100moments
乙姫静香



◇第五話◇



「美味しいワインの楽しみ方」






 時計を見るともう10時。他に誰もいないことをいいことに、俺は両腕を思いっきり伸ばして大きなあくびをした。
「あぁ〜っと!」
 にじむ涙を、まばたきでちらし、気分転換に煙草でも吸おうと席を立った。
 どうしてもこれ以上は削れない見積もり。削りまくって骨も見えようかというのに、客の要求には底がない。「そこをなんとかするのがあなたの仕事でしょう?」と言われても「利益の出ないモノは俺の仕事ではない」と言い返せないのが営業の辛さだ。
 印刷会社に勤めて2年。一人で任せてもらえる取り引き先も増え、自分の管理を自分で出来るのはいいが、残業が増えたのは事実。俺は禁煙の自分のオフィスを出ると、指先で火の点いていない煙草を弄びながら喫煙スペースに向かった。
 すると、奥の部屋でまだ点いている明り。俺は、電気の消し忘れか、それとも週の半ばからこんな時間まで残っている物好きが自分以外にいるのか気になり、廊下を奥へと進んだ。
  突き当たりにあるのは技術屋さんたちの部屋、DTPセクションだ。印刷会社の仕事は俺たち営業と、実際の原稿をコンピュータ処理していく部署、そしてその処理されたものを印刷していく部署が三者横並びで仕事をしていく。だからお互いのオフィスにもよく出入りはするのだが、こんな時間にこの部屋を覗くのは初めてのような気がした。
 入り口に手をかけて中を覗く。コンピューターだらけのこの部屋は当然ながら禁煙。俺は煙草をケースにしまい直した。
 静かな空間。人の動く音がしない。俺は中に足を踏み入れ、部屋の奥へと入っていく。
「誰もいないなら・・・・・っと」
 ひと通り見回して戻ろうとした時、奥にひとつ、電源がついたままのコンピュータを見つけた。そして、その前で腕を組んで眠っている人物も。
「寺島さん・・・・」
 遠目で見てもすぐに分かった。寺島克彦28歳。この若さにしてこの部屋にチーフである。俺の頭の中にあった「コンピュータ好き=オタク」の図式を打ち破った人。なにしろ、最初に紹介された時はとてもエンジニアだとは思えなかった。自分で言うのもなんだが、俺は結構ファッションにはうるさい。でも、この人を見た時、洒落てるなぁ・・・と感心した。
 ブランドが全面に出る訳でもなく、かといってノンブランドに固執する訳でもなく。さりげないカフス使いが上手かったり、ネクタイの趣味が良かったり、ファッションを自分の物にしてるのがよく分かった。
 ふせられた睫毛が長い。ちょっとした違和感を感じて、キーボードの脇に置かれている眼鏡を見て納得。仕事の時は殆どこの淵無しの眼鏡をかけている。それをかけてないから、この人の睫毛を直接見られたのだ。
 艶やかで、綺麗に整えられた黒髪。そういえば小さい頃から趣味で茶道をやってると聞いて驚いたことがあったっけ。和服姿が似合いそうな髪だなと思った。
「寺島さん・・・寝るなら帰った方がいいですよ」
 軽く肩を揺する。彼は顔を起こすと、目を閉じたまま今度は首を後ろに倒して寝始めた。細い首が、しなやかに反る。
「寺島さん?」
 寝直してしまうような雰囲気。俺は隣りに椅子を引くと、それに座って彼を眺めた。
 180センチの身長を持て余したように、伸ばした脚。俺の身長は185センチなのに、あんまり腰の位置は変わらないような気がする。ちょっぴりプライドをくすぐられたものの、彼ならいいかという気もした。
「ん・・・・」
 俺の気配の所為か、彼は大きく息をついて、自分の首に手を伸ばした。そのまま、ネクタイの結び目に長い指を入れてネクタイを緩める。苦しいのかな?ネクタイ緩めてもシャツのボタン外さないと意味がないんじゃないか?どうしよう?外してあげた方が親切だろうか?
 椅子を転がして彼に近づく。手を伸ばそうとしたけど、うまく届かない。結局俺は彼の前に立ち上がると、ネクタイの緩んだ隙間に指を入れた。
 ぷつっ
 第一ボタンが外れる。開いた襟からは鎖骨の始点がちらりと見えた。
 起きる気配はない。俺はそのまま何を思ったのか、その下のボタンに手をかける。ぷつっともうひとつのボタンを外し、少し襟を開くと、今度はしっかりと綺麗に伸びた鎖骨が見えた。
 俺は何をしてるんだろう?見積もりだって、明日にはまた持っていかなくちゃ行けないのに。こんなところで、彼を見下ろして・・・。
  口唇が赤いなぁ。柔らかそう。肌が綺麗だから、余計に口唇の赤さが目立つ。
 その口唇があまりにも、熟した実の様だったから・・・・つい。
 彼の寝ている椅子に片手を置き、そのまま身をかがめる。彼の背が高い所為か、距離はそんなに遠くなく、口唇は・・・・・意外と早くに重なった。
 柔らかく触れ合う感触。ぬるい体温。
「ん・・・・」
 その時、彼が低くうめいて、思わず飛びすさる。俺は、一体・・・何をしてるんだ?
 俺はまるで初めて口唇を奪われた少女のように、自分の口を手で押さえ、顔を赤らめながら後ずさる。
 そういえば、彼と一緒の仕事が決まると、心のどこかで喜んでいた。打ち合わせの時は、彼がメモを取る手の動きを眺めていた。今だって、明らかに起こそうとしてる時間よりも、彼を眺めている時間の方が長い。俺は、一体何がしたいんだろう?
 ギシっと彼の椅子が音をたてて、彼の身体が動く。組んでいた腕をほどいて片手の甲で長い睫毛をこすると、彼は眩しそうに目を開けた。
「・・・あれ?・・・・中山?」
「あ・・・はい。僕も残業してたんですけど、灯りが見えたんで」
 横に立ったまましどろもどろの説明。彼は別にそれを疑う訳でもなく、大きく息をついて返した。
「あ、そうか。・・・ちょうど、お前の仕事してたんだ。例の奴、安くできないか、ちょっとやってみようかと思って」
  キーボードの脇にある眼鏡を取って、再びかける。ディスプレイに向き直った時に、彼がネクタイに手を伸ばした。
「あれ?」
「・・・はい?」
 心臓が高鳴る。シャツのボタンが外れていることに気付いてる。俺がやったと思われるだろうか・・・?
「いや、なんでもない。そういや、お前ここにきたばかり?」
「え!?・・・あ、はい。ちょっと一服しようと思って出てきたんです」
 説明にならない説明。この態度だけで、俺なら十分に怪しむな。ましてや、勘のいいこの人なら尚更。
「俺、なんか寝言言ってなかったか?」
 少し恥ずかしそうに、はにかんだ笑い。俺は首を振って答えた。
「寝言・・ですか?いいえ、特には聞いてませんけど・・・なにか夢でも見てたんですか?」
 すると彼はその夢という言葉に反応したのか、マウスを握る手を一瞬止めた。
「夢・・・っていうか・・・・・まぁ、忘れてくれ」
「はぁ」
 俺は適当に呟いてはっとする。まさか、俺が・・・した時、起きてた・・・とか?
 そうは思っても、それを確認する勇気はない。俺は再び椅子を引いて座ると、彼が説明しようとする画面を横から覗いた。ちなみに、俺はパソコンなんて使えない。
「で、ここなんだけど・・・」
 彼はもう、なにも無かったかのように説明をしてくれる。
 俺は画面を見るような素振りで、開いた襟から彼の綺麗な鎖骨を、もう一度だけ、そっと見つめた。
「中山?」
 そんな俺に向けられる視線。
「はいっ!?」
「聞いてる?」
 咎めるでもなく確認する瞳。俺がコンピュータにまだ弱いの良く知ってるからだろう。彼は俺との打ち合わせの時は細かく確認を入れてくる。
「はいっ!・・・もちろん!」
「ぼーっとする余裕があるんだったら手伝わせるぞ」
 いたずらっぽく彼が言って、薄く笑う。俺はもう頭の中が真っ白になったままに笑い返した。
「なんてね、実は、正直ちょっとだけ手伝ってもらえると嬉しいんだけど、お前の方は大丈夫なのか?」
「あ、はい。大丈夫ですけど」
 本当は大丈夫じゃないです。こりゃ明日、直行です。
「なにか手伝えることがあるんなら、俺、しますよ」
 うわっ!つい気が緩んで「俺」とか言っちゃったよ。気悪くするかな?
「あ、本当に?じゃあちょっと指示するからやってもらいたいんだけど。時間はあんまり取らないと思う。今度なんかおごるから」
「え?」
 ってことは二人で食事?それは、やる気出るかも。彼は俺に手伝わせる為のデータを準備しながら間繋ぎに話をし始めた。
「中山って何が好きなの?食べがいい?飲みがいい?」
「あ、じゃあお言葉に甘えて飲みがいいです」
 なんか嬉しくってどうにかなりそう。残業万歳!
「いいよ。洋酒?ポン酒?ワインとか?」
「あ、じゃあワインで・・・」
 既に頭の中では「寺島さんと飲み」という絵柄が展開し始める。あ〜、寺島さんのあのきゅっとへこんだ鎖骨、ワイングラスの代わりになりそう・・・って、これはかなり危険思想。
「はい。じゃあ、これなんだけど・・・」
 彼は俺にてきぱきと説明を始める。俺の頭の中には眩しい彼の鎖骨。



 とりあえずは、一人暮らしの彼の部屋に遊びに行けるまでになろうと心に誓った。






−終−



残業する度に思ったものです。「はぁ・・・間違いってこういう時に起こるモノよねぇ」・・・と。
中山くん、名前借りてゴメンちょ。そしてこのキャラはズイズイと君に近づくのだ・・・ふっふっふ。
見た目すでに君だし、にやり。タチだからきっと許してくれるよね。うん、きっと。
君も嫌いじゃないからいいっしょ?くすり。夜はじゃんけんで上下を決める相方の名前も
そのまんまにしてしまおうかと思いましたが、あっちは出したら怒りそうなので
やめときました(^^;)


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