|
|
|
「長寿の母うんこのようにわれを産みぬ」という句がありますが、金子さん
を、うんこのように産んだお母さんはどんな人でしたか。 |
|
『 一言でいうとかわいいおふくろなんですけどね。オレを満十七で産んでる |
|
んだ。親父と結婚したのが十六なんですよ。大正の初めですからね。 |
|
おふくろの印象は全くないんです。ただ、小太りのおふくろと思しき女性が |
|
いつも一緒にいたという記憶ですね。』 |
|
|
|
お母さんの何か心に残るようなものはないですか。 |
|
『 そうね、心に残るって・・・・・母親が存命中は、私から見て、こういう特 |
|
徴を持った母親であるというような思いはそうなくて、むしろ大変苦労して |
|
いる母親であると。 |
|
その理由は、親父が医院を開業した実家には、親父の祖父、祖母がいまし |
|
て、その家には親父の他に兄弟として女が四人いたんです。 |
|
他に弟もいたのですが、これは酒を食らって荒川で泳いでいるうちに、心臓 |
|
麻痺で死んじゃった。 |
|
家は豊かじゃないから、四人の姉妹はともに製紙工場に勤めていたので |
|
す。一番上は、なかなかの美人でして、製紙工場の指導員に騙されたのか |
|
言い寄られたのか知らないけれども、子どもができちゃうの。 |
|
その子どもを抱えた状態で製紙工場に勤めていたけれども、その間に結核 |
|
になっちゃってね。 |
|
親父が祖父母のために隠居所として小さな家をつくっていましたが、その |
|
横に小部屋ををつくり、そこに結核で寝かされていました。 |
|
あの頃は結核は重病ですから、人はなるべく寄り付かないようにして、ばあ |
|
さんだけで面倒をみるという生活をしておりましたな。まもなく死んでしま |
|
いましたけどね。 |
|
それから、四人姉妹の一番下のチエだけがまだ結婚せずに家にいたので |
|
すが、まんなかの二人が出戻りでした。 |
|
上から二番目の出戻りは、結構しっかりした女で助産婦になりました。 |
|
さっきもあなたがあげてくれた「うんこのように」というのは、その助産婦 |
|
であるおばさんが私に話してくれたんです。 |
|
助産婦になり、一人娘を育て、これは別に住んでいました。近所でしたが、 |
|
一応彼女は気をきかして別の家を借りて、そこで産婆をやっていた。 |
|
そこで盛りまして、結局自分の家をつくったんです。だけど年中、顔を出し |
|
ていました。 |
|
三番目のおばさんが、これが意地の悪い、きつい人でしてね。亭主が死ん |
|
で、男の子二人抱えて戻ってきたんですよ。しかも、母親にとって不遇だっ |
|
たのは、二人連れてきた男の子の、上の子が私より一つ年下なんだけど、 |
|
小学校は同級なんです。 |
|
あの頃は、七つ学校、八つ学校といって、一緒に入ったんですね。 |
|
やつが七つ学校、俺は八つ学校で入っていた。その関係がありましてね、 |
|
非常にてめえの息子の方をかばって、兄貴の方の子どもは、自分の子ども |
|
よりも程度が悪いとか、成績が悪いとか、何か欠点を見つけてベラベラ |
|
しゃべって歩くことが好きでしたね。 |
|
つまり、いじめたがる女なんです。うちの母親はわりあいにやさしい女で、 |
|
こまかなこともケチケチしない女で、おっとりしていましたからいじめ甲斐 |
|
があるんだな。 |
|
私も小学校の終わり頃になってよく家庭事情がわかりましたけれど、結局 |
|
三番目の小姑がいたということが、おふくろにとって非常な不幸でした。 |
|
それから、親父のおふくろである、シゲというんだけど、これがまた意地の |
|
悪いばばあでね。よくおふくろをいたぶっていましたよ。 |
|
昔の農家ですから、その連中が同居しているわけです。だから、母親は、 |
|
絶えずひやひやして、刃物の中に置かれているという状態だったのです。 |
|
それは、私も小学校の終わり頃になって、母親の状態がたいへんだと気づ |
|
くようになりました。 |
|
母親も、めったに他人(ひと)に泣き顔を見せるような女ではなかったです |
|
がね。気が強いからというよりも、おのずからそういうことで自分の身を自 |
|
分で庇って、ひとに見せないというような、そういう暮らし方になっちゃっ |
|
たのでしょうけれどね。 |
|
非常につらい思いでいたということは分かっていました。 |
|
そこにもってきて、人間の不幸というのは重なるもので、小川町のおふくろ |
|
の実家がつぶれちゃったんです。 |
|
おふくろの兄貴がぐうたらで、おふくろの親父が相当の金を残してくれたの |
|
ですが、それを全部使っちゃった。というか、ひとに使わせられちゃった。 |
|
事実上倒産しちゃった。 |
|
それまではおふくろの兄貴の方から多少の仕送りもあったりしたんだけど、 |
|
今度は逆にこちらからお金を持っていくようになった。、 |
|
私が小学生になる頃で、よく、小川のおじさんにいわれて、親父から金を |
|
もらって、その金をもって小川町に持ち帰るという、メッセンジャーみたい |
|
な仕事をやらされていましたよ。 |
|
俺はとにかく皆野町の家にいるよりも小川の方が、そこで生まれて、おばあ |
|
ちゃんがいるわけだから、なんとなく居心地がいいんだ。 |
|
だから、私は小学校が終わり、中学校のなかばぐらいまでは小川が中心 |
|
だった。 |
|
そういう関係もあって、没落した小川のためにお金を運んだという、そんな |
|
仕事もさせられていた。』 |
|
|
|
幼くして大人の世界を知った、そういう意味ではませた少年でもあった
わけですね。 |
|
『 長男で、大家族に育ったものですからね。 |
|
人間関係については、あなたの言葉に従うとませた感覚を持っていました |
|
ね。だから、小学校六年ぐらいから、ズケズケ叔母に言うこともあった。』 |
|
|
|
お母さんの愛情を強く感じたことで記憶に残ることはありますか。 |
|
『 そういうインパクトの効いた母との関係というのはないんですよ。 |
|
母親はジッと耐えている、小太りの女という印象でずーっときています。 |
|
母親の映像というのは、いつもそういう映像としてあったんですね。 |
|
大学の休みで帰ったりしますと、庭の方で「あ、兜太来たね」と言って、 |
|
ニコニコしながら来るんだけど、いかにも寂しそうで、ひとりぼっちという |
|
感じで来るんですよ。』 |
|
|
|
次頁へつづく |
|
|