嫌いの証明
乙姫静香


 「っ……」
 なんてことない筈だった。
 ふられて虫の居所が悪い時に、たまたま飲みが重なったというか。それでもって、いつもそれなりに面倒を見ている後輩と抜け出して、上司のいないフリーな空間で飲み直しているうちに、なんとなくそんな雰囲気になっただけだった。
「あっ……」
 俺としてはヤケっぱちだった訳で。だからあいつのキスが思いのほか心地良かったことに、酔いで誤魔化したはずの罪悪感が少しくすぐられた。
「由比さん……」
 あいつは俺の名前を呼びながら、甘いキスの雨を降らせてくる。
 通った鼻筋。切れ長の瞳と固い髪は、青みがかってると言ってもいいほどの黒。チャパツの新人が多い中だから、余計に目立ったのを覚えてる。凛とした姿勢の良さも好感がもてた。
 絡める舌。熱い舌が深く、口の中でうごめいてる。そして髪。大きく節のしっかりとした手が、ゆっくりと俺の髪を撫でる。あいつの黒髪に比べると細く、腰のない、おまけに色素もあまり無い髪。別に恋人でもなんでもないんだから、そんなに気を使わなくたっていいのに。大体こいつだって、酔っぱらってるから、突然男と…なんてことになってるんだろうし…。明日の朝、目が覚めてビックリしたら、慌てて逃げ出すに決まってるんだし……。
「ふっ……んっ……」
 5つも下の後輩…葉山は、それでも手慣れた感じで俺の服を脱がしながら、俺のそれにゆっくりと触れた。勃ち上がりかけのそれは、その指を待っていたかのように敏感な反応を示す。
 あー、そうですよ。最近御無沙汰でしたよ。だから、手塩にかけてじっくり育ててきた後輩と、こんなことになってるんでしょ。でも、なんつーか、もう、何も考えたくないんだってば!
「んっ……あっ………」
 葉山の指はまるで俺の身体を知ってるように、俺の欲しい場所に焦れた刺激をくれる。俺は少し驚きながらも、思いのままに声を上げて、更にあいつを誘った。
「あ……んっ………いいっ……」
 職場では決して出すことのない声で、あいつの首に手を回す。ヤケになると人間って奴は大胆になるのか、俺は重ねられる胸をさらに近づけるかのように、ぎゅっとあいつの身体を抱きしめた。
「葉山……っ……」
 あいつの耳元で、熱に浮かされたような囁き。熱を帯びたあいつの頬を自分の頬で感じながら、俺は葉山の耳たぶを噛んだ。
 抱きしめて分かる、あいつの体格の良さ。それでも、思ってたよりは細いのかも。体脂肪率が低そう。固い筋肉が覆う胸は、俺の身体にぴったりと寄せられていた。
 瞬間、きつく抱きかえされたような感覚。あいつは俺のそれをいじりながら、俺の首筋に舌を這わせる。
「っ………んんっ……」
 乳首を甘く噛まれて、漏れる声。
 それから五分後。
 俺はあいつと一線を越えた。




+++++



 どうして、こんなことになったんだろう……。
 俺はあいつの下で、こんなことを考える。下というのは比喩表現でもなんでもなく、かといってやってる最中というのでもないのだけれど、とにかく俺の身体はあいつのでかい図体でしっかりとホールドされていた。不覚にも……腕枕。
 俺の希望としては、朝起きたらこいつを置いてさっさとホテルを出たかったのだ。もしくは、朝起きたらこいつが既に消えていなくなってるというのでもいい。とにかく、シラフに戻った朝になってから、裸のままこいつと顔を合わせることは避けたかった。
「ん………」
 葉山が息をついて、さらに俺を抱く腕に力を込める。
 あいててててて。おめー馬鹿力なんだよ。おまけに、髭が当たるっツーの。
「おい」
 俺は目覚めた相手と顔を合わせるリスクがあるものの、このままこうしている訳にもいかず、葉山を起こすことにした。奴の腕の中でもぞもぞと動いてみる。
「おい、葉山。起きろ」
「ん………?」
 一度眉が寄せられて、あいつが深呼吸。俺はなんとか片手を抜き出すと、あいつのデコを軽くはたきながら続けて言った。
「葉山。離せ。いてぇよ」
「え………?あ、由比さん」
 葉山は半分寝ぼけた様子で言いながら、俺の上にかぶせていた右腕をどかした。俺はそれを待ってましたとばかりに、ベッドの上で起き上がる。
 かき集める服。散らばる下着や靴下を手探りで掴み、俺はバスルームへ飛び込んだ。さっさとシャワーを浴びてとにかく退散しなくては。こんな所で和んでたら、職場で顔を合わせるのも気まずくなるし。
 バスルームのすぐ外に服を置き、シャワーのコックを捻る。水がお湯に変わるのを待つのももどかしい。あ〜、さっさと出てこいお湯!
 そして、やっと出てきた湯でボディソープを泡立てる。ええい、同時にシャンプー!
 と、バスルームの外に人の気配。といっても俺以外にいる人間などあいつしかいない。俺はバスルームに鍵がないことを呪いながら、とりあえず気が付かないフリをした。
「由比さん?」
 返事などできるはずもなく、ただ頭から熱いシャワーを浴びる。すると葉山はなんのためらいもなくバスルームのドアを開けた。
「おはようございます。由比さん」
 横目で振り返ると、そこにはあいつのいつもの笑顔。ただ違う点は、いつもはスーツ姿なのに対して、今は素っ裸だということだ。
「お……はよう」
 頼むから服着ろよ。なに素っ裸で突っ立ってんだよ。おめー、何するつもりだよ。
 と、思っていた矢先に。
 ビクッ
 背後から、俺の肩先をかすめる葉山の両腕。それは目の前のタイルに押し当てられ、それから俺の背中に重なるように寄せられるあいつの胸。
 あいつは強引に俺の背後からシャワーに割り込んできた。俺は思わず動けなくなって立ち尽くす。
何も出来ずに、足元を流れていく泡を、じっと目で追った。
「由比さん………」
 背筋にゾクリとくるあいつの声。否が応でも昨晩のことを思い出させる。熱い吐息のからまりや、甘い囁きを。
 俺はそれを無視してシャワーの水量を上げる。そしてシャワーヘッドを取ると、さっさと身体の泡を落として、再びホルダーにシャワーヘッドを戻した。
「由比さんっ………」
 聞こえない。何にも聞こえちゃいない。
 昨晩のことは間違い。一時の気の迷い。
 まともに考える必要なんかない。どうせ葉山だって、どうしていいか分からない顔をしてるに違いない。いつも面倒見てくれた五歳も年上の先輩が、あんな声で男を誘うなんて、考えたくないに違いないんだから……。
 俺はあいつの腕の中から再びすり抜けると、むしるようにタオルを取って、適当に身体を拭き、半ば濡れながら服を着た。
 鞄を抱えて、飛び出す客室。背後に、もう一度あいつの声が聞こえたような気がした。




+++++



 月曜日の朝。
 俺はいつものように、きっちりと隙のないスーツ姿で出勤した。金曜の夜のことは、もう忘れる。葉山だって、きっとそうするのだろうから。
「おはようございます」
 企画部のドアをくぐり、自分のデスクに鞄を置く。隣りの席の葉山は、まだ来てないようだった。
「おはようございます。由比さん、金曜日途中でどこ行っちゃったんですかぁ?」
 すると葉山の一年下の女子社員、梶原が両手いっぱいの郵便物を抱えて声をかけてきた。彼女は葉山と大学も同じで、その当時から良く知ってるようだった。
「いや、葉山とサシで飲むかって話になって……ごめんね」
「それならいいんですけど、今度からは無言抜け出しは禁止ですよ〜。葉山さんにも言っておかなくちゃ」
 口唇をとがらせながら梶原は自分の席へと戻っていく。俺は小さくため息をついて椅子を引くと、鞄の中から手帳を取り出した。
 今日は午前のうちに来客があったから、資料の準備、と……。
「おはようございます」
 考えの中に突然飛び込んでくる、あの声。隣りに椅子を引いて座りながら、葉山はしごくあっさりと言った。
「あ………おはよう………」
 そこにいるのは分かっていても、そっちを見ることは出来ない。俺はデスクトップのパソコンを立ちあげ、さも忙しそうに手帳に目を落とした。
 隣りから伝わってくる静寂。あいつの視線を横顔に感じる。
 なに見つめてんだよ。さっさと仕事の準備しろよ。今週の頭からきっちり切り替えていかないと困るのはお前の方だぞ。
「由比さん……」
「………ん……?」
 手帳から目を離さずに、俺はそっけなく答える。葉山は椅子を転がして俺の方に少し近づき、言った。
「コーヒーいれますけど、飲みますか?」
「あ……そうだな。じゃあ、飲もうかな」
 うちの会社では、女子社員のお茶いれは無い。飲みたい時に飲みたい者が自分でいれるのだ。たまにこんな風に、ついでをきいてくれる時もあるが……。
「そうですか、じゃあ、行きましょう」
 が、俺の予想に反して、葉山は大きな手で俺の腕をつかむ。俺は目を丸くして、つい答えた。
「え?どういうことだ?」
「さっき梶原さんと、大町さんも飲むって言ってたんですよ。彼女たちはいま手が離せないんで、手伝っていただけますか?俺も手は、二本しかないもんで」
 両手を見せて、葉山は確信犯の微笑み。
 しかし、そこまで言われては断る訳にもいかない。俺は手帳を閉じると、渋々立ちあがった。
 給湯室への廊下を歩く。もちろん無言。とても不自然な沈黙。
 給湯室の入り口をくぐり、俺は四人分のカップを棚から出した。葉山はコーヒーメーカーからコーヒーポットを取り出し、俺の用意したカップに注いでいく。普段でもよくやること。別になんら特別なことなど何も無い。
 俺は注ぎ終わったカップを二つ持って、さっさとその場を去ろうとした。すると、逃げるような態度の俺の次の行動を予測したように、葉山が先手を打った。
「金曜のこと………」
 ガタンッ
 持ち上げかけたカップを取り落として、コーヒーがシンクの上に広がる。俺の手に、跳ねたコーヒーがかかった。
「熱っ………」
「大丈夫ですかっ?由比さんっ!」
 葉山は咄嗟に俺の手を取り、水道の水にさらす。熱いコーヒーを浴びた手が、ジンジンと痺れた。
「大丈夫だよ……。ちょっとかかっただけだから」
「そんなにカップが熱かったんですか?」
 おい、いつまでも俺の手を握ってんじゃねーよ。冷やすぐらい自分でできるっツーの。
「ばか……。お前が変なこと言うからだろ」
 思わず呟いて、俺は即座に後悔。なにネタふってんだよ俺!
「変なこと?………全然変じゃないですよ。変なのは由比さんじゃないですか」
 ダバダバダバダバ
 二人の声をかき消すように、水は元気に流れ続ける。そんな邪魔があった所為か、俺もつい声がでかくなった。
「なんで俺が変なんだよ。いつも通りじゃねーか」
「嘘ですよ。由比さん俺のこと避けてます。土曜の朝から」
 どきっ。ばか、おめー直球すぎるんだよ。封印しようと思ってることほじくり出すんじゃねーよ。
「………あのなぁ」
 水道を止めて、俺は洗い場の縁を両手で掴んだ。もはや、ため息しかでない。
「はい?」
「お互いあれは酒の上の不埒なんだから、何も無かったように忘れるのが大人のルールってもんだろ?」
 濡れたYシャツの袖から、雫がポタリと落ちる。俺はペーパータオルを取って、震える両手を拭いた。
「………え?だ…だって由比さん、俺、言ったじゃないっすか」
 言った?何を?そんなの知らねーよ。
「悪いけど、何を言ったにしても言われたにしても、俺はあのことをこれ以上どうするつもりもないから」
 どうしてこんなに手が震えるんだよ。やべ、声も上ずりそう。
 俺は丸めたペーパータオルをごみ箱に投げ、濡れたシャツの袖をまくった。
「………じゃ……あ…………」
「……ん?」
 耳に届いた絞り出すような声に、俺は顔を上げた。瞬間、目に飛び込んできた葉山の表情。そしてそれは、俺があの時以来初めてちゃんと見たあいつの顔だった。
「由比さんは……最初から、あの夜限りのつもりで……?」
 聞いているだけで、こっちの喉が締め付けられるような気がするほど、苦しげなあいつの声。力なく戸惑う瞳が、胸に痛かった。
 今まで作り上げてきた信頼関係が、ガタガタと音をたてて崩れていきそうな気がした。葉山が入社してから二年半、部の中でも特に仲が良い。葉山は仕事の覚えも良かったし、育ててみたいと思う。だからこそ、刹那的な関係にはなりたくなかったのだ。そりゃあもちろん、こんなことになったのは、俺の所為だと分かってはいたけど。
 間違いに踏み出したのは俺の所為。だからこそ、修復を図るなら俺の方からしなければ。俺の方から、なんでもないことにしなくちゃいけないんだ。
 そう。それがきっと、最善の道。
「………当然…だろ」
 泣く……と、思った。それほどあいつは、傷ついた者の顔をした。驚愕と落胆と、失望をその表情に含ませ、どう答えるべきか悩んでいるように見えた。いつも明るく太陽みたいなあいつの、隠し切れない影の表情を、俺は初めて見た。
 が、しかし。
「そう……ですよね」
 重い声でそう呟くと、あいつは笑った。時折、眉をぴくりと寄せながら、葉山は努めて平静を装い、ぎこちない笑みを浮かべた。
「良かった……由比さんが気にしてたら……どう……しようかと思ってて…。そうですよね、由比さんは……大人だから……っ……」
 静かに逸らされる目。こみ上げる感情をこらえるように、あいつは途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「あぁ……そうだよ」
 だから俺も、無理して微笑んだ。
 声が震えて、それ以上はなにも言えなかったけど…。




+++++



 入社して最初に気になったのは、ミステリーゾーンになっているロッカーだった。
 およそ整理整頓という言葉から遠い、物のたくさん詰まったロッカー。俺のロッカーは隣りだったので、変な生き物が発生したら真っ先に移ってきそうで怖かった。
 そして次に気になったのは、社の玄関でクライアントと談笑する由比さんの姿だった。
 腰は低いものの卑屈にならない。柔らかい雰囲気はあるものの媚びた様子はない。クライアントといい関係を築いているのが、その談笑を見ていればよく分かった。
 実際、由比さんは仕事を育てるのが上手な人だった。小さい仕事でも、さらにその先を見ている。丁寧に仕事をこなすので、必ずといっていいほど仕事が次に繋がっていく。今うちの会社がこなしている大きな仕事の中にも、由比さんが最初の芽を育てたものがいくつかある。
 だから、そのロッカーの持ち主が由比さんであると知った時の驚きたるや、表現のしようもない。何故って、ロッカーはそんな感じなのに、由比さん本人のデスクは、とても綺麗に整頓されていたから。会議の資料も分かりやすいし、とても清潔好きに見えたから。
 それから、俺の由比さんを見る目が少しづつ変わった。ジャングルのように見えるロッカーも、由比さん的には何がどこにあるかしっかり把握しているようだし、変な虫を発生させそうなものはもちろん無いようだった。
 ミスをした部下の残業には、必ず最後まで付き合っていること。結構口が悪いくせに、誉め上手で注意上手なこと。自分に厳しく、仕事熱心なこと。そして、俺より五歳年上だけど、笑うと俺より三歳は下に見えること。
 気が付くと、いつも目の端で由比さんの姿を探している自分に気が付いた。
 日に透けると栗色に光る髪。話をする時にしっかりと相手を見据える瞳。すっと伸びた首筋。何気ない仕種も、ため息交じりの呟きも、どれもこれもが何度も頭の中でリフレインした。
 最初は当然戸惑った。自分がどうかしてしまったんじゃないかと錯乱した。五歳も年下で男の俺を相手にするわけないと思ったし、この気持ちを悟られたら、由比さんはきっと俺の事を嫌いになるだろうと思った。
 頑張りを認めてくれたのか、由比さんは彼のプロジェクトに俺をよく入れてくれたし、仕事も任せてくれていた。それを全て捨てるかもしれない告白。長いことその告白への迷いは頭の中で巡り、そしてやってきた金曜の夜。
 ………伝わったと思ったのに。
 届いたと思ったのに。
 夢のようなひとときは、やはり夢で終わった。
 俺が年下じゃなかったら、受け止めてもらえたのだろうか?
 せめて、真剣に受け止めてもらえたのだろうか?
 今更考えても仕方が無いけど。考えてしまうのはガキなのかもしれないけど。
 それでも、考えずにはいられなかった。




+++++



 仕事が思うように進まない。
 時計を見るとちょうど九時を回ったばかり。月曜から好き好んで残業する者もおらず、俺は一人でオフィスにいた。
 そういや、月曜の残業でも葉山は文句ひとつも言わずに一緒に付き合ったな。あいつと組んでると仕事もはかどるし、効率よく回ってるような気がする。今日は、取り引き先に寄ってそのまま直帰したけど。
 あんなに傷付いた顔をするなんて思わなかった。むしろ、変な関係を続けなくていいと、ほっとすると思ったのに…。
 俺は画面を見ながら資料のファイルをチェックする。これが終わったら、さすがに今日は帰ろうと思っていた。
 こんな時葉山だと、コンビニに行って肉まんのひとつでも買ってきてくれるな〜。気が利くし、人の好みに敏感だし。……っておい、こんな風に余計なことばっかり考えてるから仕事が進まねーんだよ。さっさと帰るんだってば。それで、熱い風呂に入ってビールでも飲んでさっさと寝る。そうしたら、きっと忘れるから。
 ………忘れる?なにを?葉山と寝たこと?あの時のあいつの囁き?
 それとも、あいつの今朝の顔?
 うがーーーっ!何時まで俺はここにいるつもりなんだ!帰るったら帰るんだよ!おらおらプリンター!さっさと吐き出せ〜!
 俺は憎しみすら込めながらOKの文字をクリック。………が、やってくれたよ林檎野郎。
「フリーズしてんじゃねえよおっ!」
 思わず怒鳴り倒す。一人をいいことに言いたい放題。ムカツク指で再起動をかけながら、俺は椅子に深く座り直した。
 再び起動する画面を眺めながら脚を組む。あー、熱いコーヒー飲みてーなー。そういや、手のやけどもたいしたことなくて済んだな。すぐに冷やした所為もあるけど、あいつ、すげー行動早かったよな。すごい力で捕まれたし。腕力も握力もあるんだよなぁ。そのくせ…………………妙に上手かったし。
 …………………………。
 だーーーーーっ!さっさと再起動しろっつーの!もう俺は最後にメール確認したら、とっとと帰るっ!プリントアウトは明日の朝!腹減ってるから思考回路がどうにかなってるんだ。食欲満たして休息したら、不毛なことはもう考えなくって済むに違いない!
 再び立ち上がった林檎くんで俺はメールをチェックする。その時、企画部のドアが開いた。俺は反射的に振り返り、そして固まる。
「あ……由比さん。まだ、いらっしゃったんですか………?」
 片手に紙コップを持った葉山が、そこに立っていた。




+++++



 ほろ酔い気分で街を歩く。
 取り引き先に行ったら、そのまま捕まって飲みに付き合わされた。まぁ向こうの持ちなので一食浮いたと思えばいいんだろうけど、気持ちが滅入ってる時の酒ってマイナスの気持ちまで増殖させるから本当は嫌い。おまけに変な手土産まで持たされたもんだから、これは一度社に寄った方が良いなと思った。
 由比さんはきっと、今日も残業してるんだろうな。完璧主義というか、プライドが高いというか、良くも悪くも手の抜けない人だから……。
 きっとそろそろお腹も空いて、口の悪さに拍車がかかる頃だろう。他の人間がいる時はそうでもないけど、俺と二人の時は容赦なく悪口雑言をコンピュータにぶつけてるからな。熱いコーヒーと肉まんの時間なんだろうな………。
 どうしよう。買って行こうかな。ビルの下から見上げると、うちの部の電気がまだ点いている。あれは由比さんに違いない。でも、あんまり余計なことすると、一度やっただけでつきまとうガキだと思われるかな?
 好かれてないと分かってなお、嫌われたくないと思うのは馬鹿だろうか?
 恋愛の対象になれなくても、仕事でもなんでも認めてもらえることがあるなら。あの人が自分の存在を心の隅に置いてくれるような何かがあるなら……なんでもするのに。
 いっそ嫌われた方が気にしてもらえたり?………変な予想に苦笑する。
 こんなくだらないことを考えるほど、気が付けばあの人のことばかり。決して自分のものにはならないであろうあの人の幻影ばかりで、空虚な自分の心。
 そして、考えがまとまるよりも先に、コーヒーの自動販売機のボタンを押している自分がいた。
 それを片手に、エレベーターで十二階へ。
「フリーズしてんじゃねえよおっ!」
 笑ってしまうほど分かりやすいあの人の声。俺は手の中で熱を出す紙コップをぎゅっと握り締めた。
 足音を消してドアに近づく。ここまで来ておきながら、俺はまだどうするつもりなのか自分で分からなかった。さっさと荷物を置いて帰るのか。それとも、一緒に残業してポイントを稼ぐつもりなのか。それとも………。
 考えてるうちに、またドアに手をかけていた。
 不機嫌そうな由比さんの顔が、ゆっくりとこっちを向いた。




+++++



 「なに………してんだ?」
 葉山は自分の席の脇に荷物を置くと、手に持っていた紙のコーヒーカップをデスクの上に置いた。コーヒーのいい香りが俺の鼻腔をくすぐる。
「いや、向こうに行ったら飲みに連れて行かれたんですけど、系列会社の資料とか、またもらっちゃいまして……それで帰る前に置きに来ました。結構重いんですよ、これ」
 あいつのぎこちない微笑み。俺の胸がチリっと焼けた。
「それだけ………か?」
「え?」
 あいつは少し驚いたように俺の顔を見る。俺は逆にそこまで驚かれると思ってなかったので、そんなあいつの反応に驚いた。
「……だって、それ。もうちょっと長居するつもりだから、そんなもの持ってきたんだろ?」
 俺はコーヒーを指差す。するとあいつは一瞬口篭もって、静かにそのコーヒーを俺の目の前に置いた。
「あ、良かったら……どうぞ。俺、すぐ帰りますから」
 そして自分の鞄を持ち直して、葉山はすぐに立ち去ろうとする。そんな、お前、これもしかして俺のために……?
「おい、ちょっと待てよ。俺も、もう帰るから………」
 一緒に帰ろう……と言いかけて、やめる。一緒に帰るって、別に家がすごく近い訳でもないし、乗ったところで数駅。それを引き止めるのもどうかと思ったのだ。このまま食事にでも行くのなら別だが、この間の今日では……飲みには行けない。しかし、俺の言葉をどう取ったのか、葉山が言った。
「あ……いらなかったら捨ててください。とにかく俺、もう帰るんで」
 そんなそっけない言い方が、少し気に触った。あいつの態度は、どうでもいいからさっさと帰りたいと言ってる。だからといって、捨てろはないだろう。誰も、いらないなんて言ってないし、むしろ嬉しかったのに……。
「そういう言い方はないだろう?ちょうどコーヒー飲みたいと思ってたし、やっぱりお前ってタイミング良いなって思ったところだったのに……」
 なに言ってんだ俺?っツーか、何が言いたかったんだ?ただ、コーヒーが嬉しかったことと、あいつの気が利くってことを言いたかったのに、これじゃあケンカ売ってんじゃねーか。
「タイミング?最悪じゃないですか。タイミングが良かったら金曜日の飲みだって断って、一人で家で寝てましたよ。そうしたらあんなこともなかったし、今こんな気持ちになんかなってなかったですよ!」
 しかもあいつも、真っ向から俺の売り言葉を買ってきた。あいつが俺に対してこんな怒り方をするのも初めてだった。
「いつまでもグチグチなに言ってるんだよ!俺が気にしなくていいって言ってんだから気にすんな!さっさと忘れろ!俺がそう言ったら、お前だって良かったって言ってただろ!」
 あいつが何に腹を立てて、何を気にしてるのかが分からなかった。悪いことをしたと思ったから、気持ちが軽くなるように忘れろと言ったのに。何にまだこだわってるって言うのか、さっぱり分からない。
 俺がもらったコーヒーを一口飲むと、葉山は手にした鞄を自分の椅子の上に投げ出して言った。
「あぁ、良かったですよ……」
 熱いコーヒーが喉を潤す。からっぽの胃に染み渡る熱。目を伏せたまま大きくため息をつくあいつを横目で見ながら、俺はコーヒーの紙コップを自分のデスクに置いた。
「………あんたがね」
 デスクの上に置いた手がそのまま固まる。隣りのデスクに尻を寄りかからせてこっちを見るあいつを、言葉もないままに見返した。
「もう一度したい……って言ったら、どうします?」
 普段のあいつからは想像も出来ないほど、すれた瞳。俺は置いたコーヒーをもう一度手にし、残りを一気に飲み干した。そのまま紙コップを手の中でつぶし、ごみ箱に力任せに投げる。
「断る」
「つれないですね。あんなに燃えたのに?」
 顎を上げたあいつの瞳が、俺を捕らえて離さない。俺の頭の中はパニックを起こして、訳の分からない言葉がぐるぐると回っていた。
「ふざけたこと言うな!」
「あれ?覚えてないんですか?何回イキましたっけ?えーと、あんたは……」
「葉山!」
 指を折って数えようとするあいつに、思わず怒鳴る。すると、予想に反してあいつは嬉しそうに微笑んだ。
「やっと、名前呼んでくれた…。……あの時以来」
 俺は恥ずかしさに顔を背ける。あいつは寄りかかっていたデスクから離れ、スーツのジャケットを脱いだ。
「あれが最後かと思っちゃいましたよ………ね?」
 大きな手が俺の肩をつかむ。俺はまたもや反射的に、その手を振り払おうと身体をよじった。あいつのもう片方の手が、俺の手首をつかむ。
「ばか……っ……!離せっ!」
 離れようと後じさった俺の脚が、回転椅子の脚を踏み、すべる。もつれるように二人の身体が床に転がり、あいつが俺の身体を組み敷いた。
「どけっ!葉山!」
「お断りします」
 言うが早いか、あいつの手が俺のワイシャツの前を引き千切る。弾けたボタンが、視界の端に転がっていった。
「ばかっ!お前何考えてんだよ!」
 容赦なく触れてくる指。脱がしたシャツで俺の両手を拘束し、あいつはあっさりと俺のベルトを外しにかかる。羞恥心で肌が赤くなっているのが自分でも分かるほどだった。
「………っ………!」
 忍び込んだ指が、前触れもなくそれに触れる。
「何考えてるかって?……それは、こっちの台詞ですよ。それが分からないから、ここに聞いてるんじゃないですか」
 長い指が細やかに動く。嫌だと思えば思う程、それは腹が立つくらい巧みに俺を追いつめる。否が応にも高まっていくそれに、葉山が低く笑った。
「由比さんも、このくらい分かりやすければいいのになぁ………」
 下着の中で固くなるそれに、葉山が口唇を寄せていく。下着の上から舌でなぞるように形を確かめ、ゆっくりとその下着を降ろしていった。
「や……やめ………っ……」
「それが、もう零してる人の台詞ですか?この間みたいに、素直に『いい』って言って下さいよ」
 わざと下卑た言葉で俺をいたぶる葉山が、喉の奥で笑う。俺は、そんな葉山からも、反応してしまう自分からも逃げるように目をつぶった。
「お前………最っ低だ……っ……」
 呟く端から、熱い息が漏れていく。後ろに差し込まれる指。背中が引きつり、背が反り返った。
「っ……あっ………」
 熱い口が俺のそれを含み、舌先で敏感な部分をくすぐっていく。その度に俺の脚がピクリと揺れ、あいつの背の上で震えた。
「なんとでも言って下さいよ。こっちは最高だって言ってくれてますから…………」
 ひくつく場所から出し入れされる指。それを舐める唾液の音がいやらしく響き、閉じたくても閉じることのかなわない耳が、聞きたくない音にまた犯される。
「んっ………あんっ………あ……っ」
 こらえきれない吐息が口唇を割り、切ない喘ぎに変わる。リズミカルに動く指に、後ろがきつい締め付けで応える。前を咥える口唇がそれの根本を時折きつく締め、果てることを許さない。そのくせ妙に甘い舌使いが、容赦なく俺を責め立てた。
「はぁ……っ……んっ……んんっ……は……やま……っ…」
「どうしたんですか?もう欲しいんですか?」
 葉山の言葉に、俺はめいっぱい首を横に振る。口唇が離れ、今度は大きな手で絶え間ない刺激を与えられる。身体を背後から支えられると、背中を這うあいつの舌の感触がした。
「んっ!」
 耳に舌を差し入れられ、身体を竦める。後ろでは三本もの指がうごめき、前ではぬるぬるとした感触とともに、張り詰めたそれが幾度も刺激される。
「ああっ…………んっ………あっ………あ……んっ………や………だ………っ………」
 喘ぎ声がすすり泣くような声に変わり、葉山が俺の耳に口唇を寄せた。
「由比さん……可愛い……。仕事してる時の由比さんも素敵ですけど、こんな風に素直な由比さんはとっても可愛いですよ………」
 うっとりとしたような葉山の声。俺は聞きたくない声から逃れるように首を思いっきり横に振り、そして言った。
「葉……山っ……。お前なんて……大っ……嫌いだ……っ………んっ………」
「大好きっ……て聞こえますよ……。不思議ですね………っ…」
 葉山の少し上ずった声と同時に、俺の背後から来る熱く激しい感触。葉山の高まりを飲み込んで、俺のそこが息づくようにひくついた。
「はああっ………あ……っ…………んくっ……」
 心の反発とは裏腹に、更に奥へと俺自身があいつを誘っている。ズブズブと葉山のモノが深く侵入し、俺のそこは強くなる圧迫感に熱をあげた。
「やだなぁ………そんなに美味しそうに咥えないで下さいよ。動かすのも辛いじゃないですか」
「ばっ……や……だっ………んっ………」
 額を床に付け、俺は両腕で自分の耳を覆った。もう何も聞きたくない。なんで、どうして葉山はそんな事ばかり言うのだろう。そんな、俺が嫌がるようなことばかり…。
「由比さん……っ………」
 背後から囁かれる俺の名前。
 葉山……泣いてる?……んなわけない。やられてるのは俺の方。
 それなのにどうして、あいつの声はあんなにも痛々しい?
 酷いことをされていると思いながらも、あいつの囁く俺の名前だけが、どうしてかとても、甘く響いたような気がした。




+++++



 意識が戻ると、あいつはいなかった。
 何度されたのかさえ、もう分からない。床に寝ていることを除けば服も着せられているし、別段変わったことも無い。ただ、ボタンのとんだシャツが、あれが夢ではないことを物語った。
 時計を眺めて、まだ電車があることを知る。消灯作業もすべて済まされており、俺はただ帰ればいいんだということを悟った。
 のろのろと鞄に手を伸ばし、立ち上がる。腰に力が入らずに、一度膝をついた。
 頭の中が真っ白で、何を考えればいいのかもよくわからない。
 ただ、あんなことをされてもなお、葉山のことを憎いとはとても思えなかった。
 それがどうしてだかを考える余裕は、その時の俺にはなかったが……。




+++++



 ビルの陰で膝を抱える。
 どうして、あんなことをしてしまったんだろう。あんなことをするつもりじゃなかったのに。
 由比さんを傷つけたかったんだろうか?そんなんじゃ、自分が傷付いたことを主張したいだけの自己中野郎じゃねーか。自分で自分に腹が立つ。
 ただ触れたくて、ただ一目会いたくて。あの人の喜ぶ顔とか、あの人の声とか……そんなものにただ接したかっただけなのに。結局、酷いやり方であの人を傷つけた。
 してる最中だって、あの人に触れられて喜ぶ自分と、『なにやってんだ?』って問い詰める自分が同居してた。あの人を欲するあまりどうかしてしまった俺を、自分でどうすることもできない。
 由比さんの言う通り。
 俺って、最低だ……。
 社の玄関が開く音。顔を上げると、由比さんがゆっくりとした足取りで駅の方へ向かう姿が見えた。目を覚ましてくれたことと、身体が大丈夫そうなことに、少し安心した。
 俺は由比さんの姿が見えなくなっても、しばらくそこにそうやって座っていた。




+++++



 夢の中で、やっぱりあいつは泣いていた。
 どうしてそんなに……?何を思いつめてるのか分からない。俺のこと軽蔑したんじゃねーのか?だからあんなことしたんだろ?それでなんで、お前が泣いてるんだよ。普通こういう場合、泣くなら俺の方なんじゃねーのか?
『だって……由比さん。俺の言ったこと……』
 あー、そういや何か言ったって言ってたな。すっかり忘れてるけど。あ、だから怒ってんのか?
 思い出せって言われても、酒の所為で記憶が飛び飛びで……。
 ピピピピッ ピピピピッ ピピピピッ
 ………朝?俺は、重い瞼を開けて時計に手を伸ばす。……と、やべぇ。日曜の朝起きる時間のままじゃねーか。あと五分で会社にいる時間だ。……無理だっツーの。
「イテッ」
 身体を動かした途端に襲う、腰に鉛を入れたような重さ。ちっくしょー、思いのままにやりやがって。だるいったらありゃしねー。頭も重いし、気持ちも重い。あー、でも仕事。はじめてだぞ、ここまで本気でサボりたくなったのなんて……。でも今日ならまだそんなに忙しくないし……ああっ!
 迷うよりも先に電話を取る。さっさと会社に電話をして、病欠決定。
 今日はひたすら寝る!




+++++



 「え?休み?」
 俺は梶原の言葉に思わず振り返った。始業時の社内のざわめきが、俺の言葉の意味の違いを紛らわせた。
「そうなんですよ。熱が三九度もあるんですって。明日には来るって言ってたから、病院に行って注射でも打ってもらう気かしら?由比さんも働き過ぎだから、たまにはゆっくりできるといいのにね」
 熱?昨日の所為で風邪でも引いたんだろうか?
「急ぎの仕事はないみたいだからあれだけど、緊急の用事があったら電話くれって」
「あ……あぁ、そう。じゃあ、とりあえず由比さんへの電話は俺に回して」
「わかりました」
 席に戻っても気持ちが落ち着かない。一人暮らしなのに、三九度も熱があって大丈夫なんだろうか?食事もちゃんとしてるだろうか?
 とりあえず、由比さんのパソコンを立ちあげて、今日作るはずの資料を見る。
 やっぱり俺、由比さんの邪魔しかしてない。好きだとかなんとか思いながら、結局由比さんのためになったことなんかない。
 情けなくて、くやしくて。
 これは本当に、離れなくちゃいけないのかな………と、思った。




+++++



 ガタンッ
 物音で目が覚める。俺はベッドから出ると、パジャマ代りのTシャツにトレーナーで玄関前に立った。
 よく寝たおかげで頭は冴えてる。気持ちも幾分落ち着いてきた。時計を見ると夕方の四時。そして玄関の外をレンズから覗いて、驚いた。
 葉山がいる。まだ会社の時間だろうに、あいつはこんなところで何をやってるんだ?不思議に思いながらも息を潜めて見続ける。すると、レンズ側にあいつの身体は近づき、そのまま玄関に背を預けて座り込んだ。な………なにするつもりだ?
「由比さん……いますか?」
 いるかどうか確認するなら、普通呼び鈴押すだろう?んなところで呟いてどうするんだよ。



 俺は由比さんの部屋の玄関にとりあえず座った。呼び鈴を押そうかとも思ったが、寝てるのを起こしたら悪いので、とりあえず買ってきた食糧だけでも置いて帰ろうかなとも思う。でも一言謝った方が……。
「由比さん……いますか?」
 ぽそっと呟いてみる。これで聞かれてたらかなり恥ずかしいな。相当怪しいぞ。でも部屋の中から反応はない。これは寝てるな。じゃあ、ちょっと予行練習してみるか。
「身体、大丈夫ですか?俺のせいで………すみません」
 相手がいないと楽なんだよなぁ。言いたいことがストレートに言えるし。一度、意を決して言った言葉がなかったことにされると、二度目はなかなか難しい。
「俺……あんなことするつもりじゃなくて……。コーヒーだって、差し入れしようかと思って買ったんですけど、俺からの差し入れじゃ由比さん嫌がるかと思ったんで、だからあんな言い方……。俺はずっと由比さんのこと尊敬してましたし、ずっと……好きでした。金曜のことは俺、本当にこのまま死んでもいいってくらい嬉しくって………由比さんも、俺と同じ気持ちだったらもう最高だなって。俺……一人で舞い上がっちゃって…………。すみませんでした。由比さんが言うように、俺やっぱりガキだから………あんな風に一度っきりとか………そういうの出来るタイプじゃないから………。好きじゃなけりゃ、あんなこと………できないから」
 言ってるうちに、ジワーッと視界がにじんでくる。そうなんだよなぁ。俺、由比さんもひょっとして俺のこと?って期待したんだよな……。馬鹿だよな……。
「本人に聞かせるんじゃないとこだと、ちゃんと言えるのになぁ……」



 聞いてるし。
 俺は玄関に立ち尽くしたまま、どうしても赤くなる顔を押さえることができなかった。
 仮病だから熱はないはずなのに、背筋がゾクゾクする。
 あいつが気持ち悪がると思ったから、そっけない振りをしたのに、これじゃあ俺の方が馬鹿だ。あいつの真剣を踏みにじって、俺の方が最低な奴じゃないか……。大人とかガキとかそんなこと言って格好つけてたのは俺の方。もうこれ以上傷付きたくないと、勝手な理由をつけてたのは俺の方。
 あいつのことを最低だなんて言う資格……俺にはない。
 だけど、考えもしなかった。まさか、あいつが俺のこと……好きだなんて。



 俺はコンビニの袋から小さい壜を取り出すと、座ってる脇にコトンと置いた。さっき買ったウォッカの小ボトル。変な見栄とかプライドで、また言いたいことが言えなくなったら、これの力を借りてでも、今度はシラフの由比さんに本当のことを言おう。変に格好つけるから、くだらないことばかりが先行して本当に言いたいことが言えなくなるんだ。
 本当に言いたいことは、とてもシンプルな気持ちなのに………。
 俺はボトルを手に持つと、栓を軽く捻った。
 その瞬間、背後で鍵の開く音がした。
「由比さんっ?」
 反射的に立ち上がる。が、同時に意識が削がれた俺の手から、そのボトルはゆっくりと落ちていった。



 カッシャーンッ



 ガラスの割れる音。扉の向こうから聞こえてきたその音に、俺は何かを思い出した。
 そう、あの金曜日にも誰かがガラスを割った。
『良かった……由比さんに怪我がなくて』
 思い出される葉山の言葉。あぁ、あれは俺がグラスを床に落として……。
『そんなに辛いんだったら、俺が引き受けますよ……。俺で、よければ……』
 あーそうだ。俺、ふられた愚痴までこぼしてた。それであいつ……。
『由比さんのこと傷つけないように、一生懸命頑張りますから………』
 ……………思い出した瞬間、息が詰まった。
 そうだ。あいつ、そんなこと言ってた。それで、俺も葉山だったら……って……。
 そんなこと言われてたのに、俺、なんで忘れたりしたんだろう。
 あいつの真剣が怖かったから?いや、違うな。
 マジであいつに惚れそうな予感に、怖じ気づいたからだ……。
「由比さん?起きてるんですかっ?由比さん?」
 コンコンとドアを叩く音に、顔を上げる。次の瞬間、開けられた鍵のことを思い出したのか、ノブがゆっくりと周り、ドアが開いた。
「由比さん………起きてて大丈夫なんですか?」
「あ………あぁ。それよりお前、会社は?」
「直帰にして来ちゃいました。ばれても由比さんの所に来てるんだったら、打ち合わせで通ると思いましたし………」
「まぁ、とりあえず………あがるか?」
 狭い玄関から中を指す。あいつの返事を待たずに、俺は中へ戻りながら、ポソリと呟いた。
「俺だって、好きでもない奴となんか……できないんだぞ」
「由比さん……………えっ?」
 慌ててあいつが靴を脱ぐ音がする。ドアを閉め、鍵をかけてる。おい、チェーンはしなくたっていいだろう………。
「だ………だって、由比さん…………」
 俺の背に手をかけて、葉山が俺の前に回る。
「言っとくけど、一人だけで傷付いたりしたら、許さねーからな。一緒に背負わせろよ」
 じっと見つめてくる瞳。こういう表情が、時に妙にあどけないってことに、こいつは気付いてるんだろうか?
「俺も一生懸命頑張るって言ったら…………まだ、間に合うのか?」
 葉山の驚いた顔。俺の両肩に乗せられてる手に、徐々に力が加わる。その手はゆっくりと俺の身体を引き寄せ、抱きしめた。あいつのスーツの香りが、鼻孔をくすぐる。
「全然…………余裕で間に合うっスよ………………あっ!でも!」
 きつく抱きしめられた身体が引き離されて、疑わしい目つきの葉山が俺を見る。
「まさか、また………今日こっきりとか…………?」
「違う違う!それは本当に俺が悪かった………っツーか………俺がガキだったからで………」
 申し訳なさに苦笑する。そんなことではすまされるべきではないけれど、妙にシリアスな雰囲気も、実は結構苦手だったりする訳で。
「え?じゃあ、本当の本当に……?俺で……いいんすか?」
 覗き込むように俺のことをみる葉山。俺は鼻の頭を指先でポリポリと掻きながら、小さく呟いた。
「お前でいいというか………お前だから、いいというか………」
 瞬間、くしゃっと歪んで泣きそうになるあいつの顔。きゅっと締め付けられるように、俺の胸が縮んだ。
「由比さんっ……」
 寄せられる顔。触れる口唇。またあいつの大きな手が俺の髪をなでる。こいつ、髪に触るの好きだよなぁ。
「………んっ………」
 Tシャツの中に忍んでくる指。おい、いくらなんでも玄関先っツーのはどうかと思うぞ。
「お……おい、葉山。あと十五歩程進んでくれると、もうちょっといい場所があるんだけど……」
「じゃあ、そこで俺がどのくらい由比さんのこと好きかって証明しますね」
 そういいながら、耳たぶを噛んでくる。ほれ、移動移動。
「じゃあ、俺はどのくらいお前のこと嫌いかって証明してやる」
「本当に、好きって言えない人ですねぇ、あんた」
 ベッドになだれ込み、あいつがスーツを脱ぐ。
「おい、そんなに投げ捨てたら皺になるぞ」
「俺としてはもう、一分一秒たりとも待てないんです」
 言うよりも早く、俺のシャツを脱がしにかかる。お前、昨夜の今日で何回するつもりだ?
 ………と、その時。
 グ〜〜〜〜ッ
 なんとも間の抜けた音が響く。さすがにこれは俺もどうしようもない。
「あの……性欲の前に……食欲の方を満たしたいな……って思うんだけど、どうだろう?」
 とりあえず申し訳なさそうに切り出してみる。そう言えば今日、まだなにも食ってない。
「お粥なら三分で作りますよ。そのために買ってきたんですからね」
「できたら、トンカツとか、そういうパンチのきいたものが食べたいなぁ……なんて」
 上目遣いで提案してみる。が、殺気立ったあいつの目は厳しく俺を見返した。
「そういや俺、由比さんのこと見た瞬間に気付いたんですけど…………まさか………仮病?」
 三十九度の熱がある病人は、普通トンカツ食わねーよなぁ。葉山、正しい。
「俺マジで心配したのに、それが………仮病?」
「あ、葉山くん。ピザでもいいや。ピザ取ろう。電話電話」
 ちょっと葉山が怖くなりそうなので、さっさとベッドを降りてピザ屋のメニューを取りに行く。
「葉山、どれが食べたい?」
 努めて微笑んでみせる。メニューを開いて葉山を見ると、ベッドの上で変なオーラを出しながら俺を見返していた。
「ピザが来るまで四〇分……。あんた、ホントは俺とする気ないでしょ!」
 葉山…………………怖い。
「お粥でいいです」
 俺は肯きながら呟くと、即座にピザのメニューをしまった。
 そして三分間、台所に立つあいつの後ろ姿を眺め、今日最初の食事にありつく。
 気を使って具だくさんのおじやにしてくれた所為か、思ったよりもしっかりした食事になった。
 俺が飯を食ってる間にも、あいつは俺のことをじーっと見ている。
「そんなに見てて楽しいのか?」
「えぇ。胸があったかくなります」
 溶けそうな笑顔を見せながら、あいつは恥ずかしがりもせずに言い放った。
 俺はというと、そんな台詞にやばい所が刺激され、改めて感じる。………ピザにしなくて、良かったな。
「早く、俺のこと嫌いって証明して下さいよ」
 あいつは一分一秒たりとも待てないといった言葉通り、そわそわと俺の食事をせかす。
 俺は意地悪く笑いながら、のんびりと食事を続けた。
 ば〜か。そんな証明、出来るわけないだろ。
「由比さん。大好き」
 キッチンテーブルの上に顔を乗せ、葉山が微笑む。とんでもなく素直な笑顔を見せるあいつになんとも言えない恥ずかしさがこみ上げてきた。だって俺は、そんな正直な台詞を吐けるほど、子供じゃないわけで…。それでも、葉山の気持ちが嬉しかった俺は、あくまでもあいつに分かる方法で伝えることにする。
 俺は、あいつの額に軽くくちづけて言った。
「俺は大っ嫌い」
 と。









『残業天国』の1が、晴れて売り切れ御礼だそうなので
解禁してもいいかな〜と思いアップしました♪
表の「100」にも続きが載っている、由比と葉山です。
実は由比はヨッさんの元彼で、その話も書こうかと思ったら
ゆたちんからダメだしが・・・(^^;)
タダでさえ可哀相な葉山が益々かわいそうなんだそうな・・・(苦笑)
でもまぁ、また出てくると思います。このキャラたち。


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