「被団協」293号 2003年6月

主な内容
1面 集団訴訟運動第2陣の提訴  
2面 人生かけて訴える  遠距離・入市被爆者実態調査   「核かくしかじか」  
3面 都道府県だより 集団提訴の原告紹介
4面 相談のまど


原爆症認定集団訴訟運動 第2陣21人が提訴

 5月27日、第2陣の集団提訴が行なわれ、4月17日の7人につづく21人が、東京、大阪、千葉の地方裁判所に訴状を提出しました。
  *  *  *
【東京地裁】午後1時、東京地裁に17人の訴状を提出。記者会見のあと勝利をめざす集会には150人が参加しました。
 提訴を望んでいた1人が亡くなり、原告2人は入院中。この日は、手術を控えた夫の代理でがんばる妻など家族をふくむ13人が参加。「58年間苦しみをひきずってきた。命ある限り冷たい国へ怒りをぶっつけたい」(加藤力男団長)など、全員が思いや決意を語りました。
【千葉地裁】午後1時、千葉地裁に提訴者と8人の弁護団が訴状を提出。9人の被爆者が同行しました。記者会見につづく支援集会では、提訴準備中の被爆者が「私もつづきます」。支援者からも決意表明がありました。
【大阪地裁】午後2時、大阪地裁には10人の弁護団と兵庫・大阪の3人の原告がそろって訴状を提出。提訴後には記者会見と支援のための集会が開かれました。集会には被爆者や支援者50人が出席しました。

その朝、無念の死

 4月17日に第一陣で長崎地裁に提訴した市川蔵男さんが5月27日、大腸癌のため亡くなりました。関係者は、国への怒りをあらたにしています。

「支援連絡会」準備会で議論

 いよいよ始まった原爆症認定集団訴訟をささえる支援運動のすすめ方を話し合う「支援連絡会」準備会が5月18日、東京・日本青年館で開かれました。各地の被爆者組織や弁護士、医療、青年、平和運動の関係者など60人が集まりました。
 日本被団協代表委員の藤平典さんが開会あいさつをし、全国弁護団長の池田眞規さんは「被爆者の運動には人類の未来がかかっている」とあいさつ。弁護団の安原幸彦さんが訴状について報告、却下処分の取り消しと損害賠償をもとめる請求の趣旨と主張の概略、裁判の流れを説明しました。
 日本被団協集団提訴推進委員長の岩佐幹三さんが▽各県に「○○県支援する会」をつくり裁判支援、原爆被害の「聞きとり・語りつたえ」運動をすすめる▽中央では支持賛同者と団体によって「支援連絡会」をつくり地方の会との連絡、全国的な運動推進をはかる▽ひろい個人・団体の参加をもとめるため当面「準備会」とする―などの案を説明。「聞きとり・語りつたえ」運動の要綱が提案されました。
 このあと、支援組織がすでにスタートした北海道、東京、愛知、広島をはじめ、各地から状況報告。会の後半には、別会場での会議を終えた弁護団も合流し、各地で弁護にあたる弁護士がズラリ並んで紹介され、大きな拍手を受けました。



人生かけて訴える
「負けるものか」毎日が戦争でした/兵庫・深谷日出子さん(76歳)

 原爆症認定を求める集団訴訟に立ちあがった近畿の原告の1人です。
 広島で被爆したのは18歳のとき。看護学生2年生でした。日赤病院(爆心地から1.7キロ)内にあった寮で下級生の掃除を点検中、窓の桟に手を伸ばしていて「光」を見ました。倒れた建物の下敷きになり、「この下に生徒がいる」という声で気がつき、動くとすき間ができたので這い出します。血まみれの体を包帯でぐるぐる巻きにして、被災者の看護にあたり、「それからずっと休みなしでした」。
 患者でびっしりの病院は足の踏み場もなく「水をください」とうめく声が「静かになったら死です。ほんとに地獄でした。私もすわったらそのままかと思いました」。
 夜が明けると20人も亡くなっており、くる日もくる日も死体を焼く。爆心近くへ救護にいくこともたびたび。下痢、脱毛、歯ぐきの出血に苦しみました。「診察で『体に刺さったガラスを数えなさい』といわれ、50まで数えましたが、気分が悪くなりました」。

眼底を焼かれて失明しても冷たく却下

 1946年3月卒業。同期生106人中40人が原爆で死亡、卒業できたのは66人でした。
 その後看護婦になった深谷さん。四九年眼科を受診して、「右目中央が焼けている。両端で見えているのだ」と知らされます。77年失明。左目も白内障になり、いまも地元で通院しています。
 2001年、右目失明で原爆症認定を申請しますが、却下。「放射能に起因する」ことは認めるが、「治療を要する状態ではない」と。2002年左目の原爆白内障について申請しました。
 二度目の申請をした県庁で、「出すんじゃなかった」と思ったといいます。体のことを思うと、ほんとはしんどい。原爆症認定を求める人の多くが抱く気持ちです。

私と同じ人をつくりたくないから

 それを押して、あえて裁判までふみきったのはなぜ? 「結婚も出産もしないと自分にいいきかせていましたが、幸い寺の住職の夫に出会い、娘も授かりました。でも朝目がさめると『またつらい一日が』と思う。『被爆者はぐずぐずしてるといわれたくない。負けるものか』と不自由な目で墓地の草を取り、夫と2人で家も建て、両親の介護を17年。いつも一生懸命で、戦後58年は”毎日が戦争”でした」
 法廷でぜひ訴えたいことは――。「戦争しなかったらこういうことはなかったし、私たちは小さいときから洗脳されて看護学生になり、戦争のため命がけで看護したんです。有事法ができて、また私と同じ人ができるんじゃないですか。手当よりも、『かわいそうでした、すみません』という国の言葉がほしい」。



遠距離・入市実態調査のよびかけに大きな反響

 「被団協」新聞5月号の記事と折り込みで呼びかけた「遠距離被爆者・入市被爆者実態調査票」が、続々と日本被団協に送られてきています。
 5月29日現在で1500通を超えて回収されています。読者の手元に「被団協」新聞が届いた直後から郵送やファクスで調査票が送られてくるほどで、事務局も反響に驚くとともに、ご協力に感謝しています。
 なお、5月末としていた締め切りを延期しますので、まだの方はぜひ日本被団協まで送付してくださるようお願いします。
 いま整理・集約中ですが、思いのこもった書き入れもたくさん。そのいくつかを紹介すると…。
 「原爆投下当時、私は三歳でしたが、とにかく訳のわからない病気ばかりしていました。人並のことができないことが情けなくも悔しくもあります。自分の体いったいどうなってるの…と嘆かわしい限りです」(長崎被爆・女性・入市)
 「当時広島市…の看護婦会員でした。多くの友人を失いました。さびしいです。一人暮らしで不安定な生活です。今後が不安でなりません」(広島被爆・女性・直爆)
 「好きこのんで被爆したのではない。当時は政府を信じて協力した。それなのに国は知らん顔している。(認定被爆者が)1%にも満たないなんてとんでもない。医学的に反論するあかしはないのに、なぜだ」(長崎被爆・男性・直爆)

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