「被団協」新聞 299号 2003年12月

主な内容
1面 集団訴訟運動・弁護団合同会議開かれる
2面  相談事業講習会 
集団訴訟・法廷での訴え 「核かくしかじか」   
3面 
 「人生かけて訴える」 往復トーク・トーク    
4面 「相談のまど」


集団訴訟支援運動・弁護団合同会議開かれる

 11月15日、東京のコーププラザで集団訴訟支援運動・弁護団合同会議が開かれました。
 会議には各地の被爆者に加え、弁護団や支援組織の代表など約80人が参加。集団訴訟に立ち上がった都道府県だけでなく、今後、提訴を予定している宮城、静岡、岐阜、鹿児島などの代表も駆けつけました。
 各地からの報告では、集団訴訟が幅広い多くの支援者を得て、運動がふくらみを増し、確実に前進している状況が確認されました。
 千葉では、千葉駅前で被爆者が座り込みをして、署名活動を展開した実践が報告されました。支援を要請しようとする団体の執行部会に、原告自らが足を運び、確実な支援とカンパ活動が展開されたという教訓は、財政問題の打開策として、多くの参加者を励ましてくれました。
 広島では、被爆者組織が団結して集団訴訟の支援を行っていることが報告され、今回の運動を全人類的課題である核廃絶のために結集するたたかいととらえていることが報告されました。
  「退役米兵は補償されても、(日本の)被爆者は補償されない」と訴えて共感を広げたというのは、熊本からの報告です。熊本では、12月19日に幅広い人たちの参加による「支援する会」を立ち上げ、原爆被害を法廷にもっていくという決意を表明しました。

  原因確率を批判
 会議では、全国弁護団の宮原哲朗事務局長が経過報告を行い、訴訟の争点として@被爆からその後の58年におよぶ原爆被害の全体像をどうとらえるかA入市被爆や遠距離被爆などを含め原爆症認定基準のあるべき姿はどのようなものかB原因確率をどうたたくか、の三点を挙げました。
 あいさつに立った池田眞規弁護団長は、「ヒロシマ・ナガサキを忘れたら、また過ちを繰り返す」と指摘。原爆被害の全体像を法廷から世界へ、そして国連へ持ち込み、国際社会が責任をもって核兵器廃絶をすすめていくという壮大な運動を提示しました。その上で、この裁判は勝利できると強調しました。
 さらに、裁判の焦点となっている原因確率について、内藤雅義弁護士が批判。国際的にも採用されているABCC・放射線影響研究所の調査結果がいかにずさんであったかが説明され、被爆者の調査や証言によって、新たなデータを提示し、原因確率を批判していく必要性が訴えられました。
 これを受け、高見澤昭治弁護士は、「原因確率(の問題点)は被爆の実相に照らせば明らかになる」と指摘。裁判の今後の方向性を明らかにしました。
 
 支援全国組織の結成を
 全体の意見交換では、原告の死亡後提訴や訴訟承継問題、財政問題や全国原告団の組織化について、意見交換がされました。また、早期に集団訴訟支援の全国組織を求める声が相次ぎました。
 会議では、日本被団協から岩佐幹三事務局次長が「被爆者のこれまでの運動と集団訴訟」について、小西悟事務局次長が「日本被団協の国際活動とノーモア ヒロシマ・ナガサキ国際市民会議」について報告しました。

 集団訴訟の東京地裁第三回口頭弁論が開かれた11月12日、千代田区霞が関の厚生労働省前で被爆者や支援者150人が座り込みをしました。
 日がかげると寒気がしのびよるなか、毛布にくるまった原告や被爆者らを、うたごえの若者、トランペットの松平晃さんをはじめ、薬害ヤコブ病裁判の原告団など民主団体、労組、集団訴訟を支援する若者の会「ピースバード」など幅広い人びとが激励。「支援でなく自分の問題として、いっしょにたたかう」決意がのべられ、運動の大きな広がりが実感できる画期的な行動となりました。
 参加者たちは裁判勝利の願いをこめて折った折り鶴を、裁判途中で亡くなった右近行洋さん、大塚靖博さんの遺影に献鶴。涙を浮かべて遺影に合掌する女性の姿も。夫の遺影を手に喪服で参加した大塚サヨ子さんは「勝つまで死ねないといっていた夫は、判決を見ずに死ぬのは残念だといって亡くなりました。かわいそうでなりません」と声を詰まらせていました。
 座り込みに支えられて開いた弁論では、原告一人ひとりの被爆状況を考慮せず機械的に「原因確率」でしか被爆者を見ない非人間的な国の態度があらわに。
 座り込み参加者は最後に厚労省に怒りのこぶしを向け「集団訴訟に勝利するぞ」の叫びを響かせました。

相談事業講習会 講義と楽しい交流

 【佐賀】11月16、17日佐賀県嬉野温泉で、九州ブロックの相談事業講習会が開かれ、439人が参加しました。
 講習会では肥田舜太郎理事長の講義に続き、長崎の中村尚達弁護士が集団訴訟の意義と課題について、松谷裁判の教訓をふまえて講義。つづいて日本被団協岩佐幹三事務局次長が被団協運動について報告しました。
 二日目は伊藤直子相談員から現行法活用、集団訴訟について話を聞きました。その後は、被爆者の健康管理、相談活動、被爆者運動、被爆二世の四つの分科会に分かれて話し合いました。
 夜の懇親会では、各県が歌や踊りで様々な余興を披露し、楽しいひと時を過ごしました。
 熊本は沖縄民謡の替え歌で、長生きして集団訴訟に勝利しようと全員合唱。沖縄県からは10人が参加しました。主催県佐賀県では、役員総動員の努力で講習会の潤滑な進行がはかられました。
 【盛岡】11月13、14日盛岡市内つなぎ温泉で東北ブロックの相談事業講習会が開かれ、30人が参加しました。
 講習会では、被爆者中央相談所肥田理事長、伊藤相談員の講義に続いて、杉山茂雄弁護士から12月に提訴が予定されている宮城での集団訴訟の意義などについて話がありました。
 翌日は日本被団協小西悟事務局次長の被団協運動報告と各県の活動報告が行なわれました。被爆者が少なく運動も困難がありますが、夜の懇親会では楽しい交流がはかられ、みんなで励まし合いました。

集団訴訟 被爆の実相を法廷で訴え

 【熊本】10月24日熊本地裁で第2回の口頭弁論が開かれ、第二次提訴の3人に関する訴状の陳述などにつづき、原告2人が意見陳述を行ない、代理人が書証の一部をパネル化したものを使いながら、原爆被害を明らかにしました。
 今後12月、2月、4月の弁論日が指定されています。
 事前、事後の集会では、複数の学生が発言を行ない、被爆者たちを励ましました。
 【東京】11月12日東京地裁で第三回の弁論が開かれました。
 弁論では、長崎で被爆したN子さんが意見陳述を行ない、ビデオ「ヒロシマ.ナガサキ 核戦争のもたらすもの」が上映されました。つづいて代理人が、日本被団協の入市・遠距離被爆の調査の中間集計などをもとに、国が認定に当たって全く無視している低線量被爆者の被害実態を明らかにした準備書面を陳述しました。
 【千葉】11月21日千葉地裁で第二回の口頭弁論が開かれ、代理人から、被告・国の本裁判への態度・主張を厳しく糾弾する意見書が陳述されました。この日傍聴できなかった人たちは、弁護士会館でビデオ「ヒロシマ ナガサキ 核戦争のもたらすもの」を鑑賞。次回2月10日には法廷でこのビデオが上映されることになりました。
 なお、千葉県市川市で11月22日、被爆者集団訴訟を支える青年の会「ピース・バードイン市川」が結成されました。千葉市の市原会長の被爆者体験を涙ながらに聞き、椎葉県原水協事務局長が「集団訴訟は原爆被害のとらえ方ををめぐる国との闘いだ」と指摘。
 今後は、知りたいこと、やりたいことをドンドンやる、情報をメールで広く配信する、裁判の傍聴運動に参加することなどを決めています。

原爆症認定 人生かけて訴える
 
 広島県の原告37人(1人死亡)の原告団長です。広島地裁の第1回口頭弁論で「私たちの苦しみが原爆のせいであると認めてほしい。それが死んでいった人たちの無念さ、いまも苦しむ多くの被爆者の願いにこたえること」と訴えました。
 被爆時は17歳。爆心地から二`の広島高等工業専門学校で授業中でした。倒れた校舎の下敷きになり、幸いけがもありませんでしたが級友5人は圧死。入学まもない重住さんらは自ら救出作業をします。「倒れた校舎の下から引き出すと、頭に五寸釘が刺さった人、耳まで裂けた口から血を吹きだしている人。手当のしようもなく、名前もわからなかった」
 十日市町(爆心地から六百b)の自宅の様子を見にいくと「家はきれいに燃えていた」。熱で中に入れず、8日になって初めて入り、いつも家族のいた場所で父のものらしい遺体をみつけ、缶を拾って骨を入れました。
 恩師の家で、避難してきていた母と再会。「死んだと思った私の顔を見て母は泣きじゃくりました」。母は倒れた家に足をはさまれた父を前に手のほどこしようもなく、火が回ったためとうとう一人で逃げたのでした。その母も、「14日に急に体中に斑点ができ口から泡をだして、コインと喉を鳴らしたと思ったらそれきりだった」
 友の多くを失い、家族は全滅。それだけではありません。家のあった十日市町では「生き残った者は一人もいません」。広島十日市会の世話人として、この街の原爆被害を調査している重住さん。商家が多かった90軒の人々は、8月末までにすべて(約130人)亡くなった事実が明らかになっています。
 「私はずっと、原爆のことは話したくなかったんです。話してもわかってもらえないから」。1985年糖尿病と診断、91年喉頭ガンの放射線治療、2002年胃ガンの手術。それでも原爆症認定を申請する気はありませんでした。
 「仕事もやめ、娘も『話を聞きたい』というので、気持ちが変わった」。集団申請は知らないまま、「ガンの手術をしたものはOKだろうと軽い気持ちで個人的に申請したらみごとに却下」。国の認定行政のひどさを知りました。
 「腹がたつのは、被爆状況は1人ひとり違うのに、原因確率で認められないと同じ言葉で却下し理由も書かないこと。私のように2kmで被爆して600mまで入った人間は何人もない。それでも浴びた被爆線が足りないと国はいうのでしょうか」 
 手術後、下痢がちで体調はよくありません。しかし、家族も友も育った街も奪った原爆と向き合い、「十日市町の調査と集団訴訟の2つで自分の人生のきりをつけたい」と言葉に力をこめます。

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