DEEPER JOKER

琥珀のため息

乙姫 静香









 本気になったらいけないと、誰かが耳元で囁いた。





 大樹(ひろき)は手にしたコートを持ち直すと、小さく息をつきながら、次の絵の前へと足と運んだ。
 平日の閉館間近の美術館は人影もまばら。展示室の脇に座っている警備係のあくびを視界の端に捉え、大樹はもう一度深く呼吸をした。
 降ったりやんだりしている雨も、客足を遠のかせる理由の一つであろう。徐々にがらんとしていく館内を回り終えると、大樹は自動販売機で紙コップのコーヒーを買った。
 モダンなデザインの椅子に座り、コーヒーをテーブルの上に置く。かけていた眼鏡は外して、スーツの胸ポケットにたたんでしまった。ガラス張りの壁から外を眺めると、暗い空に白いものがちらついて見えた。
 雪になったのかな?と思う。手首からロンジンを覗かせて時間を見ると、閉館15分前。もう少しだけコーヒーを楽しもうと、大樹は白いものが徐々に増えていく空を見ながら、適度な温もりを持つコップを両手で持った。
 学生のように見えながら、それでいてスーツを着慣れた雰囲気。肌艶の良さや漂う清潔感が、大樹の育ちの良さを証明している。涼やかな目の下にある涙黒子の憂いが、きゅっと上がった口唇の明るさと絶妙なコントラストをなしていた。
 殆ど人影が無くなったロビー近くの休憩スペースには、大樹がコーヒーを飲んだ後の深呼吸の音だけが、静かに響く。それも残り少なくなったところで大樹は、音を吸収するカーペットを踏んでゆっくりと自分を目指してくる人物に気がついた。

 日本人の中では目立つ長身。それもモデルかと思うようなスタイルの良さ。一目で、あつらえたものだと分かる上質のスーツに身を包み、その長身の所為か優雅な裾の動きを見せるロングコートを着こなしている。履き込んでいそうな割に綺麗に磨かれた靴が、持ち主のセンスの良さと、そのセンスが一日やそこらのものではないことを物語っていた。
 きっちりし過ぎないものの、清潔感を漂わせる髪型。しかし、とても普通のサラリーマンには見えなかった。着ているものの値段の総計が、一般サラリーマンの年収をはるかに越えていると思われたからだ。
 くっきりとした二重とすっきりと伸びた眉。日本人離れした鼻の高さと堂々とした中に見える男らしさは、いつか見た外国の映画に出ていた俳優を思い出させた。あれは・・・誰だっただろう。
 そんな男が、自分の方に歩いてくる。大樹はわずかに飲み残したコーヒーのことも忘れて、その男に見とれた。
 男の方は、ぼーっと自分を見ている大樹に一度微笑むと、目の前で立ち止まり、当然のように切り出した。
「待たせたね。僕が、竜神利人(たつがみ・りひと)。・・・で、これが約束のもの」
 爽やかな笑顔を絶やさぬままに、利人と名乗った男は懐に手を入れ、小さな包みを取り出す。それを大樹の前に置くと、呆然とする大樹の言葉を待たずに利人は言った。
「じゃあ、僕はこれで」
「えっ!?」
 とまどう大樹もそのままに、利人はコートを翻し、その場を立ち去ってしまう。大樹は目の前に置かれた包みと利人の背中を交互に見ると、コーヒーカップをごみ箱に投げ込んで包みを鷲づかみにした。
 クラフト封筒に入った紙のような感触に、思わず包みを覗き込む。それが札束であることを知り、驚いた大樹の脚が更に早まった。分からないことだらけで頭の中が混乱する。しかも、利人は優雅な動作の割に歩みが速く、追いつく頃には美術館の表の交差点まで来てしまっていた。
「あ・・あのっ!待って下さいっ!」
 駆け足で追いつき、信号を前に立ち止まる利人の背中に投げかける。大樹がなれない駆け足に息を上がらせていると、背の高いスーツ姿がゆっくりと振り向いた。
「・・・・・なにか?」
 チラチラと零れるように降る雪の中でも、やはり目立つ姿。彫りの深い顔が、街灯の明りを受けて綺麗な影を作った。
「あの、僕・・っ・・違いますっ。何かの間違いだと・・・」
 肩で息をしている自分が少し情けないなと思いながら、大樹は手にしていた包みを相手に差し出した。利人は、不思議そうな顔で大樹を見上げ、そして言った。
「・・・・・・コーヒー?」
「え?」
 自分の胸の所を、柔らかい山羊革の手袋に包まれた指で利人が指す。その動作に、大樹は自分のスーツの胸元に視線を落とす。そこに、コーヒーの染みが大きな地図を作っていることを知り、大樹の表情が変った。
「あっ!」
 おそらくさっきコップを捨てる時に、飲み残しのコーヒーを自分にかけたのであろう。あまりにも動揺していたから気付かなかったけれど・・・。
「早く洗わないと染みになるな・・・。おいで」
「え?」
 大樹が差し出した包みには目もくれず、利人は大樹の手を取る。そのまま通りすがったタクシーを止めると、戸惑う大樹と共にタクシーに乗り込んだ。




***DEEPER JOKER***



 「すみません」
 大樹はガウン姿のままでソファに座り、恐縮して呟いた。
 ここは利人が滞在中の、都内の某ホテル。ベッドの開発にこだわったことでも知られる一流ホテルで、ビジネスに好立地な場所にありながら閑静なくつろぎの空間を提供することでも定評がある。スタンダードルームでもとても安いとは言えない値段である。そんなホテルの、しかも最上ランクのスイートに利人は大樹を連れてきていた。
「気にしないで、僕のせいで君のスーツを汚してしまったんだから」
「いえ、僕がおっちょこちょいだっただけで・・・」
 ホテルのランドリーサービスにスーツを渡してから、やっと大樹は人違いであることを利人に告げることができた。
「で、これ・・・」
 脇に置いておいた包みを、大樹はそっと利人に差し出す。今度はそれを大きな手で受け取り、利人が困ったように言った。
「そうか・・・本当に申し訳なかったね。僕自身、渡すように頼まれただけだから、特徴だけで勝手に君だと思ってしまって・・・名前も思い出せないし」
「どんな方なんですか?もしかしたら、僕もその人を見てるかもしれませんし」
 大樹は純粋に聞いて見る。すると今度は利人の方が戸惑った笑みを浮かべた。
「・・・・?・・なにか?」
「・・・聞いても怒らないかい?」
 どういうことだろう?と大樹は首を傾げる。が、次の瞬間、その特徴とやらが利人の目に映った自分でもあるということに気付き、納得したように肯いた。
「あぁ・・・・。そうですね、ちょっと気になりますが・・・どうぞ」
 素直に微笑み、大樹が先を促す。その育ちの良さそうな受け答えに、利人が感心したように相手を見つめ、言った。
「身長は175センチ前後。中肉中背、スーツ姿で年齢は十九歳。涙黒子のある、ちょっと気の弱そうな美少年」
 データを読み上げるような利人の声に、大樹は目を丸くして相手を見上げる。利人はその間に熱いコーヒーを入れ、ソファに座る大樹の前に置いた。
「僕って、そういう風に見えるんでしょうか?」
 気を悪くしているようでもなく、大樹は利人に聞き返す。利人は大樹の向かいに座り、自分のコーヒーを口に運んだ。
「見えないことはないかな。『気の弱そうな』という所を『線の細い』に訂正したいけどね」
「違いは何でしょう?」
「後者の方が綺麗な表現だからかな。君によく似合う」
 恥ずかしげもなく言ってのける利人に、大樹は黙って目の前のコーヒーにクリームを入れる。クリームピッチャーを持つ手が、微かに震えた。部屋の温度も上がったような気がする。
「どうしようかな。クリーニングが仕上がるまであと少しかかりそうだし、お詫びと言ってはなんだけど、大樹くんさえ良かったら夕食でも一緒にいかがですか?」
「お詫びだなんて、僕の方こそお部屋にお邪魔した上にクリーニングまでしていただいて。その上食事だなんて・・・」
 恐縮した大樹の様子に、利人が微笑む。素直に、可愛いなと思った。
「時間がないのかな?何か、急ぎの用でも?」
 ゆったりと微笑む利人に、大樹が困ったように俯く。
「いえ・・・別に、そういう訳ではないですけど」
「じゃあ、僕が食事を終えるまで一緒にいてくれないかな?どうも、一人で食事をするのが苦手でね。誰かと一緒の方が、美味しく感じると思わないかい?」
 それは大樹にも経験のある事であった。大樹も、一人で取る食事が嫌いである。だから、次の瞬間には小さく肯いていた。




***DEEPER JOKER***



 「27歳?」
 ルームサービスで運ばれたローストビーフを食べながら、大樹が目を丸くした。利人もスーツを脱ぎ、セーター姿でくつろいでいる。確かに、スーツを脱ぐと幾分若返るような気がする。
「いくつだと思った?」
 そんな大樹の反応に、利人が眉をあげて聞き返す。大樹は少し打ち解けた雰囲気で視線をさまよわせた。
「そうですね、35歳くらいかな。いい意味で・・・ですけど」
「35!?ふうん・・・・そう」
 実年齢をはるかに越した年齢を言われ、利人が深いため息をつく。
 話し始めると、大樹は結構饒舌で、楽しそうに会話を続けてきた。それでも上手に使い続ける敬語に、大樹の生活環境が垣間見えた。
「あ、だから!もちろん、いい意味でなんですよ。僕は20代の人で、あのブランドのスーツをあんな風に着こなせる人を知りません。最初に竜神さんをお見掛けした時に、日本人離れした方だなと思いましたけど、こうしてお話しして、その思いが強まりました。久しぶりに、紳士という言葉が似合う方にお会いしたなって・・・・」
「じゃあ、誉め言葉と受け取っていいってこと?」
 慌てる大樹を微笑ましく見返し、利人がわざと確認するように言う。大樹はその利人の笑顔に安心したように返した。
「誉めてます!本当ですよ。どうしたら、そんな風に素敵な大人になれるのかなって思います」
 すると、それまで余裕の微笑みで大樹を見ていた利人が、フォークを置いて大樹をじっと見つめる。大樹が利人の視線に気付き、ワインに伸ばした手をそのまま引っ込めた。
「・・・竜神・・さん・・・?」
「でもきっと、君は僕の素性を知ったら、もう誉めてはくれないと思うよ」
 顔の前で指を組み、じっと大樹から視線を逸らさない利人。大樹はそんな利人に戸惑いを隠せなかった。
「竜神さんの・・・素性・・・ですか?」
「そう、僕の素性。とても誉められた職業じゃないと人は言うから・・・。まぁ、それはいいとして、大樹くんは学生なのかな?」
 それはいいとしてと言われても、大樹にはそっちの方が気になる。一瞬遅れて、大樹が答えた。
「あ・・・・はいっ、大学生・・・です・・・」
 言いながらも、大樹は教えられない利人の素性のことを考えている。27歳で、こんなリッチな生活をしている。それがしかも付け焼き刃ではなく、随分長い間こういう生活をしているように見える。
 青年実業家?
 けれどそれなら別に卑下するような職業じゃない。
 ホスト?
 ・・・というには、夜の匂いがしない。それよりももっと、落ち着いたものを感じさせる。
 まさか・・・ヤクザ?
 にしては雰囲気が柔らかすぎる。むしろ、モデルや芸能人と言われた方が、納得するような感じがした。
 そこまで考えて、大樹の頭をかすめる何か。芸能人・・・。いや、利人がそう見えるという事ではなく、なにか引っかかる。それが何かは、その時の大樹には分からなかったが・・・。
「学部は?」
「はい、経済学部です。本当は・・・」
 考え事をしていた所為か、余計なことまでしゃべってしまいそうになる。気付いて口を閉ざした大樹に、利人が言った。
「本当は・・・・?」
 初めて会った人にこんな事を言おうとするなんて。そんな自分に驚きながら、大樹がフォークを置いて水に手を伸ばした。
「いえ・・・・本当は、他に行きたい学部が・・・・」
「へぇ。それは、なに?」
 目の前の利人の微笑みに、チリっと大樹の胸の中で焦げる何か。自分は、この人に何を言いたいんだろうか。
「本当は、僕・・・絵を描きたかったんです」
 告白のような呟き。親にも言うことの出来なかった言葉。言うよりも先に、決められていた自分の将来。
「絵?・・・・・油絵とか、そういうの?」
「いえ、僕が描きたかったのは、どちらかというと日本画で」
 何を話してるんだろうと思いながらも、止まらない口唇。誰かに吐き出して、すっきりしたかったんだろうか?
「コンクールに出品したこととかは?」
「何度か。賞も戴いたりしたんですけど・・・」
「なら、どうして経済学部に?」
「それは・・・・」
 そこまで言って、大樹は伏せていた目をあげた。目の前にいる利人を、じっと見返す。そして、再び視線を落とすと、口端を無理に上げて返した。
「いいですよ、僕の話なんて。面白くないですし・・・・」
「そんなことないよ。興味あるな・・・・大樹くんのこと」
「なんか竜神さん、女の人を口説いてるみたいですよ」
 冗談めかして大樹が笑う。すると、ワインを一口飲んだ後に利人が真剣な顔で返した。
「女性だけじゃないよ」
「え?」
「口説くのは」
 微笑と共に返された利人の言葉。笑うことも眉を寄せることも出来ずに、大樹がただまっすぐに正面の利人を見返した。
「え・・・?・・・って・・・・・?」
 真っ白いテーブルクロスの上で、静かに握られる大樹の手。
 その時、部屋のベルが鳴る。利人は固まっている大樹をそのままに、ドアに立った。
「あぁ。どうもありがとう」
 サインをしてクリーニングを受け取る。少し寂しげな笑みを浮かべ、綺麗になったスーツを掲げると、利人が大樹に言った。
「タイムオーバーだな。出来上がったよ」
「あ・・・ありがとうございます」
 膝の上にあったナプキンをテーブルの上に置きながら、戸惑いがちに大樹が立ち上がる。
「隣りの部屋で着替えておいで。家まで送るよ」
 言われるがままに、隣りの部屋に行こうとする大樹の背中に、添えられる利人の手。一瞬ビクリと身体を震わせてしまったその手の感触は、怖いというよりはむしろ温かく、利人の手が離れてからもしばらく、大樹の気持ちを高ぶらせた。




***DEEPER JOKER***



 こんなに、誰かのことが気になるなんて・・・・。
 大樹は大学の窓から、外に降る雪を眺めている。あの日から降り続けている雪。それは、しばらく続くだろうと天気予報が告げていた。
 結局あの日は、そのままスーツに着替えて利人の部屋を後にした。
 もしもあのまま、あそこにいたらどうなっていただろう?利人の素性を知ることができたのだろうか?それとも・・・口説かれたり?
 幾度目か分からないため息をつくと、大樹の横に座っていた大学の友人が言った。
「なんだよ、物思いにふけったりして。恋煩いか?」
 恋煩い?そんな馬鹿な、と大樹は心の中で否定する。そんなんじゃない、ただ気になるだけだ。どこの誰かも知らない男。日本人にはめずらしい優雅な物腰。余裕のある態度。そして、自分にあんなことを語らせた人物。
 絵のことは、誰にも話さないつもりだったのに、どうしてあんな、初めて会った人間に、言ってしまったのだろう。そのことが、気になるのだ。
 美術館であったからだろうか?それもあるかもしれない。けれど、おそらく一番の理由は、自分が利人を誰だか分からないように、利人も大樹のことを知らないからなのだろう。
 利人は、自分の素性を知ったら・・・と言っていたけど、それは大樹にも言える。もしも利人が大樹の素性を知っても、前と同じようにあの柔らかい笑顔で話をしてくれるのだろうか?この間と同じように扱ってくれるのだろうか?
 きっと、それはないな・・・と、何故か大樹は考えるよりも先に諦めていた。
 そしてそれはどこか、自分の進路を決められた時の感情に似ていた。




***DEEPER JOKER***



 つまらない大人の会話。窮屈なスーツ。大樹は父の関係している映画会社のパーティの席で、深いため息をついていた。
 ホテルの広すぎるバンケットホールも、くゆる煙草の香りも、大樹の脳を良い方に刺激はしない。帰りたいけれど帰れない状況の中で、大樹はテラスへと脚を運んだ。
 案の定テラスのそこかしこでは、売り込みたい方とそれに付け入りたい者の打算的な2ショットが出来ている。何か飲み物を持ってくればよかったなと思いながら、テラスの端に手をかけ、大樹はテラスに寄りかかった。・・・が。
「あ、すみません」
 隣りに出来ていた2ショットの一人に、身体がぶつかってしまう。謝りながら大樹が顔を上げると、そこには自分を見下ろしたまま固まっている顔があった。
「あ・・・・・」
 そして、大樹の顔も固まる。そこには、褐色の液体を入れたタンブラーを片手に、タキシードを着こなす良い男。
「竜神・・・さん・・・・・」
「利人、お知り合い?・・・・あら、大樹さん」
 自分を見下ろす利人の向こうから聞こえる声。大樹がその声の主を覗き込むと、そこには日本で知らない者はいないと言っても過言ではない女優が立っていた。
「菱川・・・黎子さん・・・」
 その時に、大樹の中で何かが弾けた。この間、芸能界という言葉がどうも引っかかっていたのはこれだったのだ。
 大樹の父が大ファンの女優・菱川黎子(ひしかわ・れいこ)。その黎子の5年来の愛人と噂される15歳年下の男性、それが利人であった。あまりマスコミの表舞台には出てこないし、実際に顔を知っているものは少ない。しかし、芸能界を知る者で、この竜神利人の存在を知らないものは余りいなかった。昨年黎子が離婚をした原因も、この利人にあると言われている。実際の職業も、普段何をしているかも良く分からない。ただ、5年ほど前から、パーティ時の黎子のエスコート、及び私生活でのパートナーは利人の役割になっていた。
「やぁ。こんばんわ」
 この間と変わらない、柔らかい笑顔。大樹は、自分の口唇が震えていることを感じながら、なんとかそれに微笑みで返そうとした。




***DEEPER JOKER***



  「素性って・・・こういうことですか?」
「そっちもね」
 大樹がパーティの着替え用に取った部屋に、二人でいた。カーテンを全開にして、街の明りを電灯代わりに使う。パーティ会場の明るすぎる照明が、自然と二人に部屋の電気を消させていた。
 黎子を車に乗せた後、大樹が利人を部屋に誘った。どうしても話がしたいと言ったのだった。
「東城グループの息子さんだとは思わなかったよ、東城大樹くん」
「知ってたんじゃ・・・ないんですか?」
 ソファに座った利人から目をそらし、大樹は窓辺でカーテンを握りしめていた。訳の分からない口惜しさと淋しさ、そして胸の痛みが大樹の胸に広がっていた。
「どっちなら、君は納得するんだい?」
 そんなの、分からない。そんなこと考えずに、ただ本当の事を言ってくれればいいだけなのに・・・。
「竜神さんの職業って・・・・・」
 徐々に早くなる大樹の呼吸に、冷えた窓が白く煙る。眼下には、宝石をちりばめたような夜景が広がっていた。
「菱川黎子の愛人・・・って言われてるけど」
「本当に、そうなんですか?」
 聞き返しながら、大樹は少し期待した。「そんなのは、ただの噂だよ」と利人が言ってくれることを・・・。
「黎子さんとつきあいがあるのは本当だよ。まぁ、黎子さんはもう離婚してるから、愛人じゃなくて恋人って言われてもいいと思うんだけど、なぜか愛人って言われ続けてるね」
 軽い冗談を聞いた時のように、利人が小さく声を上げて笑う。大樹はそんな利人を振り返り、真剣な顔で言った。
「じゃあ、竜神さんはお金で菱川黎子と、そういう・・・・」
「セックス?」
 組んでいた脚をほどいて、利人が大樹の言葉を遮る。そのまま利人は静かに立ちあがると、窓を背に険しい表情を崩さない大樹の元にゆっくりと歩いて行った。
「そ・・そういう表現は・・・・」
「どういう表現しても、いいたいことは一緒でしょ?・・・で?」
 すらりと伸びた長身が、大樹の前で止まる。大樹は利人の顔を見上げることが出来ずに、俯いたまま続けた。
「そういうこと・・・してるんですか?」
 絞り出すような声。利人は大樹の前で腕を組むと、顔を上げない大樹をしばらく見つめる。そして、ふと顔を緩ませて大樹の顔を覗き込んだ。
「いま・・・・想像した?」
「なっ!?・・・・・っ」
 楽しげに微笑む利人の前で、激しく大樹が首を横に振る。
「そっ・・そんなことしないですっ!」
「そうかな?いま大樹くんの頭の中で・・・・」
 下を向いた大樹の視界の中に、利人の大きな手が伸びてくる。それは大樹の胸の上に置かれ、少しづつ上に上がりながら、大樹の首筋に触れた。
「僕のこの手がどんな風に彼女に触れて、この口唇がどんなことを囁き・・・濡れて、絡んで、ひとつになって・・・・そんなことが巡ってるんじゃないのかな?・・・と思って」
 大樹の顎にかけられる利人の指。それでゆっくりと上を向かせられる。大樹の視線が利人のそれを捉え、せつなく絡み合った。
 大樹は背中を窓に強く押し付けながら、それでも利人の声に全神経を向けていた。自分は逃げたいのか、それとも捉えられたいのかさえも分からない。ただ、罠のように絡み付く利人の視線の甘い痛みに、身を委ねていた。
「どうして・・・・そんな嫌な言い方・・・するんですか?」
 寄せられた眉の下で揺れる瞳。こんな風に引き止めて、一体何の話がしたかったのだろう。
 この間の紳士らしい利人と、今目の前にいる愛人と言って憚らない利人。本当の利人はどっちなのだろうと、大樹は思った。
「最初に『金で誰とでも寝る男』呼ばわりをしたのは大樹くんの方だよね?」
 前髪が触れ合い、大樹が顔をあげたまま視線を下げる。
「違っ・・・!・・・・僕は、ただ・・・・」
「ただ?」
 視線をそらしようが無く、大樹が目を閉じる。どう答えるかをグルグルと考えながら、大樹の手がギュッとカーテンを握った。
「本当のあなたが・・・知りたかっただけです」
 その瞬間、利人の指がすっと大樹の顎から離れる。大樹がゆっくり目を開けると、利人が大樹から身体を離して背を向けていた。
「お金のためにとか・・・竜神さんがそんな人に見えなかったから。なにか理由があるんじゃないかと思ったし、理由があるなら知りたいって・・・!」
 大樹は、自分でも知らないうちに声を荒げていた。何を伝えたいかも分からないくせに、自分が必死になってることだけは分かった。まだ、自分がこの男に惹かれ始めていることにさえも気付かないくせに。
 すると、利人は笑った、声を上げて。片手を額に当てて、さもおかしいといわんばかりに笑っていた。
「なにがおかしいんですか?」
 大樹が言っても、利人は笑い続ける。大樹が少しむっとしたように、その笑い声を遮った。
「そんな・・・失礼です!何がおかしいんですか!?」
 真剣に怒る大樹を、利人は笑いを押さえて見返す。その深い瞳と、片手でタキシードのタイを緩める仕種に、大樹が一瞬ドキッとした。
「無理だよ」
「無理・・・・?」
 利人はセットされた自分の髪に指を差し入れて、少しだけラフに崩していく。そして両手を腰に当てると、夜景をバックに立ちすくむ大樹を振り返り、言った。
「本当の僕を知りたかったら、寝ないと無理だよ。・・・・・高いけどね」
「・・・・・・・・・・・・冗談・・・ですよね?」
 さっぱりと言う利人に、大樹が眉をひそめる。利人は目を閉じ、微笑すら浮かべて首を横に振った。
「何より・・・・君は清らかすぎる。そんな君には、僕のことなんか分かる筈もないよ」
「そんなっ!・・・僕だって、恋のひとつくらい・・・」
 むきになればなるほど、自分が子供っぽく見えてくる。大樹は口唇を噛み締め、俯いた。
 何を期待したんだろうか。この男なら、自分の中で微妙に崩れ始めたバランスを、元に戻してくれるとでも思ったのだろうか。誰にも言うことの出来なかった想いを、聞いてくれたこの男なら・・・。
「僕のことは・・・・」
 突然頭を撫でられて、驚きに顔を上げる。利人の反対の手が大樹の細い腰に回され、静かにその身体を抱き寄せた。
「もう、忘れなさい」
 やんわりと抱きしめられ、大樹の喉がそる。広い胸から、ゆっくりと伝わってくる利人の体温。
『忘れろと言いながら、こんな風に抱きしめるのは・・・ずるい』
 ・・・・と、大樹は思った。




***DEEPER JOKER***



 この想いは、なんなのだろう?
 恋と呼ぶには、余りにも苦い。しかし、好奇心と呼ぶには、余りにも馨しい。
 大樹は自室のベッドの上に横たわり、天井を見上げる。何を見ても答えなど出ることのない想いに、自分の手の甲で目を覆った。
「大樹さん、いらっしゃいますか?」
 父親の秘書の声に、ベッドの上で身体を起こす。
「はい」
「社長のお客様がいらっしゃってるのですが、車が渋滞してまだ社長の方がお帰りになられてません。そうしましたら、お客様が大樹様にお会いしたいとおっしゃられて・・・」
 スリッパを履いてドアを開ける。大樹の姿を見て安心したのか、秘書が続け様に言った。
「菱川黎子様です」



 目の前では、大樹の父が黎子に祖父のコレクションである数々の絵画を見せている。大樹はそんな二人から距離を置いて後ろに立つと、隣りに立っている人物に聞こえるような声で言った。
「この部屋には、秘書も入れないんですよ」
 母屋とは別に建てられた大きな離れ。空気調節からセキュリティまで完璧に施された中に、東城家のコレクションはあった。集めたのは主に大樹の祖父。大樹の父はむしろ、芸術の価値などつけられた値段でしか判断できないタイプであった。
「そんな所に入れていただけるとは、光栄だね。よほど君のお父さんは、黎子さんのことが好きらしい。まぁ、僕は視界に入ってないみたいだから楽でいいけど」
 利人は大樹の隣りで部屋の全体を見回しながら、そのコレクションの充実ぶりに目を見張る。ハーフコートを着たラフな利人の姿に、大樹がじっと視線を投げた。
「・・・なんだい?」
「やっぱり、27歳ですね」
 半ば皮肉も込めて呟く大樹。利人は言葉の中の棘に気付きながら、微笑みで返した。
「それは、どうもありがとう」
「僕が産まれた時、竜神さんは小学生です。でも、竜神さんが産まれた時、菱川黎子は高校生ですよね」
 比較的晴れた昼の日差しが、窓の外に見える。大樹の奥歯にものの挟まったような言い方に、思わず利人が笑った。
「・・・で?」
「で・・・って・・・。別に・・・」
 利人の質問に、大樹が手を後ろで組んでそっぽを向く。その子供っぽい仕種に、利人が揺るむ口元を隠した。
「竜神さんは、絵はお嫌いですか?」
 大樹が、黎子と父親とは違う方向に歩き出す。それについて歩きながら、利人も手を後ろに組んだ。
「嫌いじゃないけど、見る目はないかもね。好きな絵が、必ずしも値打ちモノって訳でもないみたいだし」
「別に、高い絵を見分けられることが、いい目をしてるって訳ではないと僕は思います。絵の価値は、その絵に魅力を感じる人がつけるものですから・・・」
 洋画、日本画、シルクスクリーンに、はては彫刻まで。古今東西、画法にこだわらない選択で並べられた美術品の数々を、二人で見てまわる。その中には、明らかにどこかの美術館で見たことのあるような絵もあったが、利人はあえてそれには触れなかった。
「もしも・・・・」
 風が庭の木の枝を揺らす音の合間に、届いた大樹の声。黎子と父親の姿は、並んだ絵や彫刻の影に隠れて見えなくなっていた。
「この離れの中身をすべて竜神さんに差し上げるとしたら、何日分の夜を一緒にすごして下さるんですか?」
 その声の持つ思いつめた響きに、利人が立ち止まる。大樹は、振り返る利人を真剣な瞳で見上げた。
「もしも僕が・・・あなたを欲しいと言ったら・・・・?」
 挑むというよりは、すがるような瞳。そこには、この間とは明らかに違う感情を持った大樹が立っている。そのせつない輝きに、利人が返事をすることも忘れて大樹を見つめ返した。
 なんて、まっすぐに見つめてくるのだろう。東城グループといえば世界レベルで見てもトップを争う、旧財閥系の流れをくむ大企業である。その跡を継ぐべく育てられた大樹が、よもやこんなに素直な瞳を見せる子だと、利人は思わなかった。その素直さが、逆に、深い部分で人と接触をしたことがないのではないかと、思わせた。しかし、その反対だとしたらすごいことだな・・・とも。
「・・・・・さぁ、どうだろうな。さっきも言ったように、僕にはここにあるものがどれだけの価値を持ってるかなんて分からない。だから、その質問にも答えられない。けれど・・・・そうだな」
 黙って自分を見上げる大樹に、利人はひとつの絵を指して見せる。
「おそらく・・・あの絵で一晩」
 利人が指したもの。それは、壁にかけられた色とりどりの絵の中で、まったく色の無い一枚のラフ画であった。周囲に並ぶシャガールやルノワールやクリムトの中で、まるで肩透かしを食らわせることを目的のように、小さく汚い額縁で飾られた花の練習画。利人はその前に立つと、その絵をまじまじと見つめて言った。
「当然・・・冗談だろうけど、そんなことは言わない方がいい。大人をからかうもんじゃないよ」
「僕だって、20歳です!竜神さんに子供扱いされるほど、子供じゃありません!」
「子供とか大人とかっていうのは、年齢だけのものじゃない。僕が言いたいのはそういう事だっていうのは、大樹君も分かってるよね」
「それは・・・・」
 分かっている。けれど、他に何と言えたであろう。意識すればする程、利人を繋ぎ止める言葉が分からなくなる。自分の言葉を、利人の胸の中に響かせたい。振り向かせたい、認めさせたい。
 ・・・・・独り占めしたい。
 利人の何に惹かれたのか分からない。だけど、この間抱きしめてくれた腕の強さは現実。その腕を、離したくないと思ったのは真実。
 胸を突き上げてくる独占欲に、行き場のない感情が暴走し始める。
「竜神さんは・・・ずるいです」
 押し殺したようなその声に、利人が振り返る。すると、丁度その時、大樹の瞳から零れ落ちる大粒の涙。それを隠そうと横を向く大樹の肩を、利人がそっと抱いた。
「慰めるのばっかり上手くって・・・・・。家に来たって聞いた時に・・・喜んだ僕が・・・馬鹿みたいです」
 大樹の涙を胸で受け、優しく背中を撫でる。利人の広い肩幅に、すっぽりと入り込んでしまう大樹の身体。利人は少し胸に沸いてきた愛しさから目を背けるように、ため息をついた。
「キスのひとつも・・・・してくれないんですね・・・・」
 形のいい眉を寄せて、大樹が鼻をすする。利人はそんな愚痴に表情をほころばせると、せつなげに眉を寄せて返した。
「僕は、キスはしないんだ」
「・・・・・・え?」
 利人の返事に、大樹が胸の中で顔を上げる。大樹の赤く腫れた目が、利人のそれを捉えると、利人が少し淋しげに微笑んだ。静かに低く響く、利人の声。
「キスは・・・・恋人にしかしないんだよ」
 外では、冷たい風が吹いていた。




***DEEPER JOKER***



 長い指がグラスを傾け、褐色の液体をそのしっかりとした喉に流し込んでいく。彼は、陽も高いうちから2階のテラスに腰掛け、中身の少なくなったグラスをリズミカルに回した。
 ここは横浜の元町近く。新旧織り交ぜの奇妙な風景にため息をつくと、彼の背後から、彼の長年の友人が声をかけた。
「帰ってたんだ、利人」
「・・・・アヤか。どうしたんだ、こんな時間に来るなんて・・・」
 アヤと呼ばれたメガネ姿のおとなしそうな男は、テラスに出ると利人が座っている向かいの席に腰をおろし、持っていた書類ケースを傍らに置く。男らしく、堂々とした雰囲気の利人に比べて、どこか植物的で穏やかな雰囲気の男。ケースにはめられていた名刺には、小林文彦(こばやし・あやひこ)と書かれていた。
「例の話、どうかなと思って・・・」
 人に警戒心を抱かせない温かい笑顔で、文彦は利人を見る。胸のバッジがなければ、とても弁護士とは思えないような柔かな瞳。利人は持っていたグラスをテーブルの上に置き、テラスの向こうに広がる景色に視線を投げた。
「アヤ・・・・。お前、初恋って・・・いつだった?」
「初恋!?・・・どうしたんだよ、急に」
 細淵の眼鏡の奥で、文彦の目がパチクリと瞬く。利人は胸ポケットから煙草を出すと、文彦を振り返り、一言言った。
「いいか?」
 その質問に、文彦も利人の心情を少し理解したのか、無言で小さく肯く。
 文彦は煙草が好きではない。好き嫌いというよりも、身体が受け付けないのだ。それを利人も良く知っているから、文彦の前では出来るだけ煙草を吸わないようにしている。なのに、利人が煙草を吸いたいと言う。きっとそれは、テラスに居るからだけではなく・・・。
 利人が、慣れた手つきで煙草に火を点ける。深く吸い込むと、白い息を細く長く吐きだした。
「利人は?いつだったの?」
 とても利人と同じ歳とは思えない若い雰囲気の文彦。利人は、自分の精神状態に対して気を使っていることを隠せない文彦の態度に、文彦をじっと見つめる。それでも、文彦としては隠せているつもりなのか、戻ってきた利人の視線に、精一杯の笑顔で応えた。
「・・・・・・やだ。教えない」
「なんで!?」
 利人のそっけない答えに、文彦がドキドキと慌てて答える。利人はそんな文彦の予想通りの反応に、ちょっと気持ちが晴れた気がした。文彦の親切には、つい意地悪で返したくなるのだ。
「大丈夫。俺にまかせろよ」
 短く答えた利人に、文彦がすこし安堵の表情を見せる。けれど、再びグラスを手にした利人を見ると、立ち上がり際に利人の肩に手を置いて言った。
「じゃあ俺、行くね。今日はいい天気だけど、寒いから風邪引かないようにな。冬なんだからさ」
「あぁ」
 文彦を振り返らずに、答える利人。こんな風にそっけない態度をとれるのも、相手が文彦だからであった。
「あ、利人」
「ん?」
 テラスを去り際に、文彦が一度振り返る。利人がグラスを片手に視線を送ると、文彦が最後に言った。
「俺は、いつでもお前の味方だよ」
 ニコニコッと笑う文彦。そして、学生のように手を小さく振って見せると、小走りにその場を去った。
 利人は出会った頃と全く変らない文彦の態度に、しばし呆然と口を開ける。それでも文彦の優しさに、思わず緩む頬。利人はグラスに残っていたブランデーを一気に流し込むと、微笑みと共に短く吐き出した。
「・・・・・・あいつ」




***DEEPER JOKER***



 仕掛ける罠はいつでも甘く、獲物を酔わせる媚薬の香り。思いのままに出来る想いだけに、心苦しいのも事実。いっそ、逃げてくれた方がいいのだろうかと、利人は自分に問い掛けた。
 車から降り、星も見えないほど明るい夜空を見上げる。今日は黎子が撮影を終えてマンションに帰る日。その前にワインの一本でも買おうかと、利人は良く行くワイン専門店に立ち寄った。
 黎子が好きなワインを購入。ついでに花のひとつも買おうかとざわめく街並みを歩き続ける。
 利人は歩くことが好きだった。コートの裾を揺らし、人の波をぬって歩くと、まるで水の中を泳いでいるような気分になる。黎子と一緒だとできないことだけに、利人は気ままな一人歩きを存分に楽しんでいた。
 歩きながら、今日はどんな花を黎子に贈ろうかと考える。華やかな美貌と確かな演技力で不動の人気を誇る菱川黎子が、実はかなり男っぽい性格であることは、極近しい者たちしか知らない秘密。宝石もドレスも、マネージャーや利人に選ばせるほど興味が無く、良い品は好きだが、ブランドに対する頓着はない。そのくせ、本物とフェイクを見分ける事だけは上手いのだ。本人は「なんとなくそう思っただけ」と言って笑うが、その目の確かさに、利人は何度も驚かされた。
 そんな、どちらかというと男っぽい黎子が、めずらしく女性らしい好みをしているのが花であった。女優になってなかったら花屋になりたかったと前に言っていただけあって、ベランダの花も上手に手入れしている。およそスクリーンの中とはイメージの違うプライベートの黎子が、利人は大好きだった。
 男女の関係を越えたところで、利人と黎子は同志であった。世間は、そうと取ることはなかったが・・・。
 ふと視界をかすめた影に、利人が立ち止まる。ゆっくり周囲を見回すと、道の向こうに知った顔が見えた。
 カバンにしては大きなものを小脇に抱え、歩く大樹であった。そういえば、ここは二人が初めて会った美術館の近くだ。利人は声をかけようかどうか一瞬迷う。それでも、やはり先を急ぐことにして大樹に背を向けようとした、その時。大樹の後ろ数メートルのところに、間をつめることも開かせることもなく歩く二人連れを見かけた。時折大樹を見ては、目で何かを確認しあっている。
 利人は大樹と平行に道を進み、信号の所まで足早に歩く。大樹を視界の端に捉えたまま信号を渡り、後ろの二人に気付かれないように跡をつけた。
 どう見ても大樹の護衛には見えない。それにしても、こんな遅くに大樹は何をしているんだろう。家の車も使わずに・・・。
 大樹は荷物を抱えたまま、近道をしようとしているのか、公園の中に入っていく。利人は後ろの二人の様子に、軽く舌打ちをして後に続いた。
 冬の夜の公園にはカップルの姿も少なく、街灯もどことなく暗いように感じられる。急いでるとはいえ、こんな公園の中を歩く大樹に、少し苛立ちさえ覚えた。
 そして案の定、2人組は人が切れてきたところで一気に大樹との間合いを詰めてくる。利人の足も、自ずと早まった。
「大樹っ!避けろ!」
 思いもかけず男の手に光ったナイフを見て、利人が叫ぶ。大樹が身体を横にずらしながら、振り返った。
「えっ!?どっ・・・どういう!?」
 追いついた利人が、ナイフを持った男の腕をねじ上げる。もう一人の男が大樹に近づき、捕まえようと手を伸ばした。
「あなた・・・誰ですかっ?」
 答えるはずの無い質問を、大樹が後じさりながら投げかける。利人は背後から男のナイフを叩き落とし、男の両腕を掴み上げた。
 躍り掛かってくる男から身を躱し、大樹が利人の近くに走ってくる。しかし、両手がふさがっているせいか、相手に立ち向かうことは出来なかった。
「大樹!何やってるんだ!荷物なんか捨てて、逃げるなら逃げろ!」
 咄嗟に、利人がポケットの中から取り出した細い針金で、男の腕を後ろ手に縛る。その男の身体を地面に倒し、大樹の方に駆け寄った。
「大丈夫か!?・・・こいつらの心当たりは!?」
 男の前に立ち、利人が大樹の壁になる。大樹は利人を見上げ、当惑顔で言った。
「あり過ぎて、分かりませんっ!」
 大樹の立場なら、もっともな言葉である。しかし、その男たちは利人の出現に調子を狂わされたのか、顔を見合わせると二人の前から走り去る。後に残された利人と大樹は、彼等の姿が視界から消えると、どちらからともなく視線を合わせた。
「・・・・よくあるのか?」
「はい?」
 男の落としたナイフを拾い、刃を閉じる。それを大樹に渡すと、呆れたように利人が言った。
「襲ってくれって言ってるようなもんじゃないか。こんな時間に護衛もつけず、しかもこんな暗い公園を通ってどこに行こうっていうんだ?君が何をしようと君の自由だけど、僕は自分を大切に出来ない人間は嫌いだ」
 大樹は、そんな利人の言葉に返すこともできずにただ俯いている。ただ、抱えている荷物を大切そうにぎゅっと抱き直した。
「どこに行くつもりだったんだ?」
「すぐそこの・・・・病院に」
「病院?」
「はい。祖父が・・・・入院してるものですから」
 大樹の祖父というと、戦後の東城グループをここまでにした一大人物である。利人は大樹の表情からもなにか理由があるのだろうと、その肩に手をかけた。
「とりあえず、あいつらが戻ってくるかもしれない。そこまで送るよ」
「竜神さん・・・・」
「ただし、帰りは必ず家の車を呼ぶこと。いいね」
 嬉しそうに顔を上げた大樹に、釘をさすような利人の声。大樹は再びその瞳をせつなげに揺らすと、力無く肯いた。




***DEEPER JOKER***



 黎子は声を上げて笑う。そんな黎子を、利人は少しうらめしそうに見返した。
「めずらしいわね、あなたがそんな風に怒るなんて。よっぽど、あの子のことが気に入ってるのね」
「笑い事じゃないですよ、黎子さん。彼は、俺なんかとは違う人種なんだから・・・」
 もちろん、利人が話したのは大樹のことである。
 利人がマンションに着くと、すでに黎子は帰っていた。それから二人で食事をして、いまはこうして優雅にワインを傾けている。ナイトガウン姿の黎子は、けだるく微笑みながらグラスのワインを飲み干した。
「あら、結構つまんないことを言うのね。大樹さんよりも、あなたの方が頭が固いってことかしら?」
 黎子のグラスに、利人がワインを注ぐ。利人はボトルを置き、大きな手で自分のグラスを持った。
「俺の方が、擦れたおじさんだってことです」
 拗ねたように呟いて、利人がグラスを傾ける。すると黎子が笑って返した。
「じゃあ負けるわよ」
「え?」
「無垢な子供のパワーは、本当にすごいんだから。あなた、負けるわよ」
 すべてを見透かしたような黎子の声に、利人が視線を泳がせる。
「まぁ、負けることも含めて、あなたは動いてるんでしょうけど・・・」
 意味ありげな台詞を残して、黎子は静かに笑う。利人は手の中に残った空のグラスを手に、小さく息をついた。




***DEEPER JOKER***



 大樹は自分の部屋でベッドに寝転んでいた。
 大の字になって天井を見上げる。洗って濡れた髪が、自分の頬に冷たく触れた。
 どうしよう。
 きっと父親は気付かない。気付くとしたら、それは祖父だ。けれど、その祖父も入院していてそれどころではない。動くなら今。けれど・・・・。
 コンコン
 ノックの音に、大樹がベッドの上で起き上がる。
「大樹さん、まだ起きてらっしゃいますか?」
 父の秘書の声。
「はい、起きてます。どうぞ」
「失礼します」
 軽い音と共に、ドアが開く。大樹がベッドを降りると、父の秘書の一人が部屋の中に入ってきた。
「お休み前に申し訳ありません。ですが、少々お話しておきたいことがありまして・・・」
「・・・はい・・・・」
 秘書の前に立ち、かしこまって答える。どうしても、この秘書は好きになれなかった。
「実は、今日変な投書がありました。私が受け取ったのですが・・・」
「なんですか?」
 もったいつけた言い方に、大樹が眉をひそめる。秘書は綺麗にペーパーナイフで開いた紙を大樹に渡した。
「菱川黎子とその愛人が、東城グループに取り入ろうとしているとかなんとか・・・」
 紙を手にした大樹は、そこに書かれている文章を読みながら、徐々に訳の分からない怒りが込み上げてくるのを感じた。
 東城グループの社長を菱川黎子が、そしてひとり息子の大樹を愛人の竜神利人が手玉に取ろうとしていると言うのだ。同封されていた写真は、どこから撮ったのか、先日二人がこの家にやってきた時のものだ。黎子と父が、一緒に絵を見ているもの。そして、二枚目の写真を見た瞬間に、大樹の身体がカッと熱くなった。
 泣いている大樹を利人が抱きしめている。
 それは確かに、先日のこと。けれど誰が?この離れは、塀の外からでは見ることが出来ないはず。一体誰が?どうやって?
「社長に相談しようかと思ったのですが、その前に大樹さんにご意見を伺おうかと。社長が菱川黎子を贔屓にしているのは事実ですし・・・」
「馬鹿馬鹿しい。こんなこと、グループの経営とは全く関係がないじゃないか」
「ですが・・・」
 戸惑いがちな秘書の声に、大樹が手紙を握り締める。写真をひとまとめにし、机の上に投げると、大樹が言った。
「大体、僕が誰と交流を持とうと、グループとは関係無いはずだ。僕は社員でもなければ発言権だってない、違うか?」
「現状はそうですが、世間はそうは思わないでしょう。ひとり息子イコール跡継ぎと考えられるのが普通です」
「それは僕の所為か!?」
 突然飛び出した感情的な叫びに、秘書が言葉を切る。言った大樹自身も、一瞬息を呑んで静かに続けた。
「・・・とにかく、なんの権限もない僕のことなんか、記事にだってなりはしない。菱川黎子だって、恋人がいるんだから父と噂になることもないだろう。実際・・・なにもないんだし」
 言いながら、大樹の胸をよぎる可能性。もしも、父と菱川黎子の間に何かがあったら?いや、でもそうしたら利人は?首を振って、変な可能性を打ち消す。
「秘書なら、父のスケジュールにそんな暇がないことくらい分かってるだろう?そのくらいのこと、自分で考えてくれ。でなければ、第一秘書に聞いて処理してくれ」
「はい。申し訳ありませんでした」
 そそくさと一礼をして部屋を出ていく秘書を見届け、部屋のドアを閉める。再びベッドに戻ろうとして、大樹は机の上に残ったままの写真に目を留めた。
 自分を抱きしめる、利人の広い背中。優しく頭を撫でる大きな手。
 なんにもない。利人と自分を繋ぐものなど。
 自分で言いながら、その事に大樹は気付いた。ただ、人違いで知り合っただけの人。それ以外に、二人を繋ぐものなどないのだ。このままでいれば、きっとすぐに忘れられる。利人にとってはきっと、にわか雨のような自分。
「・・・・僕の・・・・所為?」
 自分の口から飛び出した、思いもかけない言葉。いままでそんなこと、思いもしなかったのに。
『何より・・・・君は清らかすぎる。そんな君には、僕のことなんか分かる筈もないよ』
 以前、利人が言った言葉。大樹は手にした写真をくしゃくしゃに握りながら、擦れる声で呟いた。
「こんな僕の・・・何が清らかだっていうんですか?・・・・竜神さん・・・っ・・」




***DEEPER JOKER***



 曇り空を見上げる。
 雨か雪にでも変りそうな重い感じの空に、大樹はため息をひとつこぼした。祖父の入院している病院の前にある交差点。今日は近道をせず、明るいうちにやってきた。
 『僕は自分を大切に出来ない人間は嫌いだ』
 矢のように突き刺さった言葉は、今も胸の中で疼いている。利人の言葉の意味がよく分かるだけに、大樹はその言葉を忘れられなかった。
 自分の将来が決まっていることに気付いたのはいつだっただろう。友達だと思っていた人間が、自分ではなく自分の名字と付き合っていると感じたのは?
 自分のこの一人分の身体には、何人もの生活を左右する鍵が埋め込まれている。そういう状況で自分は生まれてきたのだ。自分がそれを欲しいのかどうかさえ、自分には分からない。しかし、それを手放す勇気も大樹にはなかった。
 信号が青に変わり、横断歩道を歩き出す。病院の門を通り、入り口までの並木道。この広くゆったりとした感じが、大樹は好きだった。
 残った葉もまばらな木の間を歩く。しかし、ふと前方に投げた視線があるものを捉えると、大樹の足が止まった。
 一枚仕立てのフード付きブルゾンに、カシミアのタートルを着た長身。一目見てその人と分かる相手は、大樹に気付くことなくベンチで本を読んでいた。
 大樹は静かに近づき、傍らに立つ。風が一度足元の枯れ葉を揺らすと、本から顔を上げて利人が大樹を見た。
「・・・・・やぁ」
 以前と変わらぬ笑顔に、大樹がとまどう。かといってそこから立ち去ることも出来ずに、大樹が言った。
「こん・・・にちわ」
「おじいさんのお見舞い?」
 手にした本を閉じ、利人が立ち上がる。ゼニアのブルゾンだ・・・と大樹は思う。大樹の父も持っていたが、着た時の印象が随分違うことに、少し驚いた。
「はい。・・・・竜神さんは?」
「君に会いに」
「え?」
 あまりにもあっさりと言われ、素直に大樹が顔を上げる。そのままじっと利人を見上げると、利人が困ったように返した。
「そんな風に驚かれると、僕も言いにくいんだけど・・・・」
 瞬きもせずに利人を見続ける大樹。利人は閉じた本を片手で持ち、小さく咳払いをした。
「この間は言い過ぎた。君の事情を聞きもしないで、怒鳴ったりしてごめん」
 大樹は思いもかけない謝罪に、ただ目をパチクリと開いている。明らかに自分が悪いだけなのに、どうして利人が謝るのか分からなかったというのもあるが、それ以上に、そんなことを言うためだけに、利人がこんな寒い中で自分を待っていたことが驚きだった。
「・・・・・いえ、・・・・あれは僕が・・・・」
 どう反応していいか分からない。儀礼的な会話だけで終わるには、表現しきれない大樹の心。少しでも長くこうしていたいという気持ちが、大樹の背中を押した。
「あの・・・・少しだけ、待ってて頂けますか?」
「え?」
「いえ、あの、もし竜神さんがお急ぎなんだったらいいんです。でも、もし・・・お時間があるならお茶でも・・・いかがですか?」
 相手を好きだという思いが腰を低くさせる。すると、利人がいつもの笑顔に戻って言った。
「喜んで」




***DEEPER JOKER***



 利人は、ホテルの自室で本を読んでいた。
 というより、本を開いていた・・・と言った方がいいかもしれない。実際、利人は本を開きながらも、目が字面を追ってページの最初に戻るという行為を繰り返していた。
 何で謝りになんか行ってしまったのだろう。普段なら、ここで謝りなどしない。相手が接触してくるのを待つところなのだ。しかも、その後にお茶に誘われるとはどういうことだと、自問自答の嵐だった。
 大樹は、祖父の見舞いを済ませたらこの部屋にやってくる。たまたま利人が滞在しているホテルと病院が近かったため、病院で待たずに大樹が来ることで話が落ち着いた。確かに喫茶店に入るよりもゆっくり話ができるし、お互いの立場を考えても都合がいいのだが、二人の間に漂うなんともいえない健康的な雰囲気に、利人は深いため息をついた。
 そんな時に、響くベルの音。頼んでおいたティーセットだと、利人が立ち上がった。
「失礼します」
 ワゴンで運ばれてくる綺麗なティーセット。と同時に、部屋の電話が鳴った。
「はい」
 テーブルの脇にワゴンを置くホテルマンに、そこでいいと視線で合図。電話の向こうからは元気のいい声が聞こえてきた。
「俺!」
「なんだ、悠仁(ゆうじん)。どうした?」
 ホテルマンの差し出すチェックにサインをしながら答える。ホテルマンが一礼する姿を視界の端に流し、利人は部屋のドアに背を向けた。
「アヤさんから連絡があって、ちょっと急の仕事が入ったんだ。そっちの方、あとどんくらいでカタつくの?」
 物怖じしない、勢いの良い言葉遣い。弾ける若さを感じさせる声に、利人が目を閉じた。
「いや・・・それなんだけど・・・・」
「もしかして・・・敗色濃厚だったりするの?」
 驚きと疑いの交じった声。利人の眉が少し上がった。
「そんなわけないだろう。どっちかというと、その逆だな。変に接近し過ぎた。タイミングを計るのが難しい距離・・・だな」
「ふぅん。ところでその東城大樹だけど、調べてみてビックリ。入選回数も作品の方もナカナカのもんだよ。家の七光りで入選してるとかってことじゃないみたい」
「そうか。じゃあ、絵が描きたかったっていうのは本当なんだな。可哀相に、籠の鳥じゃあ羽ばたけないってことか」
 利人は、本心からその言葉を語っていた。せっかく飛べる羽を持っていても、その羽を広げる場所がなければ意味がない。あるがゆえに本人を苦しめる才能というものを、利人は知っていた。
「・・・で、どうするの?誰か使って襲わせる?それを助けて・・・とか」
「襲わせるって・・・お前いつからそんな物騒なこと言うようになったんだ」
 大人の顔で、子供をたしなめるような言い方。それにはさすがに電話の向こうの声も焦って答えた。
「冗談だってば。じゃあ、アヤさんの方にはとりあえず、ちょっと待ってって言っとくね」
「よろしく」
 溶けそうに甘い顔で、利人が返す。日頃から悠仁には甘い利人のこと、次に来るいつもの言葉も当然のように受け止めた。
「オッケー!愛してるよ〜ん」
「俺も、愛してるよ」
 そして静かに置かれる電話。しかし、振り返った利人の顔色が、瞬間にして変わった。
「大樹くん・・・・」
 ドアの傍で、荷物を抱えながら立ち尽くす大樹。大樹は利人の顔色が変わったことを、見逃さなかった。
「す・・・すみません。立ち聞きするつもりはなかったんですけど、丁度部屋を出る人がいたので、そのまま中に・・・」
 ということは、会話の殆どを聞かれていたということか?利人はいたって平静を保とうと努める。しかし、大樹は利人の顔を見ることも出来ずに、続けた。
「あの・・・今のって・・・僕の・・・ことですか?」
 直球の質問。これはさすがに誤魔化せないなと、利人が覚悟を決めた。
「・・・・・・・あぁ、そうだよ」
 大樹の脇を抜け、ドアを閉める。利人はそのまま大樹を振り返り、大樹の反応を待った。
「僕の、絵のこととか・・・・?」
「あぁ・・・。気になったから」
 ドアに寄りかかり腕を組む利人を、大樹は静かに見返す。その瞳は戸惑っているというよりは、悲しんでいるように見えた。
「竜神さん・・・・・・」
「・・・・・ん?」
 利人の方はすでに普段の微笑に戻っている。大樹は濡れた瞳を利人に向け、擦れる声で呟いた。
「あなたは一体・・・・・誰なんですか?」




***DEEPER JOKER***



 テーブルに向かい合わせになって、二人は静かにティーカップを傾けた。
 色を変えはじめた日の光が、部屋の中に射し込む。大樹は動揺するでもなく、静かに利人に視線を投げた。
「なんで・・・・・僕のこと?」
「興味があったから」
「興味?」
 大樹の言葉に、利人はただ肯く。そのもどかしさに、大樹がため息交じりに横を向いた。
 今になって、はっきり分かる。なぜ自分がこんなにも利人に惹かれたのか。
 利人の前では、大樹は東城大樹でなくただの大樹だった。ただの大学生で、美術館で知り合っただけの人間だった。そう扱われることが、心地良かったのだ。
 だからこそ、確かめるのが怖い。それを確かめたら、きっと利人のどんな言葉も聞けなくなってしまうような気がして・・・。その前に、どんな甘い嘘でもいいから聞かせて欲しいと望んだ。
「しまった・・・・と、思ってますか?」
 大樹は利人を見ずに呟く。利人は苦しげな大樹の表情に、眉を寄せた。
「・・・正直言って、半分半分かな」
「あとの半分は・・・・?」
「ほっとした」
 その言葉に、大樹が顔を上げる。利人は深いため息をつきながら腕を組んだ。
「本当に聞きたい質問は、それじゃないんだろう?東城大樹くん」
 大樹は目を細めて、再び顔を背ける。冬の夕日は、細く長く部屋の奥まで入り込んでいた。
「・・・・・・・最初から、僕が何者かを知っていたんですか?」
 利人には大樹の求める答えが分かっている。嘘でもいい、知らなかったと言えば、大樹はほっと息をつくだろう。しかし・・・・。
「最後まで、話を聞いてくれるかい?」
「話・・・・?」
 呟いた後に、大樹は小さく、でもしっかりと肯く。それを合図に、利人が組んでいた腕を解いた。
「じゃあ、話すとしよう。これを聞いて、どうするかは君次第だけど・・・」
 冷えたティーカップを手で包み、大樹は寒くもないのに身体をすくめる。心の芯で感じる冷たさは、幼少の時から、時折大樹を苛んだものと同じものだった。
「僕は・・・」
「待って!」
 最後まで聞くといいながら、大樹は利人の言葉を遮った。最後まで聞ける自信が、揺らいでいる。だから、最初に遮った。
「ちょっと・・・・待って下さい」
 胸の中にこみ上げてくる、訳の分からない不快感。自分は不透明でひどく不安定な生き物ではないかという不安。そこに存在しながら、人は自分の向こうに何かを見ている。
 大樹はテーブルに肘をつき、両手で顔を覆った。
 どうしたい?もしも、利人の電話を聞いてなかったら、自分はどうするつもりだった?
 その気持ちは、いまも変わらない?
「大樹・・・・くん・・・・?」
 利人は、顔を覆ったまま動かなくなった大樹に声をかける。すると大樹がゆっくりとその手を下ろしながら言った。
「竜神さん、僕にはグループを動かす力なんてありません。そんな力を将来持つのかも、実際のところは分かりません。それでも、あなたは僕に興味を持つんでしょうか?」
 利人は何かを決めている大樹の瞳をじっと見つめ返す。そして、その瞳が揺るがないことに感心し、静かに返した。
「あぁ・・・・・持つよ。君が今、黎子さんのことを考えてないのと同じ位、僕も東城グループのことはどうでもいいんだ」
 大樹の瞳が、ゆっくりと開いた。その奥にある何かが、鈍い光を放つ。利人が目を逸らさずに大樹を見つめ続けると、大樹が音をたてずに立ちあがった。
 冬の日差しを受けて、大樹の影が利人を隠す。大樹は隣りの部屋に入り、置いていた荷物を取ってくると、それを二人の間のテーブルの上に置いた。
「以前、おっしゃっていた絵です。これで・・・・・あなたを買えますか?」
 しみひとつ無い手が優雅に動いて、それを覆っていた布をほどく。現れたのは、先日大樹の家で見た習作。利人はその絵を見つめ、そしてその視線を大樹へと移した。
「一晩だけ・・・・・。それだけで結構です。それ以上は・・・・望みませんから・・・」
 毅然とした態度の大樹。しかし利人は、その絵を支えている大樹の手が、微かに震えていることに気がついた。
 利人は、静かに立ち上がり、ゆっくりと大樹の背後に回る。絵を持っている手に自分の手を重ねると、大樹がピクリと身体をすくめた。
「どうして・・・そこまでして僕を?」
 耳元で囁くような利人の声。そのまま大樹の耳たぶを柔らかい口唇でやんわりと挟む。寒気のように駆け上がってくる感覚に、その度大樹の身体が震えた。
「あ・・・・・それ・・は・・・・っ・・・」
 利人の手は大樹の手からゆっくりと移動し、その薄い胸や細い腰の感触を味わっている。大樹はどうしようもなく高まる心臓の音に、顔を赤くした。
「言えないなら、僕は君を抱けない。君を、一時の感情で傷つけたくはないから・・・・」
 大樹の首筋をなぶりながら呟く利人。すると、大樹は利人の腕の中で振り返り、震える口唇で言った。
「自分でも・・・分かりません。・・・ただ、あなたが・・・・・・あなたが、欲しいだけです」
 自分を見上げてくる必死な瞳を、利人は複雑な心境で見つめる。
 引き返すなら今。けれど、どっちにしても大樹を傷つけるだろうことを、利人は知っていた。
「今日の夜は・・・・長くなりそうだ」




***DEEPER JOKER***



 身体を貫く感覚に、大樹は関節が白くなるほどにシーツを握り締めた。
 声を漏らすまいと噛み締めた口唇が切れ、赤く血が滲む。目尻からこぼれた涙の粒が、こめかみに吸い込まれた。
 胸の熱さは痛みなのか喜びなのかも分からない。ただ、身体に幾度も埋め込まれる刺激が夢ではないことを自分に告げていた。
 目を開けたら、消えてしまいそうで。手を伸ばしたら、溶けてしまいそうで。
 大樹はきつく目を閉じ、シーツを握り締めた。
 優しく首筋に降る口唇の温もりも、腰に回される大きな手のひらも、手に入れた瞬間瞬間が、今であり過去になり。その一瞬を逃さぬように、大樹はその跡を胸に刻み付けようとした。
「・・・っ・・・・・」
 激しく立ち昇ってくるどうしようもない感覚に、時折、大樹の口唇がほどける。苦しげな大樹の姿に、利人がその動きを緩めた。
「・・大樹・・・・・大丈夫?」
「っ・・・・大丈・・・夫・・っ・・・。僕のことは・・・構わな・・・で・・・いいです・・・・から・・・っ」
 言っている端から、大樹の閉じた目からは涙の糸が伝って落ちる。利人は大樹の前にかけた手を放し、その涙を指で拭った。
「ね・・・大樹・・・」
 大樹の上に重なったまま、深く息を付いて利人が動きを止める。大樹は、落ちつかない呼吸をただ繰り返した。
 揺れる瞼の上にそっと重ねられる利人の口唇。
「・・・・え?・・・・っ・・・」
 大樹がゆっくりと目を開けると、利人が汗ばんだ大樹の前髪に指を差し入れた。
「ね、今・・・何考えてる?」
「え・・・?なに・・・って・・・・・・」
 突然の質問に大樹が戸惑う。利人はそのまま優しく大樹の髪を撫でながら、寄せられた大樹の眉間に口づけた。
「僕は、大樹のこと考えてる・・・。どうしたら、大樹がもっと喜ぶかな。大樹は、どうして欲しいのかなって・・・・。身体をつなげるだけが、セックスじゃないよね。大樹のここがほどけないうちは・・・終われないな」
 利人の指先が、大樹の薄い胸をトントンと叩く。大樹は涙の滲む瞳で、利人を見上げた。
「でも・・・・・っ・・・・」
「目を閉じないで・・・。僕は、ここにいるでしょ。大樹が今すがる相手は、頭の中にいるんじゃなくて、今・・ここにいる僕じゃないのかな?」
 シーツを握り締めたまま固まっている大樹の手を掴んで、利人が自分の背に回す。そのまま大樹の首筋に顔を埋め、利人の舌が大樹の首筋をたどった。
「・・・・っ・・・・」
「ほら、目を閉じないで。・・・・ね」
 額を合わせたまま、利人が睫毛の触れる距離で大樹を見つめる。その間にも利人の手が、さっき離した大樹の前にかかった。
「っ・・・・・ん・・・・っ・・・」
 濡れた音を立てて動き出す利人の指に、大樹の眉が寄せられる。それでも大樹は言われた通り、目を細めたまま自分の視線を利人の視線に絡めた。
「・・・・いい子だ。声、出したくないなら僕の肩を噛んで。身体の力を、抜いてごらん」
 そう言って、利人が繋がったままの身体を再びゆっくりと動かし出す。
「んあっ・・・・」
 恥ずかしいのは漏れた声の所為か、それとも逸らすことの出来ない視線の所為か。大樹の顔にさっと朱が走った。
「っ・・・・っ・・・」
 荒い呼吸を繰り返し、大樹が利人の肩に額を押し付ける。細かく突かれるうちに、ひきつるような感覚が徐々に鈍り、なんとも言えない熱さを伝え始めた。
「た・・・っ・・がみ・・・さんっ・・・・」
 止まることのない感覚の高まり。ともすれば手放してしまいそうになる自分をようやく支えながらも、大樹がすがるように喘いだ。
「・・っ・・・なに?」
「あ・・っ・・・ま・・・待って・・・・」
 利人は、手の中でいじっているものがすでに限界に近いことを知っている。しかし、それに気付かない振りで大樹の耳元に返した。
「・・・どうして?」
「っ・・・お願いっ・・・・・待っ・・て・・・・」
 羞恥心で赤く染まった大樹の額に浮かぶ汗。ビクビクと震えるそれの先端を、利人の指先が擦った。
「っ!・・・・・・・」
 大樹の目がきつく閉じられ、涙の粒がはじける。と同時に、大樹が利人の手の中に熱いほとばしりを放った。
「っく・・・・・・ん・・・・」
 薄い胸を上下させ、大樹が荒く息をつく。利人はそんな大樹の様子を愛しげに見つめた。
「大樹・・・・どうして泣くの?」
 大樹の目尻から零れる涙を、利人が口唇で受け止める。大樹は小さくかぶりを振りながら、擦れる声で言った。
「わ・・・から・・ないです・・・っ。ただ・・・・恥ずか・・し・・・」
「恥ずかしい?・・・・こんなに、大樹は可愛いのに?」
 身体を抜いて、利人は優しく大樹を抱きしめる。大樹はやはり利人の目を見ることが出来ずに、利人の肩に顔を押し付けた。
「可愛いし、綺麗だし・・・・元気だし・・・ね」
 話しながらも、利人の手は果てたばかりの大樹のそれをゆっくりと撫で上げる。すでに硬さを取り戻し始めていることが恥ずかしいのか、大樹が泣きそうな顔をした。
「今度は、口でしてあげるよ」
 囁きの後、利人が大樹から身体を離す。大樹は利人の台詞に慌てて返した。
「そんなっ・・・いいですっ!・・・僕・・・あの・・っ・・」
 下へと移動していく利人の身体に手をかけ、大樹が後じさる。利人はそんな大樹の反応に、くすりと笑みを漏らした。
「大樹は・・・僕のこと、嫌い?」
「え・・・?」
 ベッドの背に背中が当たるほど後じさり、大樹が利人を見返す。利人はベッドの上に座る大樹をやんわりと抱きしめ、そして言った。
「ねぇ・・・嫌い?」
「・・・・・・・嫌いじゃ・・・ないです」
 嫌いだったらこんなこと頼むわけない・・・と思いながら、大樹は利人の背に手を回す。ゆっくりと慣れ始めた利人の肌の感触。汗ばんだ熱い肌が、いまは何故か気持ち良かった。
「僕は、大樹のことが好きだよ」
 『好き』という言葉が大樹の胸をしめつける。例えその場限りの言葉であったとしても、構わないと大樹は思った。
「だから、もっと大樹のことを知りたい。もっと・・・・溶かしたい」
 利人の口唇が、首筋から胸へ降りていく。たまらずに抱きしめる利人の頭。淫らな舌の動きがゆっくりと下降し、大樹のそれを捉えた。
「・・・・あっ・・・・」
 座り込んだ腰の辺りに埋められていく利人の顔。熱い舌がそれに絡んで、いやらしい音をたてる。
「や・・・・・あっ・・・・・」
 自然と漏れ始める声。利人の髪を握り締め、大樹が喉をのけぞらせる。白い内股がひくつき、利人の頭を挟み込んだ。
 容赦の無い舌は、大樹のそれを着実に追いつめていく。感じることから逃れるように背中を丸める大樹。その時、利人の指が、息づいている大樹のそこに入れられた。
「はっ・・・ん・・・あ・・・」
 深く入れられ、ゆっくりと蠢き出す。
 もはや、どこで何を感じているのかも分からない。ただ、夜の冷気にも負けずに火照る身体が、闇の中で小さく揺れた。




***DEEPER JOKER***



 バスローブ姿でソファに倒れ込む。濡れた髪の香りが鼻腔をくすぐった。
 耳に届くのは利人が浴びているシャワーの音。大樹は薄く目を開けて、薄いカーテンの向こうで光る夜の明りを見つめた。
 まだ、朝には遠い。どのくらいの時間をベッドで過ごしたのかと、大樹はぼんやりした頭で考えた。
 ゆっくりと慣らされた身体は、まだ中に利人が居るような感じ。されたことを思い出すだけで、静かな火照りが蘇ってくるようだった。
 ボディソープの香りを胸いっぱいに吸い込み、ソファに顔を預ける。もはや動くことが面倒くさかった。
「そんな所で寝ると、風邪をひくよ」
 薄く目を開けると、髪をタオルで拭きながら歩いてくる利人の姿。大樹は口唇の端を少しあげて、身体を起こそうとした。
「あっ」
 力が入りきらずに、再び倒れ込みそうになるのを利人が支える。腰に回された腕の強さに、大樹がさっきまでのことを思い出した。
「大丈夫?」
「あ・・・・はい」
 バスローブの袷から見える利人の胸。しなやかな筋肉に覆われたその胸に、つい少し前まで自分は居たのかと大樹は思った。
 利人はそのまま大樹の隣りに座る。そして、どこか頼りない大樹の身体を自分の胸に抱き寄せた。大樹が、倒れるように自分の背中を利人の胸に預ける。
「傷・・・つけてしまったね」
 利人の声に、大樹がそのまま顔を上げる。利人は後ろから大樹の口唇を指でなぞった。
 利人の指先につく赤い筋。口唇を噛み締めた大樹が、自分で切った傷だった。
「いえ・・・これは・・・・」
 大樹の手が利人のそれに伸び、利人の指についた自分の血を舐める。赤い舌が、闇の中で暗く動いた。
 そんな大樹を利人は静かに見下ろす。大樹の暗い瞳が、上目遣いで利人のそれを捉えた。
「・・・・・・・・・・弟なんだ」
「・・・・?」
 利人が静かに微笑み、大樹が不思議そうにそれを見上げる。利人の体温と鼓動を背中に感じ、大樹は今までに無いほど穏やかな空気の中に居た。
「さっきの電話の相手。丁度、大樹くんよりも2つ下になるかな」
 それが「愛してるよ」の言葉の相手。
「弟・・・さん?」
 大樹の問いかけに、微笑みで肯定の意を表す。大樹は握ったままの利人の手を、自分の胸に当てた。
「戻っちゃいましたね・・・・・」
 そして、切なげな微笑み。利人は少し考えて、それが「呼び方」であることに気付いた。
「戻さない方がいい?大樹」
 わざと呼び捨てにする利人。大樹はそれにただ切なげな笑みで返す。どっちがいいのか、自分にもよく分からなかったからだ。
 今どう呼ばれていても、これからどう呼ばれることがあっても、結局は手に入らないもの。例え、求めてやまないとしても。
「竜神さんの、呼びたい方でいいです」
 第一、再び会う日などあるのだろうかと大樹は思った。きっと利人には何かの目的がある筈。その目的を達したら、利人は目の前から消えるのではないかと・・・。
「じゃあ・・・大樹」
「はい?」
 それでもやはり、呼び捨てにされる方が嬉しい。大樹は少し眉を寄せて利人を見上げた。
「絵を描くことは好き?」
 生乾きの大樹の前髪を、利人が指で弄ぶ。そのままその指は大樹のなめらかな頬を撫でたり、首筋を撫でたりしながら大樹の身体の感触を楽しんでいた。
「好きですよ」
「・・・・今でも?」
 どういう質問なんだろうと大樹が疑問に思いながらも、静かに肯く。すると利人が、どこか真剣な顔で言った。
「大空を飛んでみたいと思ったことは?」
 大空。この籠を抜け出して、大空で羽ばたくと言うことだろうか?もしも本当に、そんなことが出来るなら・・・・。
 静かに、けれど力強く大樹が肯く。利人は大樹の頬を撫でながら、その肯きを微笑んで見つめた。
「大樹、身体・・・・つらい?」
「え?」
 質問に答える前に、利人の指は大樹のバスローブの前を割って、薄い胸に滑り込んでいく。大樹がとまどいながら、利人を見上げた。
「まだ・・・・朝は来ないよ。・・・・どうする?」
 長い指が、胸の突起をやんわりと摘まみ、ぴくりと反応する大樹の身体。
「次は・・・きっと、もっと気持ち良いよ。今まで・・・・感じたことが無いくらいにね」
 利人がじんわりと与えてくれる刺激が、眠りかけた大樹の身体を起こしにかかる。大樹は既にその先を欲しがっている自分に戸惑いながらも、身体を伸ばして、利人の首筋にくちづけた。
「ただ・・・・・」
 大樹が続けた言葉に、利人が目を閉じて微笑んだ。




***DEEPER JOKER***



 屈みこんだ大樹の背中を、優しく利人が撫でる。
 ベッドの上に座った利人のそれを口に含み、大樹は目を閉じて舌を使っていた。
 大樹が望んだこと。それは、利人の悦ぶことをさせて欲しいということ。たとえそれが、恥をかなぐり捨てたものであろうと、大樹は構わないと思っていた。
「んっ・・・・・」
 利人のものを喉の奥まで含んで、大樹が苦しげに声を漏らす。利人はその一生懸命な姿に、思わず大樹の髪を撫でた。
「大丈夫・・・・?・・・大樹」
「っん・・・・大丈・・・っ・・・。竜・・・神・・・さんっ・・・」
 固くなったそれに舌を絡ませながら、大樹が語りかける。利人は大樹の頭から手を離さないままに、優しく答えた。
「・・・?なんだい?」
 息苦しさからか、目尻に滲むものを光らせながら、大樹が利人を見上げる。そして一度大きく息をつくと、再び濡れた舌を使いながら、大樹が言った。
「竜神・・・さんっ・・・・。ちゃんと、気持ち・・・いいですか・・・っ?」
 泣き出しそうな瞳で紡ぐ大樹に、利人の心が熱く揺れる。こんなこと、きっと大樹は他の誰にもしたことがないだろうに。それを、プライドを捨ててでも、そうしたいと言わせた自分を、少し恨めしくも思う。
 仕掛けたのは自分。きっと、勝つのも自分。
 それなのに、どうしてこんなに勝利に酔えないのだろう。身体だけは、いつも以上に熱くなっているというのに・・・。
「あぁ・・・もちろんだよ。大樹は・・・上手だね」
 利人は笑顔で返すと、屈んでいる大樹の顔を上げさせ、身体を抱き寄せる。そして、自分の前に大樹を膝立ちさせると、きゅっと締まった双丘の間を指で割りながら続けた。
「だから・・・今度は僕の番だな。さっきより、気持ちよくなるって、約束・・・したしね」
「あっ・・・・っ・・・」
 ゆっくりと、長い指が大樹の後ろに差し込まれていく。大樹は利人の頭を抱きしめながら、その背中を反らせた。
「大樹も・・・・イイときは言うんだよ・・・。いいね」
 穏やかに、それでいながら諭すように利人が言い、埋め込まれた指が動き出す。内側を掻くような動きに、大樹の腰がわななき出した。
「っ・・・あっ・・・んん・・・」
 逃げ出しそうになる腰を支えて、利人が細かな動きを繰り返す。同時に、反対の手で勃ち上がった大樹のそれをいじると、大樹がぎゅっと目を閉じた。
「やっ・・・・あ・・・・っ・・・」
「いや・・・?ほら、大樹の声を聞かせて・・・?もっと、僕に分かるようにね・・・」
 甘い分、どこか羞恥心をくすぐる利人の声。大樹はすがるように利人の頭を抱いたまま、短い声を上げ続けた。
「んっ・・・・あ・・・んっ・・・」
 暗い部屋の中に響く、大樹の声と湿った音。利人の指の動きを覚えるかのような締め付けに、利人の口端がきゅっと上がった。
「ここ・・・好き?」
「あっ・・・」
 利人の言葉に、大樹の身体がカッと熱くなる。指の腹で擦るように一点を刺激すると、大樹の喉がヒクリと震えた。
「はっ・・・・あ・・・・っ・・・」
「ね・・・・イイ・・・?ここ・・・」
 いちいち言葉で確かめなくても、大樹の身体はイエスと言っている。それを知っているのに、利人はわざと問いかける。大樹は、脳を溶かすような甘い痺れに、震える口唇を動かした。
「あっ・・・・やめ・・・ないで・・・・っ・・・んんっ・・・」
 自分で快感を認めた途端に、漏れる声も止まらなくなる。身体を支えきれなくなった腰が砕け、利人の身体に寄りかかると、利人が大樹の身体をそっとベッドの上に横たえた。
「竜神・・・さんっ・・・・・」
 見上げると、そこには利人の穏やかな笑顔。自分の胸に重ねられる胸を感じながら、大樹は潤む瞳を閉じた。
 満たされきれないものを補うように、ゆっくりと入ってくる熱い身体。さっきとは明らかに違う、甘美な刺激。
「あ・・・っ・・・んっ・・・・」
 吸い付くように締め付ける大樹に微笑みながら、利人がゆっくりと動き出す。夢の中をさまよう様に薄く開かれた大樹の目が、闇の中で利人のそれと絡み合う。ただ熱くなる身体が、熱病のように思考を奪った。
「っ・・・は・・・っ・・・あぁっ・・・・ん・・・」
 喉を鳴らして漏れる声。汗ばんだ身体が重なり合い、利人が大樹の身体の下に回った。
「んんっ・・・や・・んっ・・・・あっ・・・」
 一度きりの夜。もう、二度とは来ない夜。
 自分でそう言ったのに、胸は軋む。

 夢か現かも分からない痺れの中で、どこにあるかも分からない心だけが、静かに・・・声を殺していた。




***DEEPER JOKER***



 利人は、ベッドの傍らに立ち、静かな寝息を立てる大樹を見下ろした。
 すでに着替えも済んで、荷物もまとめてある。
 夜明けまでは、あと僅か。なにかを振り切るように大樹の寝顔に背を向けると、利人はテーブルの上に置いてあった大きな包みに手をかけた。
 大樹が持ってきた、あの習作。片手で持つと、こんなに重かっただろうかと思うほどの重みを感じた。
 大樹が目覚める前に、部屋を出ようと思っていた。もう一度、大樹と言葉を交わしたら、この絵を返してしまいそうで。そんな自分がまだ居たのかと、一人苦笑した。
 荷物はホテルに頼んで送ってもらえる。利人が最後に一目と、振り返ったその時だった。
「・・・・・・・・・大樹」
 利人がそこに見たのは、ベッドの上に起き上がっている大樹の姿。夜明け間近の淡い光の中で、暗い瞳が静かに利人を見つめていた。
「・・・まだ、夜は明けてないんでしょう?・・・まだ、夜ですよね?」
 利人は答えられずに、ただ黙って大樹がベッドから出てくるのを見ていた。
 傍らに脱ぎ捨てたバスローブに袖を通し、利人の前に立ちはだかる。
「それとも・・・・・・もう、朝・・・・なんですか?」
「大樹・・・僕は・・・・」
 いっそのこと全てを話してしまおうかとさえ、利人は思った。しかし、その言葉を遮ったのは大樹の方だった。
「いいんですっ!・・・・・・僕が、ただの僕であるように・・・、竜神さんも、竜神さんだから・・・」
 喉の奥を絞るような痛みの中で、大樹が目に滲むものを必死でこらえている。
「ただ、今日の朝まで・・・一緒に居てくれれば良いだけの人だから・・・」
 利人は、絵を抱える腕に力を込める。目の前にある自分をまっすぐに見上げてくる瞳を、どうすればいいのか。何度となく過ごした誰かとの夜の中で、こんな瞳は見たことがなかったと、利人は思った。
 その時、大樹の黒い瞳に走る光のすじ。
 細い針のようなその直線は、見開かれた二人の目の間で徐々に太くなり、二人の顔にゆっくりと影を作り始めた。
 夜明け。
 ビルの隙間を縫うように射すその光は、冷えた空気の中で痛いほどの輝きを放つ。
 それまでの淡い薄紫を変える瞬間の出来事に、二人は瞬きすら忘れてお互いを見つめていた。
「朝・・・・・・だよ」
 利人は搾り出すようにそれだけ言うと、目を見開いたまま動こうとしない大樹をじっと見下ろした。暗い大樹の瞳の中で、乱反射する光。それがなんであるのか、利人は十分に承知していた。
 だから、なにも言えなかった。
「さよなら・・・」
 それが最後の言葉だった。利人の形のいい口唇がその言葉を紡ぐと、声にならない言葉を飲み込むことすら出来ない大樹の口唇が、半開きのままに震えた。
 しかし、利人もその場を去ることが出来なかった。去ることも留まることもできないままに、そして利人は・・・。
 ゆっくりと、光に満たされていく部屋。利人は絵を抱えたままに、そっと身体を屈め、震える大樹の口唇に、その口唇を重ねた。
 一瞬、驚きに見開かれる大樹の瞳。ほんの一瞬、触れただけの口唇が離されると、利人は振り返りもせずに部屋を後にした。
 扉の閉まる音。それと同時に、大樹の頬を熱いものが伝った。
 一度零れ落ちた涙は、とめどなく流れ出し、敷き詰められた絨毯の上に、ポタポタと降っていく。
「っ・・・・ふっ・・・・っ・・・」
 喉が熱く、締め付けられるような感覚。涙をぬぐうことも忘れた中で、大樹は、自分が一番告げたかった言葉を言えなかったことに気付いた。
 たった一言。
 「好きです」・・・・・・と。




***DEEPER JOKER***



 数日後、利人はテラスで一人、煙草の煙をくゆらせていた。
 階段をあがってくる音。誰であるかは、分かっていた。
「利人」
 呼ばれて、振り返るよりも先に煙草をもみ消す。ついでに大きく深呼吸をすると、利人は目の前に座る相手を静かに見返した。
 利人の、たった一人の親友、小林文彦。いつものように、年よりもはるかに若く見える笑顔を見せながら、文彦はどこか不機嫌そうな利人に言った。
「どうも、お疲れ様。依頼人も、泣いて喜んでたよ。東城の先代に半ば騙し取られた作品を取り返すことが出来て、亡くなったお母さんに顔向けができるって・・・。お金にすると、そんなに高い作品でもないんだけど・・・思い出に、値段はつけられないよね」
 そう。利人の『菱川黎子の愛人』という肩書きは、あくまでも表の顔。その実体は、この小林文彦の依頼を受けて、叫ぶことの出来ない闇の『声』を聞くこと。
 この稼業に手を染めて、もう何年だろう?利人は目の前の文彦の笑顔を見ながら、そんなことを考えていた。
「でも・・・本当は、贋作とすり返る予定だったんじゃなかったのか?賢(けん)ちゃんだって、もう出来あがってたって言ってたけど・・・」
 無邪気に言う文彦に、利人がふと視線を逸らす。そして、文彦に断ることもなく煙草に火をつけると、白い煙を吐きながら言った。
「ちょっと予定が変わってな。・・・もらえるんだったら、その方が、依頼人もこの先後ろ暗い気持ちにならないだろうし。・・・いいだろう?」
「・・・・・・。ん、そうだね」
 後ろ暗くならないと言いながらも晴れない利人の顔に、文彦もそれ以上何も聞こうとはしない。ただ、いつも以上に辛そうな利人が、気にはなったが・・・。
「大樹くん・・・・・・だっけ?」
 煙草の灰が落ちかかり、文彦が傍らの灰皿を差し出す。利人はそれを受け取りながら、短く答えた。
「ん?」
「本当のこと・・・話してみれば?」
「ばっ!・・・」
 そんなことをして、裏稼業のことがばれでもしたら・・・。自分だけでは済まない、賢と悠仁という二人の弟も、文彦だってどんなコトになるか分かったものではない。それを承知で言ってるのだろうかと、利人は信じられない気持ちで文彦を見返した。
 視線を逸らさずに、穏やかな表情で返す文彦。利人はため息交じりで煙草を灰皿に押し付けると、今日もどこか負けたような気分になって言った。
「そんなんじゃないって・・・。ただ・・・」
「ただ?」
 利人は立ち上がると、テラスの手摺りに手をかけて、港から渡ってくる冷たい風を吸い込む。
「夜空でもいいから飛びたいっていうなら、また・・・会うことがあるかも知れない」
 かすかに眉を寄せながら、呟く利人。文彦はそんな利人の隣に立つと、同じように深呼吸をした後で、悪びれない子供のような笑顔で言った。
「俺は、いつでも利人と一緒だよ」
「ぶっ!」
 あまりにもダイレクトな台詞に、思わず利人が吹き出す。
「お前がそれを言うな!」
「なんでだよ。俺、本当にそう思ってるもん。いつでも味方だし、いつまでも一緒だよ」
 なぜか苛立ちながら言う利人に、文彦は真剣そのものの顔で返す。
「あー、もういい、いい。分かったから、帰れ、お前は。お前がいると調子が崩れる」
「あ、酷いなー。親友をないがしろにしてー」
 あくまでもニコニコと続ける文彦に、利人は逃げ出すようにテラスから部屋へと移動する。そしてそのまま一階へ下ると、夕飯の支度をしている弟に向かって、利人が言った。
「おい!アヤが帰るって。夕飯食べていかないそうだから」
「ちょっと待ってよ!賢ちゃん、嘘だからね。食べてくからね」
 バタバタと歩き回る利人と文彦の声。
 完全なる二枚目の利人も、文彦には敵わない。だからこそのこの稼業なのか。
 今日も、横浜の夕日はゆっくりと傾いていく・・・。





 次の依頼は、もう、すぐそこに。


 竜神利人の本心は、誰も・・・知らない。








-第一話・了-


20020527(MON)
Shizuka Otohime

裏キリ番ゲッター麻生さんのリクで「3兄弟モノ」です。
今の所、5話構成で、これは1話分。
「どこが3兄弟?」と思われると思いますが、せっかく長い話を書くのだから、じっくり練って楽しもう!
ということで・・・先を読んでいただければ分かっていただけるかと・・・。
BGMはゴスペラーズの「告白」とKAZAMIの「Only Truth」です。
良かったら一緒にお楽しみ下さい(^^)。
ちなみに大樹のビジュアルモデルは、いわずもがなのTッキーです(爆)。


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