イラク攻撃や北朝鮮の核兵器開発問題が緊迫するなか、日本と世界のヒバクシャは共同で全世界に向けて「核兵器を世界のどこでも絶対に使うな」「新しいヒバクシャをつくるな」と訴える
声明
を発表しました。
「世界のヒバクシャの共同声明」は1月31日、日本被団協の藤平典代表委員らが会見して発表。核兵器のおそろしさを身をもって知る者として「核兵器使用がありうる」事態に危惧を表明。核保有国、平和を愛する国の首脳に核不使用・核兵器廃絶をもとめ、世界人民に核戦争阻止の行動をよびかけています。
声明は日本の被爆者が世界各地の核兵器製造・実験で放射線被曝した人びとによびかけて実現したもの。現在までに、アメリカの原爆被爆者協会、放射線被害者支援教育の会、「ネバダ砂漠の体験」、ブラジルの原爆被爆者協会、韓国の原爆被害者協会、ロシアの核安全運動、核被害者支援基金「アイグル」ほか2団体の5カ国・10団体の代表者が賛同し署名を寄せています。
原爆症認定集団訴訟に関する第5回検討会が1月11日、東京の日本青年館で開かれ、全国各地の被爆者、弁護士、医師のほか、日本青年団、日本生協連、世界大会実行委員会などの支援者ら約70人が参加しました。
会議では、日本被団協集団訴訟推進委員会の岩佐幹三委員長が、集団訴訟運動は、原爆被害の実態を無視・過小評価した国の被爆者援護施策と認定行政の転換を求めるわけだが、ふたたび被爆者をつくらないために核兵器廃絶に向かうよう国の核政策転換につなげる壮大な運動であり、国民世論の形成が重要と強調。そのために広範な支援運動が不可欠だと述べ、財政や宣伝などの強化を提起しました。
弁護団からは宮原哲朗弁護士が、提訴者の範囲、提訴の時期、モデル訴訟の検討、各地での弁護団の組織などについて報告。提訴の時期として遅くとも6月までに提訴を検討していることを明らかにしました。
議論では…
肥田舜太郎医師は、「入市被爆者の病気の起因性の点で医師に迷いもあるが、躊躇していたらこの運動の意味がない。入市被爆者の認定を勝ち取る構えでたたかおう」と訴えました。
安原幸彦弁護士は、最近の「司法改革」の流れで判決までの時間が短くなる傾向を紹介しながら、国側が拠り所とする「原因確率論」を打ち破って「早期に勝つ」構えの活動を提起しました。
尾藤広喜弁護士は、「被爆者が自分の状況を原爆のせいだというなら、それを理論化するのが弁護士と医師の役割」と述べ、提訴は被爆者の意志を尊重すると指摘。厚生労働省は制度として被爆者を切り捨てているので一人が勝っても「制度は間違っていない」と言い逃れができる。集団で勝てばそうは言えなくなると、集団訴訟の意義を強調しました。
各地からの発言
長崎からは、第一次申請の15人中9人はガンだったが認定は二人だけだったと、国の認定が被爆者の実態を無視していることへの不満を訴えました。愛知、熊本などからは、支援組織づくりのとりくみが報告され、神奈川からは、被爆者の気持ちを大事に運動をすすめて欲しいと要望。東京の青年は、集団訴訟運動の話をきいて「こういう運動がやりたかった」と、支援できることに喜びを感じている若者がたくさんいることを紹介し、被爆者を励ましました。
東京・梅園義胤さん(63)
昨年夏、ドイツのテレビ番組に登場しました。原爆症認定申請で却下された人を対象にしたその取材で、ドイツ人の記者にきかれました。「被爆者への補償・対策が十分されていないと思うが、どう思うか。あなたの怒りを話してほしい」。
腎臓がんの肺転移で認定を申請し、七月に却下されたばかりでした。「怒りをうまく語りきれず、私の話に彼は不満だったようで」。日本政府は原爆症と認定すらしないとは、ドイツでは考えられない…。記者はいったそうです。「もっと怒ったらどうか。あなたには怒りがないのか」と。
原爆を受けなければ別の人生が
梅園さんは1987年腎臓がんのため左腎臓をとりました。95年に肺転移してから、いま週2回インターフェロンを自分で注射、月1回通院、3カ月ごとに検査を受ける生活がもう七年つづいています。「私は幸い注射の苦痛もさほどではないのですが、耐えられない人もあるでしょう。それを認めようとしない国は許せません。私自身、医者から離れられずしばられたような生活がこれからもつづくのはたまらない。原爆を受けず、こんな病気にならなかったら、もっといろんなことのできる人生だったろうなあ、と思いますね」
「怒れ」などといわれるまでもなく、「口べたですが」梅園さんの怒りは深いものです。
記憶に刻まれた光景
被爆は5歳のとき、広島市の白島九軒町で、手帳では2kmとなっています。弟と道で遊んでいて、倒れた土塀の中に埋もれたところを兵隊に助けられました。気を失った弟のため防火用水で濡らした布を何度も運び、黒い雨も浴びました。
水、水、と叫びながらいっせいに川へ入っていく人びとの群れ。被爆翌日、父のひく大八車で安佐郡(当時)の親戚へ運ばれる途中で見た、道ばたに山のように積み上げられた死体の山。治療所に横たわる母の、いっぱい包帯を巻かれ血だらけだった姿…。「5歳で記憶はほとんどないのですが、その光景は強烈に残っています。あれだけのけがをした母が、よく私たちを連れていってくれたものです。どんなにか痛かっただろうに…」。
被爆者が言わなければ
梅園さんの妻、昭子さん(59)も2歳のとき長崎で被爆。偶然に結ばれた被爆者同士の夫婦は「子どもや孫たちのためにも、集団訴訟に加わります」と心を決めています。「被爆者が何もいわなくても補償するのが本当とドイツの記者はいいました。国は何をしているのか。被爆者が死に絶えるのを待っているのではないか。体が動くうちに私たちが立ち上がらないと、国はけっして認めないでしょう」。
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