THE CHIMIST BREEDERS: THE RESEARCH SCHOOLS OF LIEBIG AND THOMAS THOMSON
19世紀の化学教育  リービヒとトーマス=トムソンの研究学派

J.B.Morrell, "The Chemist Breeders: The Research schools of Liebig and Thomson" Ambix, 19,1-46(1972)
東京工業大学 大学院 社会理工学研究科 経営工学専攻 技術構造分析講座 小林 学 1998年5月19日


19世紀に化学教育の確立を目指した,LIEBIG(ドイツ)とTHOMAS THOMSON(イギリス)の物語.LIEBIGは成功しTHOMAAS THOMSONは失敗.その原因.

実験室が成功するために必要な要素.

@指導者は頭が良く指導能力に優れている.

A研究グループを拡大する.そのための人脈が重要.

B新しい分野を開拓するための特徴的な技術が必要.

C研究の成果をいかに雑誌に載せるか.公表するかが重要

D優れた教育プログラムを実行する志の高さが必要.

Eカリスマ性が必要.

F社会制度上の支援として十分な資金が必要.

1. 背景

19世紀,科学の専門化(Professionalzation)が進む.

ラボワジェによる近代的な元素観,ドルトンの科学的原子論→体系化.(化学革命の時代の直後)

リービヒの化学実験室の開設は,19世紀の化学において決定的な事件.

2. LIEBIGとTHOMAS THOMSONの経歴

  • リービヒ(1803-1873)
  • 業績

    @.有機化学に体系を与える最初の仕事をした.

    A.1823−1830年にかけて有機化合物の組成を分析するための実験方法の確立.(元素分析方法の確立)

    B.化学の教育と研究のために近代的実験室の型を創始.

    青年期

    1819−20年,薬剤師

    1820−21年,カストナーに師事.ボン大学からエラルゲン大学

    ドイツの大学の化学教育が講談的.

    1822年10月,アレクサンダー=フンボルトの推薦でパリへ

    主としてゲ−=リュサックに学ぶ.

    最初の業績=ゲ−=リュサックとの共同論文(雷酸銀の元素分析)

    →有機化学中心

    1824年:ドイツの田舎町,ギーセンへ

  • トムソン(1773-1852)
  • 業績

    無機化学と鉱物学的な定量実験

    1796,1800年:百科辞典(Encyclopaedia Britannica)の編纂

    1800−1811年:個人教師,教科書を書く.(エジンバラ)1807年:鉱物の定量実験

    1811−1817年:ロンドン王立協会の歴史の常任教師

    1818年:グラスゴー大学の教授に(以前の研究の成果)

    3つの目標

    @Doltonの原子論を実験により確証する.(倍数比例の法則を実験的に説明etc)

    AProutの仮説を実証する.

    B知られているすべての鉱物の化学組成と製法(アルミなど)を知ること.

    →無機化学中心

    ヨーロッパでの彼の名声はベルツェリウスの有機化学に取って代わる.

    →伝統的な無機化学から新しい有機化学へ

    3. 実験室の入試・教育制度

  • リービヒ
  • 初期:あまり程度の良い学生はいない.薬学の学生が主

    1835年以降各国から優れた生徒が集まる.化学の専門家を目指す.

    @.当時の化学界でまだ不統一であり十分に確立してなかった化学分析(定性分析・定量分析)のノウハウを学生教育用に作り上げた.

    A.初歩の実験教育を一定期間受けた後,その技術を使って教授の指導の下でオリジナルな実験を行う.

    B.PH.Dを取るまでに研究の進度とそれまでの化学の経験から1〜3年かかる.

    C.授業料:破格の安さ,優秀な生徒はアシスタントに.

    D.資格:いかなる学生でも,リービヒの実験室に入ればPh.D.を取れる.(大学の教師になるにはPH.Dが必要.)

    →英の学生もギーセン大学に集まる.(1930S)

  • トムソン
  • @.習得から研究までの簡単なカリキュラムを工夫しなかった.

    A.学生は生き残れない.←いくつかの一般化は副次的かつ間接的な証拠にもとづく.

    B.大学と産業の化学者を養成しようとした.

    C.多くの学生がギーセン大学により良い教育を求めて移動する.

    →トムソンの実験室は化学者になろうとする人にとって最後の学校ではない.

    4. 新しい分野を開拓するための特徴的な技術

  • リービヒ
  • それまでは,有機化学の解析には非常に難しい技術が必要.(ゲ−=リュサック,プラウト,ベルツェリウスなど)

    @.1823−1830年にかけて有機化合物の組成を分析するための実験方法の確立

    A.リ−ビヒの方法=燃焼解析,(燃焼後の水蒸気と二酸化炭素の重量を測定する.速く,より効果的)1年間に400もの解析をやる.→簡単かつ,すぐにできる信頼性のある実験技術.(ルーティン化).学生達はリービヒの装置を用いて研究を行う.ヨーロッパの一線の化学者達の実験にも広く使われる.

  • トムソン
  • リービヒとはまったく対照的

    @.鉱物の解析から塩と気体の解析を行う.しかし決まった信頼できる方法が無い.

    A.トムソンの実験室の論文は,他の論文に比べ初歩的.

    B.トムソンと彼の生徒達は簡単で速くより信用できる解析技術を作ろうとしたが失敗

    →実験室は崩壊(1836年)

     

    5. 出版活動

  • リービヒ
  • 出版活動←研究中心のギーセンプログラムの確立

    1832年『薬学雑誌』の編集者へ.同誌を掌握

    1832−39年『薬学年報』と改称.

    1843−1873年『化学薬学年報』と改称.

    →学生に論文発表の機会を与える.学生に自分の名前で発表させる.学生の大きな励み.1832以降大量の論文を発表.ギーセン学派専用の雑誌へ.

  • トムソン
  • リービヒとはまったく対照的

    1813年:『哲学年鑑』化学に傾倒,1820年に編集の仕事を断念(ロンドンから離れる)

    1826年:『哲学年鑑』への論文の発表を止める.→仕事の割に安い.より高い雑誌へ

    学生に論文を載せるように奨めない.(自分のものにする)→論文発表の機会に恵まれない.

  • 6. 優れた教育プログラムを実行する志の高さ

  • リービヒ
  • 1824年:ヘッセンの宮廷は若いリービヒをギーセンの員外教授として任用

    ツィンメルマンが化学教授.リービヒがうるさくてたまらない.リービヒに対して非協力的

    1825年:ツィンメルマンが溺死.

    員外教授→1825年,正教授に昇進(新カリキュラムの導入を容易)

    兵舎を改造,私財を投じて装置や薬品を購入,学生用実験室を建設

    彼の名声が少しずつ批判を減らしていく.

    多くの学生を面倒見る(化学,薬学,医学,農芸化学など)

     

  • トムソン
  • 欽定講座担当教授の地位.

    トムソンのエネルギと時間は大学の政治に使われ,研究にはあまり向けられなかった.

    スコットランドの2番目に大きい大学(1830年代の初め,1000人の学生)にいたので非常に忙しい.多すぎる講義.

  • 7. カリスマ性

  • リービヒ
  • 彼のリーダーとしての非凡な能力.非常に魅力的な人物(生徒に対する尊敬,愛,)

    学生は彼について,化学上の技術的問題を解決.

     

    彼の教育制度は,自己を信頼し責任をもって啓発することで常にチャレンジ精神を刺激すること.

  • トムソン
  • リービヒとは対照的.

    @.彼の教育目標は,独立した科学の一分野としての化学を独立させること.学生の自主性を教育しようという意図は少ない.

    A.無愛想,横柄,かんしゃくもち,嫉妬は給料の話になるともっとも顕著に現れた.→性格悪い

    8. 社会制度上の経済的支援

  • リービヒ
  • @.私費を投じて実験室を作る.しかしリービヒの実験室は狭すぎる.

    給料は年々上昇.しかし,研究室の費用も上昇し,私費を割いて実験器具や薬品を買う.アシスタントを雇う.

    彼の実験室は衛生的ではない.あまり衛生的でない環境での研究のし過ぎ→病気

    A.昇給と実験室の拡張を求める.(1833),1835年に増築

    B.リービヒが有名になるにつれて他大学からの誘いが増える

    1837年:ペテルブルグ大学の招聘を断る→さらに増築

    1840年:イエナ大学の招聘を断る→さらに増築,昇給

    C.リービヒの教師,研究者,編集者,作家としての名声が嫌がる政府から大量の金を出させる. 1827年:大学内に新しい講義室
  • トムソン
  • リービヒと同じく資金に恵まれない. @.狭い講義室,安い給料 1818年:論理学の教室を借りる.古い化学教室を実験室に.実験器具は,1部は大学が,1部は私費で調達.

    1826年:ロンドン大学の招聘を拒否

    1831年:新しい実験室が完成=3階建ての建物,1階は店舗が入る.

    しかし,この時58才,年を取りすぎる.

    A.大学の編成で実験室が縮小,給料も下がる.退職年金の不足のため,死ぬまで教授職に.しかし......1841年からR.D.Thomsonが有機化学の講義と実験を受け持つ. トムソンの実験室の経費はいつも彼のポケットに頼っていた.

    9. まとめ

    1820−1830sにリービヒとトムソンは化学の分野で研究型大学のシステムをつくろうとした.リ−ビヒは近代の実験中心の学校を創り発展させ成功した.それに対しトムソンはその望みを達成できず.

    リービヒによりギーセン教育制度が確立

    基礎的な実験テクニック,独立研究の体験トレーニング,Ph.D.の学位を得る.

    →このコースを終了すれば誰もが研究学派の仲間入り.ギーセン教育制度は他の科学の分野にも広まる.新時代の科学の大衆化・職業化に大きな役割.