最終兵器彼女
人は物語を紡ぎ出した時、
出来事を終わらせる事はできても、お話を終わらせる事はできないのだな。

このサイトにこんな風に絵をアップしてるところからも容易に想像できることと思うが、
ご多分に漏れず、オレは子供の頃から漫画家になりたかった。
(正確には未だにちびっとだけあきらめていないフシもある。
マンガなんて描いてもいないくせに)
で、当然漫画家にもなれず(ならず?)この歳まで来ると、
「あー! オレはこーゆーマンガが描きたかったのだよ!」と
地団駄踏むほど悔しく思える作品に出会う事がある。

ひとつは藤田和日郎の『からくりサーカス』

そしてもうひとつは高橋しんの『最終兵器彼女』

(設定だけで言ったらたがみよしひさの『滅日<HOROBI>』もそう
なんだけど、あれは途中から全然離れてしまったからなぁ:余談)

『からくりサーカス』は
あの入り組んだ謎が錯綜しながら大迫力で展開する
超エンターテイメント作品だというところ。
オレはマンガに限らず、「お話というものはエンターテイメントでなければいけない。
しかし、ただのエンターテイメントなだけでもいけない。」という持論の持ち主なのだ。
もっとも、それを現時点で最高潮に凌駕してる「からくりサーカス」には「ちぃ、先にやられちまったぜ」という悔しさ(ていうか先も後も無いのだが)よりも
「はー、すげー」という感嘆の気持ちになってしまっているのだが。

で、今回の本題、『最終兵器彼女』。

絵柄とか、ストーリーとか、そういったことではなく、
その作品から感じられる匂いというか、空気感というか。
そういったものに心の奥底にあるモノに近いものを感じられるのだ。
もちろん、まったく同じ話なんかは描けないし、
仮に描いたとしてもあんなに凄く描けるわけもない。

昔からオレには「正気と狂気の狭間」という少しアレなテーマがある。
自分がそのテーマで描こうとすると、
つい短絡的にまんまガイキチなキャラや
単に精神薄弱なキャラを出してしまいがちだったのだが、
『最終兵器彼女』では、それを「ほのぼのとした日常」や「せつない恋心」に「最終兵器と化してしまった彼女という異常」と「最終戦争にまで至る殺伐とした世界」を融合させ、
それを全て「状況」で表現している。
正直、「こんなやりかたがあったんだ。」と感心した。
(作者がオレと同じテーマを持っていたのかどうかは別として)

物語全般に渡る「せつなさを含めた感情の起伏」を「戦争に巻き込まれた状況の起伏」にシンクロさせ、展開して行く独特のテンポ。
「せつなさとはスピードである」というオレの持論にも通ずるソレは、
「スピードとは狂気である」というまたしてもオレの持論に帰結し、
まあ、簡単に言えば「ガーン」と来たのだ。
「こんなの描く人がいるならオレが漫画家になる必要ねーじゃん。」
「オレが描きたかったこと(くどいけど具体的なストーリーとかじゃなく匂いね、匂い)をオレ以上に上手く描かれちゃ、もうやることないじゃん。」
そんな風に思えた。

色々理屈を付けて書いて来たが、実は単に(あらゆる角度から)グサグサと胸につき刺さるものがあったという事なのだが(だがそれこそが真に重要な事なのだが)、
最終巻にはそれが無かった。
「ふーん、こう終わるんだ。」という感じだった。
お話としては、作者後書き等にも書いてあったように「本来1〜2巻で終わるハズだった作品」ということなので結末も予定されていたものなのだろう。
きっと、作者的には満足してるに違いない。
でも、今までグサグサと刺さりまくっていたものが、
最終巻にだけオレは何故それをかんじなかったのか?
別に作者はオレの為に描いているわけじゃないから当たり前なのかも知れない。
結局の所、万人が納得する終わり方なんて人には描けないのかも知れない。
そういう不満に刺激された誰かが新しい何かを作り出すのだろう。
そして、オレにもまだ付け入るスキがあるってことか?(笑)

ところで、そう考えると、いーっつも「さあ行くぞ!」で終わる石川賢及びダイナミックプロの面々の終わり方は(打ち切られたとかいう大人の事情は別にして)「後は読者に任せる!」という意味では正しいのかもな(笑)。

2001年12月26日