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1997.2.3 墓参後、近くの生家に向かう 徳島県美郷村 |
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「後藤田正晴」 |
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<インタビュー> 聞き手・蛭田有一 |
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両親の思い出についてお話しください |
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『 親父が亡くなったときにね、遺体が病院から家に戻ってくるので、 |
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村堺の峠まで母親と一緒に迎えに行ったんですよ。 |
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その母親が僕の頭を撫でながら、これで片親にしてしまったね、 |
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僕の親父は地方の有力者だったもんだから、村の学校は親父が力 |
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を入れて建てたわけです。 |
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講堂に親父の写真がひとつ飾ってあったくらいです。』 |
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1997.2.3 生家跡に立つ 徳島県美郷村 |
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<インタビュー>聞き手・蛭田有一 |
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『 教育には熱心だったと思うんだけど、家に帰って親父に教えられた |
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なんていうのはなかったと思いますよ。 |
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母親からも、学問のことでいろいろ言われた記憶は全くないですね。 |
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ただ親父が年取ってから生まれた子供ですから、早く学校へやりたい |
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という気持ちがあったんじゃないかな。学齢に達しないのに学校に |
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行っちゃったんですよ。 |
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昔の話だから、そんなわがままがきいた時代だったんじゃないかな。 |
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ただ成績表は残ってんですけど、ほとんど10点満点です。』 |
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1997.2.3 徳島県美郷村の住人と挨拶 |
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<インタビュー>聞き手・蛭田有一 |
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『 80年の生涯を振り返ってみてね、いろんなことがありましたけど、 |
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僕の脳裏から離れないのは、やはり肉親との縁が薄かったという |
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ことですね。両親と早く別れたということですね。 |
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これは子供の時の話ですからね。人格形成には一番大きな影響を |
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与えたと思います。 |
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なんで俺だけ両親がいなんだという思いをずっと持ちましたね。 |
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それだけに、一方では負けず嫌いの性格、頑張り屋になったと思う。 |
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しかし同時にね、不幸な境遇の人に対する憐憫の情というか、同情心 |
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というのが人一倍強くなった。 |
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世間の差別意識っていうのは、僕は絶対に許さんという気持ちが |
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非常に強い。小学校の時からそうだったな。』 |
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1995.8.16 軽井沢の別荘で夫人とくつろぐ |
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<インタビュー>聞き手・蛭田有一 |
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長年連れ添った奥様について一言お願いします。 |
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『 苦労をかけたなあ。政治家の細君というのは皆そうだな。』 |
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奥様とは本当に仲がよろしいですね。 |
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『 それは外に出たときは仲がいいんだ。家に入ったらそうはいかんよ。 |
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年中怒られてるよ。気にしないだけの話です。 |
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そうだね、いちばん報われないのが政治家の奥さんじゃないかな。 |
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日本の社会では、夫人は後に引いていなければならない。 |
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それで実際は、やっていなければダメなんだ。難しいんだよ。』 |
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1996.8.17 自宅、夫人のアトリエ |
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<インタビュー>聞き手・蛭田有一 |
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涙もろいと聞きますが |
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『 僕は涙もろい。子供にも冷やかされることがある。 |
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哀れな場面を見ると涙が出るし、人の話を聞いてもやっぱり涙ぐむね。 |
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子供の時、両親がいなかったことが尾を引いていると思うな。』 |
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今一番の楽しみは何ですか。 |
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『 いや、もう楽しみにしていることってありませんよ。 |
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できるだけ健康維持に気を付けているだけの話でね。 |
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あとはもっぱら本を読んで、家の中で生活を楽しんでいるだけですね、 |
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散歩をしてね。』 |
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1996.8.17 自宅マンションのテラスで体操 |
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<インタビュー>聞き手・蛭田有一 |
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人を見抜く尺度とは。 |
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『 僕は人を見る場合、僕より地位の上の人を見る場合は、ああこの人は |
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偉いなという人で、僕と同じと判断する。 |
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僕より地位の下の人を見る場合、この人できるなという人は僕より |
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遥かにできる人だと。 |
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そして何かちょっと足りないがまあいいかというのが、僕と同じくらい |
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の人だなという見方をするんですよ。 |
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人の力量って30分も話せば分かるんじゃないかな。』 |
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1996.5.27 衆議院第一議員会館 後藤田事務所 |
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<インタビュー>聞き手・蛭田有一 |
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人を上手に使うには |
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『 役人時代は20数万人の人間を使っていたわけですからね。 |
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そりゃあ、いろんな人がいる。能力をよく見ることだよ。 |
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叱るときは、逃げ口を開けておくことだよ。袋叩きをしてはいかん |
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ということではないかな。 |
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ただ僕はどんな失敗しても、一度は許すんだよ。ふつうはその時、 |
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左遷するわね。僕は横転しかさせないんだ、左遷はしないんだ。 |
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そこで本気で反省して仕事をしているかを、特に見ているわけだ。 |
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そこで立ち直ったやつは、その過去を全部消してしまうんだ。 |
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もう一遍失敗したときは辞めてもらう。 |
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実際は、酒の失敗は直るね。ただ女の失敗だけは直らないなぁ。』 |
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1997.2.2 徳島に向かう機内 |
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<インタビュー>聞き手・蛭田有一 |
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嫌いなタイプはありますか |
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『 ありますよ。顕示欲とかパフォーマンスとか恰好ばかりつけて中身の |
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ないのが、僕は一番嫌いなタイプだ。能力があっても尊敬しない。』 |
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人生に運、不運はつきものですか。 |
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『 人間というのは振り返ってみると、運というのはあるなという気がする。 |
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内閣総理大臣になる人を見たら分かるでしょう。 |
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運がなければなれませんよね。資格のある人が全部なれるわけでは |
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ありません。 |
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政治家を見ていると運がなければダメなもんだなと思うことが多い。 |
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僕は運勢は認めるけれど、ただの運命論者ではありません。 |
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それなりの努力をして初めて運は巡ってくる。努力のないところに運は |
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ないと思っている。』 |
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1995.5.28 政治家のパーティーに出席 隣は中曽根康弘氏
於ホテルニューオータニ |
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<インタビュー>聞き手・蛭田有一 |
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座右の銘はありますか |
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『 それがまた嫌いなんだ。自分のできんことを書いているね。 |
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僕は政治の世界に入ったものだから、よく字を書かされるんですよ。 |
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昔は「泥中にして白く清し」とよく書きました。 |
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これ、政治の中にいる者の気位ですね。しかしこれ、なかなかでき |
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ないことだ。だいたい泥中にして泥まみれというのが普通だものね。 |
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1995.9.19 衆議院第一議員会館 後藤田事務所 |
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<インタビュー>聞き手・蛭田有一 |
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これまでの人生を振り返って思うことは |
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『 僕は運に恵まれたなということだ。ただそれは人並み以上の努力の |
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上にだよ。さっき言ったように、運というのはじっとしていても来る |
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もんじゃない。 |
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努力して必ず報われるかというと、世の中そんなに甘くもない。 |
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報われるというのは、それだけの運というものがなければ報われな |
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いという気がするんだけどね。努力した上に初めて運というものが |
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くっついてくる。 |
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これまであまり挫折なしに来ましたからね。これはやっぱり恵まれ |
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たんではないですか。 |
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終戦直後かな、東京の府知事をやった明治の人だけど、藤沼庄平と |
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いう人の講演を聴いたんだ。「藤沼は棚ぼた式の男と他人は言う |
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が、俺はぼた餅が口に入るまで棚の下に歩いて行く努力をしたよ。 |
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それだけの努力をしないでぼた餅は口に入ってこない」と言ってお |
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られた。 |
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何もしないで報われるということは、初めからあり得ない。』 |
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1996.5.9 「大平正芳、志げ子を偲ぶ会」会場で竹下登元首相(左端)らと 於ホテルオークラ |
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<インタビュー>聞き手・蛭田有一 |
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尊敬に値する人とは |
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『 8月15日、陛下の敗戦の放送を聞いて、それ以後の軍、民間人の |
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動きを見て、人間の値打ちっていうのは社会的地位とか階級とかは |
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全く関係ないと思ったね。 |
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階級のない、社会的地位や名声もない人の中に、本当に立派な人 |
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がいるということをその時はじめて発見した。 |
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人間の値打ちは、命のかかった最後の最後にならんと分からんよ、 |
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ということだな。それを痛切に感じたね。。 |
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1995.9.27 橋本龍太郎自民党総裁、加藤紘一幹事長の就任挨拶のため後藤田事務所に来訪 |
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<インタビュー>聞き手・蛭田有一 |
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『 どんな立場になろうとも、責任というものを絶えず考えている人が |
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一番立派だな、というのが僕の考え方です。 |
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あの戦いの中で厳しく生活をしていた軍隊が、いかに崩壊過程に入っ |
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ていくか。人間はエゴのかたまりであるということだ。それを抑える |
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のは責任感だと思うよ。 |
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だから本当の人間の値打ちっていうのは、ギリギリの追い詰められた |
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土壇場になるまで分からんということだな。』 |
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1995.1.28 後藤田正晴後援会の新春パーティーで出席者と歓談 於徳島市 |
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<インタビュー>聞き手・蛭田有一 |
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人生をもう一度やり直せるとしたら何になりたいですか |
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『 僕は自分一人でやれる仕事をやりたいな。学者はやりたいって気 |
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がするね。人文科学、歴史学とかね。大学の教授とか研究者。』 |
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日本の先行きについて悲観的、それとも楽観的ですか |
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『 いやいや、それは明治の革命を、それから戦後の大改革を見てね、 |
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そしていまの閉塞状況でしょう、これを全部乗り切ってきたんですよ。 |
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だから僕は日本の将来に対して、決して悲観していません。 |
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僕は日本の将来を信じている。なんていったって教育制度、教育 |
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の高さです。』 |
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1997.5.30 中国の李鵬首相と会談 於北京市、中南海 |
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<インタビュー>聞き手・蛭田有一 |
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日本の平和と発展のために今なすべきことは |
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『 ひとつは精神面で、倫理観の回復だ。もうひとつは科学技術に力を |
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いれることだ。 |
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基礎から応用科学に至るまでの科学的力量を高め、深めるということ、 |
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このふたつだね。このままじゃダメです。』 |
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1997.6.3 中国,昆明の雲南民族村を訪ね歓迎を受ける |
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<インタビュー>聞き手・蛭田有一 |
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外国から顔の見えない日本人と言われるが |
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『 昔から和を尊ぶような気風があるからね。事を荒立てたくない、 |
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という気風が非常に強いですね。だから個性というものが色濃く |
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出ることを嫌う。自己主張を避ける。 |
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だがもう少し個性豊かで国としての主張、個人なりの自己主張を |
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して行くことは必要じゃないのかな。しかし社会全体の風潮だから |
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なかなか直りにくいね。』 |
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1995.9.19 衆議院第一議員会館 後藤田事務所 |
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<インタビュー>聞き手・蛭田有一 |
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女子高生の援助交際をどう考えますか |
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『 これはよくない、決まってるじゃないか。 |
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だけど大人がよくないからこうなるんだよ。子どもは大人の姿を見て |
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いるんですよ。 |
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大人が商業主義一本でね、金さえ儲かればなんでもやるということで |
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しょう。子供はその形を見習っているわけですからね。 |
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大人が悪い。問題にならん。とにかく倫理観の喪失というのは、とても |
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じゃないがよほどの意識改革、立て直しをやらんとね。』 |
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1996.9.27 議員引退、最期の国会議事堂 報道陣の取材を受ける |
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<インタビュー>聞き手・蛭田有一 |
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日中友好会館の会長として度々訪中されていますが |
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『 日中関係というのは離れがたい。密接、不離の関係ですね。 |
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日本はアジアの一員であるということ。アジアを離れて日本はない |
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ということ。 |
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だから日中の友好を大事にしながら、それが互いの国の幸せになる。 |
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そしてアジアが平和になる。ひいては世界のためになる、ということ |
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じゃないかな。』 |
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1996.11.3 フジテレビ、番組「報道2001」に出演 |
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<インタビュー>聞き手・蛭田有一 |
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政治家は難しい決断を求められ迷うこともあると思いますが |
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『 そりゃあ、政治家であろうと役人であろうと、或いは事業をやってい |
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る人にしろ、右、左の岐路に立てば迷うことはあります。 |
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そのとき何かにすがりたいという気持ちが出てくるのは当たり前だと |
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思うね。 |
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よく政治家で易を観てもらう人がいるという話を耳にすることがある |
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けれど、僕はそういうことにまるっきり縁がないね。 |
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そういうときは、普段から周囲の状況をよく見ておくことが大事じゃ |
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ないか。 |
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判断材料はいろんな情報を絶えず目で見、耳で聞いて頭の中に蓄積し |
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て整理しておくんだよ。蓄積によって右、左の判断をするということ |
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じゃないかな。』 |
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1996.9.27 テレビ朝日、番組「ニュースステーション」に出演 |
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<インタビュー>聞き手・蛭田有一 |
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『 僕は割とその面はしつこいし、決めたら躊躇しない。 |
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もちろん、義理とか人情は大切です。人情の機微が分からなくて |
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世の中上手くいくわけがありません。 |
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ただね、他面、僕自身は非常な合理主義者でもある。だから情には |
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もろいけど流されないように注意している。 |
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僕は最後の決断をするときは、やはり合理的、合法的ということで |
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右、左を決めるということは徹底しているような気がするな。 |
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しかしその決断が合理的、合法的であっても、その背景に弱い立場、 |
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捨 てられた人に対する、こんなことでいいのかという気持ちを強く |
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持っ ている。ある意味で矛盾した思いをすることがあります。』 |
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1996.6.12 日中友好会館、執務室 |
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<インタビュー>聞き手・蛭田有一 |
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日本の政治で一番大切に思っていることは |
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『 それは平和を守ることですよ。 |
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海外に出て武力行使なんてのは絶対やっちゃいかん。それだけだ。 |
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なんでそういう愚かなことを考えるのかね。 |
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この国は武力行使とか戦争とかに参加してね、何を得るところが |
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あるんだ。なにをとぼけたことを言っているんだという気がするね。 |
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最近の議論を聞いていてね。』 |
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