西暦(和暦)

年齢

おもな出来事・発表著書

1943年(昭和18年)

0歳

1月25日、父柳納富(明37生・青梅警察署勤務・警部補)、母アイ(明45生)の長女として東京府西多摩郡青梅町勝沼(現青梅市東青梅1丁目)に生まれた。
本名和枝。長兄茂樹(昭14生)・次兄哲夫(昭15生、幼児の頃病死)・妹伸枝(昭22生)。
両親は鹿児島県沖永良部島和泊町の出身。

1948年(昭和23年)

5歳

子供の頃は皮膚が弱く傷が治りにくい体質で、年中体に腫物があった。
長兄、結核性の肺浸潤で都内の病院に入院。

1949年(昭和24年)

6歳

4月、青梅小学校入学。家では卵を売るための鶏を飼っており、その世話をするのが役目だった。
小学校時代には母親の希望でピアノやお花を習い、英語の個人レッスンを受けた。

1951年(昭和26年)

8歳

青梅町の市制変更に伴い、東青梅に住む生徒と村の分校の生徒を対象に青梅第2小学校(現青梅第4小学校)ができて、その新しい校舎に通うようになった。

1952年(昭和27年)

9歳

青梅から杉並区神戸町(現下井草)の新居に移転した。4年生の3学期に、杉並区立桃井第五小学校に転入。
本を読むのが好きな子供だった。家にあったのは法律書と法医学の本で、縊死体や溺死体の写真を見、策条痕の鑑識法などを読んで、夢でうなされた。

1953年(昭和28年)

10歳

12月25日、奄美大島諸島が本土に復帰。東京近県に住む沖永良部島出身の人たちで復帰の祝いをした。

1955年(昭和30年)

12歳

4月、杉並区中瀬中学校に入学。中学校時代は学年の首席を争う成績だった。家が下宿を兼ねるようになって、本は下宿の学生から借りた。探偵小説、短歌、社会主義の本などを乱読する一方、吉屋信子の少女小説にも夢中になった。少ない小遣いをためて買ったツルゲーネフの「初恋」や与謝野晶子の「みだれ髪」は一行一行味わって読んだ。
音楽ではプレスリーの歌に夢中で、学校でも彼のファンであった音楽の先生が放課後にプレスリーのSPを聞かせてくれた。

1958年(昭和33年)

15歳

4月、都立富士高等学校入学。新聞班に入り、班員に2年生がいなかったため、3年生引退後1年生班員の中心となって『富士新報』作りに専念した。
放課後は新宿の名画座で洋画をよく見た。

1960年(昭和35年)

17歳

3月から5月にかけて高校新聞部連盟の呼びかけに応じて、安保闘争のデモや集会に参加した。
6月15日のデモでの東大生樺美智子の死に衝撃を受けた。

1961年(昭和36年)

18歳

三月、高校卒業。大学受験に失敗、一年間浪人生活を送った。
小田実の『何でも見てやろう』に同時代の言葉を感じた。

1962年(昭和37年)

19歳

4月、早稲田大学第一政経学部新聞学科入学。政治的傾向の強かった『早稲田大学新聞』とは異なる、学生の生活に密着した新聞をという意図のもとで作られた『早稲田キャンパス』の創刊に加わった。
父との約束で、大学の学費を自分で捻出しなければならず、映画館のもぎりや自動車会社のカード整理など、様々なアルバイトに追われて授業にはほとんど出席できなかった。サルトル、ボーヴォワールを始めとするフランス実存主義の文学や、ヘミングウェイ、フォークナーの小説など、海外の文学作品を読む。
この頃、村野四郎の詩の会にもぐりこみ詩を書いた。

1963年(昭和38年)

20歳

夏、病気治療のために上京していた叔母に付き添って、初めて父母の故郷沖永良部島を訪れた。
経済的な理由で早稲田大学を中退。中退後、コピーライター養成講座「宣伝会議」に通った。

1964年(昭和39年)

21歳

大正製薬にコピーライターとして入社。広告宣伝部の美術デザイナーであった浅井潔と知り合った。

1966年(昭和41年)

23歳

小説を書きたいと思い始めた頃、水俣病を取材した石牟礼道子の「海と空のあいだに」(『苦海浄土』)に出会い、作家であることの意味、書くことの意味を深く考えさせられた。

1967年(昭和42年)

24歳

会社を辞め、フィリピン・台湾・香港をまわり、乗り継ぎで3日間沖縄に滞在した。月刊誌『若い女性』に、その旅行の体験記を柳和枝の本名で掲載。70年ごろまで不定期的に週刊誌や月刊誌のライターを引き受け、作詞(冷泉公裕「四回戦ボーイ」)なども手がけた。
12月4日、浅井潔と結婚。東京都目黒区原町2丁目に住んだ。

1971年(昭和46年)

28歳

1月18日、長男聡誕生。

1972年(昭和47年)

29歳

11月21日、次男圭誕生。

1973年(昭和48年)

30歳

家族で沖永良部島を訪れた。

1975年(昭和50年)

32歳

三月、島尾敏雄の呼び掛けでつくられた「奄美郷土研究会」の会員になった。奄美・沖永良部の島唄に惹かれ、島唄を採集し始めた。

1977年(昭和52年)

34歳

家族で沖永良部島を訪れた。

1978年(昭和53年)

35歳

この頃、自室に織機を置き、母親の影響でずっと興味のあった織物を本格的に習い始めた。
永瀬清子の、わかりやすいけれど鍛えられた言葉で日常の奥に潜む闇を描き出す詩の力に感銘を受けた。後の『樹下の家族』は、永瀬の「木陰の人」の対句として書き始められた。

1980年(昭和55年)

37歳

五月、自作の短編と詩に、採集した沖永良部の島唄をまとめた『ふりむんコレクション』を浅井和枝の本名で自費出版。この作品をきっかけに歌手の加藤登紀子から作詞の依頼を受けたが、精神的余裕がなく書くことができなかった。

1982年(昭和57年)

39歳

10月、『樹下の家族』(『海燕』11)で第1回「海燕」新人文学賞を受賞した。この作品から干刈あがたのペンネームを用いた(「干刈」は「光」の替え字。「あがた」は漢字を当てると「県」で、国に対する地方、中央に対する周辺の意味)。12月16日に離婚したが、復姓はしなかった。

1983年(昭和58年)

40歳

12月、「ウホッホ探検隊」(『海燕』9)が第90回芥川賞候補となった。福島泰樹と対談(『早稲田文学』12)。「プラネタリウム」(『海燕』2)。

1984年(昭和59年)

41歳

6月、「ゆっくり東京女子マラソン」(『海燕』5)と「入江の宴」(『文学界』5)が第91回芥川賞候補となった。黒井千次と対談(『読売新聞』7・17〜20夕刊)。『ゆっくり東京女子マラソン』がテレビドラマ化(TBS11月12日)、「プラネタリウム」がラジオドラマ化(TBS同日)。この年は対談などの仕事で初めて松山・岡山・大阪・新潟・足利などの地方へ出かけたが、息子と病母のためにすべて日帰りだった。
この頃から、子供を育てながら家庭生活と社会とのつながりを考えていく女性たちの集まりに共感を持って、時間の許すかぎり参加した。「月曜日の兄弟たち」(『海燕』2)、「幾何学街の四日月」(『海燕』8)、「ビッグ・フットの大きな靴」(『文學界』9)、「姉妹の部屋への鎮魂歌(たましずめ)」(『新潮』10)、「ワンルーム」(『海燕』12)。

1985年(昭和60年)

42歳

2月、『ゆっくり東京女子マラソン』で芸術選奨新人賞を受賞した。田辺聖子と対談(『青春と読書』7)。『ウホッホ探検隊』がラジオ放送(NHK11月11日〜15日)。この年、雑誌『オレンジページ』の発刊にオブザーバーとして参加した。「裸」(『海燕』4)、「予習時間」(『新潮』5)。9月号から『オレンジページ』に、のちに『十一歳の自転車』と『借りたハンカチ』としてまとめられる掌編を断続的に掲載し始めた(89年1月号まで)。「しずかにわたすこがねのゆびわ」(『海燕』12)。

1986年(昭和61年)

43歳

椎名誠と対談(『青春と読書』7)。10月、『ウホッホ探検隊シナリオ写真集』(東宝事業部)が刊行された。11月、『しずかにわたすこがねのゆびわ』で野間文芸新人賞を受賞した。
12月、「ホーム・パーティー」(『新潮』9)が芥川賞候補になった。『ウホッホ探検隊』が監督根岸吉太郎、脚本森田芳光で映画化された(10月18日)。「ラスト・シーン」(『文藝』夏季号)、「回廊」(『海燕』12)。

1987年(昭和62年)

44歳

現代アメリカ女性作家の小説を斎藤英治と共訳する(『新潮』1)。安西水丸と対談(『てんとう虫』3)。5月16日から朝日新聞朝刊に「黄色い髪」を連載した(11月17日まで)。この小説の取材のために原宿で若者たちに話をきくかたわら、登校拒否の子をもつ親たちとも積極的に話し合った。
9月24日、北日本放送の仕事と若い母親たちの会に出席のため富山に行った。10月25日、倉吉市と岡山市での講演で、あこがれの詩人永瀬清子に初めて会った。その帰りに兵庫の灰谷健次郎を訪問した。
11月8日、沖縄大学巡回市民講座で沖縄島に立ち寄り南部戦跡、沖縄市(旧コザ)をまわった。9日に八重山石垣市、10日に宮古平良市で講演した。11月14日、藤沢市滝の沢小学校の名取弘文教諭に招かれ、5・6年生の家庭科公開授業を行った。(「どこかヘンな三角関係」91.3新潮社刊107p参照)
この年、国立婦人教育会館主催の募集論文の審査員を引き受けた。この頃『80年代アメリカ女性作家短編選』の翻訳に取り組む。「ウォークinチャコールグレイ」(『IN・POCKET』6〜89・12)を連載。

1988年(昭和60年)

45歳

5月、『黄色い髪』が第1回山本周五郎賞候補となった。安西水丸と対談(『青春と読書』6)。「塩と米」ラジオドラマ化(NHK10月15日)。吉本ばななと対談(『新刊ニュース』11)。
この年から、講談社児童文学新人賞選考委員として選考にあたった(91年まで)。「アンモナイトをさがしに行こう」(『海燕』4〜89・5)を連載。「どこかヘンな三角関係」(『小説新潮』8〜90・10)を連載。

1989年(平成1年)

46歳

斎藤英治と対談(『波』4)。『黄色い髪』テレビドラマ化(NHK10月5日〜7日)11月27日から12月1日にかけて『小説新潮臨時増刊 Mother Nature's GRAPHICS』の取材で西表島のジャングルを歩いた。「マジ」(『小説新潮』3臨増)、「窓の下の天の川」(『新潮』9)。

1990年(平成2年)

47歳

4月、東海大学医学部付属東京病院に入院し、5月、胃を五分の四切除した。7月、退院。9月再び入院、腸の手術を行ない、10月退院。『ウォークinチャコールグレイ』が山本周五郎賞候補となった。「もう一つ」(『海燕』4)、「櫛とリボン」(『青春と読書』9〜91・9、のち『野菊とバイエル』と改題)を連載。

1991年(平成3年)

48歳

5月、6月は気分がよくなり、母や妹や友人たちに手作りのワンピースにベルト、イヤリングをつけてプレゼントした。
8月に入って健康が悪化した。11月に入院、大腸を手術し、以後は入院生活を続けた。『あしたへ』(翌年『こ・お・ぶ』と改題)4月号から、のちに『名残のコスモス』にまとめられる掌編を断続的に掲載した(92年6月号まで)。

1992年(平成4年)

49歳

5月、危篤状態に陥ったが回復。エッセイ「巨大な花束」(『すばる』7)を発表。9月6日、病院で死去した。病名は胃ガン。