サイパン侵攻
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The Invasion of Saipan

サイパンという南洋の小島をめぐる日米の攻防は、戦史に残る熾烈な戦いであった。日本側の資料では、中日新聞社会部編「烈日サイパン島」(平成779日改定新版)が詳しい。

それによれば、サイパン、テニアンの守備に当ったのは、すでに展開していた陸・海軍部隊に加え、斎藤義次中将の指揮する名古屋編成の第43師団を基幹とする兵団であった。

本土からサイパンに渡る途中、不運にも敵潜水艦によって一歩兵連隊を失い、その上、到着後一ヶ月余りで圧倒的に優勢な米軍の侵攻を受けた。わが守備兵は乏しい武器を取ってよく勇戦敢闘したが、本土からの援護・補給も無く、孤立して全滅に近い敗戦となった。

写真:サイパンの西側・珊瑚礁に囲まれたタナパグ・ラグーンに浮かぶ遊覧船から、敗残の日本兵が最後に集結した最北のマッピ山(標高250m)を望見したもの。

これと読み比べできる米側資料に、
    Brian Blodgett著"サイパン侵攻(The Invasion of Saipan)"
がある。この度その全文を和訳したので、著者の了解を得て掲載することとした。

原文は、下記を参照されたい:
     http://members.tripod.com/Brian_Blodgett/Saipan.html

目次:
      A.戦略計画
      B.サイパン概要
      C.米軍侵攻計画 
      D.日本側の防御
      E.侵攻準備 
      F.侵攻
      G.タッポーチョ山 
      H.勝利

A.戦略計画(Strategic Plan)

194423月、米ワシントン計画会議で太平洋戦争の計画者たちは、ルソン・台湾及び中国沿岸に基地を確保することを次の主な目標とした。

彼等はこの基地が日本とオランダ領東インド(注訳:1949年以降インドネシア連邦に属する)との間の通信ラインとして重要な役割を果しているとした。またこの地域の基地が長距離爆撃機(B-29)の日本の本土攻撃に使用できるうえ、これらの基地が日本侵攻の際、必要とする莫大な数の部隊の足場にできると考えた。

ダグラス・マッカーサー大将(米陸軍)とチェスター ・ニミッツ大将(米海軍)はそれぞれ彼等の計画をワシントンの計画担当者に提出したが、いずれも統合参謀本部(JCS)の意に満たなかった。JCSはニミッツとマッカーサーの計画を共に満足させることとし、両参謀本部(CinCs, Command in Chief)に一つの命令を与えた。

ニミッツはこの命令を受けて、彼の艦隊をマリアナ‐カロリン‐パラウ諸島の占領に向かわせた。

B.サイパン概要(Description of Saipan)

サイパンはマリアナ諸島南にある四島中の最北に位置する。サイパン以外の三島は北から南にテニアン、ロタ及びグアムである。全体としてマリアナは15個の火山島よりなり、北緯2032分、東経14454分から北緯1315分、東経14443分にまたがる。サイパンは東京から1,200マイル、マニラから1,500マイルそして真珠湾から3,200マイル以上離れている。

この島の主な季節は11月から3月までの乾季と4月から10月までの雨季である。風は乾季には通常、北と東から吹き、8月までに南西にかわる。島が雲に覆われている期間は意外に多く、大まかに言って70%は曇っている。気候は一般に温和で、年間気温は22℃から29℃である。雨季のうち8月が最も雨が多く、驟雨が数分から2時間続く。雨季には通常、約2160ミリの雨が降る。

この島の北、東及び南の端は、一般に深い海に落ちる狭い砂浜を伴った急な斜面である。一方、この島の西海岸は遠く離れた珊瑚礁で囲まれた砂浜を伴ったなだらかな斜面になっている。チャランカノアの小さな町の付近にも例外なく保礁がある。ここに自然に造られた港は、風向きによっては役に立たないこともある。

サイパンを見下ろす山はタッポーチョ山で、島の中央に位置し標高466mである。

その峰がこの島の北端にあるマルピ山(250m)に向けて北方に連なり、東の峰は突然、海岸の崖で終る。しかし、西方には海岸まで緩やかに下っている。島の南部は北にタッポーチョ山、東南にカグマン山そして南にナフタン山に向う台地になっている。この島の大きさは221平方キロメートルに過ぎない。

1944年にはサイパンの70%が砂糖黍畑であった。チャランカノア付近に沼地がある。米国人は、日本人と戦っていやな思いをしたことすべてにサイパンで出会った。この島は、沼、砂糖黍畑、ジャングルに覆われた山そして険しい渓谷よりなる変化に富んだ地形である。この島は深い海、急勾配の斜面あるいは浅瀬を囲う珊瑚礁で守られている。多くの洞穴があり、日本軍はこれらを障害物あるいは砲の陣地として利用した。

この独特の物理的特長から、攻撃するに最良の地点は西側で、チャランカノア周辺とガラパンの南とされた。日本への攻撃を引続き促進するにはマリアナを夏までに占領しなければならないので、ニミッツは南マリアナを1944615日までに占領せよと命じた。この時期は雨季ではあるが8月以前であり、多量の雨が降る前にこの島を征服すれば時間の余裕ができる。

図はサイパンとその地勢を示し、これをダブルクリックすると拡大図になる。

C.米軍侵攻計画(United States Command and Invasion Plan)

中部太平洋の総司令官ニミッツは、第5艦隊司令長官のレイモンド・A・スプルアンス中将(米海軍)にマリアナ侵攻の実行を委ねた。スプルアンスは更に統合護衛艦隊(機動部隊51)にマリアナ侵攻を下命した。機動部隊51はリッチモンド ・ケリー・ターナー中将(米海軍)の指揮下にあった。

マリアナ攻撃は二つの部隊が行う。
北方攻撃部隊(機動部隊
52として知られ、ターナーの指揮下にある)は、サイパンを攻撃する水陸両用部隊である。
もう一つは上陸後の部隊(機動部隊
56V水陸両用部隊として知られる)で、その戦術司令官はホーランドH・スミス中将(米海兵隊)である。スミスは、彼が太平洋戦線にかわる前に、東海岸において基本的な上陸課題で第1歩兵師団と第1海兵師団を監督したことがあることから適任とされた。また、スミスはタラワ、マキン、クエゼリン及びエニウェトクの攻撃部隊を指揮した。

ニミッツがこの作戦の最高司令官だが、サイパン侵攻の戦術司令官はターナーとスミスだった。ターナーはスミスが海岸で指揮権を確立するまでは戦術指揮官の地位にとどまり、海岸で指揮の任務を肩代わりすることで海軍と海兵隊の調整がついていた。

スミスの侵攻部隊は、
  トーマス・ワトソン少将(米海兵隊)指揮の第
2海兵師団
  ハリー・シュミット少将(米海兵隊)指揮の第
4海兵師団
  ラルフ・
C・スミス(米陸軍)指揮の第27歩兵師団
  アーサー・
M・ハーパー准将(米陸軍)指揮の第24砲兵隊

である。

2海兵師団はガタルカナル(1連隊)及びタラワ(3,000人以上の死傷者)で既に戦闘を経験済みである。
4海兵師団はクエゼリン珊瑚礁侵攻に従軍した。
27歩兵師団は国立ニューヨーク警備隊であったが、194010月、連邦軍に編入された。国立警備隊のうち、最初に太平洋戦争に投入されたのがこの部隊である。米本土を出てから、ハワイ群島の基地防衛部隊として1年半を過ごし、一部はマキン、タラワ及びエニウェトック環礁で戦闘を経験した。
24砲兵隊は1大隊がクエゼリンに従軍したが、他は戦闘に初めて参加する。

D日本軍の防衛(Japanese Defense)

サイパンの日本軍は1934年からこの島の防衛工事を開始し、1940年までに七百万米ドル相当の資金を投じて航空基地、要塞の兵営、弾薬貯蔵庫地域及びその他いろいろな工事を行ってきた。島の南部にあるアスリート飛行場はマリアナの主要な航空基地である。タナパク港は艦船だけでなく、水上機の基地でもあった。

日本は戦争が始まるまで、兵舎付の十二の灯台、弾薬貯蔵施設、指揮所や見張所などの建設工事は現実に平和目的であると主張してきた。19419月までに、日本は電波方向探知機を設置し、砲台ばかりか追加の貯蔵庫、魚雷貯蔵施設、空爆避難所を作った。全部平和の名で!

真珠湾以降、サイパンは主に軍隊、飛行機及び艦船の供給及び乗換基地の役目を果した。島の実戦力は一般に少なかった(19433月に1,139人、19452月に1,437人)。しかし、ギルバート諸島のタラワとマキンを奪われた日本軍は、米軍が最後にはサイパンを攻撃してくる、と悟った。こうして、この島の防衛に力を入れるようになる。第4艦隊の支配下にあったマリアナは第31軍に移された。しかし、真の日本軍組織では海軍と陸軍の命令系統が明確に分離されているが、この地域ではそうではなかった。

伝統的に海軍と陸軍は統合指揮関係にはなかった。彼等は通常 、関心のある事項について話し合い、共通の原則に立って了解はするが、全体の指揮官が両戦力の行動を監督することはない。この習慣はマリアナでも守られた。第31軍は現実に中部太平洋艦隊に従属し、先任陸軍武官は海軍司令官の統制下にあることに立腹していた。1944315日多くの議論の末、陸軍と海軍との間に妥協が成立した。現在の先任将校、彼が海軍であれ陸軍であれ、が各々の島を指揮する。更に、中部太平洋艦隊と第31軍はこれらの島の完全な責任はどちらも負わないことで合意した!

この全体指揮機能の欠如は、一切の軍務を互いに他に依存せざるを得ない現実を一層悪化させた。この地域の空軍は海軍に所属するが、陸軍の統制下にある航空基地が支援する。陸軍の軍人は海軍に輸送してもらって島に渡る。陸海軍の相互独立性が高いと、単一の統合司令官がいないことが事態を更に悪化させた。1944年に第31軍地域へ多くの部隊が移動してきたことが、指揮問題を更に複雑化した。19445月までに、マリアナ地域に5個師団、6独立旅団及び5独立連隊の日本軍がいた。それに加え、大隊規模の独立部隊がいた。これは親師団から切り離されて中部太平洋地域に送り込まれた3部隊である。

31軍司令官小畑英良中将は1,100人の部員とともにサイパンに司令部を置いていた。しかし、小畑が第31軍を預かる一方で、サイパンの部隊は斎藤中将が指揮した。斎藤の最大の部隊は第43師団で、第118(訳注:静岡)、第135(名古屋)及び第136(岐阜)歩兵連隊からなる。この師団の規模は13,000人に近い。また、岡芳郎大佐率いる独立混成第47旅団がいた。この部隊の規模はほぼ2,600人で、22門の砲を持っていた。また、サイパンには多くの小部隊が駐屯しており、彼等はこの島の近くで活動する米潜水艦に座礁させられた船に乗っていた。その中には独立山砲第3連隊(山砲24門)及び戦車第9連隊(中型戦車36台、軽戦車12台)がいた。615日現在、サイパンに駐留する兵士の総計はほぼ25,000人であった。また第5基地海軍部隊には6,000人を少し超す水兵達がいた。

サイパンの防衛は4地区に分けられた。サイパン北部は第135歩兵連隊が守った。西側に沿うタナパク港とガラパン近傍の海軍地区は海軍部隊と第136歩兵連隊の1大隊で守った。海軍地区の南側、中部地区には第136歩兵連隊のただ1大隊(+)のみが置かれた。南部地区はサイパンの南部のほとんどで、北方は中部地区、そして東海岸に沿い北部地区に接する。南部地区は島の半分近くを占め、独立混成第47旅団、戦車第9連隊、独立山砲第3連隊及び高射砲第25連隊(アスリート飛行場周辺)が守った。これらの各地区の戦力は水陸侵攻を行う米国側の凡その見積もりである。島の周辺は険しい斜面、深い海及び崖に囲まれているので、着上陸侵攻に最適でかつ最も好ましい場所は西側でガラパン南方のチャランカノア付近であった。

前の珊瑚礁攻撃からすると、日本側は予備軍を厳しく制限して海岸を防衛すると思われた。とすると、日本の予備軍は136歩兵連隊の2中隊と独立混成第47旅団の2中隊であろう。これらの中隊は皆、ラウラウ湾の北側にいると考えられた。また、この地域には戦車第9連隊がおり、その任務はガラパンあるいはタナパク付近に上陸する敵に対する反撃にあった。もし、ラウラウ湾付近に上陸した場合は戦車をこの地域に直接投入できる。

陸軍の砲は、西岸及び東岸をともに砲撃できるよう稜線に沿って配置された。砲の諸元は侵攻に先立ち、砂浜と沖合の海面にむかって注意深く調定された。実際、小さな竹の棒を西海岸の沖合に立て、砲兵の目標照準の助けにした。

海軍も1214及び15センチ砲を用いた広範囲な海岸防衛計画を立てていた。この計画は7砲兵中隊で西海岸を、5砲兵中隊で南及び南東海岸を、そして4砲兵中隊で北海岸を守るというものであった。全海軍防衛計画には、更に6砲兵中隊がいた;2はアスリート飛行場、2は島の中心そしてタナパクとマルピ岬に1つずつ。侵攻時に、これら全陣地が準備を完了していた訳ではないが、そのうちの幾つかには砲が装備され人員が配置されていた。

西方の海岸と島の南部を見下ろす丘の稜線に沿い、高射25連隊の3砲兵中隊がいた。各中隊が持つ弾薬量は少なく、計画では15,000発であったが全部で5,000発に過ぎなかった。

19442月までに米海軍はマリアナ付近の潜水艦パトロールを増やした。この潜水艦等は中部太平洋方面へ向う何隻かの兵員輸送船を撃沈したばかりか、他の輸送船をサイパンで座礁させた。第9派遣隊と独混第47旅団とはそうした船に乗に乗り合わせていた。これらの部隊はもともとサイパンに駐留する予定はなく、その装備の多くを米潜水艦に沈められて十分な戦闘能力がなかった。

43師団の7,000人を乗せた輸送船団も潜水艦攻撃にさらされ、7隻の輸送船のうち5隻を沈められた。幸運にも、部隊の80%が救われたが彼等がサイパンに着いたとき、装備は船とともに沈んでしまったので、一般に無装備であった。118連隊は約850人を失い、戦闘能力なしとされ解隊された。

最初、日本はサイパン防衛に適した戦力を持っているように見えたが、本当は全くそうではなかった。第43師団は6月初旬までサイパンに到着できず、侵攻に対する準備時間が非常に少なかった。防衛工事の任務を負うサイパンの2工兵部隊も4月に到着したばかりである!この部隊が何の命令もなしに、到着したときには装備と建築材料(これらもまた潜水艦攻撃によって失われた)を失っていたという事実は、日本側はサイパンでその兵員数に見合う防御工事ができなかったことを物語っている。

531日、日本第31軍陸軍参謀長は次のように述べている:
我々は永久築城に適した材料を得なければ今日、防御の顕著な強化が出来ない。特に、我部隊にセメント、セメント用鉄鋼強化材料、有刺鉄線、製材等この島で入手できない材料が欲しい。いかに多くの兵隊がいても、防衛工事に手がつけられないばかりか、手をこまねいて座すばかりであり、この状況は憂慮に堪えない。

日本側はサイパン防御工事の失敗により、前に環礁で用いた“水際作戦”に頼るしかなかった。この作戦は、沖合の障害物でよく防護されている環礁には適しているが、逆に環礁が比較的狭く深みのある防護ができる場合には実際的でない。だから、この作戦はサイパンの防衛には不適切であった。

サイパンは、深みのある防御をした上で海岸沿いの防御をするには適しているが、日本の防衛計画は敵を海岸で撃滅することを要求し、どんな足場からでも猛烈な反撃ができるとした。日本側の原計画は、時間を与えてよく固められた陣地と重畳して構築された砲座で上陸予想地点を防衛するのに重点を置いたであろう。更に内陸では第二の防衛線が構築されるはずであった。

第一及び第二防衛帯にはダミー陣地を造っただろうが、それは日本軍が十二分に人員を充当出来ないからであった。これらのダミー陣地は米軍にそこが重厚に防御されていると信じ込ませ、そこを真の日本軍防衛陣地だとして攻撃してくれることに望みをかけた欺瞞である。この防衛姿勢と“水際作戦”とはまた多分に日本軍首脳の勇猛を重んじる気風によるものであっただろうし、またサイパンの人達が縦深防御を準備する時間がなく、小畑が海岸に先ず防御を集中するよう命令したからであろう。

E.侵攻準備(Preparation for The Invasion)

H・スミスのサイパン侵攻計画は、二個師団を並列して2マイル幅の狭い間口の海岸に上陸させることであった。この上陸作戦を島の西側にあるチャランカノアの町付近で行う。その計画は、第一波の戦車やトラクターで二個師団を1マイル以上の内陸へ送り込むという、殆ど電撃作戦形態で極端に速く侵攻しようとするものであった。

H・スミスが613日にまとめた状況報告によると、島には日本兵が17,600人おり、うち戦闘部隊は11,000人のみとしている。5月上旬には島に9,000人がいるとしていた。チャランカノア周辺の海岸は塹壕、弾薬箱、機関銃及び戦車の落し穴で十二分に防御されている。この地帯を守るのは主に歩兵部隊で、島の他の部分は非歩兵戦力が守る。日本軍は幾ばくかの戦車を保有する。全体として、彼等は海岸を強固に守り、内陸で機動的防御を行うであろうと考えられた。

611日、機動部隊58225機の飛行機を南マリアナに向け発進させ、150から215機の日本飛行機を破壊した。この任務の目的は日本の飛行機と飛行場施設の破壊にあった。その後三日間、海軍は着上陸を支援するために沿岸防御施設の破壊、ムッチョ岬南方の砂糖黍畑の焼却というさらに進んだ径空攻撃を行った。この三日間で、更に50機を破壊し、68機に損害を与えた。

この攻撃で日本軍の飛行機をかなり破壊したが、飛行場や砲陣地に与えた被害は限定的であった。滑走路は土で覆われているので素早く修理できたし、砲座は直撃した時のみ損害を与え得る。611日から15日までの径空攻撃により、日本軍の飛行機は全マリアナ戦役の間、上陸戦力に対しちょっとした邪魔者以下の存在になった。

611日、空からの攻撃の第一日目が終った後も、斎藤はサイパン侵攻が本格的に始まったと信じていなかった。もし小畑が居たなら、侵攻が始まったことを多分、日本側は認識したであろう。この時点で、小畑はサイパンではなく、パラオ島にいたことに注意すべきである。事実、16時に斎藤はマルピ岬とアスリート飛行場間の道路が不通になったのを憂慮し、この二点間の道路工事を行うよう命令している。もし斎藤が数ヶ月前から潜水艦の活動が増加しつつあることや、空からの荒廃的な攻撃を適切に評価しておれば、防衛陣地の建設に従事中の工兵を道路工事にふり向けることはしなかっただろう。

6131040分、高速戦艦7隻と駆逐艦11隻が艦砲射撃を開始した。1725分まで続いたこの射撃は上陸海岸の内陸とガラパン ・チャランカノアに向け激しく集中した。この射撃によりこの二つの町は破壊され尽くしたが、部隊や防御陣地に与えた被害は僅かであった。これらの艦船は、島近傍に機雷が敷設されているかどうか不明であったので、サイパンの沿岸から少なくとも10,000ヤード離れて射撃しなければならなかった。このため、艦船は正確に観測できる大きな建屋に照準できただけであった。しかし、射撃の間に掃海艇がサイパンの西の海域を海岸の2マイル近くまで掃海し、機雷が敷設されてないことを確認した。夜を徹して艦砲射撃が続けられたがその規模は小さかった。

614日、大型船艦7隻、巡洋艦11隻、駆逐艦26隻とその他の艦船数隻が射撃を再開した。前日の掃海艇の努力によりこれらの艦船がより島の近くを航行してもよいことが分かった。その結果、艦船の砲撃距離が短くでき、精度がより高くなった。しかし、その日の射撃が終った後でさえ、日本の多くの海岸線防衛は未だ生き残っていた。

また14日に艦砲射撃の間、三つの海軍海中破壊チーム(士官16人と兵80人)がサイパンに接近した。このチームの目的は海中の障害物を偵察し、それらを破壊し、海岸の障害物なら何でも識別することであった。船に戻ったあと、海中にも海岸にも障害物はないと報告した。もちろん、彼等は海中と海岸に竹の棒が立っているのに気付いたが、報告にそれを含めなかった。その目的が何であるか知らなかったからである。竹の棒の存在が日本側に記録されているので、彼らは侵攻される場所を知っていたのである。斎藤は、いよいよ侵攻がその夜または翌朝に行われるであろうと考えた。

61415日の夜、艦砲射撃は静まり、第2及び第4海兵師団を乗せた輸送船がサイパンに西方から接近した。530分、艦砲射撃が再び猛烈に始まった。545分、H時間は予定通り830分と告げられた。7時ごろ、34隻の揚陸艦(LST)が攻撃大隊を乗せて上陸線(サイパンから4,250ヤード)に移動した。上陸線に到着するとドアが開き、数百もの水陸両用戦車とトラクターを海上に降ろした。このLSTの後に軽砲を積んだ12隻のLSTがいた。その後方に機械化上陸船(LCM)が居り、海岸が確保されたら直ちに戦車と重砲を揚陸する。その後に、より大型の兵員輸送船が予備兵や多種の補給及び装備品を積んで続く。

7時に、偵察爆撃機51機と雷撃機54機が海岸を攻撃した。その目的は特定の場所だけでなく日本側の防御を破壊することにあった。730分、飛行機が攻撃する間、7時から停止してきた艦砲射撃を再開した。

F.侵攻(Invasion)

午前8時ごろ、強襲揚陸艦(LCI)24隻がサイパン島にむかった。この時にはH時間は上陸船の発進問題のため、840分に延期されていた。85分ごろ、水陸両用戦車とトラクターが海岸へ進撃を開始した。水陸両用戦力が海岸からほぼ800ヤードに来た時、飛行機72機が海岸を攻撃し、海岸から100ヤード以内に達した時、内陸の攻撃に移った。

海兵師団の主力は計画どおりチャランカノア周辺に集中した。第2海兵師団はこの町の北側の赤及び緑海岸に、第4海兵師団は青(町の反対側)及び黄海岸に上陸することになっていた。上陸作戦は、すべてが計画どおり運んだわけではない。トラクターは戦車より速く進み、幾つかは戦車の射撃をブロックした。第2海兵師団の上陸地点は計画より北に偏ったので、二師団の側面の間に隙間を生んだ。もとの計画では二師団の間に小さな間隙が生ずるのは許容していたが、第8海兵隊第2大隊の北側の間隙はその倍以上に開いた。97分までに第1波が海岸に到着し、その数は8,000人で損失は最少であった。

上陸中に起った問題は、二師団間の間隙が大きいほか、水陸両用戦車とトラクターの用法に関してであった。第2海兵師団の地域では、戦車はトラクターの前方を進み内陸に1,500ヤード進入したところでこの防衛線にトラクターが上陸してきて部隊を降ろす間、防御砲火を敷くことになっていた。第2から第4波は部隊を海岸で降ろすことになっていた。第4海兵師団の地域では、戦車が最初の2波のトラクターを1マイル内陸の少し高い目標へ向け終始引率することになっていた。これらの戦車はそれから内陸へ進撃する部隊をサポートすることになっていた。後続部隊は海岸で降りる。

一般に殆どの戦車とトラクターは無事に海岸に到着したが、その装甲が薄いことと動きがのろいために、海岸に居た日本軍の砲のやさしい目標になった。この水陸両用戦車は推進力不足で、障害物(緩い砂、溝、穴及び木)に出会うとすぐ停止する。普通の戦車ならこのような問題はない。これが水陸両用戦車の動きを非常に緩慢にした。海岸から内陸に至る適当な道がないことも海兵隊の内陸への進撃を阻害した。いろいろの遅れがあったが夜までに、両師団は全部上陸し1,000ヤード以上の深さと10,000ヤード以上の幅の防御帯を構築した。7個砲兵部隊も、2個重戦車大隊も上陸した。師団司令部も海岸に設置された。水陸両用トラクターによって部隊を運ぶことは、タラワの海岸を歩いて上陸したのに対し装甲車に乗って海岸まで運んでもらうという利点があった。

侵攻の間、日本軍は多くの米兵を殺したり傷つけたりしたがDデイを正しく把握してはいなかった。海兵隊は日本軍が守っている地域に上陸した時、この島のどこへ移動するあてのない4個大隊がその近くの海岸に居たのである!この上陸地点を日本軍は砲撃のためによく調査し、105ミリ砲16門、75ミリ砲30門及び150ミリ砲8門を、海岸を望む高地におき、事前に砲の調定をしたり射撃調整の助けとして竹を用いたりしたので精度は非常に高かった。しかし日本の砲は、司令官が発射したい時に何時でも個々に各砲を単に発射させるのではなく集中砲火の訓練をしていたならより効果があっただろう。第一日は、日本軍は殆ど砲、重火砲及び数両の戦車に頼っただけであった。歩兵はDデイに殆ど戦闘にまみえることはなかった。

H・スミスにとって、サイパンでの最もクリテイカルな段階は海岸での戦闘であった。海兵隊を成功させるためには上陸拠点を確保し、その中に十二分の部隊、重装備及び補給品を荷揚げせねばならない。第一日目に、海兵隊は海岸を制圧したが、日本軍の砲と重火器が海岸上の兵(人員)や装備を攻撃できたから、そういう意味では確保できたとはいえなかった。上陸拠点が実際に確保できたのは6日後のことであった。大きな問題の一つはススペ岬での第2及び第4海兵師団との間隙と各師団の外側の側面にあった。この間隙は第一日目に閉じなければならなかったのだが、そのために3日を要した。というのは、間隙が計画より大きく、この地域を予期していたより大きな戦力の日本軍が防御していたからである。

15日の夜までに、日本軍は海兵隊を海に追い落とすべきであると悟った。それでも、斎藤はこの上陸は見せかけであるとし、海兵隊に対し小規模な反撃を命じただけであった。彼は米軍がラウラウ湾付近に侵攻してくる場合に備えてその主戦力を温存しておきたかった。20時に、日本軍歩兵の大きな戦力が戦車の援助を受けて、第2海兵師団第6海兵隊の左側面を攻撃した。海兵隊にとって幸運にも、艦船の撃ち出す照明弾が攻撃を仕掛けてくる日本兵の輪郭を浮き上がらせるよう空を明るくした。海兵隊の機関銃と重ライフルは75ミリ曲射砲1大隊の援助を受けて日本軍の反撃を阻止した。3時に、同じ場所で再び攻撃を受けたが、これもまた失敗した。明け方までに、戦車と歩兵が守備海兵隊に更に攻撃を加えてきた。それまでに、少数の中型戦車が陸揚げされ、第2海兵師団に対する日本軍の三度目の反撃を海兵隊が阻止するのを助けた。

サイパン攻撃は最初の艦砲射撃と迅速な上陸で日本軍をかき回そうとしたが、第一日で失敗に帰した。この日で海兵隊は、彼等の最初の目標である内陸への侵攻に失敗し、一般に目標までの三分の二進んだに過ぎなかった。凡そ二千人が殺されるかまたは負傷し、トラクター及び戦車の25%以上が損害をうけるか破壊された。

Hスミスは日本機動部隊と第5艦隊との海戦が近日中におこることを知っていた。これを念頭におき、彼は空母を伴った戦艦、巡洋艦及び駆逐艦が日本艦隊との会戦に出発する前に、出来るだけ多くの補給品と人員を荷揚げすることとした。16日の夕方、第27歩兵師団がサイパンに上陸した。彼等の任務はアスリート飛行場を確保し、日本軍を南東隅に切り離して追い詰めることであった。その間、第2及び第4海兵師団は内陸攻撃を行う。4日までに、日本軍は海岸を防御する試みをあきらめ、丘や山の多い地域で防御を再開するために内陸に移動した。

この間、第27歩兵師団を上陸させた第5艦隊の主力は、H・スミスがそうありたいと思ったとおりサイパン海域を離れた。619日から21日の間、第5艦隊は日本機動部隊と出会い、フイリッピン海の海戦で日本艦隊を破った。この海戦によってサイパンの日本軍はこれ以上支援を受けることが出来なくなった。彼等は日本から分離され、自分たちだけでサイパンの戦場を戦わねばならなかった。両国とも、米国が日本を打ち負かすと信じたし、ただ一つの問題はこの戦争が何時まで続くか、どれくらいの死者を出すかということだけであった。

618日までに、第27歩兵師団はアスリート飛行場を奪取した。620日、この戦闘の指揮権がH・スミスに渡った。15日から22日の間、米海兵隊が島を押しわたって半分に分離する動きを見せると、日本軍は米軍に対し果敢に戦いを挑んできた。両軍の死傷者は非常に多くなり、兵士は徐々に疲れ始め、無益な戦闘が行われるようになった。

G.タッポーチョ山(Mt.Tapotchau)

 Hスミスに兵隊を休ませる余裕はなく、戦いは荒んで行った。最も激しい戦場はタッポーチョ山であった。始め、H・スミスは二海兵師団にこの山の奪取を命じた。しかし21日までに、彼は日本軍がこの山を強力に守っているので、この肝要な山を奪取するにはもっと多くの兵が必要だと悟った。

621日、H・スミスは第27歩兵師団司令官のR・スミスに、その師団を移動させて二つの海兵師団の間に入れ、タッポーチョ山を三師団並行して攻撃するよう命じた。一方、第2海兵師団には北東方向に進み、第4海兵師団にはハグマン半島に向け東方を攻撃するよう命じた。ハグマン半島は比較的平坦な地形で、ここには多数の日本軍守備隊がいた。

二日間の戦闘の後、日本軍の防御主力に対する師団攻撃は立往生してしまった。第2海兵師団は、ガラパンのはずれとタッポーチョ山の山頂付近にいた。第27歩兵師団は、でこぼこした地形の中で強力な日本軍の抵抗にあって殆ど前進できなかった。第4海兵隊は半島の大半を席巻し島の東側に接近しつつあった。しかし、タッポーチョ山の日本軍防衛隊は残存していた。米軍の戦力は、第27歩兵師団がU字形に折れ曲がった陣形の中央に、他の二師団は両端にという形になった。 曲がりの深さは1,500ヤード以上に及び、両海兵師団の側面を日本軍に曝すことになった。

2日間の戦闘で、第2海兵師団は333人、第4海兵師団は812人を失った。この戦闘では裂けた地形のジャングル中で、砲や戦車の使用は一般に不可能であった。戦闘は主に重砲の支援を受けた臼砲と、機関銃を持った兵士同士の戦いであった。フイリッピン海戦のため、空からの支援は過度に得られず、どんな場合も日本軍に対し限定的にのみ用いられた。洞穴、峡谷及び溝に隠れた日本兵をやっつけるには直接射撃と小規模な奇襲しかなかった。

625日、H・スミスは第27歩兵師団の不十分な戦闘は、指揮能力の欠如にあるとし、師団長Rスミスに指揮権を立直すよう要請した。彼はターナーと話したあと、二人でスプルアンスに話を持ちかけた。H・スミスは、R・スミスが自分の部隊にH・スミスの指揮に従わないよう命令し、Hスミスの命に違反したといった。また、H・スミスは、第27歩兵師団はタッポーチョ山攻撃に遅れをとり、その為に両師団の進撃を遅らせ無用の損失を招いたといった。

27歩兵師団の勇猛さは多分、他と何らひけを取るものではなかったろう。しかし、この問題は海兵隊と陸軍の間に論争を引き起した。サイパンでは、海兵隊が第27歩兵部隊の兵士を見下し始め、陸軍の兵士達は自分達の司令官が交代させられたことと彼等の師団の戦闘能力とが絡められたことで、H・スミスに恨みを抱いた。島外では、論戦は更に輪をかけた。数人の陸軍将軍は太平洋での陸軍総司令官ロバートC.リチャードソン中将に、H・スミスは陸軍に対し極端な偏見を持っており今後再び彼の下に陸軍を置かぬよう勧告した。

日本が負けたあとサイパンの守備隊の長になったスタンフオード・C・ジャルマン少将は、第27歩兵師団を624日から28日の間指揮し、そのあとをジョージ・W・グリナー少将が引き継いだ。しかし、この師団の司令官に就任したとき、彼は4個大隊の長になっただけで、師団の残りは軍団の指揮下に置かれていることを知り驚いた。グリナーはH・スミスから、師団の残りは自分で稼いで取り返すよう指示された。

76日までに第27歩兵師団と第4海兵師団はタッポーチョ山を奪取し、島の狭い部分に向け押し出した。前線が狭くなったため、第2海兵隊は予備に回された。76日までに、グリナーは第27歩兵師団の全部隊の指揮権を回復した。

7月7日、3,000人の日本兵が第27歩兵師団にバンザイ攻撃をかけてきた。日本兵は手榴弾や銃剣で武装していただけであったが2個歩兵大隊を突破し、第27歩兵師団の扇形戦線を突破したあと第2海兵隊に阻止された。

それまでにH・スミスは第27歩兵師団を十分知り尽くしており、いろいろの報告を受けたうえ全師団をサイパンから撤収するよう命じたという。実際は、多数の兵士が死んだ大隊のみ駆逐艦に載せてサイパンから撤退させている。しかし、H・スミスは第27歩兵師団を予備にまわし、再びこの師団を使わないと言明した。

H.勝利(Victory)

79日までに、第4海兵師団がサイパンの北端に到達し、Hスミスは島にこれといった組織的抵抗がなくなったと言明した。それまでに、約24,000人の日本兵が殺され、1,780人が捕虜になった。米軍の損失は、死者3,426人、負傷者13,099人であった。

それ以前の622日、サイパン知事は宮城からメッセージを受けた。その内容は、米軍と戦って死亡した民間人は誰でも天皇のために死亡した兵士と同じく死後の特典が授与される、というものであった。

米軍は多数の日本民間人がいる島に初めて出会った。日本政府は、米軍は極悪非道の人間であるとしばしば宣伝した。艦砲射撃と空からの爆撃とそれに続くつらい戦いのため、日本民間人は米軍に対する恐れを追払いようがなかった。サイパンにいた22,000人の民間人のうち、数千人がこの島の戦場で米軍と戦った。米軍が北方に進むと、彼等の前で自由になった民間人もいた。

79日、米軍がサイパンの北端に到着した時、数千人の日本人の男子、女子、子供達は鮫が横行する海を見下ろす断崖の上に居た。そこに立つやこれらの民間人の多くは窮地に陥ったことを知り、米軍に降伏するよりは崖から飛び降りて下の海に死を選んだ。22,000人の民間人のうち、約8,000人がこのたびねずみのような行為により死んでいった。その一方で、拡声器を持った海兵隊の通訳たちが多くの日本人を降伏させた。

720日、工兵達がアスリート飛行場、現在はイスレー飛行場と改名、の大規模な修理と滑走路の延長工事を終えると、最初の米軍機が到着した。9月上旬まで、B-24がサイパンからボニン島に出撃した。B-29用に第二のより大きな滑走路が建設された。10月、最初のB-29の空襲がサイパンからトラック島におこなわれた。サイパンは日本の島々を攻撃する航空基地としてばかりでなく、重要な海軍基地、特に日本近海で作戦行動をする潜水艦の基地として重要になった。

結論として、サイパン侵攻は米軍にとり日本を負かすために必要なステップであった。サイパン陥落後、東条英機首相は、日本は国家の危機に直面しておりその危機はその歴史上先例のないものだ、と言明した。翌月、東条とその戦時内閣は総辞職した。この大規模な辞職は、それまで軍部が政府を牛耳ってきたのを大きく転換させる契機になった。この辞職のあと、戦争を終らせようとする反対派が徐々にその権力基盤を増し、天皇が降伏を決意するに至る。

        

著者(Brian Blodgett)の言葉:
私が現役勤務の米陸軍准尉の頃は、この記事にあるような意見
/見解が米陸軍や米政府に影響を及ぼすことはなかった。私はこの論文を、現在助教授をしている
American Military University(Manassas Park,VA)で、軍事科学分野での文学修士課程の時に書いた。これを教室で教える一方、一般の人にもサイパン戦を知ってもらうためインターネットにアップした。

訳者注:
「烈日サイパン島」によれば、サイパンの日本軍が正式に降伏したのは
121日とされる。当日朝、大場大尉を長とする武装兵47人が日章旗を先頭に、全員で「露営の歌」を歌いながら降伏式場にむかった。式場では大場大尉より米軍に日本刀が贈呈され、続いて武装解除が行われて極めて厳粛かつ平静裡にこの意義ある降伏式を終った。

山の日本兵はこれが最後ではなかった。このあとも一人、二人と出てきたが、全員が山を降りるのにはまだかなりの時間がかかった、という。

米軍は、グアムに二つの飛行場と航空補給所、テニアンに二つの飛行場そしてサイパンにも飛行場を建設した。グアムには第二十一爆撃軍団の本部が置かれた。
 この爆撃軍団はコロラド、カンサス、ネブラスカ各州で最小限の訓練を終り海外に派遣された第73(イスレー飛行場、サイパン)、第313(北飛行場、テニアン)、第314(北飛行場、グアム)及び第315爆撃団(北西飛行場、グアム)と、インドと支那で初期の作戦経験を積んだ第58爆撃団(西飛行場、テニアン)により構成された。

 

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