1999 January 27 水沢光
「歴史における技術の勢い:ドイツでの水素付加 1898-1933」
Thomas Parke Hughes,"TECHNOLOGICAL MOMENTUM IN HISTORY: HYDROGENATION
IN GERMANY 1898-1933",PAST AND PRESENT,44.
1933年12月、ドイツの化学大企業I.G.FARBEN は国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)に人工ガソリンを供給する契約を結んだ。14年後のニュルンベルク軍事法廷で、検察側は「この契約は侵略戦争を準備するための、ナチスとファルベンとの陰謀的同盟の証拠だ」と主張した。
この論文は「陰謀説」を論破するものではなく、「技術の勢い」の考察へと重点を移すものだ。
1898年、ブリストルでのBAASの会議で、Sir William Crookes は述べた。「食糧危機を救うために、化学者は窒素肥料を増産するべき。」
この警告は特にドイツに当てはまる。ドイツは世界最大のチリの硝酸カリの輸入国だった。天然から人工へ。Crookes
は、大気には十分な窒素(7トン)があることを強調していた。問題は、窒素にうまく付加できるかどうか。第一次世界大戦の前に開発されたのが
Haber-Bosch法。窒素と水素を結び付け、人工のアンモニアを作るというもの。Fritz
Haber(1868-1934)ドイツの化学者。 Carl Bosch(1874-1940)は技術者。2人ともノ-ベル賞をとった。1909年までに、
Haberは研究室レベルで、高温高圧状態での窒素と水素の結合に成功した。BoschはThe
Badische Anilin-und Soda-Fabrik (BASF) の技術者。注)1925年、BASFは他の染料会社との合併によりI.G.FARBENになった。1913年、オッパウに小さなHaber-Boschプラントをつくった。戦争のため、天然資源の輸入がストップし、需要は増えた。戦争が状況を進のを早めた。戦争初期には当初の予想の年間7000トンを上回る、100000トンの窒素へとプラント容量を拡大。Leuna
に新しいプラントを建設。1916年春に着手、一年後に始動、戦争末期には200000トンの容量の4分の3が使われた。このプロジェクトは科学者・技術者に教育的経験を与えた。BASFの化学者、技術者は高温高圧触媒による水素付加という新しいテクノロジーの潜在能力を身につけた。
経営に関わり、会社の戦略を決めるBoschが水素付加に関心を持っていた。戦後、生産プラント、研究者をどうするか?
これが推進力になり、新しい水素付加プロジェクト開始。数年間の研究開発の後、1932年、BASFは人工メタノールの製造を始めた。この製造過程は多くの点でアンモニアと似ていた。同じ温度圧力。違いは触媒。アンモニアの時は金属、メタノールは酸化物。
人工ガソリンの開発。この決定は、政治経済などの要因と関わりながら、水素付加テクノロジーの推進力によるもの。アメリカでの車産業の発達。1920年の200万台から1923年の350万台へ。これに対して、ドイツは1925年に4万台、1928年でも10万台。世界の流れに乗り遅れる。ドイツには燃料の石油がない。石炭はあった。これが石油になれば、ドイツの政治的経済的地位は向上する。また、外貨の不足。車の必要性も上昇していた。
人工ガソリンがナチ支配下の再武装、戦争に結びついたという見方においてはBosch
とFARBENの幹部が自分達がつくるガソリンの未来の軍事利用を考えていたかどうかが問題になる。第一次大戦中に窒素を供給したBASFの人々は気付いていただろう。しかし、それは人工ガソリン開発決定の主要な理由ではない。工場の能力を十分に使いたいと考えたため。
開発はなかなかうまく行かない。1926年から1932年までに人工ガソリンへの投資は1億マルクになった。経営を圧迫。新しい触媒を見つけて、1925年、研究室では成功。1926年
9月、容量年間10万トンのプラントの開発を発表。1927年4月までに実験プラント完成。しかし、フル・スケールは困難。精製していない生の原料を使うので。
1928年、今年度中に10万トン製造を公約。しかし、1929年で48000トン。費用も予想外に高い。経営陣が中止を求めるも、続行。プロジェクト続行派は政府に頼ったはず。
1930-31年、Leunaプラントでは、目標の年間10万トンを達成。しかし、価格はリッターあたり40-50ペニッヒ。
1925年にLeunaプラントが計画された時、アメリカの輸出ガソリンはリッターあたり17
ペニッヒ。1929年、11ペニッヒ。1930年、7ペニッヒ。1931年、5ペニッヒ。FARBENは当初、将来の価格を20ペニッヒと予測していた。
人工ガソリン・プロジェクトはアンモニアと同じ状況を必要としていた。つまり、戦争などで、他国の安い原料が入ってこない環境が必要。政府も無視できない。輸入ガソリンの関税を高くする。1929-30年、関税は4ペニッヒ。Bruning政権(1930年3月〜1932年5
月)は16ペニッヒ。しかし、世論の反対。
1932年、経営陣、ヒットラーと会談。これは、FARBENがユダヤ系の国際金融資本と手先になっているというマスコミの攻撃を止めさせるというだけでなく、ナチスに関税を維持し、政府の支援の増加を求めるもの。インタヴュー前、ヒットラーは関税が高すぎて自動車産業が発展しないと考えていたようだ。しかし、インタヴュー後は、モータリゼーションと経済的自給自足政策を統合して考えるようになったようだ。ただ、1932年の時点では、
Leunaプラントを存続させることが、経済計画、再武装のキーポイントだった分けではない。初めは、石油を輸入して重工業で雇用を作るつもりだった。しかし、断念。経済安保へ。1932年においても、ヒットラーがFARBENにガソリンの供給を頼ることを決めていないとすれば、再武装に付いて経営陣と共謀するはずもない。1933年、状況は変わる。FARBEN、
40万マルクの選挙資金をナチスに提供。これは共謀の証拠か? この資金提供は、政治的支援を受けるために力のある政党に資金援助をする数年来のやり方の延長と見ることもできる。ヒットラーが権力を握る前から東ヨーロッパの征服を望んでいたと考える歴史学者もいる。しかし、東ヨーロッパの征服は天然石油につながるので、それはありえない。
1933年12月14日、経済大臣FederとBoschの合意。「年35万トンにガソリンを増産、政府がコストに見合う価格を保証。」
戦術は時とともに変化しても、Leunaプラントを守るという戦略は変わらない。この戦略は、技術の勢いとも調和している。
たくさんの力を集めなければならなかったので、水素付加のテクノロジーは、開発した会社に負担をかけ、極端な政党との協力という攻撃されやすい致命的な方針に会社を導いてしまった