9条世界会議・シンポ5「核時代と9条」パネリスト発言 08.5.5

「ノーモア・ヒバクシャ」と憲法9条
                            
                              吉田 一人

 吉田です。13歳、中学2年生のとき、長崎で被爆しました。
 突然、この高い所に座るハメになったのですが、草野球しか知らない後期高齢者がいきなり東京ドームの打席に立たされたようなものです。バットの振り方もよく分からないままですが、とにかく振るだけは振ってみようと思います。よろしくお願いします。
 テーマは《「ノーモア・ヒバクシャ」と憲法9条》です。

1.ヒロシマ・ナガサキと憲法9条   
 1945年8月。米軍が投下した原爆は、広島と長崎を一瞬にして死の街に変えました。
 原爆は、閃光とともに二つの街を壊滅させ、無差別に大量殺傷しました。人類が初めて体験した核戦争の“地獄”でした。生き残った人たちも、60年を超えた今もなお「原爆」を背負い続けています。原爆は、人間として死ぬことも、人間らしく生きることも許しません。核兵器は「絶滅」だけを目的とした狂気の兵器です。人間として認めることのできない絶対悪の兵器なのです。
 被爆者は「ふたたび被爆者をつくるな」と訴え続けてきました。それは、身をもって体験した“地獄”の苦しみを二度とだれにも味わわせたくないからです。それはまた、日本国民と世界の人々の願いでもあると思います。(『原爆被害者の基本要求』)
 「ヒロシマ・ナガサキと憲法9条」についてはこのシンポジウムのパネリストである浅井基文先生が、昨年の原水爆禁止世界大会で発言され、〈憲法が原爆投下をふまえたものであること、「核時代」の憲法であるということ〉と指摘して、こう言っておられます。−−〈核時代における戦争は、核戦争に発展する可能性が極めて高いゆえに、戦争はもはや政治の延長として正当化することは許されなくなったのです。憲法第9条は、正に核時代における平和のあり方として「力によらない」平和観を示しています〉と。
 9条がヒロシマ・ナガサキに根ざしたものであることは、憲法制定議会での政治指導者たちの提案説明にもはっきり示されています。「原子爆弾が生まれた以上、戦争はもうできない。戦争の否認を提唱するのは、世界文明を破壊から救わんとするためである」「最早、文明と戦争は両立できない。第9条は戦争の放棄を宣言し、わが国が世界中で最も徹底的な平和運動の先頭に立つことを示すものである」と繰り返し強調しています。
 憲法9条はまさに「ふたたび被爆者をつくるな」「ノーモア・ヒバクシャ」の願いを表したものであります。

 2.憲法は「受忍」政策を許さない   
 日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)は1956年の結成の初めから「原水爆禁止」と「原爆被害への国家補償」を要求してきました。「原爆被害への国家補償」の要求は、戦争を開始・遂行した日本国の責任に基づいて、原爆被害を償うよう求めるものです。被害への補償は、同じ被害を繰り返させないための第一歩なのです。この要求はまた、戦争を反省し〈政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意〉した憲法前文と9条を実体化するものでもある、と思います。
 ところが、日本政府は被爆者の国家補償要求を一貫して拒み続けてきました。
 1980年、厚生大臣の諮問機関・原爆被害者対策基本問題懇談会(基本懇)が、国民は戦争被害を「受忍」すべきだ、がまんせよ、という答申を出しました。〈原爆被害は悲惨きわまりないもの〉〈人間の想像を絶した地獄〉と言いながら、その“地獄”を「受忍」せよ、と言ったのです。
 原爆被害だけではありません。基本懇はこういっています。
 〈およそ戦争という国の存亡をかけての非常事態のもとにおいては、国民が…何らかの犠牲を余儀なくされたとしても、それは、国をあげての戦争による「一般の犠牲」として、すべての国民がひとしく受忍しなければならない〉
 戦争被害にたいする国の責任を認めず、国民は戦争被害を「受忍」せよというこの政策を、国は今も取り続けているのです。
 戦争への反省から生まれた憲法のもとで、戦争被害を「受忍」させる政策が許されるものではありません。いわんや、核戦争被害が、人間として絶対に「受忍」できるものではなく、「受忍」させてはならないものであることは、私たち被爆者が自らの体験を通じて訴え続けてきたところです。
 もしも、9条を壊して「戦争する憲法」に変えたら、戦争被害「受忍」政策は、憲法に従った政策となるでしょう。戦争に反対し、戦争被害の「受忍」に反対する運動は、憲法上の根拠を失うことになります。
 9条改憲は、まさに「ノーモア・ヒバクシャ」の願いを踏みにじるものなのです。

 3.“次の戦争”にも「受忍」政策が…  
 もうひとつ、見落としてならないことは、戦争被害「受忍」政策が、決して過去のものではない、“次の戦争”にも適用される、という問題です。
 武力攻撃事態等国民保護法に基づく政府の「国民保護基本指針」(05.3.25閣議決定)は、「核攻撃には雨ガッパやマスクで逃げれば助かる」と言っています。当時の石破防衛庁長官は国会(04.4.22) で「広島・長崎では、爆心地近くでも生き残った方がたくさんおられる」と、原爆被害の実態をまったく無視した答弁をしていました。
 原爆・核兵器被害をできるだけ小さく見せて「受忍」させようという意図であることは明らかでしょう。被害を矮小化する政府の手口は、原爆症認定問題でも使われてきました。
 また、国民保護法には“次の戦争”の被害を「受忍」させる条項もあります。戦時(武力攻撃事態)に生じた被害には、政府の措置に協力した者にしか補償しないことになっています(160条) 。これは「受忍」政策の現代版というべきものでしょう。
 ところで、自衛隊のイラク派兵は憲法違反という名古屋高裁の画期的な判決が出ました(08.4.27=5.2確定)。判決は平和的生存権を〈全ての基本的人権の基礎〉〈基底的権利〉と位置づけ、〈平和的生存権の具体的権利性〉の例としてこう言っています。
 〈憲法9条に違反する国の行為、すなわち戦争の遂行、武力の行使等や、戦争の準備行為等によって、個人の生命、自由が侵害され、あるいは、現実的な戦争等による被害や恐怖にさらされるような場合、また、…戦争の遂行等への加担・協力を強制されるような場合には、…その〔当該〕違憲行為の差止請求や損害賠償請求等…ができる…〉
 これは、平和的生存権に照らして、国家補償要求の正当性、「受忍」政策の違憲性を明確に立証した判決であり、被爆者を励ます判決だと思います。

 4.被爆者に、死んでる余裕はない   
 日本被団協と「ノーモア・ヒバクシャ9条の会」では、みなさんの声をはがきで募っています。そこには「ふたたび被爆者をつくらない」ために、9条を守ろうという熱い思いがあふれています。お配りしてあるその声を、ぜひ読んでください。
 「ノーモア・ヒバクシャ9条の会」のよびかけ人に前座良明さんという方がいます。前座さんは、長野県被爆者の会の会長として、長年にわたって被爆者運動の先頭に立ってきました。松本市で「ピカドン」−原爆−という名の食堂を営みながら、大病を患った体に鞭打って、被爆体験を語り、憲法9条を守ろうと訴えています。前座さんはこう言います。
 〈おれはもう棺おけに入って立っている。でも、しゃがめないんだよ。…やりたいこと、やらなければならないことが次から次に出てきて、死んでる余裕がないんだよ。…若い人たちを戦争に巻き込みたくない。その最後の砦にならなくちゃ、と思っている〉
                      (聞き書き『今日の聞き手は明日の語り手』)
 前座さんの言葉は、多くの被爆者の気持ちです。

 日本被団協「21世紀被爆者宣言」の結びの一節を、私の発言の結びとします。
 〈憲法が生きる日本、核兵器も戦争もない21世紀を−−。/そのとびらを開くまで、私たち被爆者は生き、語り、訴え、たたかいつづけます。〉
 ありがとうございました。

2008.5.5

原爆と9条

――核兵器も戦争もない世界めざして――

                   岩佐 幹三

 皆さん、今日は! 世界で最初の「9条世界大会」でお話しできて本当に光栄です。
 いま私たちを取り巻く情勢は、核保有国の拡大=核兵器拡散や日本国憲法改悪の動きなど一刻も気が許せません。しかし決して克服できない状況ではありません。皆さんと一緒に考えたいと思います。
 私は、63年前広島で原爆被爆し、その被害とたたかって生きてきました。その体験から話しはじめることにします。

 1.原爆の被爆体験
 あの日、1945年8月6日、16歳だった私は、爆心地から1.2キロの地点で被爆し、この世の地獄を体験しました。原爆が発した爆風、熱線、放射線による破壊のエネルギーは、想像を絶するすざまじいものでした。秒速百数十メ−トルの爆風で地面にたたきつけられた次の瞬間、私の目の前から広島の街は完全に消えていました。こんなことが想像できますか。でもそれが事実だったのです。倒壊した家の下敷きになった母を助け出そうとしましたが、少年一人の力ではどうにもできませんでした。死を覚悟した母の唱える「般若心経」を聞きながら、逃げました。生きながら焼け死ぬのを見殺しにしたのです。
 その時私の周りは、すでに火の海でした。家の裏手にあった中学校の校庭のプールにやっと辿りついて飛び込み、何とか助かることができました。少し遅れて逃げてきた人が、校庭の端まで到達しながら、火ダルマになって焼け死ぬ姿を見ました。広島と長崎の街のいたるところで、そのような惨状が起こっていたのです。
 数日後私は、家の焼け跡から母の遺体らしきものを掘り出しました。それは、マネキン人形にコールタールを塗って焼いたような、油でヌルヌルする物体でした。とても母の死体とは思えませんでした。母は、人間としてではなく、モノとして殺されたのです。広島と長崎での被爆者たちの死は、「人間の死」といえるものではありませんでした。

 女学校1年生の妹は、国の命令で爆心地近くに動員されて作業中に被爆しましたが、未だにどこで死んだのか行方不明です。戦時中とはいえ12〜3歳の少年・少女までかり出して、無残な死をとげさせた戦争というもの(それを起こした国)、非人道的で国際法違反の核兵器(それを使用した国)に対してはげしい憤りを覚えずにはおれません。この子たちは、青春の日の憂いも、悲しみも、喜びも知ることなく亡くなっていったのです。

 その後妹を探し歩いた私は、被爆後1カ月目に手足や体に赤紅色の斑点、歯茎からの出血、喉の痛み、脱毛などの急性症状にかかって倒れました。叔母の必死の看病で個人医師から特別治療を受けることができたおかげで、何とか回復することができました。しかし広島・長崎の両市では年内に21万人という死者が出ました。家族探しや救助のために入市した人など多くの被爆者が、急性症状で倒れたり、白血病にかかって、次々と亡くなっていきました。緊急の援助が最も求められていたその時、被爆者の窮状に対して、アメリカ占領軍、そして日本政府は、原爆被害の実態を隠し、被爆者を救援しようとはせず放置し続けたのです。国際赤十字から派遣されたジュノー博士の国際的な救援要請を拒否し続けたのです。ほとんど報道されていませんが、これが真実です。その人道に反する犯罪行為ともいえる施策は、その後も長年にわたって続きました。原爆被害を招いた両国政府の戦争責任だけでなく、戦後の被爆者放置責任も絶対に許せません。

 2.被爆者運動の歩み
 1954年アメリカによるビキニ環礁での水爆実験で第5福竜丸が被曝したのを契機に原水爆禁止世界大会が始まり、核兵器廃絶の世論が世界中に広まりました。56年被爆者は、全国組織、日本被団協を結成しました。私たちは、「世界への挨拶」として「私たちは自らを救うとともに、人類の危機を救う」という決意を宣言しました。そして国の戦争責任を追及するとともに、「原爆の被害を繰り返さぬ」ために核兵器を廃絶し、原爆被害に対する国家補償を求めて運動を展開してきました。国民的な支援の世論が高まる中で、日本政府を動かし、被爆後12年も経った57年やっと最初の援護施策「被爆者医療法」を、68年には「特別措置法」を制定させました。しかし政府は、依然として戦争責任は認めず、原爆被害を過小評価したその施策は被害の実態に対応してはいませんでした。
 それどころか国が厚生大臣の私的諮問機関として設置した「原爆被爆者対策基本問題懇談会」(「基本懇」)は、1980年「戦争(原爆)被害は、国民ひとしく受忍せよ」という「意見書」を発表して、被爆者、国民の大きな憤激をかいました。
 これに対して日本被団協は、84年『原爆被害者の基本要求』を発表して、原爆被害は絶対に受忍してはならないことを国民の前に明らかにしました。そして「核兵器なくせ、核戦争するな」という核兵器廃絶の要求と「ふたたび被爆者をつくらぬ証」として原爆被害に対する国家補償の実現という2大要求を柱として運動をさらに強化して進めました。

 国はついに1994年「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」を制定するにいたりました。この法律には、以前の2法よりも前進した施策が幾つか盛り込まれましたが、ここでも国は、国家補償の立場に立つことを拒否しました。原爆被害の最大の犠牲者である死没者に対する補償は顧みられず、在外被爆者問題も未処理で残されました。原爆は、被爆後63年経った今もなお影響を与え続け、被爆者は、がんをはじめとするさまざまな疾病にかかって死の苦しみとたたかっています。それこそ原爆、核兵器の恐ろしさです。
 しかし日本政府は、このような実態を直視しようとはせずに、被爆の影響は、爆発時の初期放射線に至近距離で被爆した人に限るとして、過小評価した政策をとり続けています。過小評価するということは、原爆の被害は大したことはないのだ、原爆=核兵器がまた使用されても仕方がないという核兵器容認の政策につながります。

 私たち被爆者は、このような政策を許すことはできません。今全国で被爆者が原告となって裁判を起こして、原爆被害の実態を無視した国の原爆症認定施策を不当としてたたかっています。今日までに6地方裁判所で被爆者勝訴の判決を勝ち取りました。被爆者、弁護団、医師団、支援者などの強い要請行動を受け止めた国家議員による施策の見直しを迫る動きの中で、厚生労働省は、制度の見直しをせざるをえなくなっています。しかしこれで国の受忍政策が根本的に転換されたわけではありません。戦争(原爆)被害の受忍政策を国民に強いることは、明らかに日本国憲法に反する行為ということができます。

 3.国の主人公として9条を守り、健康で文化的な平和な世界をめざして
 人類の歴史は、広島・長崎への原爆投下を契機に、核時代に入りました。核時代というのは、単に核兵器の存在によって人類の生存が危機にさらされるようになったというだけではありません。核兵器を生み出したような新たな技術革新、産業構造の変革など科学万能の時代、高度な科学技術を活用できるだけの巨大な開発力と経済力による国際的な覇権の争奪によって、国家の安全保障を確保しようという時代です。いわば経済的なグローバリズムの時代の中に、私たちは、組み込まれたのです。

 他方人類は、人間性の尊重、人権の保障など、国民のいのちやくらしの安全や保障の確立の歩みを進めてきました。それは、平和な時代の歩みなくしては確保できません。歴史は、人間の安全保障を願い、求めているのです。現代は、国家の安全保障から人間の安全保障への転換が求められる時代だということができます。素晴らしいことです。

 私たちは、今目の前にそのモデルを持っています。いうまでもなく日本国憲法です。憲法は、前文で「人類普遍の原理」、すなわち人類の長年にわたる歴史的所産である国民主権、基本的人権、国際平和原理を継承していることを明らかにしています。日本国憲法は決してアメリカから押しつけられただけのものではありません。私は、昨年映画「日本の青空」を観て、鈴木安蔵教授たちの憲法研究会の憲法草案が、GHQの日本国憲法構想の原案に取り入れられたということを思い出しました。歴史の流れの中で、先覚者・先進国の所産を受け継ぎ、時代の変化に合わせてその果実を発展させていくことこそ、未来への展望を開くものです。日本国憲法こそ人類の歴史的宝物といっていいでしょう。中でも私は、国民主権こそ人類が長年にわたって育て上げた基本原理だと思います。国民主権の担い手である私たちは、国の主人公なのです。私たち一人一人が国の主人公であるという自覚をもって、憲法9条を守り、健康で文化的(25条)で平和な世界を追い求めていくとき、それは、国家の安全保障から人間の安全保障への転換の道を切り開いていることになるでしょう。国の主人公として、憲法9条の守護神となりましょう。
 私たち被爆者も、その自覚のもとに、国の受忍政策をはねかえし、「核兵器も戦争もない世界」をめざして頑張っていきます。

                                     2008年4月29日

2010年NPT再検討会議第2回準備委員会
NGOセッションでの発言

                          日本被団協 田中煕巳
 
 議長、各国政府代表、ならびにNGOの代表の皆さん、日本被団協を代表して意見を述べる機会を与えてくださったことに厚く感謝申し上げます。

 私は田中煕巳と申します。現在、日本被団協の事務局長を務めています。日本被団協は広島と長崎に投下された原爆の生き残りが、全国的に結集し、核兵器の非人道性、違法性を告発し、原爆被害に対する国の補償と核兵器の廃絶を求めて運動を続けている国内唯一の全国組織です。

 私は63年前の1945年8月9日、13歳になったばかりの時、アメリカが長崎に投下した原子爆弾を被爆しました。爆心地から3.2キロあまりの自宅にいた私の周りに突然閃光が走り、閃光の色が白、青、だいだい、赤とめまぐるしく変わるのを感じながら気を失いました。気が付いたときは、爆風で飛んできた数枚のガラス戸の下敷きになっていました。奇跡的にほとんど怪我もなく、その後の被爆者としての苦しみも悲しみものり越え、63年近くを生き抜いて、こうして生き証人として話すことができます。
 しかし、爆心地近くに住んでいた祖父、叔父、二人の伯母、それに東京の学校から帰省していた大学生のいとこ、合わせて5人の身内の命を一挙に奪われました。彼らは熱線で直接焼き殺されたり、倒壊した家屋の下敷きになり、生きながらにして焼き殺されました。外傷1つ負わなかった叔父は放射線によって体中の細胞が破壊され、高熱にのたうちながら死んでいきました。大やけどを負い数日間生きながらえた伯母の遺体を、13歳の少年の手で、野原で荼毘に付すという、つらく、悲しい体験をしました。原爆が作り出した地獄の有様は62年過ぎた今日もありありと思い浮かんでくるのです。

 ここで、広島で被爆したササモリ・シゲコ(笹森恵子)さんを紹介します。彼女は私と同じ13歳のとき、広島の爆心地から1.5キロメートルの野外で、学徒動員による建物疎開の作業にかかろうとしたとき、突然、上半身を熱線と熱風で焼かれ、顔にやけどをおいながらも九死に一生を得ることができました。いまはアメリカに移りすみ、核兵器の残酷さを訴え、核兵器の廃絶を世界に訴え続けています。彼女の証言は数分では語ることができません、彼女の体験と苦悩と生き様に耳を傾けていただく機会を設けていただければ幸いです。

 アメリカが広島と長崎に相次いで原子爆弾を投下したのは、第2次世界大戦の終結も間近、日本の全面降伏が時間の問題になっていた1945年8月でした。2つの原爆は、2つの都市を一瞬にして壊滅させ、数十万の市民を灼熱の坩堝に叩き込み、二十数万人の人々をこの上なくむごたらしいやり方で虐殺しました。2発の原爆で無残に殺された20数万の死者は生き残ったものにとって、親であり、子であり、兄弟であり、友人・知人であり、かけがえのない愛すべき人々だったのです。

 原爆は、かろうじてこの「地獄」を生き延びた数十万人の人たちに放射線の後障害と深い心の傷跡を残しました。62年余りを経た今日もなお、多くの被爆者を苦しめ続け、死に追いやっています。
 アメリカ政府が占領下に開始した数万人に及ぶ被爆者の追跡調査は現在も継続しており、それらの調査は放射線の被害が今日も続いている深刻さを明らかにしています。

 被爆者は生涯いえることのない傷跡の痛みに耐え生きつづけ「二度とこの苦しみを世界の誰にも味わわせてはならない」と「核兵器なくせ!」と片時も休むことなく訴えつづけてきました。この間、被爆者はけっして「報復」することを唱えたことはありません。もしも3発目の核兵器が使われるようなことがあれば、それは地球と人類と、もろもろの生命の終焉を意味するであろうことを被爆者は体験を通して知っているからです。
 どんなことがあっても核兵器を許してはなりません。それは即座に廃絶しなければなりません。核兵器は悪魔の兵器であり、人類と共存することはできません。

 被爆者の訴えにもかかわらず、地球上にはいまなお、2万発以上の核兵器が存在しています。このことに被爆者は耐え難いのです。じっとしていることができません。核兵器にしがみつく勢力、とくにアメリカは、依然として核兵器使用の機会を虎視眈々と狙っています。核兵器が使用される危険はけっして遠ざかってはいません。インド、パキスタン、イスラエルの核兵器保有と合わせてNPT体制は危機に瀕しています。

 被爆者は世界のすべての国がNPTの遵守条項を誠実に実行し、2000年NPT再検討会議での13項目合意とりわけ、核保有国が自国の核兵器を廃絶するとの明確な約束を誠実に実行することを強く求めます。

 最近、核軍縮から核兵器廃絶へ向けての国際的世論の転換が大きく動き始めています。新アジェンダ連合、非同盟諸国会議などの核兵器廃絶へ向けてのイニシアティブが強まるのに加えて、アメリカの核政策の最高幹部の一人であったキッシンジャー氏らが昨年来、2回にわたり自国の核兵器廃絶への提言をしたことは大きな衝撃となって世界の反核・平和勢力を勇気づけています。さらにノルウェー政府が主催して開かれた「核兵器のない世界への展望の達成」に向けての国際会議が大きな成功を収めたことは被爆者にとっての大きな励ましです。

 被爆者は、核兵器全面禁止条約の締結を提案した世界平和市長会議による2020ビジョンを歓迎し強く支持しています。しかも、核兵器禁止条約モデル案もすでにNPT、国連の場で提案されました。各国がこれまでに国際的に約束したことを誠実に実行すれば、核兵器廃絶への道筋は開かれています。

 被爆者は、2010年NPT再検討会議が核軍縮を優先課題とし、核兵器廃絶へ向けた確かな道筋と目標を明確にして、その実現をめざす多国間交渉を開始することを求め、日本の反核運動と手をたずさえて、2010年NPT再検討会議の成功のために努力します。

 核兵器が現実に使用されてから63年。日本の国の内外を問わず、核兵器が実際に使用された事実をも知らない人々が多くなっています。
 すべての国が、ヒロシマ、ナガサキの原爆の被害の真実をとおして、核兵器の非人道性、悪魔性を自国の国民に教育し、核兵器廃絶への意思を醸成することを求めます。できる限り被爆者の証言に耳を傾け、被爆者の体験を人類の遺産として伝えることを求めます。

 ふたたびヒバクシャをつくらないために、人類の生存のために

  ノーモア ヒロシマ
  ノーモア ナガサキ
  ノーモア ヒバクシャ
  ノーモア ウォー