「被団協」新聞 2004年2月

主な内容
1面 世界社会フォーラム報告 ノーモアヒロシマナガサキ国際市民会議・専門委員会設置へ
2面 エノラ・ゲイ公開に抗議行動  「核かくしかじか」
3面 集団訴訟の動き 東裁判・最終弁論 往復トーク
4面 「相談のまど-所得税と地方税の控除について」


核兵器なくせば世界は変えられる WSFムンバイ
 
 1月16日から21日まで、インドのムンバイで第4回世界社会フォーラムが開かれ、日本被団協代表4人が参加しました。小西悟事務局次長(団長)のリポートです。
 
 いや、もう、富士山の大爆発にも似た大変な熱気と感動の竜巻に吸い込まれ、熱狂し、圧倒されました。
 なるほど、世界にはこんなエネルギーがあるんだ。これなら、世界は変えることができる! これが、「第4回世界社会フォーラム」についての私の第一印象です。

 被爆者代表団4人の訴えに共感 
 「もう一つの世界は可能だ」(この世界は変えることができる)を合言葉に、132ケ国から10万人近いNGO、個人がインド西岸の1千万都市ムンバイ(旧「ボンベイ」)に集まり、大企業と大国によるグローバルな(全地球規模の)収奪と破壊に「もうこれ以上我慢できない」「みんなで手をつなぎ二つ目の超大国になろう!」と1月16日から21日まで熱っぽく討論しました。
 日本被団協はこの歴史的なフォーラム(討論集会)に、私(小西事務局次長)、中山高光熊本県被団協事務局長、同眞弓夫人、銀林美恵子東友会常任理事の4人を送り、被爆の実相の普及と連帯・友好関係の強化につとめました。
 16日の開会総会、21日の閉会総会をのぞく4日間、日本被団協の3人(小西、中山、銀林)が都合7回、韓国から参加の郭貴勲さんを合わせて10回以上壇上に立ち、核兵器使用の犯罪の実態をきびしく追求し、核兵器の即時廃絶こそ目下の最重要課題であることを訴え、大きな共感を呼びました。

 フォーラム開会前の参加登録団体は2660。労働組合、婦人団体、宗教団体、平和団体、戦争被害者、ウラニウム鉱山の放射線被害者、核実験被害者など、さまざまな分野のNGOです。
 会場は大きな紡績工場の廃屋らしく、1万人以上収容できる大ホールから、せいぜい50人ほどで満杯になる大小200近いホールや小部屋でいっせいに並行して会議、討論会、セミナー(学習会)を開きました。
 これら登録団体は「展示ホール」と名づけられた巨大なホール(ふだん、さまざまな展示に使われているらしい)にそれぞれストールと呼ばれる出店(溜まり場・展示場)をもち、通りかかる人を誰かまわず呼び込みます。
 被団協代表団は日本原水協のストールの一角を借りて、訴えの文書配布、物品の販売などをしました。またこのストールでは、会期中通して「原爆と人間展」の展示を行いました。
 4日間にわたり、アメリカフレンズ奉仕委員会のジョセフ・ガーソンさんの主催で「世界のヒバクシャは訴える、ムンバイ編」が行われ、被団協代表は代わる代わるこれに登場、大きな共感を呼びました。
 特別に感動的だったのは、18日午後1時半から始まった「アメリカの戦争犯罪を裁く女性たち」。1000人を超える聴衆を前に、小西がトップスピーカーとして発言を求められたときでした。アメリカの原爆投下の非人道と日本政府の戦争責任をきびしく糾弾する小西の発言は、大きな拍手に迎えられました。
 代表団は閉会総会にも参加しました。

 WSFとは
 巨大企業のトップと大国の政府の首脳らが経済のグローバル化を推進するため毎年スイスのダボスで開く「世界経済フォーラム」(WEF)に対抗して開く、民主主義、自由、正義を求め、戦争や暴力、環境破壊に反対する弱者、犠牲者、庶民のフォーラム。第3回までは、ブラジル・ポルトアレグレで開催。 被爆者の代表が参加し、核兵器廃絶を訴えたのは今回がはじめて。

エノラ・ゲイ公開・展示に抗議行動
 
 要請署名2万5000を提出 
 広島に原爆を投下したB29爆撃機エノラ・ゲイが完全に復元されて、昨年12月15日、アメリカの首都ワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館別館で公開されることになりました。
 日本被団協は田中熙巳事務局長ほか3人の代表をワシントンに送り、現地の仲間とともに、抗議のための行動と行事に参加しました。
 日本からは、県原水爆禁止日本国民会議の代表として、広島県被団協の坪井直事務局長ほか二人も参加しています。
 代表団は、12月12日、ワシントンDCのナショナルプレスクラブで記者会見した後、スミソニアン館長への署名を提出しました。
 記者会見には、各国の報道機関が50社以上つめかけ、日本被団協を代表して田中事務局長がアメリカの原爆投下を告発。被団協の運動を紹介するとともに、公開展示に怒りを表明。2万5000筆の署名に込められた要請の内容を紹介、日本から携えていった署名のダンボール3箱も披露しました。
 広島県被団協の坪井さんは被爆体験を交えて原爆のむごさを語り、広島市長の要請なども携えてきたことを紹介しました。
 記者会見後、近くのスミソニアン航空宇宙博物館本館に移動し、要請と署名の提出を申し入れました。博物館側は当初、「館長は不在、会見の予定はない」と渋りましたが、被爆者側がそんなはずはないと抗議し、コメントはしないという条件で、副館長が出てきて、館内に設けられた接見台で要請書とダンボールに入った署名簿を受け取りました。

 被爆者をたたえる集会も
 13日には同市内にあるアメリカン大学で、著名な歴史学者とアメリカの核政策をめぐって討論会をもちました。1995年のスミソニアン航空宇宙博物館での原爆展をめぐって、原爆投下の歴史的評価に論陣を張った著名な歴史学者18人が勢ぞろいし、ブッシュ政権の核政策批判を中心に内外の情勢について議論が展開されました。
 討論会では、坪井さんが被爆者として報告者に加わり、日本被団協代表の山田拓民さん(長崎)と広島県被団協の小倉桂子さんが特別報告。山田さんは家族5人が日を追って亡くなっていった様子を黒板を使って淡々と英語で語りました。
 14日は、宗教界各派と平和団体が共催して開かれた「被爆者に謝罪し、被爆者を称える集会」に参加しました。早朝から大雪で、日曜礼拝での被爆者証言は中止になったものの、午後からみぞれに変わり、ヒバクシャを称える集会が、古い教会として知られるプレスビテリアン教会でおこなわれました。
 集会では、ロウソクを手にした被爆者が先頭で入場、「人間をかえせ」の上映から始まりました。朝長民子さん(熊本)が広島での被爆体験の証言を行い、アメリカのネバダ核爆発実験場風下被ばく者のネルソン夫妻の証言が続き、ボストンから駆けつけたジョセフ・ガーソンさんから広島、長崎の被爆者と世界のヒバクシャとの連帯運動が紹介されました。
 最後に、宗教界各派の代表者から被爆者に対する謝罪と感謝の言葉が述べられています。

 「機」と再会、怒りが 
 そして、いよいよエノラ・ゲイが公開される15日。ダレス空港にオープンした航空宇宙博物館別館の館内・館外で抗議集会がもたれました。
 前日の雪が晴れ上がり、寒さの厳しい朝。私たちは、1時間前から並んで開館を待ちました。定刻10時、持ち物とボディーチェックを受け館内に入ります。報道陣が待ち構えていて、私たちは1人1人インタービュー攻めにあいました。
 エノラ・ゲイは広い会場の中心部に、機首を上向きにして、誇らしげに展示されていました。
 しばらくして、行動参加者全員がエノラ・ゲイの前に集合。抗議行動参加者は洋服の下に隠し持ち込んだ大きな写真や抗議文を頭上にかざし、いっせいに大きな声で「ヒロシマ市民を14万人殺した」「ノーモア・ヒバクシャ」と訴えました。
 この行動で犠牲者の血を象徴する赤インクの入った瓶が投げられ床の上で割れたことから騒然となり、逮捕者が出たことを後に知らされました。
 館内の抗議行動を切り上げた参加者は屋外で抗議集会を開き、この集会で被爆者を代表して西野稔さん(東京)が、「被爆直前に見たエノラ・ゲイと再会し、多くの友人たちを目の前で殺したことへの怒りがこみ上げてきた。ふたたび被爆者をつくらせないために、核兵器廃絶をしなければならない」と決意表明。
 参加者から、ブッシュ政権の政策に対する批判と運動が紹介され、被爆者への謝罪と感謝の言葉が述べられました。

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