2011.12.19  書斎で朝日俳壇の選句
「わたしの骨格自由人」
<インタビュー> 聞き手・蛭田有一
「長寿の母うんこのようにわれを産みぬ」という句がありますが、金子さん
を、うんこのように産んだお母さんはどんな人でしたか。

一言でいうとかわいいおふくろなんですけどね。オレを満十七で産んでる
んだ。親父と結婚したのが十六なんですよ。大正の初めですからね。
おふくろの印象は全くないんです。ただ、小太りのおふくろと思しき女性が
いつも一緒にいたという記憶ですね。
お母さんの何か心に残るようなものはないですか。
そうね、心に残るって・・・・・母親が存命中は、私から見て、こういう特
徴を持った母親であるというような思いはそうなくて、むしろ大変苦労して
いる母親であると。
その理由は、親父が医院を開業した実家には、親父の祖父、祖母がいまし
て、その家には親父の他に兄弟として女が四人いたんです。
他に弟もいたのですが、これは酒を食らって荒川で泳いでいるうちに、心臓
麻痺で死んじゃった。
家は豊かじゃないから、四人の姉妹はともに製紙工場に勤めていたので
す。一番上は、なかなかの美人でして、製紙工場の指導員に騙されたのか
言い寄られたのか知らないけれども、子どもができちゃうの。
その子どもを抱えた状態で製紙工場に勤めていたけれども、その間に結核
になっちゃってね。
親父が祖父母のために隠居所として小さな家をつくっていましたが、その
横に小部屋ををつくり、そこに結核で寝かされていました。
あの頃は結核は重病ですから、人はなるべく寄り付かないようにして、ばあ
さんだけで面倒をみるという生活をしておりましたな。まもなく死んでしま
いましたけどね。
それから、四人姉妹の一番下のチエだけがまだ結婚せずに家にいたので
すが、まんなかの二人が出戻りでした。
上から二番目の出戻りは、結構しっかりした女で助産婦になりました。
さっきもあなたがあげてくれた「うんこのように」というのは、その助産婦
であるおばさんが私に話してくれたんです。
助産婦になり、一人娘を育て、これは別に住んでいました。近所でしたが、
一応彼女は気をきかして別の家を借りて、そこで産婆をやっていた。
そこで盛りまして、結局自分の家をつくったんです。だけど年中、顔を出し
ていました。
三番目のおばさんが、これが意地の悪い、きつい人でしてね。亭主が死ん
で、男の子二人抱えて戻ってきたんですよ。しかも、母親にとって不遇だっ
たのは、二人連れてきた男の子の、上の子が私より一つ年下なんだけど、
小学校は同級なんです。
あの頃は、七つ学校、八つ学校といって、一緒に入ったんですね。
やつが七つ学校、俺は八つ学校で入っていた。その関係がありましてね、
非常にてめえの息子の方をかばって、兄貴の方の子どもは、自分の子ども
よりも程度が悪いとか、成績が悪いとか、何か欠点を見つけてベラベラ
しゃべって歩くことが好きでしたね。
つまり、いじめたがる女なんです。うちの母親はわりあいにやさしい女で、
こまかなこともケチケチしない女で、おっとりしていましたからいじめ甲斐
があるんだな。
私も小学校の終わり頃になってよく家庭事情がわかりましたけれど、結局
三番目の小姑がいたということが、おふくろにとって非常な不幸でした。
それから、親父のおふくろである、シゲというんだけど、これがまた意地の
悪いばばあでね。よくおふくろをいたぶっていましたよ。
昔の農家ですから、その連中が同居しているわけです。だから、母親は、
絶えずひやひやして、刃物の中に置かれているという状態だったのです。
それは、私も小学校の終わり頃になって、母親の状態がたいへんだと気づ
くようになりました。
母親も、めったに他人(ひと)に泣き顔を見せるような女ではなかったです
がね。気が強いからというよりも、おのずからそういうことで自分の身を自
分で庇って、ひとに見せないというような、そういう暮らし方になっちゃっ
たのでしょうけれどね。
非常につらい思いでいたということは分かっていました。
そこにもってきて、人間の不幸というのは重なるもので、小川町のおふくろ
の実家がつぶれちゃったんです。
おふくろの兄貴がぐうたらで、おふくろの親父が相当の金を残してくれたの
ですが、それを全部使っちゃった。というか、ひとに使わせられちゃった。
事実上倒産しちゃった。
それまではおふくろの兄貴の方から多少の仕送りもあったりしたんだけど、
今度は逆にこちらからお金を持っていくようになった。、
私が小学生になる頃で、よく、小川のおじさんにいわれて、親父から金を
もらって、その金をもって小川町に持ち帰るという、メッセンジャーみたい
な仕事をやらされていましたよ。
俺はとにかく皆野町の家にいるよりも小川の方が、そこで生まれて、おばあ
ちゃんがいるわけだから、なんとなく居心地がいいんだ。
だから、私は小学校が終わり、中学校のなかばぐらいまでは小川が中心
だった。
そういう関係もあって、没落した小川のためにお金を運んだという、そんな
仕事もさせられていた。
幼くして大人の世界を知った、そういう意味ではませた少年でもあった
わけですね。
長男で、大家族に育ったものですからね。
人間関係については、あなたの言葉に従うとませた感覚を持っていました
ね。だから、小学校六年ぐらいから、ズケズケ叔母に言うこともあった。
お母さんの愛情を強く感じたことで記憶に残ることはありますか。
そういうインパクトの効いた母との関係というのはないんですよ。
母親はジッと耐えている、小太りの女という印象でずーっときています。
母親の映像というのは、いつもそういう映像としてあったんですね。
大学の休みで帰ったりしますと、庭の方で「あ、兜太来たね」と言って、
ニコニコしながら来るんだけど、いかにも寂しそうで、ひとりぼっちという
感じで来るんですよ。
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2011.6.7  自宅書斎  壁に故皆子夫人の写真を飾る
「わたしの骨格自由人」
<インタビュー> 聞き手・蛭田有一
奥様のどんなところに惹かれましたか
特に性格だね。だから女房の持っている透明といえる感性の世界という
のは、これは非常に魅力的でしたね。
いろんな亭主が、うちの女房はケツの上げ方が上手だとか、腰の振り方
がうめェとか、いろいろ言うやつもいるけど、オレはそういうことは全然
興味がない。関心がなかった。不思議なんですな。
一般女性に対してもやはり資質を求めますか。
その女性の持っている資質の美しさというものが優先するので、それが
優れた女性の場合は、肉体そのものも美しく見えてくる、魅力的になって
くる.。だから性行為をした時の満足感が深い。
その資質のよさがが感じられない女性だと、いくらつき合っても、結局、
ただ機械的につき合うということ。こちらの性欲を満たすだけに過ぎない。
そういう思いがはっきりありますね。
金子さんが求める資質とはどういうものですか。
やっぱり、女房といっちゃおかしいけど、女性の場合は感性ですね。
感性の柔軟さとか、鋭さとか。皆子の場合なんか冴えた感性、日常生活
でいつもそれを感じる。随所にですね。
飯を一緒に食っているときの会話だって、それは感じられますね。
それから一緒に旅行したとき、この女性の感性は素晴らしいと、こういう
ふうに思うわけですね。
そうすると、鈍感な女性はあまりお好きではないと。
全然ダメです。鈍感というのは私にとっては最悪ですな。
鈍感な女性には全く興味がない。ただ、体型で好きでいえば、私はヤセ
型のひとのほうがいい。中肉中背までいかない、それよりちょっとヤセめ
の感じの人がいい。
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2011.6.7  毎朝、日課の体操 熊谷の自宅
「わたしの骨格自由人」
<インタビュー> 聞き手・蛭田有一
金子さんが望む理想の死とはどんなものですか。
一番望んでいるのは「コロ往生」。
山頭火がよく、旅人たちと酒を飲むと、みな死ぬ話になるというんだよ。
山頭火の記録の中に出てきますが、みんな異口同音にコロ往生を望ん
いると。コロ往生というのが、今考えられる最高の「場」だと思います。
コロ往生というのは、コロッと死んでしまう。
よく、脳溢血なんかでぶっ倒れて、そのまま死んじゃうでしょう。あれ
は、よき「場」を用意したんだ。ああいう死に方がしたいね。とにかくテ
レテレ病んだり、治療したりして死ぬんじゃ、よき「場」とはいえない。
その場でコロッと死ぬ。
脳溢血なんかでコロッと死んでしまうのはいいですよ。しかも自然死で
しょう。自然死でコロ往生というのが一番いい。それがよき「場」だと思
うのです。私はそれを望んでいます。
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2011.8.12  美の山に建つ父・伊昔紅氏の銅像の前
「わたしの骨格自由人」
<インタビュー> 聞き手・蛭田有一
医者を継がないことを、どうやってお父さんを説得したんですか。
親父の生活というのは、山国で周りが貧しかった。そこを自転車で往診
していたわけです。
そこでトウモロコシを食ったり、漬物を食ったりして、野糞をして歩く、
という医者の生活だった。だから体に苦労があったんですね。それは子
供が見ていても分かる。
よく、夜明けなんかに、あの頃は往診なんていうのは平気できましてね、
「先生、来てくんなァ」って、戸をダンダンダンとやる。親父が夜中でも
出ていき、夜明け時に帰ってきてコタツで寝ている、という風景をよく見
ていまして、まあ、医者は大変だなと思っていた。
しかも、薬代、治療代というのは、貧しいから入ってこない。盆暮の集金
で入った現金で生活をしている、という状態だったんですよ。
薬代の代わりに庭の木や庭の石ころを持ってきたり、食い物を持ってくる
んですよ。
自分の家のトウモロコシとかナスとか、荒川でとれたアユなどを持ってき
て、これで薬代にしてくんなァと言う。親父はそれを受け入れていた。
それから赤ひげ先生なんていわれたりしたんだけど、とにかくそういう
ものをどんどん受け入れていた。
そういうことで、非常に暮らしは貧しかった。こんな状態で親父の跡を継
いでも、経済的に非常にたいへんだから、良医にはなれない、人を救うこ
とを唯一の目的としてやるような医療はできない。
結局、食うことに追われているから、どこかで濁りが出てくる。
こういう医者になってもしょうがない。オレはいやだと。医者にならない
と言ったら、親父が、「うん、なるな」ってはっきり言った。お前の好き
なことやれって言ってくれたんです。
時代の風潮として、軍人になろうなんていう気はなかったんですか。
全くない。軍人なんていうのはくそったれだ。全く軍人なんかになる気は
ない。それでいながら、秩父の大人たちの、戦争があって勝ったら俺たち
は楽になるのだがなァという言葉が身にしみていた、海の底の魚の言葉
として。
だから大学を民族が滅びれば卒業して、いよいよトラック島に行った。
その時の自分の胸の内は、田舎の貧しい人たちのために戦う、日本民族
が滅びれば日本はだめになるから、日本民族のために戦うと、こういう
好戦派になる。
オレが好戦的姿勢をとったのはその段階なのです。だけれども、学校で
勉強していることは、はっきりと戦争は帝国主義戦争である、これは資本
主義の罪悪であると。
こんなもののためには死ねねェと、こういう思いが一方にあるわけですね。
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2011.8.12  釜伏山
「わたしの骨格自由人」
<インタビュー> 聞き手・蛭田有一
三日間、岩手、宮城の海岸を歩いて、津波の被害の甚大さに絶句しました。
津波の被害は、これは天然被害です。これはある程度やむを得ない。
だって復興はできる。
これはあなたの質問に出たら言おうと思ったんだけど、私がいま大事だと
思っているのは、「即物」ということなんです。
「即物」で日本人は特徴があるわけですよ。「即物」というのは非常に大
事だと。
「即物」と同時に、自然に甘えすぎている面があって、自然を畏れるとい
うのが足りないんだ。
だもんだから、もっと畏れる面があったら、津波というものに対する防御
措置を取れた。この津波の問題というのは解決できる。
さっきあなたが言ったように、ボランティアの人たちが活躍してくれて、
いわゆる「即物」ということは、「ふたりごころ」に通じますから。
「即物」の富む民族は「ふたりごころ」の富んでいるわけですから、「即
物」に恵まれ、ふたりごころに富んでいる民族が、お互いを救い合うと
いうことができて、お互いが救い合うことによって、津波被害というのは
かなりに解消される。そのあとが補われる。
ところが原発被害というのは、ふたりごころでは救われないと思います。
放射能によってやられたわけで、これは人間同士の情愛の問題とは違っ
てきちゃった。
その辺が致命的な問題だと思うんですよ。
「即物」という言葉の意味を説明して頂けますか。
欧米の考え方は「対物」なんですよね。ものに対決する。だからこれは
改造してしまえという考え方です。そこから自然科学が発達しているわけ
でしょう。
ところが東洋人の場合は、「即物」だと思うんです。物に即し、物と仲良
くしていく。そこから「生きもの感覚」なんていうのも出てくるわけです
けどね。
日本人は「即物」に恵まれた民族であると私は思っています。これは日本
の短詩型なんかを見ればよくわかる。
ところが、物に即していく、自然と親しむあまりに、自然を畏れるという
ことが少ないと思うのです。もっと畏れていれば津波に対する措置もと
れたはずなんだ。
例えばもっと奥へ引っ込んで住居を構える。事件の直後に考古学者から
聞いたんですけれども、縄文人は海から離れて生活しとったそうですな。
彼らの住居は、津波をちゃんと警戒しておったという。あれは自然を畏れ
るということのよさなんですね。恐れないからそうなっちゃったんです。
東電の原発なんかが、最初にプランを出した人が、津波の高さをもっと
高くして、十何メーターで計算して原発の構造を考えていた。
それを東電が津波の高さを削って、それでコストを下げてつくったそうで
すね。そういうところに根本的に畏れるという気持ちがないんですよ。
その基本にある「即物」の気持も少ないですね。そのこころも少ない。
銭儲けだけだ。
震災後、「絆」という言葉が流行りましたが、この現象をどう思いますか。
あれは言葉としていいんじゃないですか。いまのふたりごころだと思いま
すね。
「即物」に富んでいる民族が持っている、お互いをいたわり合うこころ、
「ふたりごころ」だと思うから、あれはいいと思いますよ。
ただ、ちょっとキザになっちゃったね。
世界が被災者の行動を称賛しましたが、日本人とはどういう民族だと思い
ますか。
結局、「ふたりごころ」に恵まれた民族だと思いますね。
欧米人のように自然を改造してしまうというような、人間中心型の自然観
じゃなくて、自然と共に暮らすという即物的な考え方に恵まれて民族だと
思います。
ただ今度の津波で思ったことは、もっと自然を畏れるという考え方があれ
ばと、甘え過ぎたんじゃないかと、その点が残念だ。
自然を畏れるという考え方があれば、もっとよかったんじゃないだろうか。
これが一つ宿題になるんじゃないかと思いましたね。
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2012.2.16  上越新幹線、熊谷駅ホーム
「わたしの骨格自由人」
<インタビュー> 聞き手・蛭田有一
奥様(俳人・皆子氏)との結婚は二度目になるんですね。
オレも女房も初めてですよ。
少年の頃、おばさんが媒酌人になってウルシの木と結婚したと聞いて
いますが。
あなたが言っているのは比喩的に言っているのでしょう。比喩的だったら
そうですね。
私はウルシの木と結婚して、おかげでかぶれが収まったわけですよ。
だからそういう意味では一度結婚しています。いやなおばさんなんだけ
どね。
ウルシの気に酒をかけて、オレが酒を飲まされる。そして結婚したわけ
です。そうしたら不思議にかぶれが収まった。
あとから聞いてみたら、小学生から中学生になる、ちょうど年の変わる
頃なんじゃないかと、言っていましたけどね。
たしかに、比喩的に言うとそうです。ウルシの木と一度結婚しています。
そして、死んだ女房は二度目。
奥様とのファーストキスは挙式前でしたか。
前だったと思いますね。婚約してから結婚までにちょっとありましたからね。
それじゃ、今の若者とあまり変わらないですね。
いまのやつらもやっているんでしょうけれど、今の若者のキスというのは
そんなにきちんとしたものじゃないと思うな。
私らの頃はまだ、戦後まもなくですから、ある程度の節度を考えていまし
たね。ただそれよりも、カタチとして結婚前にキスするのはまずいんじゃ
ないかぐらいの考えはありましたね。それあありました。
今のやつらのように、のべつまくなしということは考えないですね。
最近は人混みでも電車内でもお構いなしなので慣れましたね。
あんたの方が若いんだ。私は、ああいうのを見ると、そこへ行って横っ面
をひっぱたきたくなる。抑えるのに苦労するときがありますよ。
駅のホームなんかでぬけぬけとやっているのがいますからなァ。
この野郎という気持ちになる。
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2012.2.16  上越新幹線、Maxたにがわ411号車内
「わたしの骨格自由人」
<インタビュー> 聞き手・蛭田有一
トラック島で最初に死者を目の当たりにしたときはどんな気持ちでしたか。
私はトラック島に三月のはじめに行って、四月の終わりに米軍の第二回
目の機動部隊の空襲があって、その時に焼夷弾でやられたのが幾人か
いました。その死体は見ましたけど、ほとんど無反応。
その後にも各所で爆撃を食って、あるいは機銃照射でやられていました
けど、それほどの感動はないですね。
ほとんどショックを感じなかったですか。
戦場だから当たり前だと思っていますからね。ショックじゃないですね。
ところが、サイパン島がやられ、マリアナがやられて、七月になってから
は、現地の武器生産と食料を自分で自活する、その二つの課題が出た。
その時に武器の代わりに手榴弾をつくった。
その実験を私が属していた第四海軍施設部という土建現場の工員さん
がやらされたわけです。
あれは触撃をして投げるんですが、触撃をした途端に爆発して一瞬でし
たね。腕が吹っ飛んで背中にこんな白い、まだ血も出ない洞(うろ)が
できてぶっ倒れた。横にいた落下傘部隊の少尉が吹っ飛んだ。
その死体を私たちが担いで病院まで行った。
その現場を見てはじめて、私は戦争の酷さというのを実感した。体に感じ
た。それまでは体に感ずるという状態までいっていなかった。かなりの
死体を見ていますけどね。
そこから自分の考え方がはじまるわけですけどね。反戦になるわけです。
もうすでに戦地で反戦の意識が芽生えたということですね。
戦争はやるんだという思いなんだ。よくない戦争だけど、そして負ける戦
争なんだけど、郷里の貧乏な連中を救うためにやるんだという、その矛
盾した考え方が混在していた。
そういう状態ですから、行ってすぐ反戦なんていう都合のいい状態には
ならない。ただ、ひでェもんだと。これじゃ日本は負けると。それぐらい
の思いはあった。
その後の死者を見てもそれほどの反応はなかった。これが戦場だと思っ
ていた。だけど、目の前で吹っ飛んだ。オレは無傷だった。
しかも、その血の匂いのする死体を担ぐやつの横にくっついて病院まで
行ったんだ。
それをやってはじめて、戦争はやっちゃいかん、残酷なことだと。
私が、ほんとに殺戮死というものがひどいもんだということを痛感した初
っぱなでしたね。
その後もいろんな死骸に出会っていますけど、その第一印象がもの凄く
強い。
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2011.5.22  広島市、平和記念公園「原爆ドーム」前
「わたしの骨格自由人」
<インタビュー> 聞き手・蛭田有一
東日本大震災が起きて強く感じたことは。
広島、長崎に落とされてあれだけの大被害を与えたあの原爆、あれがま
たこういう形で起きてしまったと、そう思った。
広島、長崎で爆発していっぺんに人が死んだ。
今度の場合あ、ジワジワと、家を追われた人たちが死んでいく。同じこと
だと思います。福島の現状をみればよくわかる。そう思っています。
これは二度目の原爆の被害、放射能による大被害だと思って、こういう
ものを平気で使っているやつのツラが見てェと、そう思ってますね。
だから、原発がねェと電気が足りなくなるなんて言っているアホがたくさ
んいるってことが、私にとっちゃ腹立たしいですね。
いろんな屁理屈を並び立てて、原発は必要だと躍起になっている。
そういうことですね。実に瑣末な考え方だ。
命と電力、どっちが大事だということです。それは全然、本末転倒なんだ。
逃げ回って、詭弁を弄しているでしょう。
東電の幹部どもは、福島の第一原発の、あの辺の住民のことを本当に
親身に思っていたら、あんなことはできないはずだ。大犯罪ですよ。
昔だったら、社長なんか腹切ってもいいくらいだ。それをやらないでケロ
ッとして、噓をついてやっている。大詐偽ですよ。あんなことは認めるわ
けにはいかない。
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2011.4.4  長瀞渓谷の河原
「わたしの骨格自由人」
<インタビュー> 聞き手・蛭田有一
東大の学生時代は、「俺は最後の自由人だ」と威張っていたそうですが
目立ちたいという気は私にはほとんどなかった。それは旧制高校に入っ
て、出澤珊太郎という先輩にくっついて句会に行った。そこからオレの俳
句は始まったんです。
その出澤珊太郎、それから英文の教授で長谷川先生と、吉田先生、この
三人がみんな自由人なんです。
水戸は陸軍の連隊があったところで、街には年中、軍人がいるわけだ。
そんなのは糞くらえで、長谷川先生は奥さんを連れて日立の海岸に行っ
て石っころを拾ったりして遊んでいた。
夜になると、「ルバイアート」といって、ペルシャの快楽主義の詩人がい
るんですが、その詩集をコツコツ訳している。
世は軍靴の音が響き渡っているなかで、平気な顔でやっている。その姿
は自由人だと思った。
権威におもねない。自分の思うことをやっている。こういう自由な人間に
なりたいと思った。出澤も全くそうですからね。学校なんかほとんど行か
なかった。それから吉田先生は、英文学者のくせに、中国の詩人の研究
をしていたんですよ。立派な本を出した。
そんなふうに、全く自分の考える通りに、ご時世がどうあれ、周りがどう
あれ、問題にしないで生きている。こういう毅然とした男になりたいと。
私は東京に来てからほとんど大学に行ってない。
ときどき吉原へ行ったり、出澤に連れられてあっちこっち飲んで歩いてい
た。そういう生活の中で、常にオレは自由人という言葉を頭の中に刻み
こんでいましたね。
とにかくオレは最後の自由人だと自分で豪語していた。世は軍国主義で
あると、その中でオレは最後の自由人だと。
大学の助教授ぐらいでも、そんなこと言ったらすぐ捕まるんだよ。
だけど、ろくに学校へも行かねェでさ。そういう不良学生ですから誰も相
手にしない。それでこっちはいい気になって最後の自由人だと。
そうしているうちに、自分もまた自由人という俳人になっちゃった。
学生時代から一貫して自由を求めてきたわけですね。
いまでも。自由人というのは貴重な言葉です。これは私の骨格です。
だから変な小理屈言ったり、偉そうな顔するやつが大嫌いなんですよ。
自由人でありたい、そう思うと自由人と思える方に出会うね。
今でも出会ったときに、これは本物の自由人か、本物じゃねェか、ちょっ
とばかり自由人か、そういう感覚的な識別をしてるんですな。
まさにこれこそ江戸末期の自由人、一茶だったわけですよ。
それが「荒凡夫」という言葉の姿ではないかなと、こう思ったわけですよ。
「俺は最後の自由人」だと威張った延長線上で、「荒凡夫」に出会った
わけですね。
出会ったということですね。だから、山頭火の場合、そういう意味で彼は
自由人ではあったんですが、世間で生きていくのはめんどくせェと。
人間関係がイヤだと。「現郷」というか、アニミズムの世界にすみたいと
いう思いが基本にあった。それで放浪ろうという姿を生み出したわけです
ね。
一茶の場合だと、社会の中に生きて、おのずから「原郷」を求める。
山頭火の場合は、「原郷」を求めるために社会を捨てていた。その違い
がある。どっちも自由人の姿だけど、私は山頭火より一茶の姿のほうに
惹かれる。
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2011.4.4  長瀞渓谷
「わたしの骨格自由人」
<インタビュー> 聞き手・蛭田有一
なんとしても、いじめで自殺する子供たちを救わなければなりませんね。
とにかく私の場合は、あの子たちをなんとか救いたい。
私の気持ちのなかでは、むしろ逆に、いじめるやつらをひっつかまえて
こん棒でぶっ叩いてやりたい。
昔、中学生の半ばころでしたかね、「ああ玉杯に花つけて」って、佐藤
紅緑が「少年倶楽部」に書いた小説を、私たちの年齢は熟読したもの
です。単独でいじめるやつらと闘ったという男の姿が中心なんですよ。
あれは感動的でしたね。
それはもうひどい目に遭って闘うわけですけれども、ああいう男ってい
ないのかね、今。そういうものを待望しますよ。
私は、そういうふうにいじめられて、いま自殺しようとしているんだった
ら、それは待てと、オレはもうこんな年齢だから、どっちみち向こうに
やられちゃうけれども、もっと若かったら、それこそオレはこん棒もって
そいつと闘いたいという気持ちですね。
だいいち卑怯じゃないですか。一人でやらないんだ。二、三人で組んで
やっているんだ。あの卑怯なやり方は許しがたいですね。
人生の最終章を迎えた今、これだけはやりたいということはありますか。
オレがやってみたいと思うのは、今のいじめ退治だな。新聞とかテレビ
を見るたびに、腹立ってますよ。なんと大人たちがだらしねェと。
逃げてますね、先生方は。けしからん。
まず、学校の先生からぶん殴りたくなるんだ。それ以外に何もないで
すわ。そいつがオレにとっては、今の大問題ですわ。
遺句を用意したいと思っていますか。
そんなものは全く用意しません。だいいち、いつ死ぬのかという予定
がない。そのもっともらしさが大嫌いだ。そんなカッコつけなくていい
んですよ、死ぬ時まで。
さっきのオレの言い方に従えば、それは死ぬ「場」を無理して自分で
用意しようとしているんだ。カッコいい条件を用意するなんてしなくて
もいい。
それよりコロ往生がいいですよ。だから、自分で頭でもひっぱたいて
血管をぶっつぶして、それでコロッと死んじまえば、それが一番いい。
そう思ってます。
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千葉県我孫子市、真栄寺の襖に自句を書く
「わたしの骨格自由人」
<インタビュー> 聞き手・蛭田有一
金子さんの名句が生まれた場にも興味がありますが。
例えば、「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」はここ(自宅)に立って見
て、あっと思った。
一帯が青い海の底みたいな感じで、梅が咲いていて、ああ春だと思っ
たら、鮫があとから出てきた。そういうのがフーッとできた。
「鮭止めようかどの本能と遊ぼうか」も痛風で、特効薬があるんですよ。
注射を打ってくれて痛みが取れて、酒飲むなとか何とか言われている
うちにできた。
時間がかかったからいいものができるというわけでもないですね。
絶対にないですね。これは短詩型の強さだし、小説家に聞いても、
いいアイディアというのは考えてできる場合だけじゃないと言ったな。
ひらめきでいいアイディアができる場合がある。
嘘八百が出てくる場合があるらしいね、アイディアとして。
その嘘だらけの着想というのが面白いという場合もある。
これから俳句をやろうとする人たちに俳句の魅力をどう伝えたいですか。
感覚。初心者に向かって、感覚を大事にしてくださいって何べんでも
言ってるつもりです。やってる人にもやってない人にも。私は人生全体
がそうだと思ってるぐらいですからね。
花鳥諷詠は、理屈で出てきた俳句の作り方でしょう。自然に従い、自然
と合い睦んでつくれというわけですよね。これは、どこか田舎のおっさん
の言っている野暮な寝言としか聞こえないんだけどね。
そうじゃなくて感覚でつくりゃいい。ボタンの花があったらボタンの花を
感覚したままにつくればいい。私はそう思っている。
それが一番大事。野暮な考え方は持つなと。
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2011.10.18  手術の翌朝 慶応義塾大学病院の病室
「わたしの骨格自由人」
<インタビュー> 聞き手・蛭田有一
九十歳を超えると旧知の多くが他界して、無常観みたいなものを感じ
ませんか。
無常観みたいなものを感じることはもちろんあるけれども、わりあいに
そういうものをすぐ捨てちゃえるというか、忘れられる、転換できるとい
うことでしょうかね。
そういうときに、俳句の選をするとか、なにか単純なことをやるようにし
ておりますから、すぐ転換できます。そっちへ乗っちゃいます。
昨年、ガンと宣告されたとき、どう受け止めましたか。
忘れもしません、慶応病院の外来へ決められた日に行って診てもら
った。皮膚科の関係で内科でも診てもらった。ところが、血糖値は問
題じゃない、ただ肝臓の数値がちょっとおかしいからと診てもらった。
そしたらすぐレントゲンに行けと言われて、れんとげん、CTをやって、
それで入院。なんだと言ったら、ガンだと言う。
翌日だったかな、外科の先生が来られて手術するのか、しないのか
と。胆管の辺にできている、初期ガンだけれども取りますかと言われ
た。ただ九十二歳というのは手術には向かない年齢ですと。
だいたい、こういう手術というのは七十代でおしまいです、それでも
やりますかと、こう言うんです。
そこで私は、こういうおっちょこちょいだからね、いまでも憶えています。
とっさに、「やってください。オレは戦争で人死を目の前に見てきている
から、生死に対しては、わりあいに腹ができているから、先生、死んで
もいいから取ってください」と、えらい啖呵を切ったんですよ。
そしたら先生が、ニヤニヤしていたのを憶えていますよ。
また、翌日か翌々日こられて、やっぱりいいですかと念を押すんだ。
また二日ぐらい経ってから、これはよっぽど徹底的にあんたの体を、
九十二歳でやれるかどうかを調べないと、こっちが自信が持てないと
こう言いだした。
その背景に、私の皮膚科の担当のお医者さんが非常に優秀な医者で
私はその人を尊敬しているんですよ。
その人がたまたまその外科医と慶応の同級生だったもんだから、ぜひ
切ってやってくれ、治してやってくれと言ったらしいんだ。
親友から言われる、私は啖呵を切っている、やらざるを得ないかな、
だけどもどうかなァというので、それから半月、オレの体を手術に向い
ているかどうかを調べた。
結局、最終的にやりましょう、と言ってくれたんです。それでやった。
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2011.10.28  手術後のリハビリ 慶応義塾大学病院の病室 
「わたしの骨格自由人」
<インタビュー> 聞き手・蛭田有一
先生の口から初めて「ガン」と聞いたとき、内心は動揺したのでは。
全然驚かない。
あ、そうか、とにかく取ってください。取れば治ると思っちゃった。
オタオタしませんでしたね。そういう点は戦中派のいいところなのかな。
人の生死を見てきていますからね。生死というのはそんなにこたえな
いですね。ショックでも何でもないですね。
入院中、金子さんは医師や看護婦さんに、素直な子供のような姿が
非常に印象的でした。
うれしいですね。私は、それは考えてはいたんです。
お任せするという気持ちね。これは絶対に甘えなきゃいかんと。
自己主張しちゃいかんと、そう思った。
九十二歳なんて無理だという条件のなかでやってくれるわけですから、
これはもうお任せすると。
絶対生きたいという強い気持ちが、普段とは全く違った姿になったの
かなと。
それは不思議なんです。生きたい、「たい」というきもちがないんです。
「生きる」と思ったんです。これは自分でも不思議なんです。
当然、取ってもらえば生きるんだと、そう確信していた。
ただ、取るのに条件がいるということだったら、それは徹底的にお調べ
ください、どうぞ、と。そこであなたが見た甘えの状態が出ていたんじゃ
ないか。そこは不思議なんですね。
「大地震が起きたらオレは死んじゃうよ」と言って、東京の俳句教室を
やめたのは、自分の命は自分で守るという気持ちからでしたか。
間違いないですね。無駄死にしない、したくない。これは戦争体験もあり
ましたね。
危険なことには近づかない。守れるかたちで守るということですよね。
わざわざ自身の心配のある東京に行く必要はないわけですよね。
そういうふうに割り切ったんです。
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2011.2.16  新宿住友ビル
「わたしの骨格自由人」
<インタビュー> 聞き手・蛭田有一
東大から日銀に就職を決めましたが、日銀のどこがいいと思ったん
ですか。
便宜主義です。中央銀行というのは、戦争に負けても勝ってもなくなら
ないんです。社会主義国に日本が負けて社会主義国になったとしても、
中央銀行は残るんです。
だから、ここに巣をつくっていれば食いっぱぐれがないってことですよ。
内務省や大蔵省の役人になることは考えなかったんですか。
官僚は大嫌いです。ああいう威張った野郎は嫌い。
特に東大法科というのは、ぶっつぶしたかった。東大の法科というのは
ほとんどの者が、高等文官試験を受けて役人になるわけですよ。
それを目指すわけですけどね。それでなれなかったやつがみんな、
会社に入るわけですからね。
あの法科のやつらは本当に虫酸の走るような、威張りくさって、腹の傲
慢な男というのが多いんですよ。
東大法科のことをみどり会と俗称しているのです。そのみどり会のやつ
らを、われわれは蛇蝎のごとく嫌ってね。だから学部を選ぶにしても、
法科にはいかない、経済学部に行く、というのが、ちょっと心ある連中
の常識だった。
官僚の体質は今も変わっていないと思いますか。
今の官僚はみんな、そうつらの残党ですからね。
恐らく今の法科の連中もそうでしょう。権威主義で、結束が強くて、そし
て自分の子分、弟分を育ててつないでいく。だから、定年がきてやめ
たってあぶれないんですよ。どこかに入れるのです。
この網の掬い方なんか上手いもんですよ。
それで国家のためになんて、偉そうなことを言っているけど、政治家を
鼻の先で使って、自分たちはいい思いをしているんですよ。
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2011.4.20  新宿、住友ビルの前
「わたしの骨格自由人」
<インタビュー> 聞き手・蛭田有一
戦後、日本人のこころが高度経済成長に向かう過程で、どう変わって
いったと思いますか。
こころの問題が非常に薄くなっちゃったと。
こころを大事にするという考え方がモノのほうい傾いちゃって、日本人
を貧しくしたということが言えるんじゃないですかね。
これは、あとでまたバブルがきますよね。バブルが弾けて、それでさら
に倍加されたんじゃないですかね。
やはり、高度成長というのは、物質的に豊かなものを与えてくれて、
戦後復興を痛感させてくれましたよね。また、その基礎もつくってくれた。
同時に、こころを失わせましたね。「即物」なんていうこころを非常に
遠のかせてしまった。
その状況は、さらにその後十年ぐらい経ってバブルになった。
あのバブルによって、よけい経済主義になり、モノモノ主義に傾いてい
った。ますますこころは失われてきた。その現象が今でもずっと続いて
いるというか、むしろ募っている。経済中心になってきている。
それが今の原発再稼働なんてことになるわけでしょう。経済主義が募っ
て、人間のこころを非常にお寒いものにしちゃった。「即物」を失うわ
けです。
何か危機的な状況が来ると本性が戻ってきて、あなたが言うような絆
なんて言葉で言われるようになるわけですけども。
普通の生活においては、経済主義中心がますます募ってきた。だから
弱いものがいじめられるとか、そんなことは関係ない、強いものが勝つ
のはしょうがないんだと、きわめて物質的な考え方になってしまっている。
人間の関係までがそうなってきたんじゃないでしょうか。
結局、戦後がモノ中心で回復してきたということに問題があると思いま
すがね。
こころの問題がだんだん、だんだん遠ざけられてきた。いま言われてい
るこころの問題というのも、何かお涙ちょうだいみたいな言い方が多い
ですね。それからすぐ、能率主義で語られたりね。
終わり
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