1999
at "Mukasi-Ningyo AOYAMA/K1" in Kyoto,Japan


invitation card



既死の娘

少女には柩が似合う。
はじめて目にした緋衣汝香優理の作品は、黒い柩に納まっていた。
紅い天鵞絨の内張りの色が、生白い肌に映えて美しかったのを覚えている。
パソコンのディスプレイ上での邂逅だった。
人のかたちの他には人の持つ何物をも持たない存在の、
さらにその姿を映像として切り取る−−人形の写真には二重にネクロフィリアの匂いがする。
柩を飛び出し洋館にたたずんでも、印画紙の上のその場所を等身大のドールハウスへと変貌させてしまうほど。
この世の外の、時のない部屋で、静止したまま反復される遊戯。
かすかに聴こえてくる音があるとしたら、それはパニエやペチコートの立てる衣ずれなどではない。
少女たちの背で、目には見えない死の翼がさやいでいるのだ。

小説家 速瀬れい








「既視感」−夢に微睡する彼我

かつて私は緋衣汝香優理の少女人形を
「再生を夢見る胎児のような、凍結した官能を宿した少女人形」と記したことがある。
黒い紗幕に覆われた個展会場に所狭しと並べられた、血の如き真紅の内張りを施された漆黒の棺の中に、
今にも折れてしまいそうなか細い肢体の少女人形が納められている。
それは羊水と血液で満たされた深い闇の揺籃に眠る幼い魂を想起させ、
作者の自己投影による自己愛と受動的リビドーを色濃くその身に宿していた。

あれから八年の月日が経った今、緋衣汝の少女人形もその様相を変えたようである。
今回展示される少女人形と写真作品には、以前のような剥き出しの痛々しさは見受けられない。
むしろどこか微睡むような穏やかささえ感じられるのが印象的であった。
物語を思わせる一連の写真作品には、古びた屋敷のそこここに佇む、
魂が彷徨い出たかのような朧げな少女の姿が写し出されている。
そこには確かにあの時の少女の面影が、作者自身の心的内面の具現としてたちあらわれている。
客体と同一の狭間を揺れ動く内省的変遷は少女達の遊戯に姿を変え、
やがては自己解体による破滅めいた結末を迎えるこの物語は、
閉ざされた輪の中に映し出される醒めない夢のように、繰り返し終わることがない。

この物語こそ紛れもなく、かつて棺の揺籃に身を横たえていた少女人形の瞳に映っていた夢なのだろう。
ゆるやかなうつろいの中で、たゆみなく紡がれるやがて訪れるであろう再生の予兆を、
見つめ続けてゆきたいと思う。

黒戸純 1999.10








古めかしい洋館に棲んでいる人形が主人公である。
最初、緋衣汝は自作の人形を撮影した作品で写真展のみを考えていた。
しかし周りが納得しない。
そこで写真に登場する2体を並べた。
110cmの人形は透明感に溢れた肌を持ち、指先の関節までが可動である。
奥深いブルーの瞳は、逆に我々の方が観察されているようなざわめきを覚える。
たったいま写真で見た光景なのに、実物の人形を前にすると、遠い記憶のようにも思える。
タイトル通りだ。
俗な例えだが、それは、映画に主演した女優の舞台挨拶にも似ていた。

15点の写真作品には、自作の人形というスタンスの甘さは一切ない。
むしろ本人とは面識のない秀徹な視線を持った一人の写真家として、緋衣汝は存在している。
写真展だけを望んだ彼女の心情が理解できた。

青山恵一






K1のアイドル・クッキーちゃん

京都では壁面がとれない為、写真は一部の展示となったが、新企画、マンスリー作家紹介の幕開けともあって、人形の展示数を増やし、其れなりに充実した展示となった。
アット・ホームな雰囲気は流石に青山さんならでは、のものである。

写真は一部の展示だが其れでもストーリー性は感じられるものとなったと思う。

招き猫のクッキーは首輪に鎖で此の日もお散歩に出掛けて行った。












生と死を演じる人形たち
−緋衣汝香優理"DEJA-VU" 論−

ハンス・ベルメール:日本への紹介と影響− 球体関節人形を中心に −
主催:Blaue Katze