ラマルク伝
忘れられた進化論の先駆者イウ゛
=ドゥランジュ 著ベカエール直美
訳1998
年7月6日 木本研 小林 学1744
年8月1日 土曜日の朝 ジャン=バティスト・ド・ラマルク誕生
軍人の家に生まれる.富裕な貴族だけが軍人になれる.末っ子ということもあり修道院に入れられる
.イエズス会の修道院で近代的教育を受ける.=物理実験
1759
年 父親の死 ジャン=バティストは戦場へ赴くことを決断.プロイセンとの戦場へ.
(ウエストファリア)ラスティック連隊に入隊.数に優るプロイセン軍の優勢→フランス軍は退却を余儀なくされる.混乱のためジャン
=バティストの中隊には退却命令が出ていなかった.また将校が全員戦死.高名な軍人の家の末子であるジャン=バティストが指揮.ジャン
=バティストは退却せず砲門を敵に向かって開き続ける.ラスティック連隊長は感激し,旗手の階級に昇進.
ラスティック連隊はハノーファーで遠征を終える.
1761
年9月26日 中尉に昇進プロバンス地方の駐屯地へ派遣.
ラ
=マルク中尉はモナコの美しい城塞巡りを楽しむ→生物界の多様さを知る.ある薬屋で
J=B・ショメルの『有用植物誌綱要』を知る.植物のラテン名やフランス名,調剤術上の主要成分,分量,服用法,植物の原産地,花の色,開花期,などを説明.ジャン
=バティストは自ら植物の収集を始める.
ジャン
=バティストは原因不明の病気になり,中尉の職を辞す.→パリへ送還ジャック
=ルネ・トゥノンが診断.根の深い膿瘍がリンパ腺の炎症を引き起こしている.外科手術で回復.
長兄のルイ
=フィリップがジャン=バティストを招く.一年間逗留.多くの読書を行う.ディドロ,ヴォルテール,コンディヤック,デュクロ,ビュフォン,ルソー,コンドルセ,ダランベール,モンテスキュー,フェルネイ.
400
リーブルの年金を受け取っていたが,足りない.ド・ブー商会で働き始める(会計の仕事)貧しい生活を余儀なくされる.当時のパリは非常に衛生状態が悪い.
相続分与をうけ,ド・ブー商会をやめ,汚い下宿を引っ越す.ラテン区に居を構える・
1772
年10月18日,医学学校に入学.王立資料館に出入りするようになる.管理人のドーバントンと知り合いになる.
ジャン
=ジャック=ルソーと出会い.ルソーと植物採集する.ラ・マルクは人間嫌いのお供に疲れる.博物学者ブリュギエール
(貝類の研究)との出会い.貝類学を好むようになる.=貝類の採取
しだいに医学から王立植物園で教授されている学問への興味.
1776
年 医学学校の受講を断念.王立植物園へ通うようになる.ベルナール・ド・ジュシュー
(王立植物園の実験教授)の聴講生になる.ベルナール・ド・ジュシューはジャン
=バティストの才を見抜き,ビュフォン伯爵(王立植物園の園長)に会わせる.ビュフォンはジャン
=バティストの庇護者に.
1777
年春 ジャン=バティストはマリアンヌ=ロザリー=ド・ラ・ポルトと結婚1778
年8月8日,長女ロザリーを出産.
植物誌の新方法=ある形質から,二つに大別したグループのいずれかに属するか決め,次に別の形質を用いて,そのグループ内をさらに二つのグループに振り分ける.これを繰り返すことによって次第に選択の幅を狭めていき,ついには植物の名称に到達する.
→植物学者と認められるようになる.
『フランス植物誌』を出版=ビュフォン伯爵の援助
植物界の真の絵巻き.植物界を構成する諸グループの位置を,藻類や菌類のように最も単純なものから顕花植物のように最も複雑なものへと向かう,体系内部の系列や漸進に応じて確定する.ひとつの哲学への端緒.
『フランス植物誌』は大成功.豊かな生活を送ることができる様になる.
1781
年 ビュフォンの息子,小ビュフォンとヨーロッパの旅に.オランダ,プロイセン,オーストリア
=ハンガリー 博物資料館,鉱山などを見てまわる.
次第に不仲になり,ビュフォン伯爵は二人をパリに連れ戻す.
大旅行のたびに様々な植物の苗や種子が持ち込まれる.
ピエール
=ソンヌラの世界旅行で採集した標本を寄贈される.1782
年 『百科方法全書----植物学』を出版1783
年 科学アカデミーの植物学部門の会員に1786
年1月7日 第三子アントワーヌ誕生,耳が聞こえない1787
年4月21日 第4子ルネ誕生1788
年4月16日 尿砂症に苦しんでいたビュフォン伯爵が死亡.
異常気象で農作物が全滅→社会不安が広がる.
貧しく,封建制に虐げられた農民.富裕な生活をする貴族たち.
1789
年4月27日 サン=タントワーヌで銃撃戦が始まる1789
年7月14日 バスチーユ監獄の開城と陥落ジャン
=バティスト・ド・ラマルクは平等に対して賛成しの意を表明し貴族の称号を破り捨て,これ以降ラマルク,Lamarckと名乗り署名するようになった.王立植物園と王立資料館を配して自然誌博物館とする.
1791
年 第6子 オギュストの誕生 マリアンヌ=ロザリーは病気に郊外に庭付きの家を購入.幾分,生気を取り戻す.
1792
年9月27日 ラマルクとマリアンヌ=ロザリー・ド・ラ・ポルトは正式に結婚.5日後マリアンヌ=ロザリーは息を引き取った.1793
年6月10日 国民議会は植物園の再編と自然誌博物館の創設を可決8
月10日 アカデミーの解散→科学アカデミーの年金の打ち切り10
月7日 しとやかで献身的な19歳の娘, シャルロット・ルベルディと再婚
1793
年1月21日 ルイ16世が処刑,10月16日マリー・アントワネットが処刑,1794年7月10日 小ビュフォンが処刑.17000人もの人々がギロチンによって殺される.
50
歳で昆虫学・蠕虫類の教授に1794
年10月15日 第7子アリステッドが誕生1795
年の初頭 慣習に従いラマルク一家は植物園内にすむことになる.しばらくは幸せな日々を過ごす.しかし1797
年11月2日 シャルロットは24歳の若さで亡くなった.
サン=チレール,キュビエとの交友
1794
年『主要な物理的事実の原因についての研究 とくに燃焼の原因,蒸気状態になった水の上昇の原因,固体間の摩擦により生じる熱の原因,ある種の複合物質の腐食性や味やにおいの原因,物体の色の原因,物体の死の原因,そして有機体の生命の維持や成長,活力,衰弱,死の原因について』出版
1795
年『有機的生命に従う一般法則および特殊法則の認識』神の介入によらずに,物理的事実の展開によって生命の起源を説明できるとする.生命は振動し変転するものであり,一定不変のものではない.生命界に人間の歴史の尺度ではなく計り知れない広大さを与えた.
1789
年 ジュリーと再婚以前の研究の成果として
1800年『気象年報』の第一号の出版→公認気象台最初の基礎キュビエとの対立
キュビエは巨大な脊椎動物
(化石)の研究洪水の数だけ生物種の出現・消滅がある.=種の不変性
ラマルクの考えと対立
種の不変性を信じずその変異性を主張
キュビエは動物界を
4つのプランに限定しそこからすべての動物が形づくられれたとしたのに対し,ラマルクは動物の種は,漸次完成化していったのだと考える.→完全な連続性にのっとっていた.キュビエは形而上学的な原則である「目的因の原則」から分類
ラマルクは植物界と動物界の系統樹を確立
ラマルクの世界観は社会の根本原則に逆らう.さらに聖書の説明と対立する.
その結果,快適な生活を願う者や科学者の世界で名を上げようとする者はキュビエとラプラスの保護の下につこうとする.この党派の外では身の安全がなかった.
(ナポレオンが宗教教育を復活させていた時代)
ラマルクは『水理地質学』地質学的な変化を説明し,地球に数百万年という年齢を与え,創造の神話を否定.→ラマルクは大きな障害とぶつかる.
ラマルクの著作は大きな反響を巻き起こした.無脊椎動物に関する公開講座が開かれ多くの聴講者が集まった.
滴虫類,ポリプ類,昆虫類に関する講座
1804
年 ナポレオン皇帝に.そのころ,植物園ではキュビエ男爵が牽制の絶頂にあった.キュビエは法王のパリ訪問中に公演を開き,「天変地異説」と聖書の記述を一致させようとするキュビエは公の場でラマルクを非難.
ナポレオンはキュビエに対して礼節の限りを尽くす.
1809
年8月14日『動物哲学』を著わす.1809
年の年末,皇帝ナポレオンに謁見する際,近著を献呈.ナポレオンはラマルクの『動物哲学』を気象学の本と馬鹿にする.憤りをおぼえると同時に深く傷つき,公の場で侮辱にあい,胸がいっぱいになって,涙を押さえることができなくなった.
研究に専念.心の平静さは学問のなかに探し求めてそこからくみつくす幸福によってたえず保たれた.
財産はなかったが,出版社が著書に関心を示さない時は自費で出版.
フランスは栄光の時代をしばらく歩んだが,のちに最悪の敗戦を味わう.
200万人が死亡し,国民議会が獲得したライン国境が失われる.大きな動揺の後に王制が復活キュビエ男爵は栄華の絶頂を極める.
子供たちの死
1805
年 身体の弱かったルネが18歳で死亡.1814
年 アリスティッドが精神病者用の寄宿舎で死亡1817
年 フランス海軍の将校になったアンドレが黄熱病にかかり36歳で死亡.
ラマルクの占める地位は低くなっていった.
サン=チレールだけが種の不変性に反対するラマルクの理論の信奉者.
ラマルクは若い博物学者アシル・ヴァランシエンヌの素質を見抜く.ヴァランシエンヌはキュビエの研究室からラマルクの研究室へ出入りし,研究の手伝いをする.
1819
年 ラマルクは失明する.8月には21年間連れ添ったジュリーが亡くなる.75
歳になるラマルクを娘たちが面倒を見る.『観察に直接または間接に由来する知識に限定された,人間の実証的知識の分析体系』を口述.娘のコルネリーが筆記.
『無脊椎動物誌』の完成を急ぐ.娘のユジュニー,コルネリー,ロザリーがラマルクの創造を手助けする.
『無脊椎動物誌』はついに完成する.
712頁にもわたる部分が貝類にあてられ,数千の雑滅種と現生種がフランス語とラテン語で記された.
1824
年10月30日 末娘ユジュニーは27歳の若さでなくなった.ラマルクの不幸と健康の衰えに心打たれた学士院の会員は学士院まで出向く体力がなくてもいつも出席扱いにした.
1829
年12月18日 ラマルク死す.
エピローグ
第二部
今日におけるラマルクの意味