アヴァロン
押井守監督作品/2001年配給
今更『アヴァロン』について。

何で今更『アヴァロン』なのか。と言えば、
単に『∀の癒し』と一緒に『アヴァロン』の小説を見付けていて、ようやくそれを読み終わったからでしかないのだが。

押井守の、特に小難しい、ワケのわかったようなわからんような話の映画……特に実写モノに多いのだが、は正直言って「つまらない」と思う。
でも、本人が「それ」を小説化したものって、意外と面白かったりするのだ。
良い例がアニメだが、映画『パトレイバー2』。
映画は多分何度観ても「絵はリアルで凄いけど、話はなんだか良くわかんねー。」という感想しか持てないと思えるのだが、小説読むと何故かとても面白い。
多分押井守の偏執的な部分が、映画だと「映像に情報を詰め込む(だからその映像の説明は一切しない)。」に終始するのに対し、小説だと「詰め込んだ情報をこれでもかというくらい説明する。」から凄くわかり易いのだ。
用いる用語自体が難しい、というのは別にして。
言ってしまえば「小難しい映画の解説小説」とでも言うのだろうか。

そういう意味で、『アヴァロン』の小説も面白かった。
では何故、ひと月以上も読むのに時間がかかったのか?
実のトコロ、読み始めてしまってからは4〜5時間で一気に読み終えているのだが。
では何故。

最近お話のモチーフに「インターネットゲーム」を持って来る作品が多いが、コレがどうもダメなのだ。
モチーフというか、「ゲーム(特にRPG)をプレイしているゲーム内世界を描いている」お話。
解り易く言えば「『ドラゴンクエスト』の世界を映画化した話」ならばいいのだが、「誰かがプレイしてる『ドラゴンクエスト』のゲーム内容を映画化した話」って面白いと思えるのか? ということ。
生理的に受け付けない……というワケじゃないのだが、自分としては面白いと思え無い。
そんなものを見るくらいなら自分でゲームをする。

もうひとつの理由に、
ただでさえ虚構なのが映画や小説やマンガなのに、モチーフにまで虚構なモノ持って来られるとリアリティのかけらも感じなくなってしまうというのがある。
何故ならそのお話で描かれている世界はゲームの中の世界なのだから、結局のところ「何でもアリ」のお話になってしまう。としか思えないのだ。
現実ではありえない予定調和だからこそ、お話として楽しめるわけであって、予定調和が許されているゲームの中の話をお話として描いて何が面白いのだろうか?
はっきり言って萎える。
『ゲームセンターあらし』くらいメチャクチャにバカっぽくやってくれるのなら、むしろ笑って楽しめるのだが、リアルに、マジメにやろうとすればする程その嘘っぽさについて行けなくなる。

と、まあ以上は自分の偏見なのだが、自覚してる分だけ敢えてそれを乗り越えてみないと本当の評価も出来るわけがない。
読み始めるのにかかったひと月という時間はつまりそういうことだ。
兜甲児がマジンガーZに乗らないから、剣鉄矢の声が野田圭一じゃないからと言って、それだけでOVA『マジンカイザー』に見向きもしないというのはつまらない。というのと同じ理屈だ。
駄作と評価を下すのはそういった偏見を外して観てからでも遅くない。
せっかく映画のDVDを買っているのだから、「つまらなかった」という評価のままじゃもったいないというのは当たり前の感情である。

前振りが長くなった。
というか、このままでは前振りだけで文章が終わってしまいそうだ。

それで『アヴァロン』だが、
面白く読め終えた小説の後、久し振りに映画を観直してみた。
そうしたら、これが初めて映画を観た時より格段に面白かった。
一番感じたのは「結局は銃火器を撃つ映画を撮りたかったのね」ということか。
ハリウッド映画のようにやたらめったら撃ちまくるのでもなく、かといって戦争映画というわけでもない。
単なる日本のガンマニアが「この銃はこういうシチュエーションでこう使われるととてもイカス。」という観点から作られた映画に思えた。
映画として仕上がるためには、当然押井守特有の映画理論だとか犬だとかその他もろもろが入って来るので当然それだけではないのだけれど。
(立ち喰い師が出て来なかっただけマシか?)

結局、『アヴァロン』は映画→小説→映画(2回目)の順で観たわけだが、それで正解だったのかも知れない。
実際、小説は映画の続編的ストーリーなわけであるし。
小説を読んだことで、映画版のDVDを買った意味がここに来てようやく出てきた。
無駄使いじゃなかったことがわかって嬉しい限りである。

……ただ、小説読まないと映画が面白く思えないというのは、やはり素直に褒められない。というところが、これまたたまらなく押井的ではあるなぁ。

2003年6月18日