アレキサンドル・コイレ,菅谷暁訳
『ガリレオ研究』 法政大学出版局,1988年

98M42134 木本研 小林 学

第一部 古典科学の夜明け

序説

古典物理学の師,先駆者はアルキメデスである. 科学思想史の三つの段階
  1. アリストテレスの自然学
  2. 14世紀にビュリダンやニコル・オーレムのパリ学派によって練り上げられたインペトゥスの自然学
  3. アルキメデス的あるいはガリレイ的,数学的,実験的自然学

第一章 アリストテレス

アリストテレスの自然学は誤り,しかしひとつの自然学をなしており,数学的ではないにしろ高度に練り上げられたひとつの理論である.

◎運動について
自然的な運動ではこの原因は物体を本来の場所へ連れ戻そうとする物体の本性そのもの,つまり物体の形相である.この形相が運動を維持.それに対し,自然的でない運動は動体に結びついた外的動因の連続的作用がなければならない.
アリストテレスは遠隔作用を認めないので,運動の伝達には必ず接触が必ず必要となる.
このアリストテレスの自然学は,驚くほど首尾一貫した理論であり,投擲の経験に矛盾するというただ一つの欠点しか持っていない.
アリストテレスは動因がないように見える投擲の運動を周囲の媒体の反作用にによって説明.天才的な説明であるが共通感覚の視点からすれば,少しも真実だと思われない.そこでアリストテレスの力学に関する攻撃はどれもが「何に依って投射体は動かされるのか」という論議を巡って行われることになった.

◎空虚の否定
すべての物体はおのれの自然的な場所に留まろうとする傾向,したがって強制によって離されればすぐにそこに戻ろうとする傾向があると考えられてきた.その傾向が物体の(自然)運動を規定する.すべての自然運動は直線的に行われ,すべての物体はおのれの自然的な場所へ可能な限り速く,つまり周囲の媒体が許す限り速くおもむくという結果が得られる.それに対し媒体が何もないなら,物体は無限の速さで進むことになる.アリストテレスには(もっともなことではあるが)瞬間的な運動は不可能に思えた.したがって自然運動は空虚の中では起こり得ない.強制運動,例えば投擲運動は空虚の中では動因のない運動と等しくなるであろう. →空虚(ユークリッド空間)はコスモス的秩序の観念と両立しない.

第二章 中世の議論−ブオナミーチ

ガリレオの師,ブオナミーチ
インペトゥス
「強制的な運動の原理は,動体にとっては完全に無縁のものであり,その働きを補佐するのは動者から受け取ったインペトゥスを動体に与える媒体だけである.」

第三章 インペトゥスの自然学−ベネデッティ

ジョバンニ・バッティスタ・ベネデッティは「パリ学派」の自然学の断固たる支持者.
「投射体の速さが持続するのは媒体の反作用のせいではない.それどころかこの反作用は投射体の速さを妨げることしかしない.運動そのものは動体に内在する運動力(=インペトゥス)によって説明される.」
動体に内在するインペトゥス,運動力,この運動の原因はいったい何であろうか?それは動体に籠められた,あるいはしみ込んだ一種の性質,能力,性質である.

速さは物体の相対的重量に比例する,つまり物体の絶対的重量を媒体の抵抗で割ったものではなく,それをひいたものに比例する以上,そこから直ちに,際限なくは増えず,抵抗がなくなっても速さは決して無限にならない.

第四章 ガリレオ

「籠められた力」(インペトゥス)の力学を首尾一貫した形で発展させようと努めた.さらに自然学の数学化あるいはアルキメデス化を徹底して押し進めようとした.

アルキメデス的な自然学とは演繹的かつ「抽象的」な数学的自然学であり,これこそがガリレオがパドヴァで発展させる自然学であった.ガリレオの力学が関わりを持つのは幾何学的空間におかれた抽象的物体,つまりこのアルキメデス的物体だけである.慣性の原理が適用されるのもこの物体のみ.またアリストテレスと共通感覚の物体の代わりにこのアルキメデス的「抽象的」物体が登場するとき,初めて空間は自然学的役割を演じなくなり,運動は動体に影響を与えなくなる.それ以後は動体は静止や運動といった己の状態に無関心であり続けることができる.さらに状態となった運動は静止と同じ存在論的身分にたどり着き,静止と同様に,それを説明する原因を必要とせず独りでに際限なく保存されるのである.

第二部 落体の法則−デカルトとガリレオ

序説

古典物理学の第一法則=「落体の法則」
物体の落下は一様に加速された運動である.
デカルトとガリレオは間違いを犯した.なぜ間違えたのか?

第一章 ガリレオ

インペトゥス(動体の運動の内的原因)の放棄.
→運動を維持し継続させるのはインペトゥスではない.運動はひとりでに保存されるのである.

間違い
「速さの比が時間の比の逆になる」→通過距離が同じ場合にのみ成立. 「動体の全体の速さが,行程のすべての点で獲得した瞬間の速さであるということも運動のすべての瞬間に獲得した速さの総和であるということも同じように正しい」
→しかしこの二つの「総和」は同じものではない.つまり時間に関して恒常的な一様の増加は,空間に関してのそれと同じではなく,とりわけ通過距離の一次関数として増加する速さの「総和」は,三角形によって表示することはできない.それが可能となるのは,時間に関して一様に増加する場合だけである.それが可能になるのは,時間に関して一様に増加する場合だけである. 時間に関して極端な幾何学化を行い,時間に当てはまるものを空間に移す.

第二章 デカルト

ベークマンとデカルトとの出会い(1618年).
ベークマンはデカルトに会う前から物体がなぜ落下するかを知っていた.なぜそれが加速されるのかも知っていた.1613年にひとたび指導させられたものは永遠に運動し続けるという重要な命題を定式化していた.
しかし,ベークマンはそれを数学化することができなかった.それをデカルトに依頼.
デカルトはベークマンの運動保存の原理を力保存の原理に置き換える.速さは力に比例するという考え方から出発し,一定の力は一定の速さを生み出すという結果を生み出す.
→インペトゥスの自然学の古典的考えに戻る.
しかし,問題は時間に関して増加するある量的変化のリズムを計算すること.成功するが,積分の結果を空間の言葉に翻訳する際に,巧妙な表示法と極端な幾何学化の誘惑に負けて誤謬に陥る.

10年後再びメルセンヌともう一度落体の問題に取り組む.
デカルトは動体の速さは通過時間ではなく通過距離の依存するという謝った定式をメルセンヌに与える.メルセンヌはデカルトの説明がよく理解できなかったらしく(それも当然である)デカルトは執拗に繰り返す.

◎デカルトの“革命”
1630年頃デカルトの思想が極めて激しい変貌を遂げた.
デカルトは新しい科学の基礎をなす新しい運動の概念をこの上ない明晰さで定式化できるようになる.さらに慣性の法則を定式化.科学者デカルトを哲学者デカルトと同じ第一級の地位につかせるもの.

運動を“過程”ではなく“状態”にする.アリストテレスの見事に秩序だったコスモスでは,運動=過程はそれを維持する原因が明らかな仕方で必要だったのに対し,デカルトの世界=延長では,運動=状態は明らかにひとりでに維持され,デカルト哲学が切り開いた完全に幾何学化された無限の空間の中で際限なく直線上に動き続けたのである.

デカルトの誤り
重さは地球の周囲を回る渦巻状に回る微粒子によって地球によって押されるから.→落下の仕組みを衝突の仕組みに分解.

デカルトはガリレオのような抽象的な自然学ではなく,具体的な自然学しか作れなかった.ガリレオ流の抽象は彼を単純な事例ではなく,思考できない事例へと導いた.デカルトは単純な事例ではなく全体的な事例を研究しなくてはならなかった.そしてそのような研究,つまり流体内部における物体の運動の研究は,彼の数学的手段ではまったく手に負えないものだった.

第三章 ガリレオ再説

ガリレオのすべての実験はあやまりである.しかし真実を保持していたのはガリレオである.

ガリレオの実験
自由落下を斜面の落下で代用する.
「落体の通過距離はいつでも時間の自乗に比例し,それは面の傾き,つまり球が落下する溝の傾きに関わらず一致しました・・・・・・傾きが異なる斜面での落下時間相互の比はすでに証明されている比に一致いたしました.」→実際には起こりようがない.当時の人には間違いだと思われた.しかしガリレオは正しかった.彼は実験データの中に理論の論拠を求めたかったから.

結論

ガリレオの思想は自然学的=数学的なものである.現実は数学を具現している.
ガリレオは経験から出発した.しかしこの「経験」は感覚的な生の感覚ではない.理論や定式は運動の本質を表すものなのである.

第三部 ガリレオと慣性の法則

序説

慣性の法則はこの上なく簡単な法則である.「自己自身に委ねられた物体は,何かがその状態を変えにくるまではいつまでも不動あるいは運動の状態を続けるという一事だけである」=非常に重要な法則.自然の全体的解釈を決定する運動観を含み全く新しい自然学的運動を合意するから.これは運動を状態である宣言し,静止と運動を同じ存在論的次元に位置づける.

第一章 コペルニクスの自然学的問題

第一節 コペルニクス

アリストテレス派の反論
地球が動いていたら,落下物は真下に落ちない.
コペルニクスの回答=物体は西から東への円運動の傾向がある.

第二節 ブルーノ

宇宙の無限性,自然の統一性,空間の幾何学性,場所の否定,運動の相対性を主張.ニュートンに最も近い.しかしブルーノのアニミズム的な反数学的形而上学は新しい自然学を生む出すことができなかった.それを生み出すことができるのはニュートンだけだったのである.

第三節 ティコ・ブラーエ

「自然的」運動の概念によれば,物体が「自然的」「強制的」という二種類の運動で動かされることはない.それらの運動は必然的に妨げあうはずである.=よきアリストテレス主義者.

第四節 ケプラー

物体の静止を物体の運動と同じ存在論的平面に置こうとしない.ケプラーにとって慣性とは運動に抵抗する力であり続けた.運動は決して状態ではない考える以上,慣性が単なる状態の持続になることは決してなかった.
デカルト以外の誰一人として,なぜ世界の中に静止があるのか問うた者はいなかった.反対に誰もが常に運動の原因,源泉を探し求めた.デカルトのほかには誰一人として,静止の量という概念を作り出さなかった,誰もが常に運動の量を語っていたのである.

第二章 『二大世界体系について対話』と反アリストテレス主義の論争

実験の重要性
相反する2つの理論が正しいか決められるのは実験だけである.古典科学は実験に基礎を置くもの,スコラ的自然学の空疎なア・プリオリの推論に実験的推論の富と豊穣さを対置するもの.しかし,『天文対話』の中で実験の擁護者として登場するのは,アリストテレス主義者のシンプリーチョであり,逆に実験の無益さを主張しているのが[ガリレオの代弁者である]サルヴィアーティである.
→運動の本質は実は実験では分からない.実験がなくても結果が生じる.思考実験を開始.

ガリレオの間違い

  1. 現実の物体の自然的性質としての重さを捨てない.
  2. 現実の水平面は球面である.

結論

運動保存の法則,円運動の一様性と無限性の持続=『対話』の初めから決まっていた.
運動の相対性=二日目から仮定されていた.
シンプリーチョが持っていた教養人の精神は,既成の観念に凝り固まっているので,説得できない.ならばどうやってガリレオは読者を説得したのだろうか?
ガリレオの横滑り
デカルトのように,古い観念に代えて別の自分自身が作った定義を与えるのではなく,横滑りによって議論を進めていく.
自然運動と強制運動の質的違い→地球の自然運動はもはや本性の共有があるからではなく,その物体が地球の運動に参加しているから→地球の運動の特権的性格はそれが円運動だから→円慣性は海上を走る船まで拡大される.このようにして自然運動の特権は完全に否定される.これ以後は,運動はもはや自然的であるからではなく,ただ単に運動であるからゆえに保存されるのである
しかし,保存されるのは円運動ではなく直線運動.ガリレオの理論はそれ以上横滑りしない

第三章 ガリレオの自然学

○重い物体の自然学
ガリレオがその自然学の内部に共通感覚による区別を保持した.
すべての物体が「重さ」を保持した.重さは運動の源泉であった.重さとは物体が有する唯一の「自然学的」な特性だったのである.
落下運動は極めて例外的特徴を有している.絶え間なく加速される運動という点である.それに落下する物体がどのようなものであろうと常に同じ速さで落下する.さらに速さの増大がどのような比率でなされるかを知らなければ,何の利益にもならない.落下運動が数の法則に従うということを発見することこそ,誇るものがある.

○なぜガリレオは慣性の原理の定式化が不可能だったのか?

  1. コスモス(秩序だった宇宙)を完全に放棄せず空間の無限性を率直に認めようとはしなかったから.なぜなら(仮説だが)無限宇宙説がブルーノにもたらした結果を恐れたから.
  2. 重さを捨象しなかったから.遠隔作用を無視.なぜなら数学化できなかったから.
  3. 円運動の慣性
    プトレマイオスは地球の運動に反対する論拠を遠心力の中に見いだし,地球の自転による円運動は地球を粉々してしまうだろうと主張した.(実はうそ.遠心力は速度ではなく角速度による.実際遠心力の効果は赤道付近でも地球の重力のわずか0.35%にすぎない.)
    プトレマイオスの説明は全く詭弁的なものであった.がガリレオの主張とも全く相容れないものである.ガリレオによれば運動に参加している物体は運動を感じることができないから.特に円運動をしている地球でも停止している地球でも,運動の相対性の原理が適用されるなら,他の多くの円運動と同様に遠心力を生み出し得ない.ガリレオはプトレマイオスが主張する効果は起こり得ないことを証明しようとする.巧妙な証明であったが誤りであった.
    ガリレオは重い物体が地球の中心に引かれるのと,遠心力という外的,強制的作用を同じ次元に置くことができなかった.「重さ」と「質量」は混ざり合っていた.だからこそ彼にとって重さとは物体に作用する「力」にはなり得なかった.したがって物体はいつでもどこでも同じ重さであり,地球の中心に置かれようと星星のあいだに置かれようと常に同じ速さで落下したのである.

○デカルトとニュートンによる(直線状の)慣性の法則の不可能性
ニュートンにとって慣性の法則が不可能であるのは,他の物体の作用がそれを変形し歪め,妨げるから.
デカルトにとって慣性の法則が不可能であるのは,それを取り巻く他の物体が妨げるから.しかしデカルトにとっては孤立した物体は不可能であった.
ガリレオにとっては,物体は自ずから直線運動を拒むから.物体は自己の重量ゆえに下方へつれて行かれる.そして万一この重量が取り除かれても,運動が復活することはあり得ない.物体は消滅してしまうからである.
ガリレオの仕事はデカルトに委ねられることになる.

結論

運動は数学的法則に従う.時間と空間は数の法則によって結ばれる.ガリレオの発見はプラトン主義の失敗を勝利へと変えた.ガリレオの科学はプラトンの復讐だったのである.