「被団協」264号 −2001.1月

主な内容
1面 アメリカの臨界前核実験に抗議  「21世紀に語り継ぐ」 被爆者から孫への新世紀対談
2面  広島、長崎両市長より   松谷訴訟支援する会が閉会
3面  ドイツ6市で遊説  ネバダ核実験50周年で行動  「核かくしかじか」
4、5面 対談(1面より続き)
7面  相談所沖縄講習会  東原爆裁判第6回口頭弁論
8面 相談のまど

臨界前核実験やめよ−アメリカ大使館へ抗議の唱和

 アメリカ・エネルギー省は12月15日未明(日本時間)、ネバダ核実験場地下で、今年5回目、通算13回目の「オーボエ6」と名付けた臨界前核実験を強行しました。
 アメリカ政府はこの実験を、「CTBT(包括的核実験停止条約)に違反しない」「核兵器の維持管理のため」「環境に影響はない」などといって正当化していますが、核兵器の使用を前提にした実験であることに変わりはありません。
 日本被団協は、東友会の11人とともに、アメリカ大使館前で「核実験やめろ」「核兵器なくせ」と抗議行動をおこない、クリントン大統領に厳重な抗議文を送りました。
 広島、長崎、秋田、岩手、京都、奈良、山口、熊本の各県被団協と、福岡市の会も、米大統領あて抗議文を送りました。
 


非核の21世紀を思う−広島、長崎より

被爆体験の世界化を            広島市長・秋葉忠利

 ジャーナリストたちが選んだ20世紀最大の「ニュース」が、広島・長崎への原爆投下だったことは、原爆のもたらした大きな惨害だけを考えても当然ですが、残念ながら核兵器の全廃が実現しないまま、私たちは新しい世紀を迎えることになってしまいました。21世紀最大のビッグニュースが核兵器の全廃になるよう、私たちは更なる努力を続けなくてはなりませんが、その出発点はやはり被爆体験の世界化とそのための思想化ではないかと考えています。
 昨年の平和宣言では、被爆者の皆さんの足跡を辿って、被爆後も生を選択し人間であり続けたこと、長崎以降、実戦における核兵器の使用を阻止したこと、そして憎しみや暴力の連鎖を断って人類が生存するための新しい考え方を提示し実践してきたことを実例として掲げ、被爆者の皆さんのこれまでの御努力に感謝しました。この考え方を世界的な共通認識にまで広めて21世紀を迎えたかったのですが、今世紀、新たな決意で具体的な仕事に取り組みたいと考えています。
 先ず、新所長が決まった広島平和研究所を中心に、広島を原点にした平和と国際関係についての学術研究を充実させたいと思います。同時に、世界の主要大学で「広島・長崎講座」が開講されるための準備を進めたいと考えています。もちろん小中学校、高校のレベルでの教育にも力を入れますが、そのためにも、世界の子供たちから寄せられる折鶴の保存と活用についての広島としてのコンセンサスを作りたいと思います。また、全ての「和解」の象徴として広島の河畔にハナミズキの並木を作ることを通して、より広い見地から戦争のない世界への展望を開きたいと考えています。
 今年の夏には広島と長崎で世界平和連帯都市市長会議の総会が開かれますが、加盟都市が500になったこの大きな組織の力を活用して被爆体験の世界化がさらに進むよう努力したいと思います。その一部として、参加都市の関心が高い「青少年を巡る暴力」についても、被爆体験の思想化と関連付けて考える積りです。しかし、一番大切なのは常に原点に立ち戻りつつ核廃絶という大目標実現のため着実に努力を積み重ねることだと思います。
 今年1年、被団協の皆さんにとって良いお年であること、また一日も早く核兵器が全廃されることを祈って21世紀冒頭の御挨拶とさせて頂きます。
 

NGOの力を集めて      長崎市長 伊藤一長

 新しい世紀を迎えました。戦争の世紀と言われた20世紀を生きてきた私たちは、21世紀を核兵器のない世紀とするため、新たな一歩を踏み出しましょう。
 昨年11月、自治体と市民が手を結び、NGO会議『核兵器廃絶―地球市民集会ナガサキ』が、被爆都市長崎において開催されました。
 集会では、国籍、信条の違いを越え、個人の資格で参加した約5,600人の方々が全体集会や分科会において核兵器廃絶について熱心に話し合いました。
 閉会集会において採択された「長崎アピール」では、長崎を核戦争最後の被爆地としなければならないことを確認し、核兵器禁止条約を交渉するための国際会議の開催をはじめ、核兵器のない世界の実現に向けて、地球市民としてとるべき行動を世界の人々に訴えました。
 この長崎集会を通じて、私たち長崎市民は核兵器廃絶の実現には、世界中のNGOの力を結集して国際世論を喚起することが、非常に重要であることを改めて痛感しました。同時に、私たちは世界のNGOの力を結集すれば、核兵器廃絶は可能であるとの希望をもつことが出来ました。
 このような意味から、被爆55周年、20世紀最後の年に開かれた長崎集会は、21世紀につながる意義ある集会でありました。
 私は被爆都市長崎の市長として、21世紀をになう青少年への被爆体験の継承に努力するとともに、全国の被爆者の皆様をはじめ、国内外のNGOとの連携を強め、核兵器のない平和な21世紀の実現のために、一歩一歩前進していきたいと考えております。



松谷訴訟を支援する会が閉会

 長崎原爆松谷訴訟を支援する会は、12月10日に総会をひらき、結成以来12年間のとりくみの成果を確認。12月末日をもって「会」を解散することを決定しました。
 総会には120人が出席。弁護団長の横山茂樹弁護士と原告の松谷英子さんが、この12年をふり返り裁判支援へのお礼とこれからの決意を述べました。
 議事では、「支援する会」の運動の総括『12年間の私たちのとりくみ』が提案され、ついで弁護団報告、会計報告を受け、「支援する会」の解散と残務処理委員会の設置が提案され、すべて承認されました。
 この総会には、1人で25,000筆の署名を集めた島根の須谷さんも参加。1万人を超えた会員の全国各地での草の根の取り組みをおおいにねぎらい合いました。
 また立命館大学の安斎育郎教授が「20世紀の反核平和運動と長崎原爆松谷訴訟」のテーマで記念講演を行ないました。

松谷ネットワークも解散

 1998年5月に発足し、55万もの最高裁要請署名やパンフレット普及など裁判支援にとりくんできた「原爆松谷裁判ネットワーク」(日本被団協など14団体)は12月13日、東京の日本青年館で「解散の会」をひらきました。
 集会では、宮原哲朗弁護士が最高裁勝利の意義を報告、松谷英子さんも参加して裁判支援のお礼を述べました。



ドイツ6市で遊説

 2000年11月19日から29日まで、ドイツ平和協会・戦争抵抗者同盟(DFG・VK)の招待を受けて、日本被団協遊説団として、私(日本被団協事務局次長)と、東友会の横川嘉範副会長と、長崎被災協の谷口稜曄副会長と三人が、ドイツ各地で被爆体験を語り、「原爆と人間展」を開いてきました。

 6市で遊説、市長主催レセプション

 訪問したのはハノーファー、ノトルン、オルデンブルグ、ダルムシュタット、ジンデルフィンゲン、ボンの6市。
 5市で市長主催のレセプションで迎えられ、市長、市長代理、副市長がみずから出席し、温かく歓迎してくれました。ダルムシュタット工科大学では、学長主催のレセプションがありました。

 学校で特別授業 新聞も大きく報道

 ノトルン、オルデンブルグ、ダルムシュタットでの市民集会はとくに盛大で、翌日の新聞には「この苦しみは二度とくり返されてはならない」「広島、長崎の被爆者が体験を語る」などと、大きく報道されました。
 ノトルンの高校では、校長のはからいで数クラス合併の歴史の特別授業を実施。80年代ドイツの反核運動の盛り上がりを知らない世代の生徒たち百人が、身じろぎもせず話に聞き入り、「核戦争はまだ起こると思うか」などと真剣に質問。授業が終わると展示パネルに食い入るように見つめる姿は感動的でした。
 オルデンブルグの高校では300人が、ダルムシュタットの職業訓練学校では17歳から35歳の成人まで150人が、聞いてくれました。校舎の階段の踊り場には「原爆と人間展」パネルが並べられ、ひっきりなしに見入る姿が続きました。

 ボン近くの山中に160発の核爆弾が

 ボンの集会は、ドイツ労働総同盟ボン地域本部役員の呼びかけで、10団体を超える草の根運動の代表が集まり、時間をたっぷりとって聞いてくれました。
 世話役の1人が、ボン近くのアイフェル山地には160発の米軍の核兵器が置かれていることにふれながら、「核戦争の危機は決して去っていない。ヒロシマ・ナガサキは今日の問題だ。こうして生き証人の話を聞くことは大きな意味がある」と、参加者に訴えてくれました。
 どこでも「原爆と人間展」パネルの前に人だかりができ、すぐには片づけられませんでした。(小西悟)



相談所の沖縄講習会

 12月1、2の両日、九州ブロックの講習会が沖縄県読谷村で開かれ、各県から350人が参加しました。
 講習会では、肥田舜太郎理事長、伊藤直子相談員の話のほか、池田眞規相談所理事(弁護士)から、長崎・松谷と京都の両原爆訴訟勝利判決の意義とこれからの運動について、高橋健日本被団協代表理事から「被爆者宣言」について話を聞きました。また、横山照子長崎被災協理事から原爆松谷裁判支援へのお礼が述べられました。
 夜の懇親会では、沖縄の歌や踊りのほか、各県からも様々な出し物が披露され、楽しいひとときを過しました。
 参加した被爆者のなかには、被爆後初めて当時の学友に会えた人もいました。「ここに来ると元気が出る」「年一回の講習会を楽しみにしている」など、高齢化したなかでもがんばる被爆者の声が聞かれました。
 各県ではそれぞれ講習会の前後に米軍基地や戦跡をめぐり、沖縄戦の被害者の体験を聞くなど、沖縄での講習会を意義あるものにしていました。



東原爆裁判第6回口頭弁論

 東京の東 原爆裁判の第6回口頭弁論が、12月11日、東京地裁で開かれました。原告の東数男さんも出廷しました。
 この日は弁護団から、東さんが被爆後大村海軍病院で入院治療を受けている間に、日米合同調査委員会の調査を受けたときのカルテが、提出されました。これには、東さんの白血球が平常な人の三分の一に減り、血便、脱毛があり、「原爆症」と診断されています。
 弁護団はこれを示して、「当時から明白な原爆症だった人を、原爆症でないと言い張るのは根拠のない主張だ。ただちに原爆症認定を下すべきだ」と主張しました。
 次回は2月9日午前10時半から。

 東京地裁が長崎で山口仙二氏を証人尋問

 東京の東裁判に関連して12月14日、証拠保全手続きとして長崎地裁で山口仙二日本被団協代表委員の証人尋問が行なわれました。尋問には担当裁判官3人と書記官など6人、弁護団から池田眞規弁護士ら5人、国側代理人4人が出廷し、長崎の被爆者ら18人が立ち会いました。
 山口さんは、東さんと同じ学校で三菱兵器大橋工場に動員され、同じところから列車で大村海軍病院に運ばれた体験を持っています。被爆直後から海軍病院での体験、急性症状などを生々しく証言しました。また、55年経ってまだ被爆者が裁判をしなければならない被爆行政のあり方を改めるよう訴えました。

このページのトップへ


戻る