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乙姫静香
◇第十話◇
「波ノカタチ・1」
彼の姿を初めて見たのは、高校一年の春。
海の真ん前にある高校に入学して間も無い頃の、下校時だった。
遠くに江ノ島が見える見晴らしのいい校門前。踏み切りを渡って右に行けば駅が、真っ直ぐに行けば海に出る。そんな場所にあることも、この高校を選んだ理由。マリンスポーツにも興味があった俺は、教室から水平線が見渡せる高校に入学できたというだけでもかなり舞い上がっていた。
短く切った髪にムースをつけて立てるのにも慣れ、そして、部活動をするわけでもなく、新しい友達と『高校生らしさ』を気取ることに快感を覚えていた頃、彼は俺の世界に現れた。
彼は学ラン姿でサーフボードを片手に持ち、海に向かって歩いていた。サーフボードが似合わない白い肌。長い首には伸びた髪が絡まる。目に入りそうな前髪を振った瞬間に、俺と目が合ったような気がした。
「おい、コーヘイどうしたんだよ。ボーっとして」
「え?あ・・いや、あれ」
空がうっすらと赤くなる中、歩く彼の姿を指差す。すると、高校から歩いてすぐのところに住んでいる仲間の一人が俺に言った。
「お前、まさか知り合いなのか?」
『まさか』とまで言われるとは思っていなかったので、少し驚いて返事のしように困る。すると、同じく地元上がりの別の仲間がフォローするように言った。
「光平がミコト先輩のこと知ってるわけないだろ?サーフボードのことだろ?お前やりたいって言ってたもんな」
「なんだ、そういうことか」
最初の奴がほっとしたように返す。なんでそこまで彼が言われなくちゃいけないんだろう。でも、それと同時に『先輩ということは年上なのか』なんてことを俺は考えていた。
「なんなの・・その、ミコト先輩って?」
努めてついでを装って俺は二人に聞く。彼等は一瞬お互いを見つめあい、それからどちらともなく歯切れの悪い口調で言い出した。
「寺内尊(テラウチ・ミコト)っていって、ここらじゃ有名な人・・だよな」
「うん。親がヤクザで、あの人も・・・よくけんかとかに巻き込まれてるし」
「あんまり、良い噂聞かないよな」
「あぁ・・・」
言葉の合間の沈黙がお互いの同意を感じさせる。
「先輩って・・・2年?3年?」
「ミコト先輩は2年だよ。3年にはミコト先輩の兄貴にあたるタケル先輩がいるし」
ひとつ上か・・と思う。なんだか訳もなく心がざわめいた。
「とにかく、関わり合いにならねー方がいいぞ」
二人して口を揃えてそう言うと、俺たちはそれぞれの帰路についた。
駅に立って電車を待つ。他の二人は歩いて帰るので駅には来ない。俺は二人の言葉を胸に刻みながらも、頭から離れない彼の姿のことを思っていた。
いまなら間に合うかも。
何に間に合うのかはよくわからないものの、何故だかそんな風に感じる。俺はそのまま駅を出ると、今度は彼の向かった海の方へ向かって歩いた。
駅から海まで徒歩1分。国道までくると、目の前に路駐している車の影でちょうど彼がウェットスーツを着込み終わっていた。
ここではよくサーファーたちが恥も外聞もなく着替えをしている。初めての時はさすがに驚いたが、2度目にはもう慣れていた。
車の後部座席に脱いだ服を放り投げ、ボードを抱える。運転席にはスーツ姿の男が座っていた。
全く男と言葉を交わさないまま、彼はドアを閉めて海に向かって歩き出す。俺は距離を取ってその後を追った。
今日は波がいいのか、平日でもそこそこの人影がある。俺は駐車場から海に降りる階段の途中で立ち止まり、その場に腰を下ろした。彼は、目の前のポイントでパドリング中。確実に波の出る場所へ向かっていた。
生暖かい風が頬を撫でる。潮の香りがきつくて、明日は雨になるかもと思った。
彼はポイントまで来ると、向きを変えてボードに座る。小さな波に揺られて彼の身体が上下する。そんな中、彼は濡れた長い髪をかきあげて、俺を見た。
・・・・え?俺?
思わず周囲をきょろきょろと見回す。・・・と、案の定というか、先程のスーツの男が俺の背後に立っていた。そうだよな。俺を見るはずないもの。
彼はスーツの男を見たものの、そのままふいと視線を逸らせる。そして波の来る方向に首を傾けると、すぐにボードから腰を下ろし、腹ばいになった。
沖の方からゆっくりとやってくる綺麗な波。あれを狙っているということは、サーフィンをしたことのない俺でもすぐに分かる。それほど、形が良く、乗ったら気持ち良さそうな波だった。
波の速度を伺うように、パドルをする。波が徐々に高さを増し、向こうが透けて見えるほど薄く傾いてきた時に、ちょうど彼のボードもテイクオフした。
即座に膝をつき、立ち上がる。波を横に切るように、そして波の上を流れるように彼の白いボードが滑っていく。彼の瞳が輝き、さっきまでの無機質な感じから人間らしい表情へと変わった。
時折バランスが崩れそうになる度に、俺の方がドキドキしてくる。今そこらにボードが置いてあったら、きっと海に飛び込んでいたに違いない。それほど、彼が波に乗る姿は楽しそうに見えたのだ。
彼は何度も何度も沖へ出て、何度も何度も波を捕まえた。
そしてそれと同時に、俺の心も捕まった。
サーフィンに・・・だと思っていた。
それから俺は、サーフィン雑誌を読み漁る日々。たまに彼の姿を見掛けると、後をつけて彼のサーフィン姿を眺めた。なぜって、他の誰が波に乗っている時よりも、彼のサーフィン姿は気持ち良さそうだったから。本当に、サーフィンが好きなんだなと感じたから。
でも仲間にはもちろん、そのことは内緒にしていた。彼の姿を追っているなんてことをもらしでもしたなら、何て言われるか分かったもんじゃない。あいつらの親切は分かっていたが、俺には彼が危ない存在だなんて思えなかったし、何より彼のバックグラウンドと彼のサーフィンは関係ないものと思っていた。
しかしある時、彼がいつも海に出るルートとは違う方向に歩いていくのを見かけた。校内で見かける限り、彼は波が良さそうな日には携帯で電話をし、例のスーツ男を呼び出しているようだった。どこの誰かは分からないが、なんとなく、カタギではないんだろうなと俺は思っていた。
うちの高校には正門と通用門の二つがある。実は駅に近い方が通用門で、多くの生徒はこっちを使う。それとは別に、海へ続く地下道に近い門があって、そっちが正門。
いつもは通用門から出て行く彼が、その日に限っては正門から高校を出た。俺もついその後を追う。ボードも持たない彼が、足早に出て行く姿が気になったからだ。
彼は正門を出るとそのまま地下道に駆け込む。潮の香りと落書きだらけの汚い壁。俺があわてて降りていくと、困ったことに彼は道の途中で立ち止まっていた。
不自然に駆け込んでしまったため、そのまま立ち止まる訳にも行かず、俺は彼の方へ歩いていく。低い天井の割れ目からは、どうしてだか染み出した水が、床に向かってポタポタと垂れていた。
ピチャーン
別の所から落ちた水が、汚い床の水溜まりで弾ける。俺は心臓がはちきれんばかりに動揺しながら、彼の横を過ぎようとした。
「なにしに来たんだよ」
思ったよりも低い彼の声。思えば、これが初めて聞いた彼の声だった。
「・・・え?・・・あの・・・」
追いかけては来たものの、何をしに・・・と言われると答えようがない。本当に、俺は何をしに来たんだろうと思った。
背を向けていた彼が、俺の方を見る。彼の右目の下に涙ホクロがあるという事に初めて気がついた。
「?・・・・お前、だれだ?」
彼にしても俺は予想外の人物だったようで、彼は細い眉を寄せて、胡散臭げに俺を見る。
「い・・1年4組、高池光平(タカイケ・コウヘイ)・・・です」
そう言いながら気付いてしまった、彼の頬に残る涙の跡。その頬は腫れ、口唇の端は切れて血が出ている。
殴られたんだ・・・。俺は右手でごそごそとハンカチを探りながら言った。
「あの、血が・・・」
「うるせーよ」
視線を逸らしながら、面倒くさそうに彼が言う。舌打ちの音がはっきりと聞こえた。
俺は見つけたハンカチを差し出して、更に食い下がる。
「でも、ちゃんと血を止めないと、海に入ると染みるし・・・」
「あん?」
差し出した俺の手を叩き落とすために上げられた彼の手が、その場で止まる。彼は少し赤く充血した瞳で、俺のことをじっと見つめた。
「お前、本当に・・・誰だ?」
身長があまり変わらないためか、見つめられるとドキッとする。決してそのせいではないけれど、俺には彼の質問の意図が良く分からなかった。
「た・・・高池・・光平・・・・・です」
「お前それしか言えないのかよ!」
苛立ちを隠そうとしない彼の口調。俺は少し考えて、もう一言付け加えた。
「あなたのサーフィンしてる姿・・・とても好きです」
言った直後に激しい後悔。こういう台詞は口にするととても恥ずかしくなるんだという事を初めて知った。
彼は驚いたように俺を見て、それから伺うように言った。
「お前もホモかなんかかよ」
「え?・・・いやっ・・・そんなんじゃ」
慌てて首を横に振る。一体いつからそんな話になってしまったんだろうか。
「ただ、僕はなんか・・・先輩の様子が変だったから・・・」
言えば言うほど怪しい人になってしまう。俺は、変なものを見るような目つきの彼を見返しながら、何て言えばいいのだろうということだけを考えた。
「あの・・・ケンカ・・ですか?・・・でも、あの・・・ケンカするほど仲がいいっていいますし・・・、その・・・仲直りは早めにした方がいいと・・・」
「なに言ってんだお前?うぜーんだよ」
彼の顔が歪む。でもそれは、俺が予想していた嫌そうな顔ではなく、言いながらどこか・・・辛そうな顔で、俺は言葉の選択を誤ったことを悔いていた。今、彼が泣いたら、それはきっと俺の所為だと思ったから・・・。
「いや・・・その・・・ごめんなさい」
「なんでオメーが謝るんだよ!!」
俺が謝った途端、彼が思いっきり壁を殴りつける。ゴッという嫌な音がして、見る間に彼の手が赤味を帯びる。
「何するんですか!?」
俺は彼の手を取ると、その手にさっき出したハンカチを巻き付ける。関節の所からは血が滲んでいた。
「余計なことするなよ!」
俺の手を彼が振り払おうとする。俺はその手を離すまいと腕に力を入れた。
「余計でもなんでも!もっと自分のこと大切にして下さい!」
俺もつい声を荒げてしまう。彼は俺の声のでかさに一瞬怯み、俺を見つめたまま固まる。俺は先輩に怒鳴りつけてしまったことを、少なからず反省していた。
「あ・・・怒鳴って、すみません・・・」
彼の瞳が涙で潤む。俺は彼の腕から手を離した。
「オメーに・・・」
肩で息をしながら、彼が何かを呟く。怒りのためか、微かに震える口唇が痛々しかった。
それでもそんな彼の怒りは、見えない何かに向けられているようで、俺はその苦しげな彼の姿が、迷子になりながらも強がっている子供のように見えて仕方がなかった。
「何が・・・」
俯いた彼の顔から、ポタポタッと床に雫が零れる。俺の胸がぎこちない音を立てて軋んだ。
「オメーに、何が分かる!?」
それだけ叫ぶと、彼は零れる涙をぬぐおうともせずに、俺をきつい瞳で見返した。黒い瞳の上で、鈍い光を放ち輝く涙。こらえきれずに溢れたそれは、白い頬の上を滑って、細い顎に届く。
息が、出来なくなるかと、思った。
人の涙が、こんなに痛いなんて・・・。
「・・・・っ・・・!」
俺のハンカチでくるまれた手が、俺の胸座を掴む。
殴られる・・・と思い目を閉じた瞬間。全く別の場所にやって来た初めての感触に、俺は思わず目を開けた。
!
至近距離にある彼の顔。重ねられた・・・口唇。
ピチャーン
やたらと耳につく水漏れの音。彼の息遣いまでもが、耳に届く。
地下道の上を通る車の音に、遠くの波の音。
初めてのキスは、苦い血の味がした。
−波ノカタチ・1/終−
また続きモノになってしまいました(^^;)お許し下さい。
この話のシリーズはとある話とリンクしております。
少しづつ分かると思いますのでお楽しみに。