10月4日(日)
街のド中心に大教会
100番の路線って、"はとバス"か?
勝利の塔の足下では・・・
むむ? こ、これって・・・・!?
それから再びポツダマープラッツへ。この辺りも相当開発が進んでいるが、9年前までは壁がちゃんとあったはずなんだよなぁ・・・・ 「"昔、壁はここにありました"マップ」と照らし合わせてみても、まさにこの辺なんだよなぁ・・・ あれ? 工事中の柵の中に、よく見えないけど、あの中にかすかに見えるのって・・・・ ま、まさか!? なんとーーーーっっっ!!!???
これぞまさしく"壁"だっ!!
あった、あった、ありました〜〜〜〜〜いぃ!! なんやぁ、まだあるやんかーーーー!! 生"壁"! これは正真正銘、ちゃんと昔の地図通りの場所に現存するベルリンの壁ざぁますがなぁ〜〜! 大興奮! 工事中の柵とビルの間にあるわずかな隙間から入り込んで、僕もよしこも触りまくった。すると、それに気づいた他の国からの一般観光客も、「あ、いいなぁ、俺も!」と柵の中に進入してきた。ちょっとした人だかりが出来たので、警察でも来たらコトだと思い、ひろちゃん&よしこはソソクサと退散。でも、本物の場所で本物の壁に触れたので、超感激だった。もしやと思い、来てみてよかった・・・(涙) それにしても、この壁。あたりには、かなりの部分が壊されて、瓦礫の山が出来上がっていた。このわずかに残った部分も、間もなく取り壊されるのだろう。まあ、開発する側にとっちゃあ、すんごく邪魔だもんね。とりあえず、壊される前に触れてホントによかった。
やっぱり日本人が一番危なそう?
生壁に触れた興奮も醒めやらぬ内に、地下鉄でさらに東部へ。すると、ドアのガラスにサインが張ってあった。なになに? 「すりにご用心!」(ピンぼけで読めません。すみません。) あらら〜、わざわざ日本語で書いてあるよぉ〜。やっぱりここでも日本人が一番狙われやすいんだなぁ・・・・ なんか恥ずかしいな。でも、せっかくのご厚意。気をつけましょう。
東の中心・アレクサンダープラッツ周辺
東の中心地、Alexanderplatz(アレクサンダープラッツ)近辺。地下鉄駅から地上に出ると、まず目に付いたのが、周辺のビルの垢抜けなさ。西地区にある華やかさが、ここには全くなかった。モロに社会主義国家だった頃の、見た目にお金をかけずに機能だけを重視したといった淡泊なカンジがヒシヒシと伝わってくる。そんな中にも、観光客の目を引きつけてしまうスポットは幾つかある。左上は、赤の市庁舎(Rotes Rathaus)。この"赤"には2つの意味がある。一つは赤い焼きすぎ煉瓦で出来ていること。そしてもう一つは、共産主義のイメージカラーである赤。中央上は、テレビ塔(Fernsehturm)。高さ365mで東京タワーよりも高く、地上203mに展望台もある。そしてその足下にあるのが右上、東地区の交通拠点であるアレクサンダープラッツ駅。左下は、駅前のアレクサンダープラッツ(Alexanderplatz)。ここは旧東ベルリンの繁華街の中心であったが、今は大工事中で、その晴れやかさは見る影もなかった。そして、右下の写真。これは廃墟ビル。ガラスは所々割れていて、現時点では入居者ゼロ。このビルが何処にあるかというと、なんとアレクサンダープラッツ駅の真正面にあるのだ。考えられるだろうか? 駅前の一等地に廃墟ビル。現在、大手術の真っ最中であるベルリン東地区の象徴だと、僕は思った。
名門・フンボルト大学で売られていた過去の魂
ここはフンボルト大学(Humboldt Universitaet)。1810年、言語学者ヴィルヘルム・フンボルトにより創設され、童話で有名なグリム兄弟や、天才アインシュタインらを輩出した名門校。河野博士も、一度は立ち寄っておかねばなるまい。で、校門を入ると古本市が開かれていた(中央の写真)。もちろん全部ドイツ語なので、物理や化学の教科書もあったが、買う気にはなれなかった。そんな中、珍しい物を発見(右の写真)。これはFDJのメンバーが持っていた手帳。FDJ(Freie Deutsche Jugend・フライエドイチェユーゲント)とは、ロシアで言うところのピオニール、つまりは共産主義版ボーイ&ガールスカウトだ。ただし、普通とは規模が違う。ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)に住むほとんどの少年少女が参加を義務づけられた大集団のことである。全員が青色のズボンやスカートを着て、市内を大行進するシーンをテレビで見たことがある。写真上は手帳、写真下はFDJの憲章だ。憲章には、こんなカンジで書いてある。「我々ユングピオニーレは、祖国東ドイツを愛します。我々ユングピオニーレは両親を愛します。我々ユングピオニーレは・・・・」 そんな中、こんなくだりもある。「我々ユングピオニーレは、ソビエト連邦の子供達や国民との友情を重んじます。」やっぱり東ドイツは、旧ソ連の子分的存在だったんだなぁと実感させられる一文だ。そして、この当時の少年達は、社会主義国家である自分たちの国に誇りを持ちながら、胸を張って大通りを行進していたに違いない。その姿、思想統一の様は、まさにナチスさながらだ。東ドイツは、ヒットラー時代の忌まわしき過去から、一体全体、何を学んだのだろう・・・ そして、当時の少年達は、今では自由主義国家ドイツの国民という訳だ。彼等はあの当時のことを、どう振り返るのだろうか?
ペルガモン博物館
フンボルト大学のすぐ東側に、博物館の島と呼ばれる中洲がシュプレー川(Spree)に浮かんでいる。この一帯には、先ほどの荒涼としたビル地帯とは異なり、伝統や歴史を感じさせるアカデミックな雰囲気ムンムンの建造物が並んでいる。その中でも一際大きいのが、このペルガモン博物館(Pergamonmuseum)。ペルガモン王国(現在のトルコ、ペルガマ)の遺跡で発見された紀元前2世紀の大神殿が再現されている。写真中央の遺跡も高さが10m以上もあり、どうやってここまで運んできたのかと目を疑うばかりだ。この日は日曜日ということで、入場料がタダだった。また、有料のレンタルサービスを受けると、右の写真にあるように、日本語による説明が聞ける電話の受話器型をしたボイスマシーンが利用できる。遺跡の横に表示されている番号をプッシュすると、その展示物に関する"メチャメチャ"詳しい説明が流れてくる。ただ、一つの説明が軽く10分近くあるので、全部の説明を聞こうと思ったら、マル一日をこの博物館の中で過ごす覚悟が必要となる。ひろちゃん&よしこは、3点ほど説明を聞き終わったところで頭痛がしてきたので、適当に眺めて外に出た。
あたりは既に暗くなり始めていたので、再び100番バスでツォー駅へ戻り、ハノーファー行きのICEへと乗り込んだ。19:13発だったが乗車率は100%を越えており、一番最後に客車に乗り込んだ僕たちは、ちゃんと席を予約していたにも関わらず、通路にごった返す立ち乗りの客に遮られて、最初の10数分は自分たちの席へたどり着けずに立ったままという憂き目に会った。ベルリンは寒かったが、僕の心は、ブランデンブルク門、そしてベルリンの壁にじかに触ってこれた満足感で一杯だった。華やかな西地区と発展途上の東地区。明瞭なコントラストが非常に印象に残っている。次に僕たちがベルリンを訪れるのはいつになるだろう・・・ その時には、首都ベルリンは、また全然違った顔をしているに違いない。 さらばベルリン、また会う日まで
では、再び会う日まで。さらば、ベルリン。