二十六聖人
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巡察師ヴァリニヤーノは京から九州に戻り宣教師の思想統一や教会の組織改革に敏腕をふるった。その後、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の援助を得て、天正十年(1582)一月、四人の少年使節を伴い長崎を離れ、ローマに向け旅立った。  
(注)少年使節については、第一集「淀川の水」11.キリシタンの里高槻、参照  

天正十四年(1586)五月、インド副管区長クエリョは神父、修道士、同宿、セミナリヨの少年などあわせて三十余人を伴い大阪城に秀吉を表敬し、歓待された。  
天正十五年(1587)三月、秀吉は島津討滅のため大阪を出発し九州に向った。その中に右近は前衛隊として、小西行長も海軍の司令官として従軍したので、クルスの旗が陸海にはためいた。  

同年七月、首尾よく島津義久を降した秀吉は博多でクエリョに会った直後、バテレン追放令を出し、キリスト教の布教に急ブレーキをかける。
右近は秀吉より棄教を迫られたが拒絶し、明石城主の栄禄を抛ち一族諸国に流浪する。

文禄二年(1593)七月、フランシスコ会のペドロ ・バウチスタ神父がスペイン総督の使節として初来日した。イエズス会のザビエルの来日に遅れること44年後のことであった。佐賀名護屋城で秀吉に謁見し、日本での宣教を許された。京 ・大坂に病院・天主堂・修道院を建設して、ハンセン氏病患者などを収容した。

慶長元年(1596)十月、土佐浦戸にスペイン船サンフエリッペ号が漂着し、乗組員が世界地図を示し、キリスト教の伝道によって領土が拡張したことを誇った。秀吉は彼らの領土的野心に対抗して禁教を厳重にし、京都で活動するバウチスタ神父以下信者二十四人を捕らえ、長崎で処刑するよう命じ、その前に彼等の両耳と鼻を切り落とすように命じた。しかし、キリシタンに理解のある奉行の石田三成の計らいで、堀川今出川南の戻橋のあたりで左の耳たぶを少し切り落とすだけで済んだ。そして、京大阪堺を引回された。
 
慶長元年十一月二十二日(1597年1月10日)大坂から長崎に向け出発した。一行は、下関まで陸路を歩き、船で関門海峡を渡り博多から長崎奉行を兼ねていた寺沢志摩守の領地 ・唐津に出た。それから武雄を経て、大村湾にのぞむ彼杵(そのぎ)に出て、船で深夜、大村湾南端の時津(とぎつ)に着いた。  
慶長元年十二月十九日(2月5日)朝、船上で夜を明かした一行は、時津街道を下り浦上村まで来てサン・ラザロのライ病院で一休みした。その日の午後、長崎の町と港が眺望できる岬の突端に着き、同行の世話役ニ人を加えた二十六人が磔刑に処せられた。
  
レオン・パジエス著、木村太郎訳「日本廿六聖人殉教記」に次のように記されている:  
殉教の為に充てられたのは普通の刑場であった。然るにポルトガル人は罪囚のとは違った所に於て刑を執行せられたしと半三郎に要求した。海に沿へる路の向側に、頂上は平かで、全市からよく見える一の丘が突立って居て、之に登る坂道はうねうねとして宛然カルヴリオ(注参照)の観を呈して居る。半三郎は其処に二十六本の十字架を用意させ、早速刑の執行を命じた。  
(注)宛然(えんぜん):あたかも
  カルヴリオ:キリスト処刑の地名 

今日の「西坂の丘」の北側にある今の天理教の社殿から南一帯の地は、明治初年までは刑場であった。社殿のあたりは千人塚といい、島原の乱徒の首をさらした上で埋めたところから首塚と称した。
島原・天草の乱のあと、一万ほどの乱徒の首は島原半島南端の原城追手ひのえ口の田の中に並べ、さらされた。そのあと、天草四郎の首は長崎でもひと七日、獄門にかけられた。この首塚には四郎たちの首が葬られたのだろう。
 
長崎奉行寺沢志摩守の弟半三郎は当初、この刑場で殉教者を磔にするつもりであった。しかし長崎在留のポルトガル人たちは、もっとふさわしい地でやって欲しいと懇願し、 町に近くてカルヴリオに似た丘をさし示した。半三郎は、彼らと対立するのを好まなかったから快くその要請を受入れ、刑場に立ち並べてあった二十六本の十字架を早速この丘に移させた。
その頃長崎にいたフロイスは、長崎港を見下ろす断崖に一列に並んだ二十六本の十字架を見て、「彼らは町を祝福しているようである」と書き記した。この年フロイスは、長崎の修道院で六十五歳の生涯を閉じた。  
   

殉教者の一行を追って長崎にやって来たサン・フエリッペ号の船長達が、フイリッピンのマニラに向う船に乗って長崎の港から出帆したのは、二十六人が殉教してから一ケ月以上たっていた。船上から望むと、十字架につけられたままの殉教者たちの遺骸がまだ眺められた。写真は、マカオのセントポ−ル天主堂の展示室に掲げられた殉教図である。

秀吉は処刑後の遺体の処置については、奉行に何も指示していなかった。風雨にさらされていた殉教者たちの遺体は、キリスト教の信者達が「聖なる遺品」として崇めるために、すべて持ち去った。

その後、「西坂の丘」の東南約二百メートルにサン・ジョアン・バウチスタ教会が建ち、その前にはひと並びの町ができて、サン・ジョアンの町と呼ばれた。この教会は現在、春徳寺のあるトードス・オス・サントス(諸聖人)教会と、長崎県庁立山庁舎のある「山のサンタ・マリア教会」とともに、長崎の三大教会と言われていた。しかし家康の禁教令の時に破壊され、跡地は日蓮宗 ・本蓮寺になって今日に至っている。  

処刑された二十六人の内訳は、フランシスコ会の神父三人、修道士三人、日本人信徒一七人、イエズス会の日本人修道士三人であった。文久二年(1862)ローマ教皇ピウス九世は全員を聖人の列に加えた。
 
二十六聖人殉教の聖地は、元和の大殉教(注参照)の地ともなったがその後、次第に忘れ去られて行った。  
(注)第一集「淀川の水」4.六条河原  


以下は、村井寛一編修・発行「ふたたび移った日本二十六聖人殉教地」を参考にしました。

文久三年(1863)長崎に渡来したパリ外国宣教会神父ベルナルド・タデオ・プチジャンが、長崎の地図を手に尋ね回った挙句、大体の推測から立山の一部である茶臼山、俗にいう女風頭(めざがしら)を二十六聖人殉教の聖地とした。  
その後、様々な検討が加えられて、いわゆる殉教者の丘は女風頭よりもずっと下手で、首塚にもあまり遠くない、そして海に突出した西坂の丘(西坂町)が正しいと考えられるようになった。  
昭和十五年、日本殉教者の記念のために、カトリック長崎教区が西坂の丘付近の西坂町坊主岩の敷地を購入し、信者等の奉仕によって地開き工事が行われたが、計画された大記念塔の建立は戦争の激化のため見送られた。  
終戦後、真の殉教地跡と特定された西坂の丘が公園化され、昭和三十七年(1962)殉教記念碑、二十六聖人記念館、記念礼拝堂が完成し、二十六聖人列聖百年祭典が催された。

プチジャン神父は日仏通商条約の定めに従い、元冶元年(1864)十二月南山手町に日本二十六聖殉教者大浦天主堂(現在、国宝)を建立した。この天主堂は、柱に籐の木を使った寄せ棟(ゴシック)風建築で、天草の大工小山秀之進の施工により、西坂の聖地に向け建てられた。神父が前述したように茶臼山を聖地と考えていたなら、天主堂の正面は、そこから港をかすめた遥か北のかた二 ・三キロに望まれる西坂の丘から、右に五度ほど振れた方向に向いているはずである。それを確かめようと私は正面に立ってみたが、目測では到底確認できなかった。  
1865年3月17日、この天主堂内でプチジャン神父が、二百五十年の禁教と迫害に耐えてひそかに信仰を受け継いできた信徒を発見するという奇跡が生まれた。

この二十六聖人のうち、コスメ竹屋・パウロ茨木・レオン烏丸・ルドビコ茨木・パウロ鈴木ら五人が尾張出身であった。以下は谷真介著「二十六の十字架」からの引用である。
聖コスメ・竹屋 

尾張出身の刀の研ぎ師。イエズス会士から洗礼を受けましたが、バウチスタ神父が都に修道院をつくるときミゲル・小崎たちとともに揮カし、のちフランシスコ会に移って、伝道士となりました。説教師として大阪の修道院で働いているとき、マルチノ神父とともに逮捕されました。
聖パウロ・茨木
尾張出身の桶屋。フランシスコ会の説教師レオン・烏丸の兄で、ルドビコ・茨木の父。年齢不明。パウロ・茨木と最年少十二歳のルドビコ・茨木の父子、レオン・烏丸の三人は、秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)で日本軍に捕らわれ、連行されてきた朝鮮人であったともいわれます。三人が受洗したのは日本へつれてこられてからで、この説にしたがえばルドビコは日本にきたとき、五、六歳だったということになります。なお韓国の有名な殉教地、ソウルの切頭山聖地(注参照)に三人の記念碑があります。

(注)韓国ではキリスト教を信じる者はみな殺しにされ、首を切って積み上げた所が切頭山と呼ばれ、現在カトリックの聖地になっている。  

聖ルドビコ・茨木
尾張出身の最年少の殉教者。ルドビコは都の修道院で神父や病人たちの世話をしていました。利発な子ではありませんでしたが、明るい無邪気な性質で、大阪から長い旅のあいだでも、その性質が発揮されました。殉教者たちはいつもにこやかに行動しているルドビコに、心をなぐさめられたと語っています。十二歳。  
聖レオン・烏丸
尾張出身の伝道士で、都の病院で妻とともにハンセン病患者たちの世話をしていました。ルドビコ・茨木のおじ。四十八歳。  
聖パウロ・鈴木
尾張出身。説教師で都の病院の院長をしていました。性格ははげしいものをもっていましたが、深い学識をもち、フランシスコ会でも有数な説教者のひとりとして知られていました。四十九歳。

秀吉の最初の朝鮮出兵は、文禄元年(1592)であるから、三人の朝鮮人がキリシタンとして捕らわれるまで四年が経過している。  
朝鮮半島へのキリスト教の伝来は、まず、八世紀に唐から景教(注参照)がやってきたことが考えられる。更に時代が下って文禄の役の時、セスペデス神父が日本軍に従軍して半島に渡って宣教した。しかし、これらは民衆に何ら影響を与えるものではなかった。  
従って彼らは来日後、尾張で指導を受けてキリシタンになったものと考えざるを得ない。五人が京に上ったのは当時、布教の立ち上がりで人手を必要としたフランシスコ会の求めに応じたのであろう。  

(注)景教:
唐代、中国に伝わったネストリウス派のキリスト教。王室の保護で盛んになったが、唐末にはほとんど滅亡。のち、蒙古民族の興隆とともに再び起こったが、元の滅亡とともに衰滅した。

 

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