「被団協」295号 2003.8月

主な内容
1面 被爆者の肖像画運動
2面 集団訴訟-口頭弁論始まる 集団訴訟情報 「核かくしかじか」
3面 人生かけて訴える 
4面 Q & A 集団訴訟の意義
5面 (4面つづき) 集団訴訟支援の輪
7面 各都道府県だより
8面 相談のまど「健康管理手当受給中の疾病が治癒したときは?」

58年目に父の肖像画

 58年前のあの日、長崎で、原爆のため家族五人を亡くした道上昭雄さん(自身も被爆、当時16歳、愛知県在住)。被団協と美術家平和会議が共催する原爆犠牲者肖像画運動に、今年、父親・亀太郎さんの肖像画を申し込みました。
 「酒好きな父でした。被爆時には爆心地から300mの城山町にいたはずですが、11日に探しに行った時には、会社の建物もそこにいたはずの人達も跡形なく消え失せ、父の遺体を見つけることはできませんでした」
 2年前には母親・エイさんの肖像画を描いてもらいました。
 「どちらかというとオットリ型の優しい母でした。長崎に移住して3年。8月9日の朝が最後の別れになりました。母は倒れた家の下敷きになり、生後5カ月の妹をかばうようにうつ伏せになって死んでいました」
 お母さんの肖像画を東京の美術館まで見に行ったという道上さん。「山田画伯からお電話があって父も描いていただけるそうです。両親とも同じ先生に描いていただけるなんて、嬉しさに感激もひとしおです。今年もまた絵を見に上京します」
 この肖像画運動とは、亡くなった被爆者の肖像画を、写真を元に美術家が製作して、平和美術展に展示したのち遺族に贈るもの。今年も第51回平和美術展(7月30日〜8月11日東京都美術館)に14点が展示されます。

 「一度も会ったことも話したこともない人を描くんですから、皮膚や唇の色など、想像で描くしかありません。道上さんに連絡して、お父さんのことをお聞きしました」と語る画家の山田利尚さん。原爆投下のことは「アメリカはひどい。日本が負けるとわかっていてやるんだから」。なぜ被爆者肖像画を?「私のような絵描きはほかにできることもないので、せめて肖像画なりと描かせていただけたらと」。

人生かけて訴える  北海道・館村 民さん(78歳)

 北海道の原告3人のうちの1人です。陸軍船舶通信隊補充隊(新兵に通信の教育をして戦地に送り出す教育隊)で館村さんはモールス教育係の助手。21歳でした。

大量出血のまま野ざらしに
 その被爆は強烈です。徹夜の衛兵勤務から解放され、兵舎(爆心地から1.8km)のベッドで寝付いた直後、閃光が襲いました。「窓ぎわだったので足にガラス片がざっくり。崩れた梁で頭蓋骨を割られ、体じゅう傷を負い、人事不省でした」
 隣で寝ていた兵は割れた頭蓋骨から脳が飛び出す状態で死亡、館村さんは奇跡的に救出されますが、それまで約5時間、大量に出血しながら野ざらしになっていました。
 比治山の洞穴に収容されたあと、野戦病院に運ばれました。「同じ部隊にいた15歳くらいの特幹(特別乙種幹部候補生)がばたばた死んでいった。夜歩いて蹴つまづき、何かと思ったら彼らの死体です。急に立ちあがって『お母さん』と叫んで死んだ子もいた。そんな子どもみたいな兵が私の部隊だけで千人近く死んだでしょう。いまも思い出すとたまらない」
 復員した実家では、「精神的にやられていたんでしょう」、日光がさしこむと、「閃光」を思い出して飛び起きる状態が何カ月もつづきました。
 戦後は、警察予備隊、検察庁の通信担当などをへて、大手商事会社勤務を定年まで。「人に負けない仕事はしたつもりです。でも疲れやすく、1年のうち2カ月休む状態が5年ほどつづいた。なぜ首にならなかったか、ふしぎなくらいです」

”病気のデパート”のような半生
 検査を受けた保健所でいわれました。「白血球が常人の半分以下だ。よく生きていられるな」。85年腎臓ガン、99年肺ガンとすい臓ガン発見、それぞれ摘出手術。血液検査のため注射針を刺すと血が流れてとまらない「血管脆弱状態」もあるなど、病気のデパートのような半生でした。
 「私、妻にも被爆のことは一度もきちんと告白していません。でもこの様子を見ていればなんとなくわかったようです」
 原告仲間で部隊も同じ戦友の安井晃一さん、柳谷貞一さんらとの出会いから被団協を知り、2001年2月各種ガンなどについて原爆症認定を申請、同9月却下。異議申立も棄却されました。
 「こんな体で申請や裁判は無理と思っていました。でも申請を次つぎ却下する国を見て『国は被爆者をなんと思っているのか』とだんだんバカらしくなってきたんです。私は軍人だったので戦場で死んでも当然と思っていた。でも地方人(一般市民)が殺され、戦後も被爆者として苦労されるのはしのびない。そういう方々のためにも北海道の戦友3人で、力をあわせてがんばりたい」

Q&A 集団訴訟の意義を考える

Q1.集団訴訟の争点は何ですか?
 原爆被害をどうみるかということです。
 原爆被害は、熱線、爆風、放射線が複合的、相乗的に作用して、全体的な被害を及ぼします。しかし、国はこうした被害の中から、放射線だけをとりわけて被爆者政策を講じてきました。それは、原爆被害の真のとらえ方ではありません。
 集団訴訟では、これまでほとんど無視されてきた入市被爆や遠距離被爆の実態を明らかにし、ガンなどにかかった被爆者の救済をはかっていくことにも力がおかれます。日本被団協の調査でも、急性症状を発症した遠距離被爆者や入市被爆者がガンで亡くなった例が数多く見受けられます。ところが、放射線被害に関して、厚生労働省は、きわめて限定的で狭いものにしようとしています。
 最近では、ガンの種類ごとに放射線の被曝線量との関係を「原因確率」という数値で表わし、10%以下は機械的に却下しています。また、この基準では放射線による治癒能力の低下に配慮しようとせず、被爆地点が0.5kmの被爆者の病気まで「放射線と無関係」とするケースが出ています。
 このように、被爆者への冷たい国の姿勢が、今回の集団訴訟の引き金となったのはいうまでもありません。

Q2.「原爆被害への国家補償」と集団訴訟運動との関連は?
 国の原爆被害のとらえかたは、国家補償を拒否する姿勢につながっています。被害の実態から見て、国に国家補償の責任があることは、東京原爆裁判をはじめ、これまでの訴訟で明らかにされています。しかし、政府は戦争犠牲に対する受忍政策をとり続け、原爆被害に対して放射線障害だけを特別なものとしてきました。
 今回の訴訟は、原爆被害への全面的な国家補償政策を求めるものではありません。しかし、集団訴訟運動を通し、国の原爆被害に対する見方を変えさせ、被爆者政策を転換させれば、国家補償の道は大きく開かれます。さらに、核兵器の被害を明らかにすることで、核兵器を容認し、使用をも辞さないアメリカの核戦略を支持する国の政策を転換させることにもつながるでしょう。
 集団訴訟は原爆被害への国家補償と核兵器廃絶を求める運動を土台としているのです。

Q3.提訴者のいない地域では、どうとりくんだらいいのですか?
 今回の裁判では、原告である被爆者はもちろん、原告にならなかった多くの被爆者にも体験を大いに語ってもらい、原爆の恐ろしさを告発してほしいと思っています。そこでは、被爆時のことのみならず、その後58年間にわたる被爆者としての苦しみをぜひ語ってください。
 そうした被爆者の告発を集め、証拠書類として提出し、法廷にも大いに反映させていきたいと考えています。日本被団協では、現在「聞きとり・語りつたえ運動」を提起しています。これは今回の集団訴訟と一体となった取り組みとして、被爆の実相の証言を掘り起こし、核兵器の非人道性を次世代に伝えていこうというものです。ぜひ、若い世代に被爆者の思いを伝えてください。

Q4.裁判支援の輪を広げるには、どのような活動が効果的でしょうか?
 現在、訴訟を起こしている各地で支援する会が発足してきています。各地の支援する会では署名やカンパ活動だけでなく、集会に参加する被爆者の送迎や被爆体験の聞き取りなど、多岐にわたる取り組みが展開され、被爆者と支援者との連帯と相互理解が深まっています。
 これまで協力関係にあった団体・個人はもちろん、これまでつきあいのなかった人たちにも被爆者が率直に訴えかけることが重要です。
 集団訴訟運動は、国・厚生労働省を相手にした全国的な運動です。全国規模の運動で裁判全体を支援することが求められます。
 被爆者全員が原告になる意気込みで、カンパや署名、「被団協」新聞購読など、身近なところから運動の輪を大きく広げていきましょう。  

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