E.J.ホブズボーム『産業と帝国』浜林正夫・神武庸四郎・和田和夫

E.J.Hobsbawm INDUSTRY AND EMPIRE

第一章 1750年のイギリス

第二章 産業革命の起源

第三章 産業革命 1780年−1840

第四章 産業革命の人間的諸結果 17501840

第五章 農業 17501850

第六章 工業化の第二局面 184095

第七章 世界経済の中のイギリス

第八章 生活水準 18501914

第九章 衰退の始まり

第十章 土地 1850年−1960

第十一章 両大戦期

第十二章 政府と経済

第十三章 長い好況

第十四章 1914年以後の社会

第十五章 そのほかのイギリス

 

第一章 1750年のイギリス

1750年ごろのイギリスは,農業や製造業が発達していた.

しかし産業より,商業が中心(商店主の国)と思われていた.

 

イギリスは市民革命を成し遂げ,議会政治が発達.しかしそれは貴族による寡頭政治であった.

その貴族も大陸から比べればはるかに非貴族的な貴族であった.=質素な生活

 

ヴォルテール「イギリス国民を豊かにした商業が,彼らを自由にするのに役立ち,その自由がまた商業を拡大した.」

イングランド(ウェールズやスコットランドは異なる)はすでに全国的な規模で貨幣経済に突入していた.

(1)(第二次)囲い込み

農村はすっかり貨幣経済の網の目の中に組みこまれており,さらに茶,砂糖,タバコのような完全な輸入食品の使用が農村生活の商業化をももたらしていた.→自作自営の農民の著しい減少

1660年の王政復古から100年の間に少数の大地主の手に土地所有が集中され,小ジェントリや小農民も犠牲に.数千人の地主が数万人の借地農に土地を貸出し,借地農はまた数十万の農業労働者や奉公人や,大部分の時間を賃労働に零細土地保有者の労働によってそれを経営するというイギリスの土地所有関係の特徴的な構造がすでに目に付くようになっていた.

  1. 家内工業の発達

さらにイギリスの産業や製造業の多くが農村のものであって,典型的な労働者は自分の家で働いている何らかの種類の農村の職人あるいは小土地所有者であって,何らかの生産物(衣類や靴下や金属製品)の製造に特化し,こうして次第に小農民(職人)から賃労働者へ転化しつつあった.農村は次第に専門の職布工,編物工,鉱夫たちの工業村になる傾向にありそのいくつかは工業都市へと発展した.また農村「家内」工業や「前貸し」工業制度の発達が現金取引の網の目を広げていった.

→生産しなくなった食料をそこへ売ることに特化した地域が別の地帯が存在.

その結果,

@政治的決定権を持つ地主階級に,彼らの土地の地中にある鉱脈や製造業に対する直接的な関心を抱かせた.地方の鉱山や製造業のためによりよく安い輸送の利益を期待=運河やターンパイク道路のような投資に関心.

A製造業の利益がすでに政府の政策を決定しえた.(ネーデルラントとは違う)それは商業者がロンドンと一部の港しか味方にできなかったのに対して,製造業者は国の大部分と政府の政治勢力を動員できたから.→外国の17世紀「キャラコの禁止」

イギリスの工業は「自由貿易」を要求するのに十分なだけ強力になるまでは,保護された国内市場で成長した.

 

第二章 産業革命の起源

(1)イギリス産業革命の特徴

@産業革命は経済成長の単なる加速ではなく,経済的社会的転換による,そしてそれを通じての,成長の加速である.

Aイギリスの革命は史上最初のものだった.

●しかし,歴史の近代に特徴的な局面,すなわち絶えざる技術革新と社会転換による持続的な経済成長を作り出さなかった.

●外部的な要因で説明できるものではない.

●少なくとも200年間にわたるかなり一貫した経済成長が先行していた.→準備を整えて工業化へ入った.

(2)イギリス産業革命の原因

工業化の主要な前提条件18世紀のイギリスにすでに存在.

@スコットランド,ウェールズ,アイルランドは低開発地域であったがイングランドは違った.工業化以前の人々の多くを伝統的な地位や職業に縛り付けている経済的,社会的,イデオロギー的拘束はすでに弱まっており,容易に切り離しえた.

A経済転換に必要な設備に投資するだけの蓄積(ただし鉄道以前の時代にはそれほど高額でなかったところの)を行っており,また投資に十分な基礎を持っていた.イギリスは市場経済であったばかりでなく,単一の国内市場を形成していた.それは発達した製造業部門と商業装置を持っていた.

Bイギリスのどの部分も海から70マイル以上離れているところはなく,船の航行可能ないずれの水路からはもっと近かったから,交通や通信は比較的安上がりであった.

C産業革命の初期の,技術上の問題は比較的単純なものであった.→専門の科学的知識を必要とせず,ふつうに字が読め,簡単な機械装置や金属加工に熟練し,実際の経験と積極性とをもつ人が十分にいればよかったのである.1500年以後の数世紀はそういう人を生み出し,技術的発明や生産設備の大部分は,小規模で経済的に進めることができ,少しずつ発展していった.

→イギリスの障害は比較的乗り越えやすかった.しかし,

ここで取り上げる産業革命の起源についての問題は,経済爆発への材料がいかに蓄積されたかではなく,それがいかに点火されたかということ.特に私企業経済が産業革命を生み出す仕方については多くの謎があるので,いっそうの説明が必要となる.

●その謎は,利潤を上げることと技術革新の関係にある.

私企業経済はおのずから革新に向かう傾向があると考えられているが実はそうではない.それは利潤への傾向を持つにすぎない.それが製造業に革命を起こすのは,それ以外のやり方よりもこのやり方の方がより多くの利潤を上げるという時のみである.しかし工業化以前の社会ではそのようなことはほとんどない.工業化していない国においては技術革新による儲けよりも高価なものを少量生産した方が儲かる.

 

それではどうして実業家たちに生産の革命をやらせるようにした諸条件は生まれたのだろうか?

 

(3)工業主義成立における三大需要部門

@国内市場の発達→燃料と十分な通風

工業経済の一般化のための広い基礎を提供し,そして工業化の過程をとおして内陸輸送における主要な改良の刺激を与え,それは石炭産業とある種の重要な技術革新の基礎となった.

A国外市場の発達→点火

国外市場の拡大=他国の輸出市場を次々と奪うこと.そして戦争や植民地化という政治的あるいは反政治的手段によって特定の国々の競争をつぶすこと.

輸出が政府の体系的攻撃的な援助を後ろ盾として火をつけ,そして綿織物で産業の主要部門を提供した.

B政府

戦争を進んでする.

イギリスの経済目的は商業や金融の利益に支配されていたのではなく製造業の圧力集団によってもつくられる.=商人と製造業者に受け技術革新と資本財産業の発展のためにいくつかの誘因を与えた.

●イギリスの攻撃性

18世紀にイギリスは五大戦争(スペイン継承戦争,オーストリア継承戦争,七年戦争,アメリカ独立戦争,革命干渉およびナポレオン戦争)起こし,この断続的な戦争の結果はいかなる国によっても成し遂げられなかった最大の勝利であった.すなわちヨーロッパ諸国の中で海外植民地の事実上の独占と世界的な規模での海軍力の事実上の独占であった.

 

(4)なぜイギリスが18世紀末に産業革命をなしえたのか.

イギリスの経済は,古い商業とは異なり,商業の流れをたえず強め,ヨーロッパの幼稚な産業を揺り動かし,時には実際に作り出していった.→「構造的なもの」

@日用品としての,海外の生産物への市場の発達

Aこの市場はそれらが大量かつ低廉に入手しうるようになるにつれて拡大しうるものであった.

B海外ではこういう生産物を生産するための経済制度(たとえば奴隷制プランテーション)の創出と,ヨーロッパ本国の経済的利益に奉仕するための植民地の征服とである.

 

海外の植民地および「低開発地域」の市場の集中と,これを誰にも認めない戦いの成功とがある.イギリスの工業経済は商業から成長したものであり,特に低開発地域との商業から成長したものであった.

→商業と海運がイギリスの経済収支を維持し,海外の一時産品とイギリス工業品との交換がイギリスの国際経済の基礎となったのである.

 

3 産業革命 1780-1840

1700 キャラコの輸入の全面禁止.(毛織物工業の保護)

海外市場へは戦争,その他理由でインド産製品が途絶えたときに良質なインド産の代替品を作り出した.1770年にいたるまで,綿織物の輸出の90%は植民地.特にアフリカへ運ばれた.

→イギリスの綿織物産業は輸出産業であり,しばしばヨーロッパやアジアなどの豊かな地方に入り込んだが,戦争や土着の産業との争いのために,この産業は常に低開発地域に向かっていった.19世紀の中頃以後はその主な販売先はインドと極東に向けられた.

イギリスの綿業はその最盛期には世界最良のものであったが,その終わりには品質の良さで競争するのではなく,イギリス帝国とイギリス海軍とイギリスの通商上の優位性によって与えられた植民地と低開発市場の独占にたよるようになり,しかもイギリスの政治干渉ではもはやそれも阻止できなくなったとき,イギリスの綿業は先が見えたのである.

 

(1)産業革命の開始

@綿業の機械化

紡糸と織布の能率の不均衡.

飛梭の発明→織布と紡績の不均衡

紡績機の改良

1760年代 ジェニー紡績機

家内紡績工ひとりで同時に数本の糸を紡ぐことを可能に

1768 水力紡績機

巻軸と紡錘の結合による紡績という独創的な考え方を用いた.

1780 ミュール紡績機

ジェニー紡績機と水力紡績機の結合

蒸気機関が適用される.

 

織布部門は手織機,手織工を増やすことで歩調を合わせた.1780年には力織機が発明されたが,この製造部門ではナポレオン戦争後に至るまで大規模な機械化はなかった.手織工は飢餓によって排除され,子供や婦人が取って代わった.1815-1840年の間に機械化が完成.しかしそれ以上の技術革新はなかった.→保守的

 

綿業の技術革新は非常に簡単なもの.

 

産業革命初期のころの技術が単純であったのは,単純な考えや仕組みの応用が,時には何世紀も前から気がついていたことの応用が,しかも決してあまり費用のかかるものでないものが,めざましい効果を生むことができたからなのである.

=あたらしさは革新の中にあったのではなく,むしろ実務家たちが昔から手の届くところにあった科学や技術を利用しようと思いついた素早さにあったのであり,そして価格と費用が急速に低下するにつれて広大な市場が財貨に対して開かれていったことにある.

 

(2)産業革命の結果 (新しい技術に基礎をおく新しい産業制度がもたらしたもの.)

産業内部で蓄積された資本が農場の抵当や宿屋の主人の貯金に取って代わり,技師が発明の才ある織布工兼大工に取って代わり,力織機が手織工に,工場プロレタリアートが多数の下請家内労働者と少数の機械化された施設の結合に取って代わった.

力織機の増加と手織工の減少

力織機の増加

1813 2400

1829 55000

1833 85000

1850 224000

手織工の減少

1820 250000

1840年初頭 100000

1850年中頃 50000

 

影響

@綿業の極度に分散化し分解された経営構造

A極めて弱体な,あるいは不安定な労働組織(児童,不熟練移民などの労働力)を特徴とする産業において極めて強力な労働組合が生まれた.

その力を奪おうと企ては失敗に終わった.

 

(4)革命的な変化

新しい人間関係,新しい生産体制,新しい社会,新しい生活のリズム,新しい歴史的時代の誕生.

@資本家的雇用主,労働力以外は何も持たずこれを売って賃金を得ている労働者

A工場生産

作業工程に特化した人間の手と機械によって編み出される生産制度.それらすべてが非人間的な(機関の)作業ペースとガス灯によって照らされる.革命的な労働形態.

B経済全体,生活全体が資本家の利潤追求と蓄積によって支配される.

 

(5)産業革命の伝播

工業化と技術革新全般を刺激=化学工業と機械工業

鉄と石炭の需要

採炭の技術革新=蒸気機関の発達,鉄道の発明

 

製鉄の技術革新=木炭の変わりにコークスによる鉄の溶解,1780年代 攪拌法と圧延法の発明,1829年ジェームス=ニールソンによる熱風炉.

製鉄産業が炭鉱地帯に移る.but19世紀の中頃に至るまで真の産業革命を経験しない.

 

なぜなら消費財産業は工業化以前の経済においても大量市場を持つが,資本財産業はすでに工業化しつつあるか,あるいは工業化した経済においてのみ市場をもつから.

→それを与えたのは鉄道の時代.(20年間に石炭と鉄の生産を3倍にし,鋼鉄産業を作り出した)

 

著しい経済成長をとげ,いくらかの産業転換はあったが,産業全般の革命はまだ.

→限られた産業革命(綿工業のみ)=産業革命の第一段階

 

(6)1830年代と1840年代の危機

社会不安=ラダイト,急進主義,労働組合,空想社会主義,民主主義,チャーチスト

絶望と飢餓がはびこる.

@革命の予感

イギリスの貧困は,それ自体資本主義の経済的諸困難の重要な要因=イギリスの国内市場の規模と拡大に限界を示した.

 

しかし,当時の経済は安い給料をもらっている人を考慮に入れていない.経済理論も実際の経済も資本家による資本の蓄積を重要視.それは

@産業発展には大量の投資が必要

@は長期的に見て正しい.

Aそのための貯蓄を得るためには資本家以外の大衆の所得を減らすことなしには難しい

Aについては当時はもっともらしく思われた.その当時金を持っていた人(大地主,商人,金融家)はそんなに投資しなかったから.

19世紀初期の実業家と経済学者の問題は2つ,彼らの利潤率と市場の拡張率.

工業化とともに生産は倍加し,価格は暴落.

戦争が終わった後,インフレーションからデフレーションへと変化→利潤幅への圧力大,なぜならインフレのもとでは利潤は特別の上昇を示し,デフレはわずかな遅れを示すから.

→利潤率がゼロになる恐れ.

 

市場の拡大があれば,こういう見通しは非現実的なものとなる.しかし,市場は生産を吸収するほど拡大してはいなかった.1830-1840年にかけて飢餓によっていっそう市場は冷え込んだ.海外の市場も工場で生産されたイギリス製品を十分に消費するほど成長していなかった.

その結果,労働者階級と中産階級が個々に,あるいは協力して根本的変化を要求.(1830-1840年代)

1829-1832 議会改革を要求 労働者は示威と蜂起.実業家は経済的ボイコット

1832以後 中産階級の急進派の要求が一部認められる.その後,労働者はひとりで戦い,そして敗北した.

1841-1842 最悪の不況 チャーティズムはゼネスト,中産階級の急進派は全国的なロックアウトによって飢えた労働者を町中にあふれさせ,政府に対応を対応を迫ろうとしていた.

 

1829-1846 食べるものが十分にないため絶望的になっていた労働者と,現在の政治や財政の仕組みが徐々に経済を窒息させつつあると信じていた製造業者たちとの結びつきによるものがこのような緊張を引き起こした.

 

「ヨーロッパに妖怪がでる.共産主義という妖怪が」(マルクス・エンゲルス)

 

4 産業革命の人間的諸結果 1750-1850

(1)産業革命で儲かった人々

@イギリスの貴族層とジェントリ層には工業化によってかえって生活がよくなったという以外,何の影響も与えなかった.

A地代は農産物の需要とともに増大し,都市や鉱山,製鉄所,鉄道,の発展によって上昇.農村の貴族社会に寄生していた上流階級の人々

新興の実業家階級には貴族の生活様式が待っていた

ジェントルマンになり,騎士か貴族になり,やがて議会に議席を持つようになる.

→大きな富を得たものは貴族寡頭制に吸収

それに入れなかったブルジョアジーは自らを「中産階級」と認識,彼らは古いしきたりや伝統には縛られなかった.

(2)産業革命で虐げられた人々

☆労働者←伝統的な生活や生活習慣を破壊され,それに代わるものは自動的には与えられなかった.

工業社会における労働の特徴

@仕事の代償として得られる現金賃金以外は取り立てて収入の源泉を持たないプロレタリアとしての労働

雇用主とのつながりが金銭関係だけ

A機械化された工場労働は規則性と繰り返しと単調さを課す.

B労働が大都市の未だかつてなかったようなひどい環境で行われるようになった.

不衛生な生活環境,工場の煙,都市の基本的な機能(上下水道,道路清掃,空き地)の不足,伝染病(コレラ,チフス)の蔓延,都市は人間関係を破壊.(雇用主と労働者の関係)

C工業化以前の経験や伝統や知恵や道徳は,資本主義経済が要求するような行為にとって十分な導きとはならなかった.過去の道徳経済と資本主義的経済的合理性の対立

例,社会保障の場合

労働者:人は生活費を稼ぐ権利を持っており,もしそうすることができないなら,共同体によって生存させてもらう権利がある.(伝統的な見解)

中産階級の自由主義的経済学者の考え:人は市場が提供する仕事に無条件で就くべきであり,合理的人間は個人的あるいは自発的集団の貯蓄や保険によって自発的に備えるべき.もちろん,最下層の人間をほっておいて飢え死にさせてはならないが,最低限以上のものを与えるべきではなく,もっとも惨めな状態において与えるべきである.

 

救貧法=貧しいものを救うというよりは社会の失敗を非難するもの.

あらゆる救済を外部の最低賃金よりも望ましくないものとし,貧困をその貧困の故に罰し,より以上に貧民をつくろうとする危険な誘惑から彼らを遠ざけるため強制的に夫と妻を引き離して監獄のような授産場に救済を限定

(3)質的な困窮

工業化はナポレオン戦争の終わりまでに手織工や機会編み工の数を増大.しかしゆっくりと破滅.

熟練職人は苦渋労働者に転落,社会の中の指導的な地位からも転落.

社会運動(ラダイトからチャーティズム)も死滅.

→単に時代の著しい貧困からのみ生じたものではなく貧しい人々の古い行動の方法からも力を引き出していた.

(4)物質的な困窮

@労働者が貧乏になる代わりに富者と中産階級が裕福になる.

A労働者の消費に対する圧力

工業主義は国民所得を消費から投資へ相対的に振り分けること.

具体的にはステーキの代わりに鋳造工場を造ること.→貧民から(投資する可能性のある)金持ちへ所得を振り分けること.

その結果所得を得た金持ちは投資,もしくは浪費してしまい,それ以外の小規模な企業家はますます労働者を圧迫するしかなかった.

さらにその経済は労働者の購買力に依存することなかった.ズボンを必要とするイギリス人は,仕立屋につくらせるか,捨てたものを拾うか,お恵みに頼るか,自分でつくるかのいずれかをとる.食料・住宅も増大する都市人口に追いつけない.

Bある種の階級の生活が悪化

農業労働者,

技術進歩によって置き換えられてゆく衰退産業(例,50万人の手織工)

ますます安く働くことで新しい機械と競争しようとする空しい試みの中で次第に餓死していった.

商品に対する需要に応えるため,技術革新ではなく,細分化と苦渋によって応えた非工業化職業(屋根裏や地下室で働く無数のお針子)

(5)社会的不安の増大

→社会的政治的不安は単に物質的貧困の繁栄であったばかりでなく,社会的窮乏化,つまり古い生活様式が破壊され,十分にこれに代わるものがなかった.

ラッダイト運動(機械打ち壊し運動)

1822年:イーストアングリア

1830年:ケントとドーセット,サマーセット,リンカーンの間の至る所で

1843-44年:東ミドランズと東部諸州で人々は最低賃金を要求して,脱穀機が打ち壊され,夜に干し草の山に放火された.

政治改革や革命といった綱領なしに機械を打ち壊した.

チャーチスト運動

1838-1848:最初は機械を打ち壊していたが,やがて貧困の原因が社会制度にあることに気づく.

1820年代初めと1829-32年:産業組織が支配的

1830年頃:いっそう自覚的になり,プロレタリア的に

1829-35:一般労働組合と最終的な武器であるゼネラルストライキの考えの誕生

これらの一連の運動を結びつけ,敗北や解体の後,それらを復活させたもの

=富の満ちあふれる社会で空腹を抱え,自由を誇示する国において奴隷となり,パンと希望を求めてその代わりに石と絶望を与えられた人々の普遍的な不満.

 

のちに社会運動(ラダイトからチャーティズム)も死滅.

イギリスの労働者階級が新しい闘争方法と生活様式を展開するにはさらに40年かかった.

 

5 農業

1800年代中ごろ:農業はすでにイギリスの基幹産業ではなくなる.しかしその役割は大きい.

@食料の供給源がイギリス国内のほかになかった.

A土地利害がイギリスの政治と社会生活を支配していた.→上流階級に属するということは所領と「議席」をもつということ.大地主は富裕で有力者.

1)小農民の消滅

雇用労働者で土地を耕作し,借地農が経営する主として大地主の国

農業が能率的な商業的生産者への転換を完成し,需要も都市人口の増大を通じて大きくなる.しかし,経済の論理は古い伝統と生活習慣の破壊をもたらした.

2)囲い込みと救貧法

囲い込み:共同地と開放耕地を自足的な自足的な私的土地所有単位に再編すること,あるいはこれまで共同の未開地(森林,粗草地,「荒蕪地」など)を私有財産に分割する.

→未耕地の利用を可能にし,商業的志向を持つ改良的借地農をその慣習に縛られた旧式の隣人から独立させること.(たてまえ)

その結果,小屋住農,小土地保有者は共同地利用の利益を失う.決定的なダメージ,彼らをまったくの賃労働者へ押し下げた.農村の貧困の原因に.

◎週賃金制度の導入

伝統的な農場奉公人は大雇用市で年決めで雇われ,独身なら借地農の家に住みこみ一緒に食事をした.彼の収入の大部分は現物支給であった.稼ぎは少なかったが少なくとも定期的に雇用されるという安定性はあった.しかし.週賃金制の導入は仕事をしていないときは賃金がもらえず,冬季の仕事が無くなった.(脱穀機の登場)

多くの家族を作る.なぜなら妻や子供は余分な収入をもたらし,時には救貧法による特別給付の対象となる.

→伝統的な家父長制的な農場の崩壊はその地方の労働の増加を促進し,その結果賃金が減少した.

1790年までに農村の貧民の必然的な衰退(イングランド南部や東部)

→貧困法による救済

穀物価格に依存する最低賃金が決められた.収入がそれ以下に下がると救貧税で補われた.(スピーナムランド制)しかしそれは借地農を援助することを意味した.

餓死しない程度に養われるが,それ以外には希望の無い労働者を退廃させ固定化させた.救貧税を高騰させ,しかも貧困を減少させなかった.

スピーナムランド制は,市場経済に直面した伝統的な農村秩序を維持しようとする最後の試み.

3)農村の工業化と復興

農業生産と生産性の向上(1750-1830後半)

技術革新ではなく耕作地域の拡大や大農場の能率の増大や作物の変化や輪作や家畜飼育法や道具のいっそうの広がり.

◎農業の近代化

1830年代:王立農業協会の成立(1838年)ローザムステッド農業試験場(1843年)の設立

「暗渠排水」の普及(1820

円筒状の粘土排水パイプ(1843

化学肥料の使用

1842年過燐酸石灰

1840-1847 ペルーのグアノの輸入が0から20万トン増大

 

資本の大量投資とかなりの機械化に伴う「高度集積農業」の進展

イギリス農業の黄金時代(1840,50〜)

 

1850年代には労働者の状態も改善→大量の逃亡(鉄道,鉱山,都市,海外へ)それによる労働力の不足,賃金の増大

穀物法の廃止(1846)により起こる.外国の競争にさらされる←地主からの反対

土地利害はその利害と地代を守ろうとしたのみではなく,社会的政治的優越性を守ろうとした.しかしそれに対する中産階級の挑戦を受ける.

貴族も中産階級と妥協に傾く.

 

今までの利権を守ろうとする借地農・地主層は抵抗するが,すでに勢力を失い1846,1879年貴族にも見捨てられる.

 

第六章 工業化の第二局面 1840-95

(1)石炭と鉄の時代

理由

@他の国々の工業化による需要の増大

工業化のために「世界の工場」からしか輸入できないもの=鉄鋼,石炭

A有利な投資のはけ口

鉄道建設=かつてないほどの巨大な産業

最初鉄道は鉱山から石炭を運び出し,貨車を蒸気機関を運び出すのに使う.

工業経済が輸送手段を必要としていたわけではない.有利な投資先を見つけようとする動き.

当初は海外へ,しかし失敗してひどい目に遭う.→鉄道へ投資

(2)各国の工業化

世界の鉄道建設

ドイツとアメリカ合衆国をイギリスと肩を並べるほどの工業経済に転化させ,北アメリカ平原,南アメリカのパンパス地帯,南ロシアのステップ地帯を農産物輸出用に開拓.中国と日本の抵抗を,艦隊を派遣して押しつぶし外国と通商するようしむけ,鉱産物と農産物の輸出に基づく熱帯・亜熱帯経済の基礎を築いた.

その結果

@重工業における産業革命

鉄および鉄鋼の供給を豊富に→高炉の生産能力の拡大

1850年:ベッセマーの転炉法 鍛鉄の製造

1860年代の平炉法

1870年代後半の塩基性炉 硫黄分の多い石炭を精錬に使える

鉱山労働者の増加.ひどい労働条件→社会主義的集団へ

A雇用全般の著しい改善

鉄鋼・石炭産業の発達→不熟練労働者の数を増やし,彼らに高い賃金を与え,農村の過剰人口を一掃.

同時に機械,船舶の建造における熟練労働の数を増大.労働貴族層を強化

低賃金な職場から高賃金への職場への移行→社会的緊張の低下

Bイギリスの資本輸出の増大

株式制度(みたいなもの)の発達

イギリスは鉄道により完全に工業化の時代へ

◎繊維産業のような危なっかしいものへは依存しなくなり,資本財生産基盤とするようになる.

◎資本財生産は近代的技術と組織を多種多様な産業へ拡張.イギリス経済はつくりたいと思うものは何でも作れる.

(3)工業経済の確立の結果(雇用主と労働者)

産業革命初期の資本主義的製造業者は,利潤を作り出す唯一の方法は最大の労働時間に対して最低の貨幣賃金を支払うことと信じていた.

労働者は相変わらず(北東部の炭坑夫の年間契約のような長期的にわたる硬直的な契約に縛られ,現物賃金や罰金といった非経済的強制によって)搾取され,一般的には1822年に明文化された契約法(雇用義務違反に対し,労働者は刑務所に,雇用主は無罪か罰金)によって身動きのとれない状態におかれていた.

 

いっそう高い賃金と短い労働時間が生産性を高めることは知られていたが雇用主はなかなか信じようとしない.

1824年:労働組合は正当化された.しかし可能な場合にはできる限りつぶそうとした.

当然,労働者は資本主義を受け入れなかった.理論的にも労働者に与えるものは何ももっていなかった.

 

1840年代:状況が変わってくる.

資本家たちは労働時間を延長したり,賃金を切り下げたりするような「外延的」搾取を放棄する.

緊張の緩和による.産業資本家たちはこういった変化を受け入れるほど十分に豊かになったと確信した.

1867 工場法の繊維工業以外への拡張

1867 選挙法改正 労働者階級に依存する選挙制度を法認

→イギリスの労働者はすでに革命的ではなくなっていると見なされた.

資本主義を容認する用意のある労働貴族層と指導者を欠いているために無力なプロレタリア的庶民に二分された.

チャーティスト運動は死に絶えていたから=社会主義はその誕生の国から消え失せた.

(3)イギリス経済の停滞

1873-1896 イギリス経済 不況の時期

交通革命によって一時産品の費用が急落,その結果,競争が起こると物価は低下した.=20年間の間にデフレーションの形を取り,物価を三分の一だけ下降させた.

◎海外から安い穀物が都市に入ると,イギリスの農業は崩壊した.しかし農業はたいして重要ではなかったので保護してもらえず,結局農業は競争を仕掛けられていないか,それが不可能な生産物をつくるようになる.

しかし,安い農産物,原料の流入はますますイギリスの利益となった.

◎工業経済は国内需要が満たされるにつれて供給過多になり,値下げ競争と新プラント建設という利潤の圧迫.

◎イギリスの金利生活者は北アメリカおよび世界の低開発地域からの利子収入になれきっていたので1870年代の債務不履行によって経済活動が一次停滞した.

◎他国での産業革命の進展(特にアメリカ合衆国・ドイツ)

イギリスだけでしか作れなかった生産物が,他国が国内向けにも輸出用にも作れることがはっきりした.=「世界の工場」の地位から転落

 

イギリスのとりうる道はただ一つ.

これまで未開発であった地域を世界の諸地域の経済的な(そしてますます政治的になった)征服であった=帝国主義

 

その結果

@帝国主義の時代

低開発地域おけるイギリスの実質的独占の終焉=その結果,潜在的競争者に対抗して公式に帝国の線引きをする必要性.しかし経済的見通しは全くなかった.

A政府と私企業の結びつき

企業は国家による後ろ盾を必要とした.それは自由を与えてもらうばかりでなく助けてもらうためであった.

B政治の根本変化

1870 自由党一色 (グラッドストーン)ブルジョアジー,労働者,旧ホイッグ系の地主貴族

1890 自由党分裂

すべての地主貴族と大部分の資本家党員は脱退して保守党となった.

労働組合に支持され,社会主義者に鼓舞された独立労働党が成立

インフレによって不況を脱したときイギリスは世界の工場ではなくなっていた.

 

7 世界経済の中のイギリス

 

19世紀の中葉,イギリスは世界の石炭の三分の二,鉄の半分,鋼(供給量はわずか)の半分,綿布の半分,金物の(金額表示で)40%を生産.

1)イギリスの相対的衰退

1890年代にはイギリスは鉄鋼生産においてドイツとアメリカに追い越される.

@発展したイギリスの産業を維持するほど,もともと人口が多くなかった.また人口の大部分である労働者階級が貧乏だったために生活必需品以外の需要がほとんど無い.→国際貿易を発展

A工業化を独占し17801815年の間に海外の低開発地域との諸関係を成立したという理由だけで,異常なまでに国際貿易を発展.=イギリス産業は国際的な真空地帯で発展.それはイギリス海軍の活動によって清掃されたため真空地対だったのであり,また競争国がイギリスの支配する外洋を飛び越えられなかったため空洞として維持された.

→イギリスはすっかり外国貿易に依存する.おのおの経済がその地理的にふさわしい一時産品を世界の工場の生産品と交換する.

しかし,イギリスが世界をまったくこの形に返られなかったことは確か.先進国同士の貿易は後進国とのそれよりも密度が高い.工業化によって発展しようとする国はとりあえずイギリスを必要とする.イギリスの資本,機械,技術的熟練の供給を受ける.

しかし,工業化しつつある経済は,イギリスに対抗してその産業を保護しようと試みる→局地的経済の確立=イギリスの必要性は急激に低下.

 

イギリスは唯一の近代的経済であったから多くの低開発地域は実質上イギリス以外にものを売ることができなかった.発展した諸国は急速な工業化の時期に入りつつあり資本と資本財の輸入需要が事実上無制限.発展した世界とかかわりを持ちたがらない諸国も砲艦と商船によってそうせざる得なくなった.世界の中で最後まで鎖国していた諸国(中国と日本は)こうして1840から1860年までに近代的諸経済と無制限の交流を強制された.

2)自由主義経済の崩壊

@帝国主義の時代

1873年以降 発展した諸国の競争が起こる.

イギリスだけが自由貿易に基づいたり利害をもつ.

◎イギリスの輸出品は近代的な抵抗力のある競争的市場から低開発市場へ転換

ラテン・アメリカ,のちに東インドが重要な市場になる.インドだけは唯一自由放任理論が適用されないところ.極東にインドから輸出し(ほとんどがアヘン)その黒字を本国との貿易赤字によって吸い上げられる.

イギリスの外交政策,軍事政策はインドをいかにして安全に支配するか.

イギリスは低開発地域おける非公式帝国をその4分の1からなる公式帝国に交換した

イギリスにとっては後退

Aイギリス工業の衰退

イギリスの工業が旧式化した.

経済を近代化することではなく,伝統的状況の中に残っていた諸可能性を利用し尽くすことで177396年の大不況から逃れた.

他の後進国(インド・中国・日本)が工業化する=有形貿易の赤字

第一次大戦後,石炭輸出の減少

逆に無形所得は増大

イギリスの工業が停滞したのにイギリスの金融業は勝ち誇り,世界の決済体系の仲で海運業者,貿易商,仲介業者としてのイギリスは不可欠のものとなっていった.(1870-1913

第一次世界大戦がこのネットワークを引き裂いた.イギリス政府はそれを元のままにしておくために絶望的な努力を払った.

イギリスはアメリカ合衆国に巨額の債務を負うことになった.

 

1919年以降イギリス政府は1913年の状態を復帰させようとした.一時は復興したかに見えたがそれは幻想であった.総投資所得は第一次大戦後,1870年の状態に.第二時大戦後,1860年の状態に.

1929年の恐慌は1913年以前の良き時代への復帰という幻想を打ち砕き,第二時大戦はそれを葬った.

 

関税障壁により,ロンドンの優位および完全な自由主義経済という砂上の楼閣は動揺.実は1870年代には死んでいた.