Profit and loss:
The military and MIT in the postwar era
STUART W.LESLIE
1998/1/11 小林 学

Massachusetts Institute of Technology(MIT)
多くの政府の研究機関を持つ大学.ヴァニヴァー=ブッシュのおかげで軍事研究にのめり込んでいく.DoDはMITに対し莫大な予算をつける.
MITは重要な研究がなされ,学生が教育され,教科書が広く使われ,未来の大学の指導者を育てた.
John Slater 量子力学の発展に重要な貢献,MITの教授
 
○The Research Laboratory of Electronics(RLE)
戦後,MITにおいて陸軍・産業・大学の共同
Microwave Electoronics (極超短波),Molecular Beam Physics(分子ビーム物理学)
1960年代の始め300人の博士,600人の修士,600人の学士を出す.
Slaterは彼自身理論家であり,他の部門や産業に応用する研究努力を奨励した=研究の新しい形.大学と産業と軍隊の共同.
戦争中はRadiation Laboratory(Rad Lab,レーダーや航行システムに関する重要な研究を行う)がマイクロ波研究の中心,しかしベル研においていかれる.SlaterやSttrattonは大学と政府の関係を重要視.
 
Rad Labが終了したあと六ヶ月間,陸軍は基礎研究部門に経済的支援→RLEへ(1946/1/17)
MITプラズマスクール:戦争中のRad Labの研究を引き継ぐ.教育内容は小さく基本的なものに限られる.卒業者たちはGE,RCA,ベルなどに就職.
 
1950年朝鮮戦争,基礎研究と応用研究との境が分からなくなる.プロジェクトは巨大に,予算は倍.空軍:防空,海軍:レーダー,ソナー,陸軍:戦闘時の通信
 
○Lincoln Laboratory
レーダーと対空兵器を電話線とコンピュータで接続する.
1950年12月Air ForceはMITに防空のための新しい研究レーダーと対空兵器を電話線とコンピュータで接続する.所の開設を要求.
ソ連が原爆製造能力がある.防空システムの必要性.
Georgu Valley=レーダーと対空兵器を電話線とコンピュータで接続する.
MITは初期研究を引き受ける(コードネーム:Charles)
 
空軍の要請で長距離レーダーや防空警報システム,高速デジタル・データ・プロセッサを開発するため,
1951年リンカーン研究所が創設される.RLEが自然に発展したもの.
一年間の予算:$20Million.2000人のスタッフ.急速に増大
最初のプロジェクト:SAGE(Semi-automatic Ground Environoment)レーダーと対空兵器を電話線とコンピュータで接続する.
後のプロジェクト:DEW(Distant Early Warning),BMEWS(Ballistic Missile Early Warning System)
リンカーン研究所は教育機関としても働く.
学部学生に対する教育はそのままにされる.陸軍中心の教育カリキュラム
テキストなども前の教官が書いたもの.
 
MITの電気研究所は産業化とともに学問的展望もともに再編された.
産業へ転換
RLEとリンカーン研究所の卒業生が60の会社へ産業へ転換,後にルート128と呼ばれる.
 
○The National Magnet Laboratory
ベンジャミン=ラックス(Benjamin Lax's)
半導体の内部構造と性質を解析するサイクロトロンの共鳴技術
戦争前,MITは磁石研究の主導権を認められる.
基礎研究が成功した応用に貢献しただけでなく,頼っていた.磁石装置は国防に非常に重要
1960年,空軍はMITに$9Millionsの予算を認める.
1964年,Laxはリンカーン研究所の所長に任命される.
 
○The Laboratory for Nuclear Science and Engineering
原子物理学もマイクロ波電子工学と同じく戦争によって開かれた.
Zacharisaはラド=ラボからロス=アラモスに移る.
スレイターとジョージ=ハリソンはMIT内に原子力計画によってもたらされる新しい機会について話し合う特別な委員会を設置,RLEのやり方が有効
 
1945年12月19日The Laboratory for Nuclear Science and Engineeringが発足,Jerrold ZacharisaがDirector
粒子加速器,同位体化学,原子力
Rochaster's Program 企業から資金を集める.
 
戦後,原子力研究の中心はLNSEだけとなった.
海軍が独自に原子力計画を打ち出しす=MITに二度目のチャンス.
1946年,海軍は原子炉工学について直接の経験を得るため,五人の役人と3人の一般人をオーク=リッジに送り込んだ.海軍の原子力艦フリゲート艦の建造に携わる.
 
グッドマンが原子炉設計に関する研究をスタートされる.
Rickover(海軍原子力局のヘッド)は原子炉工学を学ばせるためにトップの役人を送り込んだ.
 
1951年,MITは原子炉工学おける大学のコースを分ける.軍人に進んだ教育を受けさせるコース.
 
研究所が売るものは陸軍が買ってくれた.
潜水艦の推進力,プルトニウム製造,特別な軍事応用.
 
○The Center for Material Scinece and Engineering
絶縁体など,電気工学に関する主要な研究.
戦争が材料科学を進める.Slaterとその同僚たちは固体状態物理学の重要な実験装置だけでなく軍事にも応用できることを発見した.
 
戦後,戦争部門が材料科学において有力なパトロンであった.
1950年代以降急速に研究者の数が増大.
 
エンジニアたちはその間に材料工学における部署間での共同体を作った.MITの内部と外部でのコンセンサスが成長していく一方で,材料工学と材料科学におけるさらなる成長は機関の中心の欠如により挫折した.
 
誰もがRLEやLNSEに沿った中心的な設備なしには何も成し遂げられないことに気がついていた.
 
国防総省(DOD)も同じ認識を持つ.
決定的な兵器製造の技術には優れた材料の必要性(ジェットタービンから)
Advanced Research Project Agency(ARPA)
1959年:$17Million
財政難に
 
ARPAの契約がMITにおける材料研究の概念的機関的輪郭の形成に重要な役割を演じた.
 
MITは陸軍研究所だとしばしば見なされた.
 
軍隊の視点から見た陸軍機関と大学との間に生じる緊張と不満は,十分に異なる
CMSEは防衛の点で厳しく作戦を定義し直そうとする騒々しい試みに抵抗した.