長崎原爆資料館
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2005.4.9改定

第二次大戦終了直前、長崎の浦上上空で原爆が炸裂し、広島と共に空前絶後の甚大な災害を受けた。平和公園内南側に立つ原爆投下記念碑付近が爆心地とされる。その三日前に同じ惨禍に遭った広島 とあわせて死者の数は下表の如く膨大な数に及ぶ。表は2004年8月現在での値である。

原爆による死者(2007年8月現在)

 

この一年間

今日までの累計

広島

5,221人

   253,008人

長崎

3,069人

143,124人

合 計

396,132人

長崎の高台に建つ浦上天主堂は南西からの爆風をまともに受け倒壊炎上した。今も崩れ落ちた鐘楼が当時のまま残っている。この時信者一万二千人中八千五百人が死亡した。永井隆博士も被爆し、如己(にょこ)堂(おのれのごとく人を愛せよ)と 呼ぶ二畳一間の粗末な住居で白血病に苦しみつつ、戦争のない平和を祈り続け四十三歳で死去した。歌謡曲「長崎の鐘」は浦上天主堂のアンゼラスの鐘の音を背景に博士の悲しみを歌う。

B-29「ボックスカー」を操縦し、長崎に原爆・フアットマンを投下したスゥイーニー少佐(当時)の著書(注参照)が最近邦訳刊行された。それによると、長崎に原爆を投下するまでの経緯は次のとおりである:

午前二時五十六分(現地時間)、ボックスカーは十三名の乗員を乗せテニアン島A滑走路を離陸した。七時四十五分、屋久島上空九千メートルで随伴機一機と会合し、先発した気象観測機から第一目標の 北九州・小倉は快晴が期待できるとの報告を得て、予定通り小倉に原爆を投下することとした。ところが爆撃行程に入って、小倉上空には前夜の八幡攻撃で発生した大量の煙が流れ込んで目標を視認できなかった。ボックスカーは 爆撃行程を三回繰り返したが目視攻撃ができず、その上高射砲や戦闘機の迎撃が激しくなったので、あきらめて第二目標の長崎に向かった。

長崎には高度九千メートルで北西方向から進入したが、千八百〜二千五百メートルの間が八十から九十パーセント積雲に覆われていた。一旦はレーダー爆撃を決心したが、投下寸前に雲の隙間から地上が現れたので、十一時一分これに照準を合わせて原爆を投下した。予定照準点から三キロ北の地点であった。投下後、直ちに急降下しつつ左へ急旋回し、北東へ向け全力で離脱して爆発の衝撃波を避けた後、旋回しつつ観測を続け、沖縄に向け南下して行った。

重さ四・五トンのプルトニウム爆弾・フアットマンは高度五百八十メートルで確実に炸裂するよう四種類の信管各二個が取り付けられていた。時限信管は投下四十三秒後、気圧信管は気圧高度五百八十メートルで、近接信管は地上五百八十メートルからのレーダーエコーで、着発信管は地上に衝突したときに作動するよう設定されていた。その作動性を確認する投下試験に出発の僅か二十四時間前に成功するという綱渡りを続けてきた。

巨大な爆弾(パンプキン)をB-29の弾倉から投下し急旋回して離脱する訓練をしたあと、実際に爆薬入りのパンプキン(一万ポンド爆弾)を日本の諸都市に投下する経験を積んで本番に備えた。広島・長崎原爆投下は、第二十航空軍所属の第五〇九混成群団が極秘裏に実行した作戦であった。

(注)チャールズ W.スゥイーニー著・黒田剛訳「私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した」(原書房)、1997年原本刊行

スゥイーニー氏は、二発の原爆が少なくともその後実行する予定であった九州上陸作戦で死傷したであろう三十九万五千人のアメリカ将兵の命を救ったと主張するが、それで核爆発を人類殺傷に用いた大罪が贖われるわけではない。

広島も長崎も、原爆を投下したB-29は155度旋回して目標地域を離脱した。通常、180度旋回しなければならないと考えがちだが、何故155度なのか? B-29が数マイルもの旋回半径を必要とするため、半周するまでに目標に尻を向ける時がくる。ここで水平に戻し、加速するのが目標から離脱する最良の手段なのである。幾何学的に図解すればすぐ分かることで、より詳しく知りたい方は下記を参照されたい:
Why leave the atomic target at a 155 degree heading?
http://home.att.net/%7Esallyann4/odd-turn.html

二つの原爆の諸元を比較して表に示す:

原子爆弾名

リトルボーイ

フアットマン

投下航空機

エノラ・ゲイ

ボックスカー

投下都市

広島

長崎

炸裂日時

86日午前811

89日午前1102

形式

核物質

ウラニウム

プルトニウム

起 爆

砲撃型

爆縮型

TNT相当

13キロトン

21キロトン

寸法

重量

全 長

3メートル

3.2メートル

直 径

71センチ

1.5メートル

重 量

4トン

4.5トン

砲撃型とはウラン弾が発射されて砲身状のシリンダーの中を飛び、砲身の先端にあるウラン核に命中して臨界質量に達し、連鎖反応を引き起こす。爆縮型とは精密機械で作られた固いプルトニウムの核が、きれいに形の揃った高性能衝撃波レンズ(爆薬でできている)に囲まれ、爆縮によってプルトニウムの球体が十億分の一秒のうちに臨界質量に達し、それによって連鎖反応と核爆発を起こす。

昭和二十年(1945)七月十六日、ニューメキシコの砂漠で行なわれた人類史上初の原爆実験(Trinity test)は、重さ六キロのプルトニウムを炸薬のレンズによって超臨界に圧縮し連鎖反応を起こさせ、瞬時にTNT火薬の約二万倍の原子力エネルギーを開放した。今、この爆発地点は広大な米陸軍ホワイトサンズミサイル試射場(WSMR)内に保存されている。砂漠とはいえ人の背丈を越す草木が一面に密に生い茂った広大な草原で全く見通しが利かないため、案内板を見落とすと迷子になってしまうだろう。

長崎に落したフアットマンはこの実験済みの爆縮型であるが、航空機からの投下は初経験であるから幾種類もの爆破装置を二重に取り付けるなど、まるで実験爆弾であった。広島に落したリトルボーイは構造が単純な砲身型ということで、実に予備実験を経ずして実用に供するという、今日では考えられない荒っぽいやり方をとった。

エノラゲイは胴体・エンジンがワシントンDCのスミソニアン航空博物館に、ボックスカーは全機がオハイオ州空軍博物館にそれぞれ展示されている。

三菱重工兵器製作所大橋工場もこの原爆により一瞬に全滅した。東京からここに単身赴任した所長さんも着任早々、職場で爆死された。現在 、跡地は長崎大学となり、長大裏門バス停付近の路傍に昔の境界を示すコンクリート製の標柱(写真:三菱マークの下に「兵器」と刻まれている)が一本残るのみ:

三菱兵器製作所の説明板:
現在、長崎大学の敷地であるこの地には、第二次世界大戦中、三菱兵器製作所大橋工場が建っていた。この説明板下にある標柱は、その時の名残である。
昭和二十年八月九日、午前十一時二分、松山町上空約五百メートルで炸裂した原子爆弾によって、爆心地から北へ約一・五キロの距離にあった三菱兵器製作所大橋工場は、一瞬にして破壊された。工場の大部分を占めていた鉄骨、鉄板張りの建物は、鉄板が四方に飛散し、鉄骨が飴のように折れ曲がった。一部の鉄筋コンクリート建物は、外郭は止めたものの、窓枠および内部の器具等は一面に散乱した。
就労者の被害は昭和二十年八月十二日に出された罹災状況報告書によると、死者三百名以下、重傷者千二百名以上、軽症者三千名以上であった。

西側の国道206号線に面する長崎大学正門脇にも同様の説明板がある。また、その北西の高台にある東西三百メートルの水槽を格納する三菱造船・船型試験場の建屋は、爆風で北に傾いた。その内部の支柱は一部今も傾いだままで、当時の爆風のすさまじさを今に物語っている。

1996年4月、長崎原爆資料館が爆心地からやや南に新装開館した。そのなかの日中戦争等を解説したビデオコーナーに陳列された南京大虐殺直前の捕虜連行写真が一九四四年、米国が製作した反日宣伝映画からの複製と判明した。市民から抗議を受け、長崎市がこれを削除するという失態を演じ、全国に報道された。
市側の説明では、被害を受けた事実だけでなく、被害を与えた事実をも併せ展示すべき、との趣旨でこのコーナを設けたという。原爆投下という非人道的行為の対極になにを持ってきても相応しくない、と考えるのが普通の日本人の感覚だと思うのだが。

長崎のもとの原爆資料センターは原爆資料館の山手側にあり、一階から四階まで雑多な原爆資料を収蔵し、そこに足を運ぶたびに新しい発見があった。それに引き換え、この長崎原爆資料館は精選された一級資料がスポットライトを浴びて陳列されているのがかえって迫力を欠き、見に行くというのではなく見せて頂くという雰囲気に変わってしまったのは残念なことである。
写真:館内には、イラク戦などで使用された通常爆弾搭載の巡航ミサイル・トマホークの模型が陳列され、場違いの雰囲気を漂わせている。

大阪城公園に大阪国際平和センター・ピース大阪がある。戦時中の大阪空襲の悲惨さを記録し平和を希求するために設立され、戦災の記録を永久に継承する公共機関としての意義は深い。だがここの刊行物の中にも主題の爆撃による惨禍の外、日中戦争や 日本による韓国の植民地化を取上げ、日本軍の隣国に対する暴虐ぶりが述べられている。長崎原爆資料館の展示はこれを下敷きにしたのだろう。
ピース大阪が発行した資料を見ると、日中戦争の発端になったといわれる盧溝橋事件を語っているが、それに続き北京東方の通州で中国人の保安隊により日本人約二百六十人が虐殺された通州事件には口をつぐんでいる。

盧溝橋そのものは、1192年に完成した全長二百六十六・五メートル、石造りで両側の欄干に百四十本の石の彫刻が並んでいる歴史的遺産で、マルコ・ポーロが「東方見聞録」のなかで「世界で最も美しい橋」と賞賛した。

昭和十二年(1937)に勃発した盧溝橋事件は日本軍が仕掛けたと伝えられてきたが今日、渡辺昇一著「かくて昭和史は蘇る」(クレスト社)に述べられているように、「盧溝橋の国民政府軍の中に中共軍のスパイが入り込んで、日本軍に向けて発砲した」ということが明らかになっている。史家はこれを未だ史実として認められていない、 などと言うかもしれない。

盧溝橋の近くに中国人民抗日戦争記念館がある。写真はそのロビーで館員の説明を聞く中国の小学生達である。

この記念館に盧溝橋事件発生当時の新聞記事が日本語の解説付で掲げられている:
北平(ペキン)の「イーストエクスプレス」に載った、日本軍が演習を口実に宛平城攻撃を行ったことについての報道:
「東方快報」(注:以下、一部日本字に置換)  
日軍重師故智蓄謀挑発
砲撃宛平城炸鍛盧溝橋
昨晨五時及晩五時両度猛烈轟炸
我方軍民傷亡八十余人状況惨烈

大意日本軍師団が謀略で挑発し、宛平城が砲撃され盧溝橋にも砲弾が落ちた。昨日朝五時と晩五時の二回、猛烈に轟音が響き砲弾がさく裂した。我が方の軍民の死傷者八十余人で情況は惨烈であった。

また、次の記事もあった(注:新体字、一部日本字に置換):
1937年7月7日、此橋首起中華民族全面反抗日本帝国主侵略之烽火、国人不屈、好戦形成、浴血八年、民族解放、永載史冊。
大意1937年7月7日、この橋から日本帝国主義侵略に対し、中華民族の全面反抗の烽火が起った。この国の人々は屈せず良く戦い、血を浴びること八年、民族を開放した。永く歴史に残るであろう。

【大意】は、中国語に堪能な方に訳していただき、著者が書き添えた。上述の記事にはこの不幸な事件が起ったのは、日本軍ではなく現中国政府の軍隊・中共軍が挑発したため、という事実は何も盛込まれていない。自国の従来の主張と異なることを、改めて自ら言い出すことはないのだろう。

私達がここを訪れたとき、栃木県作新学院生徒の海外修学旅行に出会った。中国に行って歴史を学ぶのも良いが、中国に都合の良い史実を鵜呑みにしたのではかえって為にならない。どの国も自国に都合の良いよう歴史を解釈するものだ。引率する教師は事前に近代史を勉強し、中国側の説明のどの部分は史実と異なる、と毅然として学生に指摘すべきである。

中国とは逆に日本の史家が、相手国に与えた被害の数々をこれでもかと列挙する一方で、他国から加えられた暴力には口をつぐんで何もいわないのは奇異なことだ。また、他国のために良いこともしたのに、それに一切触れないのも公平な歴史認識とはいえない。長崎にしろ大阪にしろ、戦争・平和関連の施設に共通して自虐史観の匂いを嗅ぎとってやりきれない思いをするのは、私だけではあるまい。
永井博士が病床で綴った悲惨な長崎原爆の書を出版する時、日本軍がフイリッピンで働いた蛮行を記した書と一体にすることでやっと占領軍の許可が降りたという。加害と被害を併記すべき、との単純な発想の発端はなんとここにあったのだ、と自らを納得させた。

後日、長崎市永井隆記念館を訪れる機会があった。館員の方に、加害と被害を併記した著書とはどんな本ですかと質問したところ、それは1946年8月に脱稿された「長崎の鐘」初版本ですとの答えが返ってきた。その本が館内に展示されていたので早速拝見させていただいた。手にとって見ることはできなかったが、確かに表紙の左下に「特別付録 マニラの悲劇」とある。改めて傲慢な占領軍の下で卑屈な態度を強いられた時代を思い出す。

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