どの産業のどの行程であったのか?
- ある特定工程の技術革新が,他の関連する工程に及ぼした影響(特に綿織物工業に関して)
- 蒸気機関と産業革命との関係とは?
- 初期の蒸気機関の困難と工作機械の導入について
- 産業革命がどのように他の産業に波及していったのか?
- 産業革命が引き起こした社会的帰結は?
これらを整理する事が,「技術史」の設問を攻略する鍵であると思います.
19世紀後半にイギリスに代わって,工業の中心地となったのはアメリカであります. その基盤となったのは,工作機械の専用化によって互換性部品の製造を可能にした「アメリカ的生産方式」という大量生産の仕組みの成立であります.
「アメリカ的生産方式」は,テイラーの金属切削の研究を通じて,「作業の標準化」へとつながっていきます.
テイラーの方法とフォードの方法の違いも押さえておく事が必要です.
参考文献
David A.Hounshell,From the American System to Mass Production,1800-1932(Baltimore: Johns Hopkins University Press, 1984)
邦訳デーヴィッド・A・ハウンシェル(和田一夫, 金井光太朗, 藤原道夫訳)『アメリカン・システムから大量生産へ : 1800-1932』名古屋大学出版会, 1998年
森杲『アメリカ職人の仕事史』中公新書,1996年
橋本毅彦『「標準」の哲学 : スタンダード・テクノロジーの三〇〇年』講談社, 2002年.
日本では,技術の定義をめぐって,有名な論争が繰り広げられました.これを一般に「技術論論争」と呼んでいます.この技術論論争の一つの陣営は,「技術は労働手段の体系である」とする「労働手段体系説」であり, もう一つの陣営は「技術は人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用である」とする「意識的適用説」でした.
前者を提唱したのは,1930年代の唯物論研究会で,相川春喜,戸坂潤,岡邦雄らがその代表的論客でありました.後者の創始者は物理学者の武谷三男(1911-2000)であり, 彼が1945年に特高警察に捕らえられて書かされた調書『技術論』の中で,自らの潔白を明らかにするために,技術とは何かということを定義しました. これが太平洋戦争敗戦直後の1946年に,雑誌『新生』に「迫害と闘いし知識人に捧ぐ」とサブタイトルされて掲載され,この学説が広く知られるようになりました.
これら学説を,正確に記述する事は大変に困難でありますが,誤解を恐れずに一言で書き表せば,
「労働手段体系説」は,「技術は道具の体系である」,とするのに対し,
「意識的適用説」は,「技術は科学の応用である」,とするものです.
技術の概念規定としての「労働手段体系説」と「意識的適用説」は,言葉の上だけで考える限り,互いに矛盾するところがないのです.にも関わらず,あれだけ激しい論争になった理由は,この論争が「唯物論」と「観念論」の対決であったにも関わらず,どちらの陣営も自らが正統な史的唯物論であると考えたことにあるのです.
私の意見では,技術にはどちらの側面もある,と思います.特に19世紀後半以降,技術における科学の役割は確実に増えていきました.
<つづく...>
参考文献
中村静治 『新版・技術論論争史』青木書店,1995年
最近の技術史研究の傾向として,「技術は社会的に構成されている」とする技術の社会的構成主義を挙げる事が出来ます.これらの緒論は,Wiebe E. Bijker, Thomas P. Hughes, and Trevor F. Pinch, The Social Construction of Technological Systems (MIT Press,1989)に収録されています.主に次のものを確実に抑える必要があるでしょう.
- トレヴァー・ピンチとヴィーベ・バイカーによる「自転車の技術史」.
- ミッシェル・カロンの「アクター・ネットワーク」理論
- トーマス・ヒューズのシステムズアプローチ
ピンチ,バイカー,カロンは,科学論の手法を,技術発達の説明に適用しました.しかし,科学と技術とはそもそも異なるものなのに,科学論の手法を技術論に適用することに妥当性があるのでしょうか?
私が技術史研究上最も重要だと考えるのは,トーマス・ヒューズの論です.ヒューズは,技術の発達段階を幾つかに分けて説明しています.受験対策としては,この区分を押さえることです. 技術的段階はその各発達段階である特徴を有します.例えば,成長,競争,合併の段階では「逆突出部」(reverse salient)を持ち,その後技術的システムは「運動量」(momentum)を持つようになります.これら用語についても,整理しておくことをおすすめします.
個人的意見を述べさせてもらうと,ピンチとバイカーの議論による,技術の発達が「社会グループ」によってのみ決定される,などというのは全くナンセンスだと思います.技術は,技術内部の論理よって発達するという議論の方が,まだ理解できます.(例えば,次の文献を参照.石谷清幹「技術における内的発達法則について」『科学史研究』第52号(1959年)pp.16-23.)
ヒューズの考え方も,技術の有り様を表現し尽くしているとは考えにくいです.ヒューズは,技術的システムの構成要素として,
- 物質的な人工物
- 組織
- 規制法案
- ・・・・
などを挙げています.私が読んだ限りでは,これら要因(アクター)がのっぺりとしたシステムを構成している,という印象を持ちました. 社会的要因と技術的要因が互いに影響を及ぼしているということは当然私も認めるところではあります.しかし私はこのシステムが同じ次元で扱われるのに,大変な違和感を持ちます.社会や人間などのアクターと技術のアクターは同じレベルにあるものなのでしょうか?私は,技術と社会と人間は一種の階層構造をなしているのではないかと考えています.そしてそれぞれの階層の中で,それぞれの論理にしたがって変化しているのではないでしょうか.
「技術の社会的構成主義」については,そのうち批判論文を絶対に書きます.その時はカロンについても,おさえるつもりです.
<つづく...>
参考文献
Wiebe E. Bijker, Thomas P. Hughes, and Trevor F. Pinch, The Social Construction of Technological Systems (MIT Press,1989) .