|
|
|
|
 |
| 2011.12.19 書斎で朝日俳壇の選句 |
| |
| 「わたしの骨格自由人」 |
|
<インタビュー> 聞き手・蛭 田 有 一 |
| |
金子さんは「長寿の母うんこのようにわれを産みぬ」と詠んで
いますが、どんなお母さんでしたか。
『 一言でいうとかわいいおふくろなんですけどね。オレを満十七
で産んでるんだ。親父と結婚したのが十六なんですよ。大正の
初めですからね。
おふくろの印象は全くないんです。ただ、小太りのおふくろと
思しき女性がいつも一緒にいたという記憶ですね。』
お母さんの何か心に残るようなものはないですか。
『 そうね、心に残るって・・・・・母親が存命中は、私から見て、
こういう特徴を持った母親であるというような思いはそうなくて、
むしろ大変苦労している母親であると。
その理由は、親父が医院を開業した実家には、親父の祖父、祖母が
いまして、その家には親父の他に兄弟として女が四人いたんです。
他に弟もいたのですが、これは酒を食らって荒川で泳いでいるうち
に、心臓麻痺で死んじゃった。
家は豊かじゃないから、四人の姉妹はともに製紙工場に勤めていた
のです。一番上は、なかなかの美人でして、製紙工場の指導員に騙
されたのか言い寄られたのか知らないけれども、子どもができちゃ
うの。その子どもを抱えた状態で製紙工場に勤めていたけれども、
その間に結核になっちゃってね。
親父が祖父母のために隠居所として小さな家をつくっていました
が、その横に小部屋ををつくり、そこに結核で寝かされていました。
あの頃は結核は重病ですから、人はなるべく寄り付かないようにし
て、ばあさんだけで面倒をみるという生活をしておりましたな。
まもなく死んでしまいましたけどね。
それから、四人姉妹の一番下のチエだけがまだ結婚せずに家にいた
のですが、まんなかの二人が出戻りでした。
上から二番目の出戻りは、結構しっかりした女で助産婦になりまし
た。さっきもあなたがあげてくれた「うんこのように」というの
は、その助産婦であるおばさんが私に話してくれたんです。
助産婦になり、一人娘を育て、これは別に住んでいました。近所で
したが、一応彼女は気をきかして別の家を借りて、そこで産婆を
やっていた。
そこで盛りまして、結局自分の家をつくったんです。だけど年中、
顔を出していました。
三番目のおばさんが、これが意地の悪い、きつい人でしてね。亭主
が死んで、男の子二人抱えて戻ってきたんですよ。しかも、母親に
とって不遇だったのは、二人連れてきた男の子の、上の子が私より
一つ年下なんだけど、小学校は同級なんです。
あの頃は、七つ学校、八つ学校といって、一緒に入ったんですね。
やつが七つ学校、俺は八つ学校で入っていた。その関係がありまし
てね、非常にてめえの息子の方をかばって、兄貴の方の子どもは、
自分の子どもよりも程度が悪いとか、成績が悪いとか、何か欠点を
見つけてベラベラしゃべって歩くことが好きでしたね。
つまり、いじめたがる女なんです。うちの母親はわりあいにやさし
い女で、こまかなこともケチケチしない女で、おっとりしていまし
たからいじめ甲斐があるんだな。
私も小学校の終わり頃になってよく家庭事情がわかりましたけれ
ど、結局三番目の小姑がいたということが、おふくろにとって非常
な不幸でした。
それから、親父のおふくろである、シゲというんだけど、これがま
た意地の悪いばばあでね。よくおふくろをいたぶっていましたよ。
昔の農家ですから、その連中が同居しているわけです。だから、母
親は、絶えずひやひやして、刃物の中に置かれているという状態だ
ったのです。
それは、私も小学校の終わり頃になって、母親の状態がたいへんだ
と気づくようになりました。
母親も、めったに他人(ひと)に泣き顔を見せるような女ではなか
ったですがね。気が強いからというよりも、おのずからそういうこ
とで自分の身を自分で庇って、ひとに見せないというような、そう
いう暮らし方になっちゃったのでしょうけれどね。
非常につらい思いでいたということは分かっていました。
そこにもってきて、人間の不幸というのは重なるもので、小川町の
おふくろの実家がつぶれちゃったんです。
おふくろの兄貴がぐうたらで、おふくろの親父が相当の金を残して
くれたのですが、それを全部使っちゃった。というか、ひとに使わ
せられちゃった。事実上倒産しちゃった。
それまではおふくろの兄貴の方から多少の仕送りもあったりしたん
だけど、今度は逆にこちらからお金を持っていくようになった。
私が小学生になる頃で、よく、小川のおじさんにいわれて、親父か
ら金をもらって、その金をもって小川町に持ち帰るという、メッセ
ンジャーみたいな仕事をやらされていましたよ。
俺はとにかく皆野町の家にいるよりも小川の方が、そこで生まれ
て、おばあちゃんがいるわけだから、なんとなく居心地がいい
んだ。だから、私は小学校が終わり、中学校のなかばぐらいまでは
小川が中心だった。
そういう関係もあって、没落した小川のためにお金を運んだとい
う、そんな仕事もさせられていた。』
幼くして大人の世界を知った、そういう意味ではませた少年でも
あったわけですね。
『 長男で、大家族に育ったものですからね。
人間関係については、あなたの言葉に従うとませた感覚を持ってい
ましたね。だから、小学校六年ぐらいから、ズケズケ叔母に言うこ
ともあった。』
お母さんの愛情を強く感じたことで記憶に残ることはありますか。
『 そういうインパクトの効いた母との関係というのはないんです
よ。母親はジッと耐えている、小太りの女という印象でずーっとき
ています。
母親の映像というのは、いつもそういう映像としてあったんです
ね。大学の休みで帰ったりしますと、庭の方で「あ、兜太来たね」
と言って、ニコニコしながら来るんだけど、いかにも寂しそうで、
ひとりぼっちという感じで来るんですよ。』
次頁へつづく
|
| |
|
|
| Copyright (C) 2006 YUICHI HIRUTA. All rights reserved. |
|
|
|
|
|
 |
| 2011.6.7 自宅書斎 壁に故皆子夫人の写真を飾る |
| |
|
奥様のどんなところに惹かれましたか。
『 特に性格だね。だから女房の持っている透明といえる感性の世界
というのは、これは非常に魅力的でしたね。
いろんな亭主が、うちの女房はケツの上げ方が上手だとか、腰の振
り方がうめェとか、いろいろ言うやつもいるけど、オレはそういう
ことは全然興味がない。関心がなかった。不思議なんですな。』
一般女性に対してもやはり資質を求めますか。
『 その女性の持っている資質の美しさというものが優先するので、
それが、優れた女性の場合は、肉体そのものも美しく見えてくる、
魅力的になってくる.。だから性行為をした時の満足感が深い。
その資質のよさがが感じられない女性だと、いくらつき合っても、
結局、ただ機械的につき合うということ。こちらの性欲を満たすだ
けに過ぎない。そういう思いがはっきりありますね。』
金子さんが求める資質とはどういうものですか。
『 やっぱり、女房といっちゃおかしいけど、女性の場合は感性です
ね。感性の柔軟さとか、鋭さとか。皆子の場合なんか冴えた感性、
日常生活でいつもそれを感じる。随所にですね。
飯を一緒に食っているときの会話だって、それは感じられますね。
それから一緒に旅行したとき、この女性の感性は素晴らしいと、こ
ういうふうに思うわけですね。』
そうすると、鈍感な女性はあまりお好きではないと。
『 全然ダメです。鈍感というのは私にとっては最悪ですな。
鈍感な女性には全く興味がない。ただ、体型で好きでいえば、私は
ヤセ型のひとのほうがいい。中肉中背までいかない、それよりちょ
っとヤセめの感じの人がいい。』
次頁へつづく
|
| |
|
|
|
Copyright (C) 2006 YUICHI HIRUTA. All rights reserve |
|
|
|
|
|
|
 |
|
金子さんが望む理想の死とはどんなものですか。
『 一番望んでいるのは「コロ往生」。
山頭火がよく、旅人たちと酒を飲むと、みな死ぬ話になるというん
だよ。
山頭火の記録の中に出てきますが、みんな異口同音にコロ往生を望
んでいると。コロ往生というのが、今考えられる最高の「場」だと
思います。
コロ往生というのは、コロッと死んでしまう。
よく、脳溢血なんかでぶっ倒れて、そのまま死んじゃうでしょう。
あれは、よき「場」を用意したんだ。ああいう死に方がしたいね。
とにかくテレテレ病んだり、治療したりして死ぬんじゃ、よき
「場」とはいえない。
その場でコロッと死ぬ。脳溢血なんかでコロッと死んでしまうのは
いいですよ。しかも自然死でしょう。自然死でコロ往生というのが
一番いい。
それがよき「場」だと思うのです。私はそれを望んでいます。』
次頁へつづく
|
| |
|
|
| Copyright (C) 2006 YUICHI HIRUTA. All rights reserved. |
|
|
|
|
|
|
 |
| 2011.8.12 美の山に建つ父・伊昔紅氏の銅像の前 |
| |
|
医者を継がないことを、どうやってお父さんを説得したんですか。
『 親父の生活というのは、山国で周りが貧しかった。そこを自転車
で往診していたわけです。
そこでトウモロコシを食ったり、漬物を食ったりして、野糞をして
歩く、という医者の生活だった。だから体に苦労があったんですね。
それは子供が見ていても分かる。
よく、夜明けなんかに、あの頃は往診なんていうのは平気できまし
てね、「先生、来てくんなァ」って、戸をダンダンダンとやる。
親父が夜中でも出ていき、夜明け時に帰ってきてコタツで寝てい
る、という風景をよく見ていまして、まあ、医者は大変だなと思っ
ていた。
しかも、薬代、治療代というのは、貧しいから入ってこない。盆暮
の集金で入った現金で生活をしている、という状態だったん
ですよ薬代の代わりに庭の木や庭の石ころを持ってきたり、食い物
を持ってくるんですよ。
自分の家のトウモロコシとかナスとか、荒川でとれたアユなどを持
ってきて、これで薬代にしてくんなァと言う。親父はそれを受け入
れていた。
それから赤ひげ先生なんていわれたりしたんだけど、とにかくそう
いうものをどんどん受け入れていた。
そういうことで、非常に暮らしは貧しかった。こんな状態で親父の
跡を継いでも、経済的に非常にたいへんだから、良医にはなれな
い、人を救うことを唯一の目的としてやるような医療はできない。
結局、食うことに追われているから、どこかで濁りが出てくる。
こういう医者になってもしょうがない。オレはいやだと。医者にな
らないと言ったら、親父が、「うん、なるな」ってはっきり言った。
お前の好きなことやれって言ってくれたんです。』
時代の風潮として、軍人になろうなんていう気はなかったんですか。
『 全くない。軍人なんていうのはくそったれだ。全く軍人なんかに
なる気はない。それでいながら、秩父の大人たちの、戦争があって
勝ったら俺たちは楽になるのだがなァという言葉が身にしみてい
た、海の底の魚の言葉として。
だから大学を卒業して、いよいよトラック島に行った。
その時の自分の胸の内は、田舎の貧しい人たちのために戦う、日本
民族が滅びれば日本はだめになるから、日本民族のために戦うと、
こういう好戦派になる。
オレが好戦的姿勢をとったのはその段階なのです。だけれども、学
校で勉強していることは、はっきりと戦争は帝国主義戦争である、
これは資本主義の罪悪であると。
こんなもののためには死ねねェと、こういう思いが一方にあるわけ
ですね。』
次頁へつづく
|
| |
|
|
|
Copyright (C) 2006 YUICHI HIRUTA. All rights reserved. |
|
|
|
|
|
 |
|
三日間、岩手、宮城の海岸を歩いて、津波の被害の甚大さに
絶句しました。
『 津波の被害は、これは天然被害です。これはある程度やむを得な
い。だって復興はできる。
これはあなたの質問に出たら言おうと思ったんだけど、私がいま大
事だと思っているのは、「即物」ということなんです。
「即物」で日本人は特徴があるわけですよ。「即物」というのは非
常に大事だと。
「即物」と同時に、自然に甘えすぎている面があって、自然を畏れ
るというのが足りないんだ。
だもんだから、もっと畏れる面があったら、津波というものに対す
る防御措置を取れた。この津波の問題というのは解決できる。
さっきあなたが言ったように、ボランティアの人たちが活躍してく
れて、いわゆる「即物」ということは、「ふたりごころ」に通じま
すから。
「即物」の富む民族は「ふたりごころ」の富んでいるわけですか
ら、「即物」に恵まれ、ふたりごころに富んでいる民族が、お互い
を救い合うということができて、お互いが救い合うことによって、
津波被害というのはかなりに解消される。そのあとが補われる。
ところが原発被害というのは、ふたりごころでは救われないと思い
ます。
放射能によってやられたわけで、これは人間同士の情愛の問題とは
違ってきちゃった。その辺が致命的な問題だと思うんですよ。』
「即物」という言葉の意味を説明して頂けますか。
『 欧米の考え方は「対物」なんですよね。ものに対決する。だから
これは改造してしまえという考え方です。そこから自然科学が発達
しているわけでしょう。
ところが東洋人の場合は、「即物」だと思うんです。物に即し、物
と仲良くしていく。そこから「生きもの感覚」なんていうのも出て
くるわけですけどね。
日本人は「即物」に恵まれた民族であると私は思っています。これ
は日本の短詩型なんかを見ればよくわかる。
ところが、物に即していく、自然と親しむあまりに、自然を畏れる
ということが少ないと思うのです。もっと畏れていれば津波に対す
る措置もとれたはずなんだ。
例えばもっと奥へ引っ込んで住居を構える。事件の直後に考古学者
から聞いたんですけれども、縄文人は海から離れて生活しとったそ
うですな。
彼らの住居は、津波をちゃんと警戒しておったという。あれは自然
を畏れるということのよさなんですね。恐れないからそうなっちゃ
ったんです。
東電の原発なんかが、最初にプランを出した人が、津波の高さをも
っと高くして、十何メーターで計算して原発の構造を考えていた。
それを東電が津波の高さを削って、それでコストを下げてつくった
そうですね。そういうところに根本的に畏れるという気持ちがない
んですよ。その基本にある「即物」の気持も少ないですね。そのこ
ころも少ない。銭儲けだけだ。』
震災後、「絆」という言葉が流行りましたが、この現象をどう思い
ますか。
『 あれは言葉としていいんじゃないですか。いまのふたりごころだ
と思いますね。
「即物」に富んでいる民族が持っている、お互いをいたわり合うこ
ころ、「ふたりごころ」だと思うから、あれはいいと思いますよ。
ただ、ちょっとキザになっちゃったね。』
世界が被災者の行動を称賛しましたが、日本人とはどういう民族
だと思いますか
『 結局、「ふたりごころ」に恵まれた民族だと思いますね。
欧米人のように自然を改造してしまうというような、人間中心型の
自然観じゃなくて、自然と共に暮らすという即物的な考え方に恵ま
れた民族だと思います。
ただ今度の津波で思ったことは、もっと自然を畏れるという考え方
があればと、甘え過ぎたんじゃないかと、その点が残念だ。
自然を畏れるという考え方があれば、もっとよかったんじゃないだ
ろうか。これが一つ宿題になるんじゃないかと思いましたね。』
次頁へつづく
|
| |
|
|
| Copyright (C) 2006 YUICHI HIRUTA. All rights reserved. |
|
|
|
|
|
|
 |
|
奥様(俳人・皆子氏)との結婚は二度目になるんですね。
『 オレも女房も初めてですよ。』
少年の頃、おばさんが媒酌人になってウルシの木と結婚したと
聞いていますが。
『 あなたが言っているのは比喩的に言っているのでしょう。比喩的
だったらそうですね。
私はウルシの木と結婚して、おかげでかぶれが収まったわけですよ。
だからそういう意味では一度結婚しています。いやなおばさんなん
だけどね。
ウルシの気に酒をかけて、オレが酒を飲まされる。そして結婚した
わけです。そうしたら不思議にかぶれが収まった。
あとから聞いてみたら、小学生から中学生になる、ちょうど年の変
わる頃なんじゃないかと、言っていましたけどね。
たしかに、比喩的に言うとそうです。ウルシの木と一度結婚してい
ます。そして、死んだ女房は二度目』
慣奥様とのファーストトキスは挙式前でしたか
『 前だったと思いますね。婚約してから結婚までにちょっとありま
したからね。
それじゃ、今の若者とあまり変わらないですね。
いまのやつらもやっているんでしょうけれど、今の若者のキスとい
うのはそんなにきちんとしたものじゃないと思うな。
私らの頃はまだ、戦後まもなくですから、ある程度の節度を考えて
いましたね。ただそれよりも、カタチとして結婚前にキスするのは
まずいんじゃないかぐらいの考えはありましたね。それはありまし
た。今のやつらのように、のべつまくなしということは考えないで
すね。』
最近は人混みでも電車内でもお構いなしなので慣れましたね。
『 あんたの方が若いんだ。私は、ああいうのを見ると、そこへ行っ
て横っ面をひっぱたきたくなる。抑えるのに苦労するときがありま
すよ。
駅のホームなんかでぬけぬけとやっているのがいますからなァ。
この野郎という気持ちになる。』
次頁へつづく
|
| |
|
|
|
Copyright (C) 2006 YUICHI HIRUTA. All rights reserved. |
|
|
|
|
|
|
 |
| 2012.2.16 上越新幹線、Maxたにがわ411号車内 |
| |
|
トラック島で最初に死者を目の当たりにしたときはどんな気持ち
でしたか。
『 私はトラック島に三月のはじめに行って、四月の終わりに米軍の
第二回目の機動部隊の空襲があって、その時に焼夷弾でやられたの
が幾人かいました。その死体は見ましたけど、ほとんど無反応。
その後にも各所で爆撃を食って、あるいは機銃照射でやられていま
したけど、それほどの感動はないですね。』
ほとんどショックを感じなかったですか。
『 戦場だから当たり前だと思っていますからね。ショックじゃない
ですね。
ところが、サイパン島がやられ、マリアナがやられて、七月になっ
てからは、現地の武器生産と食料を自分で自活する、その二つの課
題が出た。
その時に武器の代わりに手榴弾をつくった。
その実験を私が属していた第四海軍施設部という土建現場の工員さ
んがやらされたわけです。
あれは触撃をして投げるんですが、触撃をした途端に爆発して一瞬
でしたね。腕が吹っ飛んで背中にこんな白い、まだ血も出ない洞
(うろ)ができてぶっ倒れた。横にいた落下傘部隊の少尉が吹っ飛
んだ。その死体を私たちが担いで病院まで行った。
その現場を見てはじめて、私は戦争の酷さというのを実感した。体
に感じた。それまでは体に感ずるという状態までいっていなかっ
た。かなりの死体を見ていますけどね。
そこから自分の考え方がはじまるわけですけどね。反戦になるわけ
です。』
もうすでに戦地で反戦の意識が芽生えたということですね。
『 戦争はやるんだという思いなんだ。よくない戦争だけど、そして
負ける戦争なんだけど、郷里の貧乏な連中を救うためにやるんだと
いう、その矛盾した考え方が混在していた。
そういう状態ですから、行ってすぐ反戦なんていう都合のいい状態
にはならない。ただ、ひでェもんだと。これじゃ日本は負けると。
それぐらいの思いはあった。
その後の死者を見てもそれほどの反応はなかった。これが戦場だと
思っていた。だけど、目の前で吹っ飛んだ。オレは無傷だった。
しかも、その血の匂いのする死体を担ぐやつの横にくっついて病院
まで行ったんだ。
それをやってはじめて、戦争はやっちゃいかん、残酷なことだと。
私が、ほんとに殺戮死というものがひどいもんだということを痛感
した初っぱなでしたね。
その後もいろんな死骸に出会っていますけど、その第一印象がもの
凄く強い。』
次頁へつづく
|
| |
|
|
|
Copyright (C) 2006 YUICHI HIRUTA. All rights reserved. |
|
|
|
|
|
|
 |
| 2011.5.22 広島市、平和記念公園「原爆ドーム」前 |
| |
|
東日本大震災が起きて強く感じたことは。
『 広島、長崎に落とされてあれだけの大被害を与えたあの原爆、
あれがまたこういう形で起きてしまったと、そう思った。
広島、長崎で爆発していっぺんに人が死んだ。
今度の場合あ、ジワジワと、家を追われた人たちが死んでいく。
同じことだと思います。福島の現状をみればよくわかる。そう思っ
ています。
これは二度目の原爆の被害、放射能による大被害だと思って、
こういうものを平気で使っているやつのツラが見てェと、そう思っ
てますね。だから、原発がねえと電気が足りなくなるなんて言って
いるアホがたくさんいるってことが、私にとっちゃ腹立たしいです
ね。』
いろんな屁理屈を並べ立てて、原発は必要だと躍起になっている。
『 そういうことですね。実に瑣末な考え方だ。
命と電力、どっちが大事だということです。それは全然、本末転倒
なんだ。
逃げ回って、詭弁を弄しているでしょう。
東電の幹部どもは、福島の第一原発の、あの辺の住民のことを本
当に親身に思っていたら、あんなことはできないはずだ。大犯罪で
すよ。
昔だったら、社長なんか腹切ってもいいくらいだ。それをやらない
ことでケロッとして、噓をついてやっている。大詐偽ですよ。あん
なことは認めるわけにはいかない。』
次頁へつづく
|
| |
|
|
|
Copyright (C) 2006 YUICHI HIRUTA. All rights reserved. |
|
|
|
|
|
|
 |
|
東大の学生時代は、「俺は最後の自由人だ」と威張っていた
そうですが。
『 目立ちたいという気は私にはほとんどなかった。それは旧制高
校に入って、出澤珊太郎という先輩にくっついて句会に行った。
そこからオレの俳句は始まったんです。
その出澤珊太郎、それから英文の教授で長谷川先生と、吉田先生、
この三人がみんな自由人なんです。
水戸は陸軍の連隊があったところで、街には年中、軍人がいるわ
けだ。そんなのは糞くらえで、長谷川先生は奥さんを連れて日立
の海岸に行って石っころを拾ったりして遊んでいた。
夜になると、「ルバイアート」といって、ペルシャの快楽主義の詩
人がいるんですが、その詩集をコツコツ訳している。
世は軍靴の音が響き渡っているなかで、平気な顔でやっている。
その姿は自由人だと思った。
権威におもねない。自分の思うことをやっている。こういう自由
な人間になりたいと思った。出澤も全くそうですからね。学校な
んかほとんど行かなかった。それから吉田先生は、英文学者のく
せに、中国の詩人の研究をしていたんですよ。立派な本を出した。
そんなふうに、全く自分の考える通りに、ご時世がどうあれ、周
りがどうあれ、問題にしないで生きている。こういう毅然とした
男になりたいと。
私は東京に来てからほとんど大学に行ってない。
ときどき吉原へ行ったり、出澤に連れられてあっちこっち飲んで
歩いていた。そういう生活の中で、常にオレは自由人という言葉
を頭の中に刻みこんでいましたね。
とにかくオレは最後の自由人だと自分で豪語していた。世は軍国
主義であると、その中でオレは最後の自由人だと。
大学の助教授ぐらいでも、そんなこと言ったらすぐ捕まるんだよ。
だけど、ろくに学校へも行かねェでさ。そういう不良学生ですか
ら誰も相手にしない。それでこっちはいい気になって最後の自
由人だとそうしているうちに、自分もまた自由人という俳人にな
っちゃった。』
学生時代から一貫して自由を求めてきたわけですね。
『 いまでも。自由人というのは貴重な言葉です。これは私の骨格
です。
だから変な小理屈言ったり、偉そうな顔するやつが大嫌いなん
ですよ。
自由人でありたい、そう思うと自由人と思える方に出会うね。
今でも出会ったときに、これは本物の自由人か、本物じゃねェか、
ちょっとばかり自由人か、そういう感覚的な識別をしてるんですな。
まさにこれこそ江戸末期の自由人、一茶だったわけですよ。
それが「荒凡夫」という言葉の姿ではないかなと、こう思ったわ
けですよ。』
「俺は最後の自由人」だと威張った延長線上で「荒凡夫」に
であったわけですね。
出会ったということですね。だから、山頭火の場合、そういう意
味で彼は自由人ではあったんですが、世間で生きていくのはめん
どくせェと。
人間関係がイヤだと。「現郷」というか、アニミズムの世界にすみ
たいという思いが基本にあった。それで放浪ろうという姿を生み
出したわけですね。
一茶の場合だと、社会の中に生きて、おのずから「原郷」を求める。
山頭火の場合は、「原郷」を求めるために社会を捨てていた。その
違いがある。
どっちも自由人の姿だけど、私は山頭火より一茶の姿のほうに惹
かれる。』
次頁へつづく |
| |
|
|
|
Copyright (C) 2006 YUICHI HIRUTA. All rights reserved. |
|
|
|
|
|
|
 |
|
なんとしても、いじめで自殺する子供たちを救わなければ
なりませんね。
『 とにかく私の場合は、あの子たちをなんとか救いたい。
私の気持ちのなかでは、むしろ逆に、いじめるやつらをひっつか
まえてこん棒でぶっ叩いてやりたい。
昔、中学生の半ばころでしたかね、「ああ玉杯に花つけて」って、
佐藤紅緑が「少年倶楽部」に書いた小説を、私たちの年齢は熟読
したものです。単独でいじめるやつらと闘ったという男の姿が中
心なんですよ。あれは感動的でしたね。
それはもうひどい目に遭って闘うわけですけれども、ああいう男
っていないのかね、今。そういうものを待望しますよ。
私は、そういうふうにいじめられて、いま自殺しようとしている
んだったら、それは待てと、オレはもうこんな年齢だから、どっ
ちみち向こうにやられちゃうけれども、もっと若かったら、それこ
そオレはこん棒もってそいつと闘いたいという気持ちですね。
だいいち卑怯じゃないですか。一人でやらないんだ。二、三人で
組んでやっているんだ。あの卑怯なやり方は許しがたいですね。』
人生の最終章を迎えた今、これだけはやりたいということは
ありますか。
『 オレがやってみたいと思うのは、今のいじめ退治だな。新聞と
かテレビを見るたびに、腹立ってますよ。なんと大人たちがだらし
ねェと。逃げてますね、先生方は。けしからん。
まず、学校の先生からぶん殴りたくなるんだ。それ以外に何もな
いですわ。そいつがオレにとっては、今の大問題ですわ。』
遺句を用意したいと思っていますか。
『 そんなものは全く用意しません。だいいち、いつ死ぬのかとい
う予定がない。そのもっともらしさが大嫌いだ。そんなカッコつ
けなくていいんですよ、死ぬ時まで。
さっきのオレの言い方に従えば、それは死ぬ「場」を無理して自
分で用意しようとしているんだ。カッコいい条件を用意するなん
てしなくてもいい。
それよりコロ往生がいいですよ。だから、自分で頭でもひっぱた
いて血管をぶっつぶして、それでコロッと死んじまえば、それが
一番いい。そう思ってます。』
次頁へつづく
|
| |
|
|
|
Copyright (C) 2006 YUICHI HIRUTA. All rights reserved. |
|
| . |
|
|
|
|
 |
|
金子さんの名句が生まれた場にも興味がありますが。
『 例えば、「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」はここ(自宅)に
立って見て、あっと思った。
一帯が青い海の底みたいな感じで、梅が咲いていて、ああ春だと思
ったら、鮫があとから出てきた。そういうのがフーッとできた。
「酒止めようかどの本能と遊ぼうか」も痛風で、特効薬があるんで
すよ。注射を打ってくれて痛みが取れて、酒飲むなとか何とか言わ
れているうちにできた。』
時間がかかったからいいものができるというわけでもないですね。
絶対にないですね。これは短詩型の強さだし、小説家に聞いても、
いいアイディアというのは考えてできる場合だけじゃないと言った
な。ひらめきでいいアイディアができる場合がある。
嘘八百が出てくる場合があるらしいね、アイディアとして。
の嘘だらけの着想というのが面白いという場合もある。』
これから俳句をやろうとする人たちに俳句の魅力をどう
伝えたいですか。
『 感覚。初心者に向かって、感覚を大事にしてくださいって何べん
でも言ってるつもりです。やってる人にもやってない人にも。私は
人生全体がそうだと思ってるぐらいですからね。
花鳥諷詠は、理屈で出てきた俳句の作り方でしょう。自然に従い、
自然と合い睦んでつくれというわけですよね。これは、どこか田舎
のおっさんの言っている野暮な寝言としか聞こえないんだけどね。
そうじゃなくて感覚でつくりゃいい。ボタンの花があったらボタン
の花を感覚したままにつくればいい。私はそう思っている。
それが一番大事。野暮な考え方は持つなと。』
次頁へつづく |
| |
|
|
|
Copyright (C) 2006 YUICHI HIRUTA. All rights reserved. |
|
|
|
|
|
 |
| 2011.10.18 手術の翌朝 慶応義塾大学病院の病室 |
| |
|
九十歳を超えると旧知の多くが他界して、無常観みたいなものを
感じませんか。
『 無常観みたいなものを感じることはもちろんあるけれども、わ
りあいにそういうものをすぐ捨てちゃえるというか、忘れられる、
転換できるということでしょうかね。
そういうときに、俳句の選をするとか、なにか単純なことをやるよ
うにしておりますから、すぐ転換できます。そっちへ乗っちゃい
ます』
昨年、ガンと宣告されたとき、どう受け止めましたか。
『 忘れもしません、慶応病院の外来へ決められた日に行って診て
もらった。
皮膚科の関係で内科でも診てもらった。ところが、血糖値は問題じ
ゃない。ただ肝臓の数値がちょっとおかしいからと診てもらった。
そしたらすぐレントゲンに行けと言われて、レントゲン、CTをや
って、それで入院。なんだと言ったら、ガンだと言う。
翌日だったかな、外科の先生が来られて手術するのか、しないのか
と。胆管の辺にできている、初期ガンだけれども取りますかと言
われた。ただ九十二歳というのは手術には向かない年齢ですと。
だいたい、こういう手術というのは七十代でおしまいです、それで
もやりますかと、こう言うんです。
そこで私は、こういうおっちょこちょいだからね、いまでも憶えて
います。
とっさに、「やってください。オレは戦争で人死を目の前に見てき
ているから、生死に対しては、わりあいに腹ができているから、先
生、死んでもいいから取ってください」と、えらい啖呵を切ったん
ですよ。
そしたら先生が、ニヤニヤしていたのを憶えていますよ。
また、翌日か翌々日こられて、やっぱりいいですかと念を押すんだ。
また二日ぐらい経ってから、これはよっぽど徹底的にあんたの体を
92歳でやれるかどうかを調べないと、こっちが自信が持てないと
こう言い出した。
その背景に、私の皮膚科の担当のお医者さんが非常に優秀な医者
で、私はその人を尊敬しているんですよ。
その人がたまたまその外科医と慶応の同級生だったもんだから、
ぜひ切ってやってくれ、治してやってくれと言ったらしいんだ。
親友から言われる、私は啖呵を切っている、やらざるを得ないか
な、だけどもどうかなァというので、それから半月、オレの体を手
術に向いているかどうかを調べた。
結局、最終的にやりましょう、と言ってくれたんです。それでやっ
た。』
次頁へつづく
|
| |
|
|
|
Copyright (C) 2006 YUICHI HIRUTA. All rights reserved. |
|
|
|
|
|
 |
| 2011.10.28 手術後のリハビリ 慶応義塾大学病院の病室 |
| |
|
先生の口から初めて「ガン」と聞いたとき、内心は動揺した
のでは。
『 全然驚かない。あ、そうか、とにかく取ってください。取れば
治ると思っちゃった。
オタオタしませんでしたね。そういう点は戦中派のいいところな
のかな。人の生死を見てきていますからね。生死というのはそん
なにこたえないですね。ショックでも何でもないですね。』
入院中、金子さんは医師や看護婦さんに、素直な子供のような
姿が非常に印象的でした。
『 うれしいですね。私は、それは考えてはいたんです。
お任せするという気持ちね。これは絶対に甘えなきゃいかんと。
自己主張しちゃいかんと、そう思った。
九十二歳なんて無理だという条件のなかでやってくれるわけです
から、これはもうお任せすると。』
絶対生きたいという強い気持ちが、普段とは全く違った姿に
なったのかなと。
『 それは不思議なんです。生きたい、「たい」というきもちがな
いんです。
「生きる」と思ったんです。これは自分でも不思議なんです。
当然、取ってもらえば生きるんだと、そう確信していた。
ただ、取るのに条件がいるということだったら、それは徹底的に
お調べください、どうぞ、と。そこであなたが見た甘えの状態が
出ていたんじゃないか。そこは不思議なんですね。』
「大地震が起きたらオレは死んじゃうよ」と言って、東京の俳句
教室をやめたのは、自分の命は自分で守るという気持ちからで
したか。
『 間違いないですね。無駄死にしない、したくない。これは戦争
体験もありましたね。
危険なことには近づかない。守れるかたちで守るということです
よね。わざわざ自身の心配のある東京に行く必要はないわけです
よね。そういうふうに割り切ったんです。』
次頁へつづく
|
| |
|
|
|
Copyright (C) 2006 YUICHI HIRUTA. All rights reserved. |
|
|
|
|
|
|
 |
|
東大から日銀に就職を決めましたが、日銀のどこがいいと思った
んですか。
『 便宜主義です。中央銀行というのは、戦争に負けても勝っても
なくならないんです。社会主義国に日本が負けて社会主義国にな
ったとしても、中央銀行は残るんです。
だから、ここに巣をつくっていれば食いっぱぐれがないってこと
ですよ。』
内務省や大蔵省の役人になることは考えなかったんですか。
『 官僚は大嫌いです。ああいう威張った野郎は嫌い。
特に東大法科というのは、ぶっつぶしたかった。東大の法科とい
うのはほとんどの者が、高等文官試験を受けて役人になるわけで
すよ。
それを目指すわけですけどね。それでなれなかったやつがみん
な、会社に入るわけですからね。
あの法科のやつらは本当に虫酸の走るような、威張りくさって、
腹の傲慢な男というのが多いんですよ。
東大法科のことをみどり会と俗称しているのです。そのみどり会
のやつらを、われわれは蛇蝎のごとく嫌ってね。だから学部を選
ぶにしても、法科にはいかない、経済学部に行く、というのが、
ちょっと心ある連中の常識だった。』
官僚の体質は今も変わっていないと思いますか。
『 今の官僚はみんな、そいつらの残党ですからね。
恐らく今の法科の連中もそうでしょう。権威主義で、結束が強く
て、そして自分の子分、弟分を育ててつないでいく。だから、定
年がきてやめたってあぶれないんですよ。どこかに入れるのです。
この網の掬い方なんか上手いもんですよ。
それで国家のためになんて偉そうなことを言っているけど、政治
家を鼻の先で使って、自分たちはいい思いをしているんですよ。』
次頁へつづく
|
| |
|
|
| Copyright (C) 2006 YUICHI HIRUTA. All rights reserved. |
|
|
|
|
|
|
 |
|
戦後日本人のこころが高度経済成長に向かう過程で
どう変わっていったと思いますか。
『 こころの問題が非常に薄くなっちゃったと。
こころを大事にするという考え方がモノのほうに傾いちゃって、
日本人を貧しくしたということが言えるんじゃないですかね。
これは、あとでまたバブルがきますよね。バブルが弾けて、それ
でさらに倍加されたんじゃないですかね。
やはり、高度成長というのは、物質的に豊かなものを与えてくれ
て、戦後復興を痛感させてくれましたよね。また、その基礎もつ
くってくれた。
同時に、こころを失わせましたね。「即物」なんていうこころを
非常に遠のかせてしまった。
その状況は、さらにその後十年ぐらい経ってバブルになった。
あのバブルによって、よけい経済主義になり、モノモノ主義に傾
いていった。ますますこころは失われてきた。その現象が今でも
ずっと続いているというか、むしろ募っている。経済中心になっ
てきている。
それが今の原発再稼働なんてことになるわけでしょう。経済主義
が募って、人間のこころを非常にお寒いものにしちゃった。「即
物」を失うわけです。
何か危機的な状況が来ると本性が戻ってきて、あなたが言うよう
な絆なんて言葉で言われるようになるわけですけども。
普通の生活においては、経済主義中心がますます募ってきた。
だから弱いものがいじめられるとか、そんなことは関係ない、強
いものが勝つのはしょうがないんだと、きわめて物質的な考え方
になってしまっている。
人間の関係までがそうなってきたんじゃないでしょうか。
結局、戦後がモノ中心で回復してきたということに問題があると
思いますね。
こころの問題がだんだん、だんだん遠ざけられてきた。いま言わ
れているこころの問題というのも、何かお涙ちょうだいみたいな
言い方が多いですね。それからすぐ、能率主義で語られたりね。』
終わり |
| |
|
|
| Copyright (C) 2006 YUICHI HIRUTA. All rights reserved. |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|